「お前はクビだ」
その言葉を聞いた瞬間、俺はむしろ清々しい気持ちになった。ようやくこの男の下で働かなくて済む。そう思うと、自然と笑顔が浮かんだ。
俺の名前は高橋佑樹。30歳。自動車部品工場でシステム管理を担当している。元々は営業として入社したが、2年前の人事異動で今の部署に配属された。最初は不安もあったが、営業で培ったコミュニケーション能力を活かして周りと上手く連携を取り、今では居心地良く働けている。
ただ1人、苦手な奴がいる。課長の西田正雄だ。この男は課長という立場でありながら、部下のフォローも何もしない。小さなミスを見つければ必要以上に叱りつけ、追い詰める。誰もが苦手とする人物だった。
そして西田はなぜか俺を目の敵にしている。自分に心当たりはない。ただ、普段の態度からそう感じるのだ。
「お、今日もパソコン画面を眺めるだけの簡単なお仕事ですか?いいですね」
毎日こんな嫌みを言われる。システム管理の仕事はデスクワークがほとんどだが、システムに不具合が生じれば即座に対応しなければならない。気が抜けない仕事だ。だが西田にはそれが分からないらしい。
「高橋さん、仕事できるから妬まれてるんじゃないですか?業務システムを変えてくれたおかげで、仕事の効率が格段に上がったじゃないですか」
後輩の吉岡君がそう言ってくれた。確かに社員のみんなからは感謝されているし、社長にも褒められた。だからこそ西田の機嫌が悪いのだろう。
「そんなくだらないことで大の大人が人を妬むか」
「それで目の敵にしてるんですよ」
まあ、そうかもしれない。西田には、部下に慕われるように努力したり仕事で結果を出したりする発想がないらしい。
ある日、俺の古巣である営業部に書類をもらいに行った時のことだった。
「ああ、高橋君」
「ああ、木下さん」
木下さんは俺が営業マン時代に大変お世話になった取引先の社長だ。当時、とても気持ちよく仕事ができていたので、お互いに再会を喜び合った。
「どうしたんですか?木下さんがうちに来られるなんて珍しいですね」
「ああ、実は社長さんに少し相談があってな」
木下さんは少し言いづらそうにした。
「実はね、そちらとの取引の規模を縮小しようと思ってるんだ」
その言葉に俺は驚いた。うちとはかなり良好な関係を築いていたはずだ。何かあったに違いない。
「何があったんですか?もしよければ聞かせてもらえませんか?」
「実は高橋君が悪いわけではないんだが」
木下さんによると、俺が移動した後に営業を引き継いだ社員の仕事は悪くないが、ペースが遅いらしい。木下さんは素早い仕事を好む。その分レスポンスも早く、とても効率のいい仕事ができる相手だ。そんな木下さんからすれば、仕事の遅い営業相手は我慢ならないのだろう。
「お話は分かりました。俺が何とかしてみるので、取引の縮小はちょっと待っていただけないでしょうか?」
「高橋君の頼みなら断れないな。この件は一度持ち帰ることにするよ」
その後、俺は社長とその営業担当の元へ話をしに行った。木下さんが早い仕事を好むこと。取引先によって柔軟に対応を変えた方がスムーズに行くことを伝えた。
「木下さんとのやり取りで何か気になる点があれば、俺が相談に乗るから。その点意識して仕事してみてくれないか」
それから数日後、木下さんから電話が入った。
「高橋君。いやあ、あの時君に相談してよかった。彼もうちとの仕事の仕方が分かったみたいでな。非常にいい仕事ができているよ」
木下さんは取引の縮小を考え直してくれた。おかげで今もうちと木下さんの会社は良好な関係を築けている。
「こちらこそだ。近いうち仕事は関係なく食事でも行こう。一緒にうまい飯を食おうじゃないか」
このことを営業部のみんなはとても感謝してくれた。社長もわざわざお礼を言いに来てくれた。
「高橋君のおかげで大事な取引先を失わずに済んだ。本当にありがとう」
「とんでもないです」
「時間のある時で構わないから、営業の人間が相談に来たらアドバイスしてやってくれないか?」
「それはもちろん。会社のためですから」
社長がいなくなった途端、西田の嫌味が聞こえた。
「ずっとパソコン見てるだけでお前は暇だもんな。そりゃ時間あるよな」
やはり社長から褒められた俺が気に入らないようだ。それから西田の俺への当たりは以前にも増してきつくなった。
「お先に失礼します」
「今日も何もせずに金稼げてよかったなあ」
退社の挨拶をしただけでこの対応だ。もう面倒くさいので無視することに決めていた。
そんなある日のことだった。
「おはようございます。高橋さん。すいません」
朝出勤すると、後輩の吉岡君が泣きそうな顔で俺のところへやってきた。
「どうした?何があった?」
「俺、昨日製造システムのアップデートをし忘れてしまって」
吉岡君は昨日の夜、やっておくべき製造システムのアップデートをせずに家に帰ってしまったらしい。そのアップデートはインストールに時間がかかるため、今から始めても製造ラインはしばらく止まってしまう。
「どうしましょう?」
「事情は分かった。大丈夫だ。落ち着け。慌てなければ問題ないから」
そう言って吉岡君を落ち着かせる。
「とりあえず仕事が止まっちゃうから、システムをアップデートしよう」
「はい」
様子を見ると、インストールには昼過ぎまで時間がかかりそうだった。
「こればっかりは仕方ない。社長に謝りに行こう」
「でも」
「大丈夫だ。俺も一緒に行ってやるから安心しろ」
二人で社長の元へ向かう。その時、西田の嫌味が聞こえた。
「全く、いつもデスクでサボってるんだから、みんなにまで迷惑かけんなよな」
「サボってるわけじゃありませんよ」
俺はそれだけ言って、吉岡君と社長の元へ急いだ。
「本当に申し訳ありません」
吉岡君と共に社長に頭を下げる。
「復旧はいつになるんだ?」
「昼過ぎには動かせると思います」
「昼過ぎか。今日の仕事はなんとかなるか」
その言葉に吉岡君の表情に少し安堵が浮かぶ。
「その代わりお前らもヘルプに入れよう」
「はい、もちろんです」
「ただ同じ失敗だけはするなよ」
「はい、反省します」
二人で社長室を出ると、ふうっと大きく息を吐いた。
「よかったな。あんまり怒られなくて」
「いつもご迷惑ばかりおかけして申し訳ありません」
「いやいや、失敗は誰にでもあるよ。大事なのはその時にどれだけ誠実に謝れるかだ。それに吉岡君だけのせいじゃない。俺もちゃんと確認すべきだった。お互いこれからは気をつけような」
そして二人で管理部に戻った。
「なんだよ。怒られずに済んだのかよ」
戻るなり、いきなり西田の嫌みが飛んでくる。この態度にはさすがに頭に来た。
「本来なら上司である西田さんにも責任があるんですよ」
俺の反論に西田も苛立ったようだ。
「なんで俺に責任があるんだよ。そいつのミスだろう」
「部下のミスの責任を取るのも上司の仕事でしょう。責任を取るどころか、少しの手助けすらしてくれないってどういうことですか?」
「お前、上司に対してなんて態度だ。お前みたいなやつ、いつでも首にしてやるぞ」
首。
この後に及んで首を盾にして脅してくる西田には呆れてしまう。
「そうだ。首にしよう。上司に盾突くわ。会社に来てもサボってばっかりだわ。お前は会社にいても何の役にも立たないからな。お前はクビだ。分かったらすぐに出て行け」
そう言われて、俺はむしろ清々しい気持ちにすらなった。もうこの男の下で働く必要もない。そう思うと笑顔が浮かんだ。
「それは残念ですね。そうしましょう。それがお互いのためだと思います」
「分かってくれてよかったよ」
西田はそう言って笑っていた。
俺はその翌日に退職届けを社長に出した。そしてその日から有給を消化するゆったりとした時間が始まった。
退職届けを出した2日後、俺のスマホが鳴った。画面を見ると木下さんからだった。
「もしもし。私だ、木下だ。高橋君、会社をやめたっていうのは本当か?」
木下さんは俺を心配して連絡をくれたようだった。
「本当です。退職というか、首になりました」
「そうか。それなら今は時間はあるか?」
「今は有給消化中ですので、時間に余裕はあります」
「なら前にした食事の約束を果たそうじゃないか。君が首になった経緯も詳しく聞きたいしな。どうだ?」
「是非お願いします」
そして食事の約束をして電話を切った。
約束の日の朝、また俺のスマホが鳴る。かけてきたのは首になった会社だった。社長か、もしくは吉岡君からかもしれないと思い、通話をタップする。
「おい、高橋か。お前今すぐ会社に来い」
しかし電話の主は西田だった。かけてくるなり会社に来いと言い出す。俺はため息をついた。
「いえ、もう退職した身ですので会社へは行きません」
それだけ言って電話を切った。向こうで何やら騒いでいたが、俺の知ったことじゃない。その後も何度も電話がかかってきたが、俺は無視した。そして木下さんとの約束の店に向かった。
「お誘いいただいてありがとうございます」
「私も嬉しいよ。高橋君とは仕事場でしか会ったことがなかったからね」
そして食事を始める。
「それで、なんで首になったんだ?」
「実は」
と答えようとした時、俺のスマホが鳴った。木下さんが「どうぞ」と手で合図する。画面に表示されていたのは見知らぬ番号だった。もう一度木下さんに謝ってから電話に出た。
「おい、お前、なんで電話に出ないんだ?」
電話に出るなり西田が怒鳴る。俺が電話を無視し続けるので、違う番号からかけてきたようだ。
「会社には行かないとお断りしたはずですが」
「お前のせいで仕事が全部ストップしてるんだよ。どうしてくれるんだ?」
どうやら会社は今頃慌てているらしい。実は製造システムの一部の管理は他の社員にもできるが、システム全般を一括で管理していたのは俺だけだったのだ。つまり全システムの一斉アップデートができるのは俺だけで、吉岡君にも西田にもできない。そのため今、会社の製造ラインは全てがストップしている状態だった。
「お前、今すぐ会社に来てどうにかしろ」
西田の怒鳴り声は木下さんにも聞こえていた。
「俺を首にしたのはあなたでしょう。都合のいいことばかり言わないでください。俺は何と言われてもそちらには行きません」
そして電話を切った。
「すごいね」
木下さんはそう言って笑っていた。それから木下さんに、俺が退職に至るまでの経緯を説明した。木下さんは「それは大変だったなあ」と労ってくれる。
「分かった。あとは俺に任せてくれていいよ」
「ありがとうございます」
その時、再び俺のスマホが鳴る。見ると吉岡君からだったので、もう一度木下さんに謝って電話に出た。
「高橋さん、なんとか助けてもらえませんか?」
吉岡君の必死な声が聞こえる。彼にも被害が及んでしまったことに申し訳なさを感じる。その向こう側からは、会社がパニックになっている声や物音、西田が必死に謝罪をする声が漏れ聞こえていた。
「俺が使ってたデスクの引き出しにUSBメモリが入ってるから、そのデータを見てみて。それに従えばいいから」
そしてまた電話を切る。
「なんとかなったの?」
「はい。あとは信頼できる部下に任せることにしました」
「やっぱり高橋君は信頼できるな」
「ありがとうございます」
吉岡君に伝えたUSBメモリには、一斉アップデートの手順を記したデータが入っている。吉岡君ならそれを理解して作業を行えるだろう。
「信頼できる高橋君に相談なんだが、うちの会社に来ないか?」
「いいんですか?」
「高橋君と是非一緒に仕事がしたい。どうかな?」
「俺も木下さんの元で働けるなんて嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします」
俺にとっては願ってもない話だったので、すぐに承諾した。そして木下さんと固い握手を交わした。
その後、吉岡君から連絡があり、システムのアップデートは無事に完了し、仕事は問題なく再開できたとのことだった。やはり吉岡君は信頼できる。俺がいなくなっても大丈夫だろう。
そして「俺に任せろ」と言っていた木下さんは、すぐに動いてくれた。俺が元いた会社に出向き、仕事のできる社員を不当解雇にするような人間をこの部署へ置いておくべきではないと社長に直談判してくれたようだ。さらに、そんな人間のいる会社とはもう取引はできないと契約を解除。あの会社にとって売上の半数を占める大口の取引先を失う結果となった。
その責任を取り、西田は地方の子会社へ左遷。そこで自分よりも年下の上司にこき使われているらしい。その子会社は小さなミスも許さない厳しい上司がいると噂の場所だ。西田は今までの自分の部下への態度がいかにひどいものだったか、身に染みて分かるだろう。
吉岡君には西田のいなくなったあの場所で、のびのび仕事をしてほしいと思っている。
そして俺はと言えば、木下さんの元で再び営業として働き出した。持ち前のコミュニケーション能力を発揮できる場所に帰ることができて、俺は嬉しかった。前にいた会社で営業をやっている時代に取引していた会社に出向くこともあり、そこに行くと「高橋君となら」と契約してくれることも多く、そのおかげでこの会社の売上をそれまでの10倍にも増やすことができた。
木下さんのおかげで、俺はとても充実した仕事ができている。仕事とは、その内容も大事だが、誰の元で働くかもすごく大事だということが分かった出来事だった。



