あの時計の中に隠しカメラが仕込まれているなんて、私は夢にも思わなかった。夫が出て行く時、あの置時計をちらりと見たのに、高橋さんが立ちはだかったせいで持って行けずに置いていった。翌朝、夫から届いたのは、私と高橋さんの衝撃的な映像だった。「これはお試しだ。原本はクラウドに全部保存してある」という脅迫メッセージ付きで。私は震えながら高橋さんにその映像を見せた。すると彼が、動画のアングルを見て突然言…

あの時計の中に隠しカメラが仕込まれているなんて、私は夢にも思わなかった。夫が出て行く時、あの置時計をちらりと見たのに、高橋さんが立ちはだかったせいで持って行けずに置いていった。翌朝、夫から届いたのは、私と高橋さんの衝撃的な映像だった。「これはお試しだ。原本はクラウドに全部保存してある」という脅迫メッセージ付きで。私は震えながら高橋さんにその映像を見せた。すると彼が、動画のアングルを見て突然言...

あの日の光景を、私は今も鮮明に覚えている。自分の目を疑った。四十代の独身男性の部屋で、私は生涯見たことのないような衝撃的な姿を目撃してしまったのだ。心臓が肋骨を突き破って飛び出しそうだった。どうしてそんなことになったのか。恥ずかしくも衝撃的な話をしよう。

私の名前は鈴木り子。六十二歳になる。東京の再開発の噂だけが飛び交い、十年間も工事が始まらない古い町で、四階建てのアパートを一棟所有する大家だ。他人から見れば楽に暮らしているように見えるかもしれない。だが、それは私の内情を知らないからだ。このアパートは私にとって老後の備えではなく、私を締めつける枷のようなものだった。

「おい、飯はまだか。日が登ってるのにまだぐずぐずしてるのか」

リビングから響く大きな声。私の夫、佐藤健二だ。彼は十年前に退職して以来、指一本動かさずに家の中に鎮座し、王様のように振る舞う人。朝目覚めて最初に探すのは水ではなく、私への文句だった。夜眠りにつく前の最後の言葉は、明日の朝は味噌汁をちゃんと作れという命令だった。

「あなた、ご飯はもうすぐですよ。味噌汁だけ作れば終わりだから」

「食欲が失せるような味噌汁なんか作るな。外で食ってくる」

夫はソファに深く身を沈め、テレビのリモコンをいじりながら不機嫌に言った。それから私をちらりと見て続けた。

「それより、今日は三〇一号室の家賃が入る日じゃないのか。期日を過ぎてるみたいだが」

「さっき確認したんだけど、まだ入ってないのよ。うっかりしてるのかも」

「うっかりなもんか。お前が甘いからだ。大家がしっかりしてないと入居者が舐めてかかるんだ。今すぐ降りて取ってこい」

呆れた。退職金は株で全部溶かし、私の実家が残してくれたこのアパートの家賃で暮らしているくせに、いつもあんなに堂々としている。私たち夫婦は形だけの夫婦で、他人のように暮らし始めてから十五年を超える。肌が触れ合ったのがいつだったかも曖昧だ。夫にとって私は妻ではなく、飯を作る炊事係であり、家賃を回収してくる集金人でしかなかった。

私はエプロンを脱ぎ捨てて、とぼとぼと階下へ降りていった。

三〇一号室の入居者は高橋さん。去年の今頃引っ越してきた四十一歳の独身男性だった。初めて契約に来た時を思い出す。身長は一八五センチを優に超え、肩幅がっしりしていて、玄関のドアがいっぱいになるほどだった。体格だけ見ればヤクザかと思って怖くなったが、口を開くと声はとても穏やかで物静かだった。造船所で溶接の仕事をしていて、今は少し休んでいるとのことだったが、いつも作業着姿で油の匂いを漂わせていた。近所のおばさんたちの間では結構な話題だった。

「あんなに体が大きいのに、どうして結婚できないのかしら」
「夜に見るとちょっと怖いわよね」

でも私の目には、ただ孤独で、居心地悪そうな体の大きな子供のように見えた。どこか影のある眼差しが、まるで自分の境遇と似ているようで気の毒にも思えた。

三〇一号室の前に立ち、チャイムを押した。しばらく待っても人の気配がない。もう一度押そうとすると、中から重い足音が聞こえ、ドアが開いた。

「あっ、奥さん」

ボサボサの髪にランニングシャツ一枚の姿だった。しかし、その姿は実に驚くべきものだった。間近で見るのは初めてだったが、薄いランニングシャツから覗く太い腕は私のふくらはぎよりも太く見えた。日に焼けた肌に浮き出た血管。岩のように硬そうな胸の筋肉が目の前に現れ、思わず息を飲んだ。私の夫の痩せて白い腕とは比べ物にならない、濃い男の匂いが漂ってきた。

「あ、こんにちは。お休みだったのに起こしてしまったかしら」

私がもじもじしながら言うと、彼は慌てて自分の体を隠すように腕を組んだ。

「いえいえ。昨日夜勤だったので。どうぞ、お入りください」

「あ、いえ、ちょっと待ってください」

彼は慌てて部屋の中に入ると、Tシャツを着て再び出てきた。家賃のことで来たと言うと、何度もすみませんと言いながらその場で携帯電話で振り込んでくれた。その大きな指で小さな画面をトントンと叩く姿が、熊が芸をしているようで思わず笑いそうになった。

部屋を出ようとすると、彼が急いで私を呼び止めた。

「あの、奥さん。お忙しいところ申し訳ないんですが、一つお願いしてもよろしいでしょうか。お部屋の蛍光灯が切れたんですが、自分で変えようとしてもどうしてもうまくいかなくて。椅子が弱いのか、上がるとギシギシなるし、一人でやろうとすると何度も落としてしまって」

私は心の中で呆れた。あんな山のような体格の男が蛍光灯を一つ変えられずに困っているなんて。しかし断れなかった。その大きな体を縮こませて、私の助けだけを待っている姿があまりにも切実だったから。

部屋の中に入ると、がらんとした風景が目に入った。古いベッド一つと小さな食卓、洋服をかけるハンガーラックが全てだった。男一人が暮らす部屋で男臭い匂いがするかと思ったが、意外にも片付いていた。天井を見るとリビングの照明カバーが外されたまま、配線がぶら下がっていた。

「私が椅子を押さえていますから、奥さんはそれをはめるのだけちょっと見ていただけませんか」

彼は本当に申し訳なさそうな顔をしていた。私は食卓の椅子に足をかけて上がった。背が低い方なので、つま先立ちになってやっと手が届くくらいだ。彼から新しい蛍光灯を受け取りはめようとしたが、ソケットの穴がうまく合わない。腕をずっと上げていると肩が凝り始めた。

「あら、どうして入らないのかしら」

私がうんうん唸りながら体をひねったその瞬間、古い椅子がギシッと音を立ててバランスを崩した。

「奥さん、危ない!」

高橋さんが驚いて手を伸ばした。しかし、すでに私の体は後ろにぐらりと傾いていた。

「きゃっ」

床に落ちるだろうと思い、ぎゅっと目を閉じた。だが、硬い床の代わりに、何かふかふかと熱いものが私の背中を支えてくれた。

「大丈夫ですか?」

目を開けると、高橋さんが私を後ろから抱き抱えるようにして支えていた。しかし、その体勢は実に奇妙なものだった。私は椅子の上、彼は床にいたため、私の尻がちょうど彼の胸の高さに当たっていた。彼が倒れる私を捕まえようとして、両腕で私の太ももと尻のあたりをがっしりと抱きしめている格好になった。

瞬間、静寂が流れた。私の薄いズボンに、彼の大きくて節くれだった手のひらの熱がそのまま伝わってきた。背中に触れている彼の胸が、どくんどくんと規則正しく、しかし非常に強く鼓動しているのが感じられた。夫とは十年以上も手も繋いでいなかった。見知らぬ男、それもあんなに力に満ちた若い男の体温が私に密着したのは、本当に何十年ぶりの出来事だった。

悲鳴をあげなければならないのに、不思議と口が開かなかった。むしろその硬い腕に抱かれているという事実がもたらす奇妙な安心感。そして下腹部の奥深くでうめく慣れない疼きに、意識が遠くなっていった。

「すみません。お怪我をされるかと思って」

彼がはっと驚いて手を離した。顔を赤らめて一歩後ろに下がる。

「いいえ、おかげで怪我しませんでした」

顔が熱くて張り裂けそうだった。足ががくがくして、まともに立っているのがやっとだった。さっき感じたあの熱い手の感触が、尻に刻印のように残っているかのようだった。私は逃げるように三〇一号室を出てきた。

家に戻り、米を研ぎながらも頭の中はあの瞬間のことで一杯だった。冷たい水道水に手を浸けているのに、尻に残っているあの熱はなかなか覚める気配がなかった。私は六十過ぎて、息子くらいの年齢の独身男性にドキドキするなんてと自分を叱った。しかし、その夜は眠ることができなかった。隣でいびきをかいて寝ている夫の背中を見ていると、どうしても三〇一号室の男のあの熊のような体格と悲しげな眼差し、そして私の体を包んだあの腕の力が思い出される。

その時は知らなかった。あの日のあのスキンシップが、これから訪れる大きな出来事のほんの小さな始まりに過ぎなかったとは。

翌朝のこと。夫は登山同好会に行くと言ってバックを背負って出ていった。週末ごとに山に行って気力をもらってこなければならないと言っては、外にばかり出かける人だった。

「行ってくる。夕飯は友達といっぱいやってくるから、待たずに寝てろ」

夫が出ていくとすぐに、私はとぼとぼとリサイクルゴミをまとめて一階へ降りた。するとアパートの入り口の方で騒がしい声が聞こえた。

「おじさん、ここに車を止めたら、どうするんですか? 住民の車が出られないじゃないですか」

聞き慣れた声。三〇一号室の高橋さんだった。顔を向けると、彼がアパートの駐車場の入り口を塞いでいる、不慣れな会社と揉めているところだった。しかし、その姿が私の目を一瞬で釘付けにした。

高橋さんは古びたグレーのスウェットパンツに、上は伸び切った白いランニングシャツ一枚を着ているだけだった。十一月の晩秋の風がかなり冷たい日だったにも関わらず、彼は寒い素振り一つ見せず、汗を流していた。

会社の持ち主は、一見してチンピラ風の男だった。

「おい、お前が何様で車をどかせとか言ってるんだ。体がでかいと何でもありか」

男が高橋さんの胸を指でつんつんと突きながら因縁をつけていた。しかし、高橋さんは微動だにしなかった。むしろ男の手首を軽く、本当に軽く、虫を払うようにポンと引いた。すると、その「ポン」という力で男が「うっ」と声を上げてよろめき、後ろに下がるではないか。

「言葉で話してください。通報する前に」

低く、岩のように硬い声。男は高橋さんの腕の筋肉と眼光を見ると、尻尾を巻いて車に乗り込み、逃げるように去っていった。

私は呆然とその光景を見つめていた。私の夫は、近所の子供たちが騒がしくしていても外に出て一言も文句を言えず、部屋の中でぶつぶつ言うだけの人だ。しかし、この男は違う。自分の縄張りを守る狼のようだった。頼もしいというのはこういう感じなのだろうか。

その時、高橋さんが私に気づき、表情をぱっと柔らげて近づいてきた。さっきまでの怖い顔はどこへやら、再び穏やかな青年の顔に戻っていた。

「ああ、奥さん、いらしてたんですね。うるさかったでしょう。すみません」

彼は汗を吹きながらにっこりと笑った。汗で濡れた薄いランニングシャツが彼の上半身にぴったりと貼り付き、節くれだった筋肉の筋がくっきりと浮かび上がっていた。広い肩と硬い胸。まるで筋肉の彫刻を見ているようだった。

「ゴミ捨てですか? 手伝いますよ」

彼が私の手に持っていたリサイクルゴミの袋をひったくるように取ると、ゴミ捨て場へずんずん歩いていった。私は彼の広い背中をじっと見つめていた。その瞬間だった。彼が袋をゆっくりと腰をかがめて置いた時、尻と太ももの筋肉がぴんと張り、彼が履いていた薄いグレーの綿パンツが前にぐっと引っ張られた。

そして、私は見てしまった。思わず口を手で覆った。グレーのパンツは元々体のラインがはっきりと出ると言うが、これはそういうレベルではなかった。彼の足の間、薄いパンツの生地が耐えきれないかのようにぴんと張っていた。単に服がそうなっていたのではない。パンツの中に何かずっしりとしたものが入っているかのように、ぱんぱんに見えた。

息が詰まった。夫のそれは普段は存在さえわからないほどだったから。ところが高橋さんのそれは、その存在感がとてつもなかった。彼が歩くたびに、そのずっしりとした重みが感じられるかのようだった。私は顔が熱くなり、どこか穴があったら入りたい気分だった。六十年の人生で男の体を見てこれほど衝撃を受けたのは初めてだった。怖いと同時に、奇妙な好奇心が私を包み込んだ。

高橋さんは私の視線に気づかず、明るく笑いながら戻ってきた。

「全部捨てましたよ。奥さん、どうぞ」

「あ、ええ、ありがとう」

私は袋を受け取り、慌てて視線をそらした。私の瞳がどうしても彼のズボンの方へ向かおうとする。必死に堪えるのに冷汗が出るほどだった。

「あの、奥さん。もしよかったら、家に余っている漬け物とかありませんか? 店で買う漬け物はどうも口に合わなくて」

彼の言葉が耳にうまく入ってこなかった。頭の中はさっき見た衝撃的なシルエットでいっぱいだった。私はうっかり漬け物をあげると約束してしまい、逃げるように家に戻った。心臓がどきどきして張り裂けそうだった。冷蔵庫から漬け物の容器を取り出す手がガタガタと震えた。

「私、どうかしてる? どうしてあんなところを見てしまったの? いや、見間違いよ。人間の体があんな風になるはずがない」

必死に否定しようとしたが、あの姿は明らかに生きている男のものだった。

しばらくして、私は漬け物の容器を持って三階へ降りた。

「いらっしゃいますか? 漬け物持ってきました」

返事がない。中からはシャワーの水音がさっと聞こえていた。ドアが少し開いていたので、食卓に置いて出ようとそっと中に入った。湿った浴室の匂いと、見慣れない男のスキンローションの香りが混ざり合い、妙な雰囲気を醸し出していた。漬け物の容器を食卓に置き、まさに背を向けようとした時、浴室のドアがカチャリと開いた。

「あっ、奥さん、もういらしたんですか?」

高橋さんだった。しかし、私はその場に凍り付いてしまった。シャワーを浴び終えたばかりの彼は、糸一本まとわず腰に白いタオルを一枚巻いているだけだった。

顔を背けようとしたが、私の目はすでに壊れたかのように一箇所に固定されてしまった。彼の上半身は本当に彫刻のようだった。水滴で濡れて光る褐色の肌、がっしりとした肩がどっしりとした雰囲気を醸し出していた。しかし、問題はそこではなかった。私の視線は彼の腰に巻かれた白いタオルにくぎ付けになっていた。

さっき駐車場で見たのは、本当に予告編に過ぎなかった。タオル一枚では到底隠しきれない。むしろ隠されているからこそ存在感が際立つ。そのボリューム感。彼の腰の辺りでもっこりと盛り上がったタオルの形は、本当にすごいものだった。タオルが今にも解けてしまいそうに危なげに見えた。

「すみません。服を着る間もなくいらっしゃったので、ちょっと見苦しいですよね」

高橋さんが慌てて片手でタオルを押さえ、もう片方の手で後頭部を掻いた。見苦しいですって? あれは見苦しいのではなく、本当に言葉が出なかった。男という生き物があんな風にもなりうるのかという気分だった。

「いいえ、私が急に来すぎたのね」

乾いた唾をこくりと飲み込み、やっとのことで口を開いた。足の力が抜けて座り込んでしまいそうだった。

「水飲みます? 喉が乾いて」

彼が冷蔵庫の方へ体を向けた。その瞬間、とんでもないことが起きてしまった。彼が冷蔵庫のドアを開けようと腕を伸ばし、腰をひねった拍子に、緩く結んでいたタオルの結び目がその動きに耐えきれずに、するりと解けてしまったのだ。

彼が驚きの声をあげたが、すでに手遅れだった。そして私は息が止まるかと思った。頭が真っ白になる気分だった。生きてきて、あんな光景をどう見ればいいのか分からなかった。思わず後ずさりしてしまうほどの気迫が感じられた。普通の女の体であんな男を受け入れたら、果たして耐えられるのだろうか。極度の緊張感と共に、言葉では説明できない奇妙な衝動が私の下腹部を直撃した。

「うわっ、すみません! 奥さん、見ないでください!」

高橋さんが悲鳴のように叫び、慌てて床に落ちたタオルを拾って前を隠した。彼の顔は頭のてっぺんまで真っ赤に染まっていた。その巨大な体格の男が、自分のか体を見られたという理由でどうしていいか分からずに足をばたつかせている姿。それは奇妙に可愛らしく、同時に私の母性本能をくすぐった。あんなにすごい体を持っているのに、心は純粋な少年なのね。

「いいえ、私がノックもしないで入ってきてごめんなさい」

心臓が口から飛び出しそうなくらいどきどきしていた。背後で彼が慌てて服を拾い上げる音が聞こえた。しばらくして、彼がか細い声で私を呼んだ。

「奥さんも、振り返っていただいて大丈夫です」

恐る恐る後ろを振り返ると、彼はだぶだぶのスウェットパンツを履き、食卓の椅子に深くうだれて座っていた。耳まで真っ赤になっていた。

「驚いたでしょう。ごめんなさい」

「いえ、私が不注意で」

沈黙が流れた。すると、高橋さんが俯いたまま訪ねてきた。

「気持ち悪いですよね」

「えっ?」

彼が顔をあげて私を見た。その眼差しはあまりにも悲しそうだった。

「みんな逃げていくんです。化け物を見るみたいに。気持ち悪い、怖いって。奥さんも驚いたでしょう。僕、ちょっと普通じゃないから」

その言葉を聞いた瞬間、頭を殴られたような気がした。この人は自分のその人並み外れた部分を、誇りではなく傷として抱えて生きてきたんだ。他の人は羨むかもしれないが、本人にとってはそれが人々との関係を阻む壁だった。女性たちが耐えきれずに逃げていった記憶が、彼を委縮させていたのだろう。

その瞬間、私の中で何かがうめいた。それは単なる同情ではなかった。夫に無視され、女としての自尊心を失った私。人並み外れた肉体のせいで、むしろ化け物扱いされ、委縮している彼。私たちはそれぞれ違う理由で絶望を抱えた人間だ、という共感だった。

私は思わず彼の前に一歩踏み出した。

「いいえ、気持ち悪くなんてないわ」

私はできるだけ優しい声で言った。

「ただすごく驚いたけど、とても逞しくていいと思うわよ」

言ってしまってから、あまりにも年甲斐もないかと顔が熱くなった。しかし、それはお世辞ではなかった。気持ち悪いというより、生命力に満ち溢れているようで、乾き切って干からびた私の心に火をつけるようだった。

私の言葉に、高橋さんの目が丸くなった。

「本当にそう思いますか? 怖くないですか?」

「怖いなんて。高橋さんが健康だっていう証拠じゃない。男はそうでなくちゃ」

最後の言葉は思わず口から出た本心だった。生涯、夫だけを見て生きてきた私の恨みのような叫びだったのかもしれない。彼は信じられないという表情で私をじっと見つめた。その視線があまりにも熱くて、私の方が先に目をそらさなければならなかった。

「奥さんは違いますね。他の女の人たちは気持ち悪がって逃げていったのに、奥さんは僕をありのままに見てくれるんですね。本当にありがとうございます」

彼が私を見る眼差しが変わった。単なる大家のおばさんを見る目ではなかった。自分の弱さでありコンプレックスを包み込んでくれた女性に対する、尊敬と憧れが入り混じった眼差しだった。そしてその瞬間、私は感じた。私たち二人の間に、越えてはならない一線が引かれつつあることを。

数日後、空に穴でも開いたかのように雨が土砂降りになった日。夫は「雨だから釣りの方がよく釣れる」と言って釣り竿のケースを背負って出て行った。

「言ってくる。明日の夜にでも帰る」

外は雷が鳴っているのに、釣りに狂った人を止めることはできなかった。がらんとした家の中、雨音だけがリビングを満たしていた。私はソファに座り、テレビのチャンネルを意味もなく変えていた。しかし、どうしても視線が玄関の方へ向かってしまう。あの人、ご飯は食べたのかしら。

その時だった。ピンポーン。チャイムの音が雨音を突き抜けて鳴り響いた。インターホンの画面を確認した私は、息を飲むかと思った。画面いっぱいに、雨に濡れた高橋さんの顔が映っていたからだ。心臓が狂ったように高鳴り始めた。私は髪を急いで整え、玄関のドアを開けた。

「高橋さん」

ドアが開くと、彼が雨でびしょ濡れのまま立っていた。水滴が滴る髪の毛。濡れて体にぴったりと張り付いた薄いTシャツ。そしてそのTシャツ越しに浮かび上がる張り裂けそうな胸の筋肉と広い肩が、玄関を埋め尽くしていた。彼の手には黒いビニール袋が握られていた。

「あの、奥さん、いらっしゃったんですね。田舎の実家からさつまいもが送られてきたんですが、さっき届いたばかりで。一人で食べるには多すぎるので、少しおすそ分けしてきたんです」

彼の唇は雨に濡れて青白かった。さつまいもを口実にやってきたことはあまりにも見え見えだったが、その不器用な口実が何とも可愛らしく、ありがたかった。

「まあ、これを届けにこの雨の中を。とにかく入って。風を引くわ」

私は彼を玄関の中に引き入れた。誰もいない家によその男をあげるなんて、理性が危険だと警報を鳴らしていたが、私の手はすでに下駄箱から乾いたタオルを取り出していた。

「すみません。床が濡れます」

彼がもじもじしながら玄関に立っていた。狭い玄関が彼の体でいっぱいになった。雨の香りと混じった彼独特の濃い男の体臭が、ふわりと漂ってきた。

「大丈夫よ。こっちへ来て。まず頭を拭いて」

私がタオルを渡そうとすると、彼が濡れた手で私の手首をぐっと掴んだ。彼の手は雨に濡れて冷たかったが、その中から感じられる脈拍は熱かった。

「奥さん。僕、実はさつまいものために来たんじゃないんです」

彼の瞳が揺れていた。数日前に私を見て安堵していたあの純朴な眼差しではなかった。何かを切実に求め、渇望する男の眼差しだった。

「あの日、奥さんが僕の味方をしてくれてから、眠れませんでした。ずっと奥さんのことばかり考えてしまって」

心臓がどきんと落ちた。これは紛れもない告白だった。四十代の独身男性が六十過ぎの私に投げかける、ありえないけれどあまりにも甘く危険な告白。私は手を振り払わなければならないと分かっていながら、身動き一つできなかった。いや、むしろ私の指先が彼の手をさらに強く握りしめたいとうずうずしていた。

「高橋さん、私、年取ったおばさんよ。こんなこといけないわ」

口では拒絶していても、私の声は震えていた。彼もそれを感じ取ったのだろう。彼がさらに一歩近づき、私を玄関の下駄箱の方へ追い詰めた。

「年なんて関係ありますか? 僕の目には、奥さんが世界で一番綺麗な女性に見えます」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、外で雷がごろごろと鳴った。私は驚いて悲鳴をあげ、身を縮めた。すると彼は待っていましたとばかりに、私をぐいっと抱き寄せた。

その瞬間、私は息ができなかった。雨で濡れた彼の服の向こうから、熱くて硬い胸板が私の顔に触れた。そして私の下腹部の辺りに、何かずっしりと熱いものが感じられた。数日前に目で確認しただけだったあの巨大な存在感が、今、私の体に直接触れ、私を押し付けていた。

「奥さん、僕、もう我慢できません」

高橋さんの声が荒々しく震えた。彼の熱い息が私の耳元にかかると、全身に鳥肌が立った。私が彼を突き離さないのを見ると、彼は私をひょいと抱き上げた。私の体は羽のように軽かった。夫は米一俵でさえうんうん唸る人なのに、この男は私を抱いてもびくともしなかった。そのものすごい力に押さえつけられる気分で、正直に言って陶酔した。

彼は私を抱いたまま、リビングのソファへずんずん歩いていった。ソファに私を下ろすや、その巨大な体が私の上に覆いかぶさってきた。服が濡れていても構わない。何もかも構わない。彼が荒々しく口付けをしてきた。不器用でぎこちないキスだったが、それだけ真心のこもった熱いキスだった。まるで真夏の太陽が私を飲み込むかのようだった。

「奥さん、大丈夫ですか? 僕、ちょっと、かなり大きいんです」

彼が切なそうな眼差しで、しかし心の奥底では欲望が燃え盛る目で訪ねた。私は返事の代わりに、こくりと頷いた。分かってる、と。

どれくらいの時間が経ったのかも分からない。窓の外が薄暗くなるまで、私たちはリビングのソファで互いを確かめ合っていた。雨音だけが静かに聞こえていた。

ふと怖くなった。私、今何てことをしてしまったんだろう。しかし、不思議と後悔はなかった。むしろ胸のどこかがぽっかりと開いたようにすっきりし、満たされるだけ満たされた満腹感が私を包み込んでいた。

高橋さんが体を起こし、私を見下ろした。汗で濡れた髪をかき上げる彼の顔には、私を自分の女だと見なすような眼差しが宿っていた。

「奥さん、大丈夫でしたか?」

彼が私の頬をそっと撫でながら訪ねた。

「ええ、大丈夫。私、生きてきてこんな気持ち初めてよ」

その言葉に彼がぱっと明るく笑った。そして私の額に優しくキスをした。

「僕もです。僕の体、みんな怖がるばかりだったのに。奥さんは僕を全部受け入れてくれた」

私たちはしばらくそのまま抱き合っていた。このまま時間が止まってくれたらいいのにと思った。この古びたリビングが天国のように感じられたから。

しかし、現実はいつも予告なしに、それも最も残酷なタイミングでやってくるものだ。ピリリリ。リビングのテーブルの上に置いてあった私の携帯電話がけたたましく鳴り始めた。静寂を破るその音に、私たちは同時にぎょっととして体を離した。画面を見ると「佐藤健二」の文字が浮かんでいた。夫だった。心臓が床に叩きつけられるかと思った。

「明日の夜に帰ると言っていた人が、どうして今電話?」

私は震える手で電話を手に取り、高橋さんは緊張した面持ちで息を殺して私を見つめていた。

「もしもし」

声が震えないように下唇を噛んだ。

「おお、俺だ。そっち雨すごいだろう」

受話器の向こうから聞こえる夫の声は、いつもと変わりなかった。ほっと一息つこうとした矢先、続く夫の言葉に私の血の気がさっと引いた。

「雨がひどすぎて釣り所じゃなくなった。今車をユーターンさせて帰ってるところだ。もうすぐ着く。五分もしないうちに着くぞ。飯、作ってあるだろうな」

「何ですって? 明日帰るって言ったじゃない」

「だから雨でダメだって言ってるだろう。うるさいな。ドアを開けとけ。この前、鍵がうまく回らなかったからな」

プツッ。電話が切れた。私は呆然と携帯電話を握りしめ、高橋さんを見つめた。恐怖に怯えた私の顔を見て、彼が慌てて訪ねた。

「どうしたんですか? ご主人が何て?」

「高橋さん、夫が帰ってくるって。五分、いや、もう三分後には着くって」

高橋さんの顔が真っ赤になった。私たちはまるで火事の家に閉じ込められた人々のように、慌てて床に散らばった服を拾い上げ始めた。

「これ、拭かないと。痕跡が残ったら」

私がティッシュを手に取り床に落ちた痕跡を拭こうとしたが、手が震えすぎてティッシュの箱をひっくり返してしまった。頭が真っ白になり、何も考えられなかった。

その時だった。玄関の外でエレベーターがチーンと到着する音が聞こえた。我が家は四階のエレベーターのまん前の部屋だ。

「ああ、ひどい天気だな。全く」

夫の嘆き声が廊下からはっきりと聞こえてきた。五分と言っていたのに、もうドアの前まで来ていた。私と高橋さんはリビングの真ん中で固まってしまった。高橋さんはズボンは履いていたが、まだ上着を着ていない状態だった。私はワンピースのボタンも全部止められていない状態だった。

ピッ。ドアの鍵のボタンを押す音が聞こえた。そしてガチャリとドアが開いた。私の人生最大の危機が、ドアを開けて入ってきた。

玄関のドアが大きく開き、雨粒をぽたぽたと滴らせながら夫の佐藤健二がリビングに入ってきた。

「ああ、渋滞で死ぬかと思った。うん?」

靴を脱ごうとしていた夫の動きが止まった。彼の視線がリビングの真ん中にくぎ付けになった。上半身裸で筋肉質の体を晒している高橋さん。そして乱れた髪にボタンの外れたワンピースを着て、がたがたと震えている私。床に散らばったティッシュと乱れたソファカバー。誰が見ても分かる。いや、知らないふりをしようとしてもできない。あまりにも露骨な現場だった。

時が止まったかのようだった。外から聞こえる雨音と雷の音さえも一瞬で消え去ったかのように、リビングには行き詰まるような静寂だけが流れた。夫の目が信じられないというように見開かれ、やがて顎ががたがたと震え始めた。彼の顔色が真っ白になったかと思うと、一瞬で真っ赤な血の色に染まっていった。

「お前たち、今」

夫の視線が高橋さんの裸の体と私の赤くなった顔を交互に往復した。状況を把握し終えた彼の眼差しが凶悪に歪んだ。

「この、この、けがらわしい! よくも!」

夫はわめき散らしながら、手に持っていた釣り竿のケースを床に叩きつけた。ガチャンという音と共に釣りの道具ががらがらと散らばった。

「俺の家で! 俺の嫁と! この、犬畜生が!」

夫は靴も脱がないままリビングに駆け込んできて、私に向かって手を振り上げた。頬を叩こうとしているのが明らかだった。私はあまりの恐ろしさに悲鳴さえも上げられず、ぎゅっと目を閉じて身を縮めた。しかし、痛い平手打ちは感じられなかった。

「そこまでにしてください」

重々しい低音が私の耳に響いた。目を開けると、高橋さんが私の前に立ちはだかっていた。彼は夫の手首を空中で掴み、がっしりと握りしめていた。高橋さんの巨大な背中が私を完全に覆い隠していた。一八五センチを超える大柄な溶接工と、生涯運動といえば呼吸だけだった六十代の退職者の力の差は歴然としていた。高橋さんの腕の筋肉が蛇のようにうねった。

「ぐっ… 」

高橋さんが握る手に力を込めると、夫が悲鳴をあげて座り込んだ。

「奥さんに手を出すな」

「おい、こいつは俺の嫁だぞ! 不倫って言葉を知らないのか! 人の嫁に手を出しておいて、どこででかい口を叩いてんだ」

夫は怒りを晴らせずにぜえぜえと息を切らしていた。それから視線を移し、台所の方を見据えた。恐ろしいほど冷たい眼差しだった。

「殺してやる。今日、お前ら二人とも殺してやる」

夫は高橋さんの手を振り払い、這うようにして台所へ走っていった。シンクの引き出しをけたたましく開ける音が聞こえた。ガチャガチャという金属音が私の鼓膜を突き破るようだった。

「高橋さん、逃げて! 包丁を探してるわ!」

私は悲鳴をあげた。足ががくがくして立ち上がることができなかった。私の人生がこんな惨めに終わるのかと思うと、目の前が真っ暗になった。ニュースで見るような悲惨な事件の主人公が、まさか自分になるとは夢にも思わなかった。

やがて夫が果物ナイフを手に握りしめ、リビングに飛び出してきた。目が血走り、白目がぎらりと光るようで、本当に恐ろしい形相だった。

「覚悟しろ!」

夫が包丁を空中で振り回しながら、私は恐怖に駆られて床を這って後ずさりした。しかし、その時だった。私の前に立ちはだかっていた高橋さんが、少しも怯まずにずんずんと前に出た。彼はまだ上着も着ていない裸だったが、その背中はまるで大きな山のように逞しく見えた。

「来るな」

高橋さんの声がリビングに響き渡った。しかし、理性を失った夫は止まらず、高橋さんの肩の方へ包丁を振り下ろした。

「きゃあっ!」

私はぎゅっと目を閉じた。しかし、続いて起きたことは私の予想とは全く違った。悲鳴をあげたのは、むしろ夫の方だった。高橋さんが夫が包丁を握る手首をもう一度、正確に、そして今度はさらに力強く掴み取っていた。まるで子供のおもちゃを取り上げるかのように、あまりにも簡単に。

「包丁を持つなと言ったはずだ」

高橋さんの声は低く抑えられていたが、その中には冷たい怒りが込められていた。彼が手首を逆方向に捻りげると、夫の顔が苦痛に歪み、口がぽかんと開いた。

「ぐわあっ! 俺の腕が、腕が、痛いっ!」

夫の手から力が抜け、果物ナイフがリビングの床に落ちた。高橋さんは足で包丁を遠くへ蹴り飛ばし、そのまま夫を突き飛ばしてソファの上へ転がした。ソファにつっぷした夫は、ぜえぜえと息をしながら腕を押さえていた。物理的に敵わないことを骨身に染みて悟ったのか、再び襲いかかる気力はないようだった。代わりに、その卑劣な口を動かし始めた。

「はっ、呆れたもんだ。おい、お前は何者だ? 三〇一号室の貧乏人が、大家に向かって暴力を振るうのか」

夫は指を突きつけながら私を睨みつけた。

「そして鈴木り子。よくも… 六十にもなって、息子みたいな年の男と何やってんだ。近所様に顔向けできると思ってんのか。木でも狂ったか」

夫の悪意が矢のように飛んできて、私の胸に突き刺さった。私は恥ずかしさで顔をあげることができなかった。その時、高橋さんが床に落ちていた私のカーディガンを拾い上げ、私の肩にかけてくれた。そして私を立ち上がらせ、自分の背後に隠した。

「奥さんが怖がるでしょう。怒鳴らないでください」

「お前が何様のつもりで口出しするんだ。俺たちは夫婦だ。俺が俺の嫁を教育しようとしてるんだ。お前が何だ?」

「夫婦? 夫婦じゃなくて、家政婦扱いじゃないですか」

高橋さんが鼻で笑った。

「このアパート、壁が薄いのご存知ですよね。僕、一年間全部聞いてましたよ。ご主人が奥さんに怒鳴りつけて金を出せと迫って、食事に文句を言って。よなよな奥さんが寝室で泣いている声も、全部聞いてました」

高橋さんは知っていたのだ。私が表向きは平気なふりをしていても、内側では朽ち果てていたことを。夫として扱われたいなら、まず夫としての務めを果たすべきだったんだ。

高橋さんが一歩近づくと、夫がソファの隅へじりじりと後ずさった。

「この野郎、言いたい放題言いやがって。お前、俺が警察に通報するぞ。刑務所に入りたいのか?」

夫は携帯電話を取り出し、警察に通報すると言ってボタンを押すふりをした。その言葉を聞いた瞬間、私はぞっとした。私はともかく、高橋さんはまだ若いのに、私のせいで前科者にするわけにはいかない。

「あなた、やめて! 私が悪かったわ。警察だけは呼ばないで」

私が泣きながら止めようとすると、高橋さんが私の腕を掴み、首を横に振った。

「謝らないでください。何も悪くありません。通報してください。警察を呼んでくださいよ」

夫が驚いて動きを止めた。普通ならこんな時は怖気づいて謝るはずなのに、あまりにも堂々と出てくるのであっけに取られたのだろう。高橋さんはゆっくりと床に落ちていた自分のシャツを拾い上げながら言った。

「おじさん、警察が来たら、どっちが不利になると思いますか? おじさん、包丁を振り回しましたよね。特殊脅迫罪に、特殊暴行未遂まで。情状酌量してもらえなければ、懲役ものですよ。知ってますか?」

「な、何を… 」

「それに、僕が一年間住んで見てきたことがあるんですけど。このアパートの屋上にある違法に増築した倉庫、ありますよね。あれ、区役所に通報されたら撤去費用と履行強制金だけで数千万円はかかりますけど。警察が来たら、その辺から調べてみましょうか」

夫の顔が土色になった。アパートの最上階の倉庫は、夫が家賃を上乗せしようという魂胆で改造したもので、区役所の査察が入るのではないかといつもびくびくしていた部分だった。高橋さんがそれを知っているとは思いもしなかった。

「くそっ…

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この、徳者みたいな野郎」

夫は手をぶるぶると震わせながら、何も言えなかった。法律だのなんだのは、夫よりも若い高橋さんの方がずっと詳しく知っていた。おまけに凶器を振り回したという明らかな弱みまで握られているのだから、警察を呼ぶのは自らの墓穴を掘るようなものだった。

夫はぜえぜえと息をしながら、やがて目を細めて私を見た。その眼差しが変わった。怒りから、非常に卑劣で汚い、貪欲なものへ。彼は計算を始めたのだ。

「いいだろう。警察は呼ばないでおいてやる。だがな、鈴木り子。お前、これで済むと思うなよ。離婚だ。慰謝料は一円もやらんからな。そしてこの家、俺の名義にしろ。そうしないと、近所中に言いふらして。お前たちの写真を撮ってインターネットにばらまいてやるからな」

夫の本性が出た。彼は私を愛していたから裏切られたから怒ったのではない。私の名義になっているこの古いアパートを奪い取る口実ができて、むしろ内心で歓喜を叫んでいるかのようだった。

その時、高橋さんが私の肩を抱きしめ、夫に向かって冷たく言った。

「いいですよ。ただし、この家から出て行くべきなのは、おじさん、あなたの方ですよ」

「こいつ、狂ったか? 浮気したのはお前たちなのに。どうして俺が出ていくんだ?」

「選んでください。今すぐ静かに荷物をまとめて出ていくか。それとも僕と最後まで争って、特殊脅迫で刑務所に入り、違法建築物を通報されて罰金の爆弾を食らうか。僕は奥さんを守るためなら何でもします。失うものがない人間が一番怖いってこと、ご存知ですよね」

高橋さんの眼差しが恐ろしく光った。夫はしばらくの間、私と高橋さんを交互に睨みつけた。今は包丁を振り回したことが不利だから、ひとまず引き下がって証拠を集め、弁護士を雇って攻撃する方が得だと判断したのだろう。夫は床にぺっと唾を吐き、立ち上がった。

「けがらわしい。いいだろう、出て行ってやる。ただしな、後で覚えてろよ。裁判所で、骨の髄までしゃぶりつくしてやるからな」

夫は悪態をつきながら寝室に入り、手当たり次第に服を鞄に詰め込み始めた。しばらくして彼は大きな旅行鞄を一つ引きずってリビングに出てきた。玄関を出る前、彼はリビングの飾り棚の上に置かれた置時計をちらりと見た。持っていこうかという様子だった。しかし、高橋さんが腕を組んで玄関の前に立ちはだかり睨みつけているのを見て、時計を持っていく気力もなくなり、慌てて靴を履いた。

「時計、邪魔だ。道を塞ぐな」

バーン。玄関のドアが閉まり、夫が消えた。家の中には再び静寂が漂った。リビングの飾り棚の上、夫が持って行き損ねた置時計の針の音だけが、チクチクタクと鳴り響いていた。

私は緊張が解けて、その場に座り込んでしまった。ううっと、こらえていた涙が吹き出した。怖かったからではなかった。あまりにも惨めで、同時にあまりにもすっきりしたからだ。

「奥さん!」

高橋さんが驚いて私をぐっと抱きしめた。

「大丈夫ですか? ごめんなさい。僕がもっと早く止めるべきだったのに」

私は顔をあげて彼を見た。汗で濡れた顔。心配でいっぱいの、その優しい瞳。夫の最後の悪態が耳元で響いていたが、私の体を包むこの男のぬくもりはあまりにも本物だった。

「高橋さん、ありがとう。本当にありがとう」

私たちは夫が去ったその家で、互いを慰めるようにしばらくの間抱き合っていた。しかし、私たちは知らなかった。夫がただ引き下がったわけではないということ。彼が置いていったあの時計が、私たちに向けられたもう一つの牙であるということを。

その夜、私たちは夫の匂いが染みついた寝室のベッドを避け、私が使っていた小さな部屋のベッドで互いを抱きしめながら眠りについた。嵐のような一日が過ぎ去ったが、なかなか寝つくことはできなかった。私の隣に横たわるこの男の熱い体温が心地よい一方で、不安が胸のどこかを押しつぶしていた。

「眠れないんですか?」

暗闇の中で高橋さんがそっと訪ねた。

「うん。なんだか色々なことを考えちゃって。あの人が本当にこのままでいるのかなって」

「心配しないでください。包丁を振り回して追い出された人間が、何ができるって言うんですか? また来たら、僕が足の骨をへし折ってやりますから」

彼は私の腰をしっかりと抱きしめ、私の首筋に顔をうめた。彼の息遣いが触れると、緊張が溶けてすっと眠気が襲ってきた。そうよね。大丈夫よね。自分が悪いことをしたのに、まさか警察に通報したりしないわよね。そうやって必死に不安を打ち消し、私は目を閉じた。

しかし、私の不吉な予感はいつも外れることがなかった。

翌朝のこと。高橋さんが朝食の準備をすると言って、台所でカチャカチャと音を立てるのに目が覚めた。生涯、他人が作ってくれた食事など食べたことのない私が、ベッドに横たわってコーヒーの香りを嗅ぐなんて。これが幸せなんだなと、微笑みがこぼれた。その時だった。枕元に置いていた私の携帯電話がけたましく振動した。電話ではなく、メッセージが殺到する音だった。

誰かしら。携帯電話を手に取り、画面をつけた瞬間、私は悲鳴を上げそうになった。送信者はあの男、佐藤健二だった。

「おい、り子。よく眠れたか。お前ら、昨日は見ものだったぞ。俺が手ぶらで出て行ったとでも思ったか。勘違いするな」

画面には動画ファイルが一つ添付されていた。

「これはお試しだ。原本は俺のクラウドに全部保存してある。今後、俺の言うことを聞かないなら、この動画、お前の同級生、親戚、そしてインターネットに全部ばらまく」

手がぶるぶると震えて、携帯電話を落としそうになった。添付された動画ファイルをタップする私の指が、麻痺したかのように固まっていた。しかし、確認しなければならなかった。

動画が再生された。画面には昨日のリビングでの出来事が、そっくりそのまま映っていた。高橋さんが上半身裸のまま私を抱いている姿。私が乱れた髪で高橋さんの後ろに隠れる姿。しかし、動画の角度がおかしい。人が撮ったものではなかった。まるで天井かどこか高い場所から見下ろしているような、固定されたアングルだった。

「あっ… 」

私は布団を頭からかぶり、声を上げた。恥ずかしさで全身が真っ赤に染まった。自分の家のリビングで私が愛を交わし、危機に陥る、その全ての瞬間を誰かが見ていたという事実があまりにも恐ろしかった。

「どうしたんですか?」

悲鳴に驚いた高橋さんが、シャツも着ないまま部屋に駆け込んできた。

「高橋さん、これ見て。私たち、全部撮られてたわ。どうしよう」

私は泣きながら携帯電話を彼に差し出した。動画を確認した高橋さんの表情が、一瞬で硬直した。

「あのクソ野郎が… 」

高橋さんは動画を食い入るように見つめていたが、突然眉を潜めて言った。

「待ってください。この角度、どこから撮ってるんだ?」

「分からないわ。夫が撮ったんでしょう」

「いえ、違います。ご主人は入ってくるなり、包丁を探しに行ったじゃないですか。携帯電話を構えている暇なんてなかったはずです。これは固定カメラですよ」

高橋さんは携帯電話を手に取り、リビングへ駆け出した。私もがくがくと震える足を引きずって、彼の後を追った。高橋さんはリビングの真ん中に立ち、動画の中のアングルと実際のリビングを交互に見比べた。彼の視線が飾り棚の上を舐めるように動く。テレビ、セットトップボックス、エアコン、そして…

彼の視線が止まった場所は、まさにあの置時計だった。昨日、夫が出ていく時にちらりと見たけれど、高橋さんが立ちはだかったために持って行き損ねた、あの時計。

「これだ」

高橋さんが時計を手に取った。

「ただの時計じゃないですね」

高橋さんが時計の裏側の電池カバーを開けた。すると、その中に隠されていた小さなSDメモリーカードのスロットと、赤い光が点滅する釣り針型レンズのモジュールが現れた。

「Wi-Fi型の隠しカメラです。電源が繋がっていれば、二十四時間撮影してクラウドに送信するタイプですよ。ご主人が外から携帯電話で見ていたか。後で確認したんです」

足の力が抜け、私はその場に座り込んでしまった。まさか、十年も一緒に暮らした妻を監視していたなんて。ぞっとした。彼は私を疑って、あるいは変質的な好奇心からこのカメラを設置し、隙を見ては盗み見していたのだ。

「もう終わりだわ。何もかも、もう終わりよ。私、あの人がこれをばらまくって。近所の人たちに全部知らせるって。私、もう顔をあげて歩けないわ。いっそ死んでしまいたい」

私の人生が全面否定されたような気分だった。しかし、その時だった。

「しっかりしてください!」

高橋さんが私の肩を、痛いくらいにぐっと掴んだ。彼の目は全く揺らいでいなかった。むしろ爛々と輝いていた。

「これ、むしろ好都合ですよ」

「好都合ですって? あなた、どうかしてるわ」

「この時計、ご主人は持っていけなかったですよね。僕が立ちはだかって、置いて行ったじゃないですか」

「そう、そうだったわね」

「だったら、この証拠の原本は、今、僕たちの手の中にあるってことです。ご主人の手にあるのは、クラウドにアップされたコピーですよ」

高橋さんは時計からメモリーカードを抜き取りながら言葉を続けた。

「夫婦間であっても、同意なしに撮る盗撮は犯罪ですよ。それに、これで脅迫までしてる。これは刑罰がさらに重くなります」

高橋さんの声に力がこもっていた。

「それに、動画の後半を見てください。ご主人が包丁を振り回してるの、僕に包丁を振りかざしたのまで全部撮れてるじゃないですか。これは特殊暴行の証拠です」

「あっ、そこまでは思いませんでした」

カメラが私の恥ずかしい部分だけを撮ったのではなく、夫の犯罪現場までそっくりそのまま記録していたという事実に、私ははっとした。

「ご主人は今、自分が持ってるのが切り札だと思って、ばらまくと脅迫してるわけですが。実はそれ、自爆ボタンなんです。これを警察に持っていけば、不倫だのなんだの言う前に、ご主人が先に逮捕されますよ」

ぼんやりとしていた私の頭の中の霧が、晴れていく気分だった。

「本当に?」

「もちろんです。僕が前に働いていた工場の人が、浮気がバレて離婚したんですけど。その時、こういうので訴訟を起こして、逆に慰謝料をたっぷりもらったのを見たことがあります。法律は思ったより被害者の味方ですよ。特にこういう不法撮影物には」

彼はメモリーカードを握りしめ、私を見てにっこりと笑った。

「僕たち、弁護士に会いに行きましょう。ご主人に、自分の策略で自分が墓穴を掘るってことがどういうことか、見せてやりましょうよ」

その日の午後、私たちは高橋さんが調べてくれた弁護士事務所を訪れた。高橋さんが差し出したメモリーカードと脅迫メッセージを確認した弁護士は、呆れたようにふっと笑った。

「はは、ご主人、相当なことをなさいましたね。ご自分でご自分の墓穴を、それはそれは深く掘られましたな」

弁護士は眼鏡をかけ直し、確信に満ちた口調で言った。

「奥さん、何も心配することはありません。これは不法に収集された証拠なので、離婚訴訟でご主人が使うこともできませんし。むしろご主人が、カメラ等利用撮影罪、脅迫罪、特殊暴行で刑事罰を受けることになります。動画をばらまいた瞬間、即逮捕です」

弁護士の言葉を聞いた瞬間、十年の重りがするりと落ちていくようだった。怖くてぶるぶる震えていた自分が、バカみたいに感じられるほどだった。高橋さんが私の手をぎゅっと握ってくれた。

「ほらね。僕が守ってあげるって言ったでしょう。あの人はもう終わりですよ」

弁護士事務所を出て、家に帰る途中。私の携帯電話が再びなった。佐藤健二からだった。さっきまでは死神からの呼び出しのようだったその名前が、今では取るに足らない蝿のように感じられた。私は高橋さんを見た。高橋さんがこくりと頷いた。私は通話ボタンを押した。

「おい、どうして返事がないんだ? 動画見たんだろう。怖いか? 今すぐ荷物をまとめて出ていけ。こしないと、今すぐグループチャットに投稿するぞ」

受話器の向こうから、怒りに満ちた声が聞こえてきた。以前の私なら「あなた、ごめんなさい」と謝っていただろう。しかし、今の私は以前の鈴木り子ではなかった。私は一度大きく息を吸い込み、冷たく言い放った。

「投稿しなさいな」

夫が驚いて言葉を詰まらせた。

「投稿しろって言ってるのよ、この狂人。投稿した瞬間、あんたは即刑務所よ。さっき弁護士に会ってきたところだから、すぐに連絡が行くわ。盗撮犯罪に、脅迫罪、そして特殊暴行まで、きっちりセットで送ってあげるから。楽しみにしていなさい」

「こ、こいつ、狂ったか、お前。本当に社会的に抹殺されたいのか?」

「抹殺されるのはあんたの方よ。証拠のくせに、どこででかい口を叩いてるの。リビングに、あんたがうっかり忘れていったでしょ。その中に入ってたSDカードを、今、私の手の中にあるわ。あんたが包丁を振り回してたの、それはそれは鮮明に映ってたわよ」

受話器の向こうで、はっと息を飲む音が聞こえた。それでようやく、自分が置いてきた時計の存在に気づいたのだ。高橋さんが立ちはだかって持っていけなかった。その決定的なミス一つが、彼の首を絞めていた。

「お、おい、り子、ちょっと待て。俺の話を聞いてくれ」

夫の声が慌てた口調に変わった。

「警察はだめだ。俺、年金ももらわなきゃならないし。前科がついたら困るんだ」

「知らないわね。話し合いも、何もないわ。これから何か言いたいことがあるなら、私の弁護士に。それともう一度連絡してきたり、家の近くをうろついたりしたら、その時は本当に容赦しないからね」

私は電話を切り、夫の番号を受信拒否に入れた。胸がすっとした。生涯、夫の顔色ばかり窺って生きてきた私が、初めてあの人に向かって怒鳴りつけ、電話を切ったのだ。指先がじんとしびれた。

「うわあ、本当にかっこよかったですよ」

運転席にいた高橋さんが、親指を立てた。

「私、ちょっとはかっこよかったかしら」

私たちは互いを見つめ合い、大きな声で笑い出した。車の中に笑い声が響き渡った。これで本当に、あの忌々しい縛りから解放された気分だった。

夫を完全に制圧したと思い安心していた矢先、全く予想だにしない場所から、また別の試練が芽生え始めていた。

それから数日後、平和な夕食の時間だった。高橋さんがシャワーに入っている間、食卓の上に置かれていた彼の携帯電話が短く振動した。

「高橋さん、私だよ。お腹も大きくなって、もうしんどいの。私たちの赤ちゃんのためにも、お願いだから連絡ちょうだい。今度は本当だから」

赤ちゃん? お腹が大きい? 浴室から聞こえていた高橋さんの鼻歌が、一瞬で遠くへ消えていくようだった。さっきまで雲の上を歩いている気分だったのに。メッセージ一通で、地獄の底へ真っ逆さまに落ちた。四十代の独身だという言葉。一年間、女性の影もなかったということ。全部嘘だったのだろうか。裏切られた思いで、目の前が真っ白になった。

その時、浴室のドアががばっと開き、高橋さんが出てきた。私は震える手で携帯電話を彼に差し出した。

「これ、何? 高橋さん。それに、赤ちゃんって何?」

高橋さんが携帯電話の画面を確認した。すると、彼の表情が一瞬で奇妙に変わった。困惑しているようでもあり、何よりもひどい嫌悪感を感じた人のように、顔をしかめた。

「ああ、この女、本当にしつこいな」

「何がしつこいのよ、あなた。もしかして、他に家庭があるの? 子供までいるの?」

私の声がかすかに高くなった。すると、高橋さんが私の肩をぐっと掴み、悔しくてたまらないという眼差しで言った。

「お願いです。誤解しないでください。この女、僕の元彼女です。別れてからもう一年になりますよ」

「元彼女でも、どうして妊娠の話を」

「それが全部嘘なんです。あの女、僕にちょっと執着がひどくて。別れ話を切り出すたびに、妊娠したとか、死んでやるとか言って脅迫するのが得意な女なんです」

高橋さんの説明は、呆れるものだった。彼の人並み外れた身体的な条件のせいで、付き合った女性はみんなそういう扱いをするのだと言う。最初は互いに好きで付き合っていたが、次第にその女性は高橋さんを人格を持った人間としてではなく、ただ夜に自分の欲望を満たしてくれる道具のように扱うようになったそうだ。デートの時もホテルに行こうとばかり言い、高橋さんが体調の悪い日にも無理やり関係を求めようとするほど、執着がひどかったと言う。

「僕が耐えきれなくなって別れようと言ったら、そこからストーカーが始まったんです。僕がこの町に逃げるように引っ越してきたのも、あの女から逃げるためなんです」

高橋さんは身を震わせた。その大きな体の男が、元彼女の話をするだけで恐怖に震えているのを見ると、嘘とは思えなかった。

その時だった。ドーンドン! 突然玄関のドアが、壊れるかと思うほど鈍い音を立てて叩かれた。

「高橋さん、中にいるの? 分かってるんだからね。ドアを開けなさい」

鋭い女性の声が廊下に響き渡った。高橋さんの顔が土色になった。

「うわ、本当に来た。どうしてここが分かったんだ?」

あの女性がここまで追ってきたのだ。高橋さんが慌てた様子で、私の前に立ちはだかった。

「ドアを開けないでください。関わると面倒な女なんです。僕が出ていって解決してきますから。奥さんは部屋にいてください。ひどいところ、お見せしたくないので」

彼はまるで私を守ろうとするかのように、頼もしい面持ちだった。しかし、その大きな体が震えているのを見ると、突然私の中で奇妙な意地が湧いてきた。ここは私の家だ。私の縄張りであり、私の城だ。そして、あの男はもう私の男だ。夫が包丁を振り回した時、私を守ってくれたのは高橋さんだった。今度は私が出る番だという考えが、本能的に湧いてきた。

「高橋さん、あなたはじっとしてて。私が出るわ」

「えっ、でも、危ないですよ」

「心配しないで。私は大家の鈴木り子よ。水も漏らさない、髪なんだから」

私は髪をしっかりと整え、玄関へずんずん歩いていった。大きく深呼吸をして鍵を開け、ドアをがばっと開けた。ドアの外には、三十代前半くらいの女性が立っていた。濃い化粧に柄物のワンピース。一見して気の強そうな印象だった。しかし、お腹は全く膨らんでいなかった。

「何よ、このおばさん。誰? ここの家主? 高橋を出しなさいよ」

礼儀などどこかに置いてきたような口調だった。私は腕を組み、ドアを塞ぐようにして立った。

「あなたこそ誰? 人のアパートで大声を出して。うるさくて生活できないわ。通報する前に静かにしなさい」

「ああ? うるさいな。高橋さん、中にいるんでしょう。私、妊娠したんだから。私たちの赤ちゃんの責任、取ってもらわないと」

女性が私を突き飛ばし、中に入ろうとした。その時、リビングに隠れていた高橋さんが、仕方ないというように出てきた。

「みさきさん、もうやめてくれ」

高橋さんを見るや、女性の表情ががらりと変わった。さっきまでの険しい眼差しが、一瞬で哀れなヒロインのように変わった。

「高橋さん、私、本当なの? 私、高橋さんがいないと生きていけない。私たち、やり直そう。ねえ、私、本当に妊娠したの?」

高橋さんはうんざりしたように腕を振り払った。

「嘘はやめてくれ。君と僕は、一年以上も会ってないのに。何の子供ができるんだ」

「高橋さんが覚えてないだけよ。私たち、この前、酔っ払って会ったじゃない」

「覚えてない」

話がどんどんおかしくなっていく。ないことまで作り出してしがみつく様は、もう見ていられなかった。この女性は高橋さんを愛しているのではない。ただ高橋さんの肉体を所有したいという、執着の塊にすぎなかった。

「ちょっと、お嬢さん」

私は低く、きっぱりとした声で割り込んだ。そして高橋さんの隣に寄り添い、彼の腕を見せつけるように組んだ。女性をまっすぐに睨みつけ、はっきりと一言、一語ずつ言った。

「私、この人の婚約者です」

私の口から出た爆弾宣言に、高橋さんもその女性も目を丸くした。

「な、何ですって? 婚約者? この、年取ったおばさんが?」

「ええ、この年取ったおばさんが、この人の愛人よ。だから、私の男に手を出さないで。よく聞いて。妊娠? 一年前には別れてたのに、妊娠? それが本当なら、産婦人科医会に報告しないとね。それに、どうしてもそう言いはるなら、今すぐ私と一緒に病院に行きましょう」

「はあ? 何言ってんの?」

「私の車を下に待たせてあるから、今すぐ行って、エコーを取ってもらいましょうよ。妊娠が本当なら、私が慰謝料一億円払うわ。ただし、嘘だったら、虚偽通報罪とストーカー罪で即警察署に直行よ。どう?」

私は堂々と車の鍵を振って見せた。もちろん、ただ玄関に転がっていた古い車の鍵だった。しかし、私の態度があまりにも堂々としていたので、女性は動揺し始めた。

「い、いや、私がどうして、おばさんと行けないでしょうね。嘘なんだから」

「最近、ストーカー規制法が強化されたの、知ってる? 私は容赦しないわよ。今すぐ警察を呼ぶ。それとも、静かに消える?」

私は携帯電話を取り出し、警察署の番号を押すふりをした。

「本当にむかつく! おい、高橋。あんたの趣味、本当に変わってるわね。こんなおばあさんと付き合うくらいなら、いっそ死んだ方がましよ!」

女性は怒りを抑えきれずに悪態をついたが、しかし「警察」という言葉におじ気づいたのか、ヒールをかつかつと鳴らしながら階段を降りていった。

女性の足音が遠ざかってから、私は足の力が抜け、玄関の壁にもたれかかった。その時、高橋さんが近づいてきて、私をぐっと抱きしめた。

「僕、本当に、将かでした。僕が守ってあげるべきだったのに、むしろあなたの後ろに隠れて。僕、目が覚めました」

高橋さんは私の首筋に顔をうめ、誓うように言った。

「これからは、僕があなたを守ります。命をかけて」

その台詞が胸にぶすりと刺さった。

「ところで、さっきの言葉、本当ですか?」

「何の言葉?」

「婚約者って言葉ですよ。さっき、僕の愛人だって近所中に宣言したじゃないですか。取り消しはなしですよ」

「まあ、この話は、ご飯にしましょうよ」

口ではそう言いながらも、私の体はすでに彼に傾いていた。夫も片付いたし、ストーカーも片付いた。もう、本当に私たちを邪魔するものは何もなかった。

その日以来、季節が変わった。冷たい風が吹く秋が過ぎ、いつしか初雪が降る冬が来た。その間、私たちには多くの変化があった。

元夫とは離婚手続きがすっきりと終わった。弁護士が送った内容証明一通で、彼は尻尾を巻いて逃げ出した。慰謝料、訴訟だの何だのしたら、家は完全に私の名義のまま財産分与も放棄するという念書を書き、死んだように静かに消えた。私の人生で一番良かったことは、弁護士を雇ったことだった。

三〇一号室は空けた。高橋さんはもう三〇一号室の入居者ではなく、このアパートの主になったから。

ある夜のこと。私たちはベッドに並んで横たわり、窓の外に降る雪を見ていた。高橋さんが私の手をいじりながら、そっと口を開いた。

「あの、り子さん、旅行に行きませんか?」

「旅行? こんなに寒いのに、どこへ?」

「温かい国へ。新婚旅行、行けなかったって言ってたじゃないですか。飛行機のチケットは、僕が取りますから」

その言葉に胸が熱くなった。

「お金、あなた、家賃払ってたじゃない。お金、どこにあるの?」

私が冗談めかして尋ねると、高橋さんが照れ臭そうに笑いながら、通帳のアプリを見せてくれた。

「僕、実は技術職なんで、日当がちょっと高いんですよ。一人暮らしで使うところもなくて、こつこつ貯めてたら、結構貯まってて」

通帳に表示された数字を見て、私は口がぽかんと開いた。思わず声が出るほどの金額だった。

「まあ、あなた、お金持ちだったのね」

「金持ちだなんて。これまで家族もいなくて一人だったから、使うところもなくて貯めるだけだったんです。これからは、あなたと使うために貯めてたのかもしれませんね。大金持ちとまではいかないけど、あなたの残りの人生、手に水一滴つけさせずに、贅沢させてあげる自信はありますよ」

四十代の独身男性。見た目は無一文のようだった。彼が生涯汗水流して貯めたお金を、私のために使うと言ってくれている。これ以上、完璧なプロポーズがあるだろうか。

「ええ。行きましょう。どこへでも」

私は高橋さんの胸に顔をうめた。彼の温かい体温、頼もしい腕枕、そして規則正しく聞こえる心臓の音。六十を過ぎた年で、人生は終わったと思っていた。形だけの結婚生活、老いて魅力のなくなった体。しかし、それは私の勘違いだった。人生は六十からだという昔の言葉。全部嘘だと思っていた。でも、生きてみて分かった。愛がある限り、女は何歳になっても女だということ。そして、私の人生の本当のハイライトは、まさに今、この頼もしくて愛しい男と共にいる、今からだということを。

「愛してます。り子さん」

高橋さんが私の耳元でささやいた。奥さんでもなく、ただの名前でもなく、私の名前を呼んでくれる。その声があまりにも甘かった。

「私も愛してるわ、高橋さん」

私たちは互いの唇を探した。窓の外には白い雪が、祝福のように降り注いでいた。私たちの夜は、まさに始まったばかりだった。