クローゼットの奥から、夫の甘ったるく浮かれた声が漏れてくる。
「ごめん、待った。今から行くよ。今日は1日中一緒だよ」
その電話の相手が、同じマンションの802号室に住む副社長夫人・大葉ゆきさんだと、私はとっくに気づいている。愚かな男。私が何も知らないと信じ込んでいるのだから。
浮気の決定的証拠は、もうとっくに彼女の夫である大葉幸さんに送り付けてある。そこから始まった私たちの静かな復讐計画は、今日、最終局面を迎える。
「絶対ゴルフだから」と大嘘をつき、花歌混じりに部屋を出ていく夫・竹内光彦。私はベランダから、彼が非常階段へ消える姿を見届け、スマホで最後のメッセージを送る。
「802号室に侵入、計画を実行してください」
返信はない。それが地獄の幕開けの合図だった。
数分後、上の階からドタドタという激しい足音と、家具が倒れる破壊音が響き渡る。続いて、「うわあっ」という絶叫。そして私は見てしまった。ベランダの窓越しに、生まれたままの姿、つまり全裸の夫が馬鹿みたいに中庭へ舞う姿を。
直後、ズガーンという凄まじい衝突音がマンション中に響き渡った。
私の名前は竹内しのぶ。企業務人という肩書きを持ち、窓から都心の夜景が見渡せるタワーマンションで暮らしている。かつては小さな貿易会社で社長秘書として働いていた。夫の光彦と出会ったのはスポーツジムで、クラシック音楽の話で意気投合し、自然に交際を始めて結婚した。あれから15年が経つ。
しかし、私たちの結婚生活には埋めがたい空白があった。子供がいないこと。その事実が、穏やかだったはずの光彦を少しずつ変えていった。
今や彼は、社長である義父・竹内和彦の元で専務を務めている。誰もが彼を次期社長候補と見なしていたが、光彦自身の心は安らかではなかった。数年前に外部から入社した副社長・大葉幸氏の存在が、彼のプライドと将来を脅かしていたのだ。後継を望む義父からの無言の圧力と、優秀なライバルへの嫉妬。その焦りは、いつも最も近くにいる私に向けられた。
「おい、いつまでぼーっとしているんだ? スーツのクリーニングはまだか?」
「ごめんなさい。今、用意します」
冷え切った声がリビングに響く。かつて温かかったこの部屋は、今では彼の不機嫌さを映す鏡のようだった。
夫の最大のライバルである副社長夫人・大葉ゆきさん。その家族が、私たちと同じマンションの、しかも上の階に引っ越してきたのは半年前のことだ。
ゆきさんはいつも最新のブランド服に身を包み、まるで自分がこのマンションの主であるかのように振る舞っていた。エントランスやエレベーターホールで顔を合わせても、私の存在などないかのようにスマホから視線すら上げない。時には「ふんっ」と鼻を鳴らし、見下すような視線を送ってくることもあった。専務夫人である私を、自分より格下だと見下しているのは明白だった。
そんな中で、月に一度の義両親の訪問だけが、私の心の安らぎだった。義母は私を本当の娘のように可愛がってくれ、義父も「三彦にはもったいないくらいできた嫁だ」と褒めてくれる。義両親の前では、あの光彦でさえ完璧な夫を演じる。しかし、その腕にある力がなく、指先が氷のように冷たいことを、私は知っていた。
夕食を終え義両親を見送ると、重厚な玄関ドアが閉まる音と同時に、光彦の顔から能面のような笑顔が剥がれ落ちた。
「いいか、しのぶ。父さんの期待だけは裏切るなよ。後継も作れないお前が、俺のキャリアに泥を塗るようなことだけは絶対に許さんからな」
その言葉は、研ぎ澄まされたガラスの破片となって私の心を引き裂いた。
そんなある日の昼下がり、私はリビングの窓から信じられない光景を目撃する。平日の午後2時、当然会社にいるはずの光彦が、見慣れたスーツ姿でマンションの駐車場を歩いているのだ。彼は誰かに見られていないか警戒するように周囲を何度も振り返り、住人用のエレベーターには向かわず、非常階段の重いドアへと消えていった。
嫌な予感がした。私は震える指でメッセージを送る。「今どこ? お仕事中だったらごめんなさい」。数秒後、怒りに満ちた返信が届く。「会議中だ。くだらんことで連絡してくるな」。
嘘だ。夫は今このマンションのどこかにいる。私は音を立てないよう玄関を出て、スニーカーに履き替え、非常階段を追った。冷たいコンクリートの空間に、自分の息遣いだけが響く。物音を立てずに慎重に階を上がる。足音が止まったのは8階。踊り場の影から覗くと、光彦が802号室のドアの前でインターホンを鳴らしていた。
ドアが開き、中から副社長夫人のゆきさんが姿を現す。彼女は光彦の姿を認めると、甘えた声で彼の腕に絡みついた。光彦は私の存在に全く気づかず、慣れ慣れしく彼女の腰を抱き寄せ、部屋の中へ吸い込まれていった。
無機質なドアの閉まる音が静かな廊下に響き渡った。それは、私の15年間の結婚生活が終わりを告げる合図のように聞こえた。
全てを理解した。光彦がわざわざ薄暗い非常階段を使うのは、下の階に住む私と鉢合わせするリスクを避けるためだったのだ。「会議中」という真っ赤な嘘。そして、誰よりも嫌っているライバルの妻との密会。心の中で張り詰めていた最後の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
悲しみに暮れる暇もなく、私は行動を開始した。かつて秘書として培ったスキルを総動員し、まずは夫人会のネットワークから情報収集をする。役員夫人たちが集まるランチ会で、ゆきさんの話題を慎重に切り出すと、彼女たちは待ってましたとばかりに口を開いた。
「それがね、全然似てらっしゃらないのよ。ゆきさん、昔から男癖が悪いって評判だったもの」
その噂は、私の疑惑を確信に変えた。ゆきさんの子供が夫に似ていない。これはただの噂では済まない可能性が高い。私はこの情報を、ゆきさんの夫である大葉幸さんに伝えるべきだと決意した。しかし、彼は夫と次期社長の座を争うライバル同士。直接接触すれば誤解を招きかねない。会社経由での接触は当然断られた。
そこで私は作戦を変更した。光彦が非常階段を使い、8階の部屋に入っていく決定的な瞬間を写真に収め、翌朝、出勤する幸さんの専属運転手にその写真と経緯を記した手紙を託した。
数日後、見知らぬ番号からメッセージが届く。「資料を拝見しました。心から感謝します」。幸さんからだった。そこから私たちの静かな共闘が始まった。直接会うことはせず、メッセージだけで慎重に計画を進め、互いの配偶者の行動パターンを共有していった。
そして計画当日。光彦は「絶対ゴルフ」、ゆきさんは「大阪出張」とそれぞれが嘘をついて家を出た。もちろん、彼らが向かう先は全く別の場所である。昼過ぎ、クローゼットの奥で光彦が電話する声を聞き、私は幸さんに最後の合図を送った。
「802号室に侵入。計画を実行してください」
返信はない。それが作戦開始の合図だった。
数分後、上の階から物音が響き、続いて男の悲鳴。そして、駐車場の方角からズガーンという凄まじい音が響き渡った。
私は弾かれたようにベランダへ駆け出した。眼下の光景に、一瞬言葉を失う。マンションの中庭に面した駐輪場のプラスチック製の屋根が大きく突き破られ、その中心に、見慣れた男がまるで打ち上げられた魚のように倒れていた。私の夫、光彦だった。しかも、信じられないことに全裸だ。
私はとっさにカーディガンを掴み、非常階段を駆け下りた。現場にはすでに数人の住人が集まり、総然としている。人垣をかき分けて光彦のそばに駆け寄ると、彼はかろうじて意識を保っていた。
「しのぶ…助けてくれ」
私は持っていたカーディガンで彼の大事な部分を覆い隠した。これが妻としての最後の情けだった。
やがて救急車が到着し、隊員が光彦を搬送する。病院での検査の結果、命に別状はないとのこと。落下途中で中庭の大木の枝にぶつかり、それがクッションになったらしい。しかし、両足の複雑骨折で全治半年の重傷だった。
警察の事情聴取に対し、光彦は「分からない。何も覚えていないんです」と繰り返す。その言葉を聞いた瞬間、私は確信した。この男、記憶喪失のふりをしている。担当医も「CTに異常はなく、記憶を失う科学的根拠はない。精神的なショックか、あるいは思い出したくない事情があるのでしょう」と私に耳打ちした。全ては光彦が自分のために演じている壮大な猿芝居だ。私は静かに反撃の時を待つことにした。
事故から数日後、見舞いに訪れた義父が、ベッドに横たわる光彦に呆れたように話しかけていると、病室のドアが控えめにノックされた。看護師に続いて現れたのは、花を抱えたゆきさんだった。彼女は私と義父の姿を認めた瞬間、「ちっ」と舌打ちしたが、次の瞬間には悲劇のヒロインを装って「まあ、ご無事で何よりですわ」と愛想よく振る舞う。
するとその時、病室のドアが今度は勢いよく開かれた。入ってきたのは、ゆきさんの夫である大葉幸さんと、敏腕そうな初老の弁護士だった。
ゆきさんの顔から血の気が引く。「あ、あなた、どうしてここに? 大阪出張のはずじゃ…」
「その話は後だ。ゆき」
氷のように冷たい声で言い放つと、幸さんはポケットから1枚の書類を取り出し、ゆきさんの目の前に突きつけた。記入済みの離婚届だった。
「ここにサインをしろ。財産分与は一切ない。慰謝料は君と、そこに寝ている竹内光彦氏の双方に請求させてもらう。慰謝料の額は両名に対し、それぞれ500万円だ」
突然の修場に混乱する義父を制し、幸さんは冷静に事件の真相を語り始めた。
あの日、幸さんは出張と偽って潜んでいたゆきさんを、合鍵を使って802号室のドアを開けた。突然の夫の登場にパニックに陥った光彦は、全裸のままベランダへと逃げ出し、隣の空室のベランダに飛び移ろうとして足を滑らせ、転落したのだという。
つまり、これは誰のせいでもない、光彦の自業自得による事故だった。さらに幸さんはとどめの一撃となる事実を告げた。
「先日、しのぶさんからご相談を受けた直後、私は息子と自分のDNA鑑定を実施しました。結果は…残念ながら、我々の間に生物学上の親子関係は存在しないという結論でした」
その場にいた全ての状況を理解した義父は、怒りに肩を震わせ、実の息子を軽蔑の眼差しで睨みつけた。
「この大バカ者が! 会社の看板に、そして竹内家の歴史に取り返しのつかない泥を塗りおって!」
「三彦、お前を次期社長候補から正式に外す。お前が父さんの椅子に座る資格などないと思え!」
その宣告は、光彦にとって足の骨折など比べ物にならないほどの致命傷だった。全てを失うことを悟った彼は、突如として叫び声をあげた。
「思い出した! 今、全部思い出したぞ! 俺はこいつに突き落とされたんだ! 大葉、お前が俺をベランダから突き落としたんだろう!」
血走った目で幸さんを指差し、被害者を演じ始める。窮地に追い込まれたゆきさんもすぐに便乗した。「そうですわ! 私も見ました! この人が三彦さんを突き落とす瞬間を、この目ではっきりと!」
しかし、幸さんは全く動じずに冷静に告げた。
「なるほど。では、お二人のその目撃証言がいかに無意味であるかを証明しましょう」
彼はポケットからスマートフォンを取り出した。「私が部屋に突入した時から、竹内専務がベランダから転落するまでの全ての様子は、このスマホで動画撮影してあります。あなたが自分で足を滑らせる一部始終が、鮮明な映像として残っていますよ」
その言葉に、ゆきさんがヒステリックに叫ぶ。「嘘よ! 証拠なんて残っているはずがないわ! だってあの時、私はあなたのスマホを奪って…」
そこまで言って、ゆきさんは口をつぐんだ。どうやら彼女は、光彦が転落した直後の混乱に乗じて、証拠隠滅のために幸さんのスマホを奪い、近くにあった満杯の水槽に叩き込んでいたらしい。自分で墓穴を掘ったゆきさんに、幸さんは哀れむような視線を向けた。
「残念だったな。今の時代、データは全てクラウドに同期保存されているんだよ。君が物理的にスマホを破壊しても、映像は消えない」
完璧な証拠を前に、2人は完全に沈黙した。すると、追い詰められた光彦は最後の悪あがきに出る。
「お父さん、聞いてください! ゆきさんのお腹の子は、俺の子なんです! 俺が、後継ぎを用意したんですよ! あなたの夢を叶えてあげたんだ! これで会社も安泰じゃないですか!」
その苦しい言い訳は、義父の逆鱗に触れただけだった。
「黙れ! 何もかも汚いわい!」
吐き捨てるように言い放つと、義父は立ち上がり病室を出て行こうとする。その背中に向かって光彦が必死に叫び、ベッドから身を乗り出した。次の瞬間、ギプスで固められた両足の重さに耐えきれず、ベッドからずるりと転げ落ちる。「ああっ!」という凄まじい絶叫と共に、光彦は白目を剥いて気を失ってしまった。
三彦が病室で起こした醜態の一部始終は、瞬く間に社内に知れ渡った。後日、彼に下された正式な処分は、誰もが予想した以上に厳しいものだった。取締役からの解任は当然として、部長職すらも剥奪され、平社員として地方の関連会社への左遷が決定した。それは事実上の会社からの追放宣言に等しかった。
キャリアの全てを失い、絶望の縁に立たされた光彦は、最後の悪あがきに出た。彼は病室に、日頃から「俺の犬」だと公言し雑用を押し付けている若手社員の小林君を密かに呼びつけ、重大な犯罪を指示した。
「大葉の奴を社会的に抹殺するんだ。お前、大葉のパソコンの管理者パスワードを知っているな。あいつのアカウントを使って、会社の最重要顧客リストを外部に流出させろ」
光彦は、小林君が自分の命令に絶対逆らえないと信じ込んでいた。しかし、彼の予想は大きく外れることになる。
数日後、私と義父が再び病院を訪れると、小林君がやってきた。光彦が期待に満ちた目で問いかけると、小林君は静かに首を横に振り、スマートフォンを取り出して録音データを再生し始めた。スピーカーから流れてきたのは、先日、光彦が小林君に下した不正指示の音声だった。
「お前…裏切ったのか?」
震える光彦に、小林君はまっすぐな視線を向けて語り始めた。「僕はずっと、竹内専務の理不尽な命令に耐えてきました。でも、もう限界でした」
小林君の話によると、数週間前、彼が深夜まで残業していた時、偶然通りかかった幸さんが自分の名前を覚えていて、自販機で温かい缶コーヒーを買って差し出してくれたのだという。「大葉副社長は、僕のような末端の社員の名前まで覚えてくださって、ねぎらいの言葉までかけてくださいました。あの時の缶コーヒーの温かさを、僕は一生忘れません」その出来事以来、小林君は幸さんの人柄に心を動かされ、いつか恩返しがしたいと思っていたのだ。
全てを聞いた光彦の顔は絶望に染まった。「嘘だろ…缶コーヒー1本で、俺の計画が…」
その言葉を聞いた義父が、静かに、しかし心の底からの軽蔑を込めて言い放った。
「三彦、その『缶コーヒー1本』の意味が理解できないお前には、もはや会社の未来を任せられん。お前はもう、終わりだ」
それは、父親が息子に下した完全な絶縁宣言だった。
あの一件の後、私は少しの迷いもなく光彦との離婚を決意した。弁護士を立て、光彦とゆきさんの双方に慰謝料を請求する。夫の裏切りによって受けた精神的苦痛に対する、当然の報いだ。
光彦はギプスが取れると同時に会社を追われ、ゆきさんも幸さんから離縁された。2人はまるで傷を舐め合うように、結婚して新しい生活を始めたと風の噂に聞いた。しかし、かつての華やかな生活はそこにはない。社員に降格した光彦の給料は激減し、2人の生活はすぐに困窮した。光彦はプライドを捨て、実の父親である義父に金の無心をしたらしい。だが義父は、その判断を私に委ねてくれた。
「しのぶさん、どう思うかね? あいつらに援助する必要はあると思うか?」
「お父様、血のつながらないお子さんではありますが、その子の養育費だけはお支払いください。ですが、それ以外の援助は一切必要ありません」
私の決然とした態度に、義父は満足げに頷き、光彦の要求を断固として拒絶した。
贅沢な暮らしに慣れきっていたゆきさんが、そんな貧しい生活に耐えられるはずもなかった。彼女はついに育児を放棄し、子供を光彦に押し付けて、ある日突然姿をくらましてしまった。さらに驚くべきことに、失踪したゆきさんは、光彦に無理やり関係を迫られ望まぬ子を身ごもったと刑事告訴したのだ。自らを悲劇の被害者に仕立て上げ、光彦からさらに金を絞り取ろうという根性だった。
かつて愛を囁き合った2人は、泥沼の法廷闘争へと突入。彼らの身勝手な争いの結果、何の罪もない子供は児童養護施設に預けられることになったと聞いた。自らの欲望の限りを尽くした者たちの、あまりにも惨めで愚かな末路だった。
一方、私は新しい人生を歩み始めていた。義父からの強い勧めもあり、過去の経験を生かして彼の会社で社長秘書として働くことになったのだ。仕事は私に生きる活力を与えてくれた。
やがて義父は引退を表明し、次期社長には満場一致で大葉幸さんが就任することが正式に決定した。社長となった幸さんは以前にも増して精力的に働き、誠実な人柄で社員たちからの信頼を一心に集めている。そんな彼から最近、食事に誘われることが増えた。
「しのぶさん、もしよければ、今度の週末、食事でもいかがですか?」
「ええ、喜んで」
私たちの関係を、義父も温かい目で見守ってくれている。失ったものは大きかったが、私は今、かつてないほどの穏やかさと、未来への確かな希望を感じている。
冷たく閉ざされていた私の心は、ゆっくりと、しかし確実に解け始めているのだった。



