銀行のATMの前で、息子の慎司が突然そう言い放った。たった今、一千五百万円を振り込んだばかりだというのに。
「母さん、もう俺たちは母さんの世話になる気はないから」
「え…? 慎司、今なんて?」
「だから、もう親子関係は終わりにしようって言ったんだ」
冷たい目で私を見下ろす慎司。隣には、同じような表情を浮かべる嫁の美香がいる。
ついさっきまで、二人は満面の笑みだった。スマホの画面に振り込み完了の表示が映るのを確認して、「母さん、本当にありがとう」と感謝の言葉を並べていた。これで念願のマイホームが建てられると、目を輝かせていた。
私が退職金を前借りし、貯金をはたいて用意した一千五百万円。息子家族の幸せそうな顔を見られて、私は本当に良かったと思っていた。
しかし、振り込みを確認した瞬間、二人の態度が一変した。
「お金は確かに受け取った。でも、それとこれとは別の話だ。俺たちには俺たちの生活がある。もう三日後にでも、連絡先を変えるから」
「お母さんも、これで肩の荷が下りるでしょう?」
私の頭の中は真っ白になった。ATMの画面には、まだ振り込み完了の文字が残っている。まさか、お金を受け取った瞬間に絶縁を言い渡されるなんて。
私は三浦京子、六十三歳。小学校の教師として三十七年間、子どもたちの成長を見守ってきた。五年前に夫を亡くしてからは、郊外の小さな家で一人暮らしをしている。
息子の慎司が結婚したのは八年前。それ以来、私はできる限りの援助を続けてきた。「今月も生活が苦しくて」と言われれば、毎月十五万円の仕送りを欠かさなかった。車がないと仕事に支障が出ると言われれば、二百万円を渡して購入資金にした。孫が生まれてからは、教育費も援助した。習い事、塾代、私立幼稚園の学費、全て私が負担してきた。
そして三か月前のことだ。
「母さん、実は家を建てたいんだけど、頭金が一千五百万円足りなくて」
慎司は申し訳なさそうに頭を下げた。美香も必死にお願いしてくる。
「お願いします。お母さんの退職金を前借りしてでも、なんとか工面していただけませんか? 必ず恩返しします。老後は私たちが面倒を見ますから」
その言葉を信じて、私は決断した。学校に頭を下げ、退職金を前借りし、泣けなしの貯金も全てつぎ込んで一千五百万円を用意した。これまでの援助総額は、二千万円を超えていた。
振り込みをする前日、美香は私の手を両手で包み込むように握り、瞳に涙さえ浮かべて言った。「お母さんは私たちの恩人です。必ず私たちがお世話しますから、安心してくださいね」。慎司も深々と頭を下げた。「母さんがいなかったら、俺たちは家なんて建てられなかった。本当に感謝してるよ」。
あの時の二人の目は、確かに優しさに満ちていた。
しかし今、ATMの前で、二人は仮面を脱ぎ捨てたように豹変している。
「さっきの話の続きだけど」と慎司が切り出した。「もう母さんに用はない。今後は連絡も取らなくていいよ。俺たちの生活に口出しされたくないんだ」
「でも、老後の面倒を見るって言ったじゃない…」
私が震え声で言うと、美香が嘲笑った。
「本気で信じてたの? 介護なんてする気ありませんから。施設にでも入ればいいじゃない。正直、お母さんがいると思い通りにならなくて息苦しかったのよね。邪魔になる前に縁を切りたいって、前から慎司とも話してたのよ。ちょうどいいタイミングだったわ。一千五百万円ももらえたし、これで完全に縁を切れる」
私は慎司を見つめた。息子は目をそらした。
「慎司、あなたもそう思っていたの?」
長い沈黙の後、慎司が口を開いた。
「母さん、悪く思わないでくれ。でも正直、母さんも年だし、これ以上面倒を見るのは大変なんだ。俺たちには俺たちの生活がある。いつまでも親に縛られたくないんだよ」
「縛る? 私があなたを縛ったことがありますか?」
「金銭的な援助を受けてる以上、どうしても母さんの顔色を伺うことになる。それが嫌なんだ。月に一度は顔を見せろとか、電話しろとか、そういうのも全部負担なんだよ」
「でも、その援助を求めてきたのは、あなたたちでしょう?」
私が反論すると、慎司は開き直ったように言った。
「それとこれとは別だよ。一千五百万円もらえれば、もう十分だ。これで俺たちは完全に自立できる」
自立。今まで散々援助を受けておいて、その瞬間にそんな言葉がよく出てくるものだ。八年間で二千万円以上も援助してきたのに、もう母さんに頼る必要はないと、そういうことか。
「孫の顔を見せろとか、家に来いとか、そういうのも全部なしだ。孫は俺たちの子供で、母さんの子供じゃない」
「孫にも合わせないというの?」
「そうだよ。はっきり言って、母さんの教育方針は古いんだ」
美香が横から付け加えた。
「私たちはお母さんの遺産なんて宛てにしていません。どうせ大した額じゃないでしょうし。今回の一千五百万円で、もう十分です」
そして、思い出したように言った。
「新しい家の敷地には、入らないでくださいね。私たちの家ですから」
慎司が最後に言った。
「母さんも残りの人生を自由に生きて、お互い干渉しない。それが一番いい。もう会うこともないでしょうけどね。今回の一千五百万円で、きっぱり終わり。すっきりしたわ」
二人は私を銀行のATMコーナーに残して、さっさと歩き去っていった。振り返ることなく。私は呆然と立ち尽くした。
三十七年間の教師生活で、多くの親子を見てきた。でも、まさか自分の息子がこんな仕打ちをするとは。しかし、私は泣き寝入りするつもりはなかった。その夜、自宅に戻り、夫の写真を見つめながら、大切な書類を保管している金庫のことを思い出した。
金庫を開け、重要書類の中から一枚の書類を取り出した。土地権利書。そこには、はっきりと私の名前が記されていた。「三浦京子」と。
息子夫婦が家を建てようとしている土地は、実は私の名義のままだったのだ。三年前、慎司が将来家を建てたいと相談してきた時、私は亡き夫の実家から相続した三百坪の土地を提供することを約束した。当時の評価額は三千万円だった。「いずれ名義変更しておくわ」と私は言ったきり、手続きを忘れていた。息子も私を信じていたので、せかすこともしてこなかった。まさか、こんな形で役立つ日が来るとは。
翌朝、私は慎司に電話をかけた。
「おはよう、慎司」
「母さん、何の用だよ。昨日絶縁するって言ったよね」
慎司の声は、明らかに迷惑そうだった。
「ちょっと確認したいことがあってね。家を建てる土地のことなんだけど」
「土地がどうかした?」
「実は、土地の名義がまだ私のままだったの。確認したら、名義変更の手続きをしていなかったのよ。つまり、あの土地の所有者は、私、三浦京子のままなの」
電話の向こうで、慎司が息を飲む音が聞こえた。
「え? そんな…そんなはずはない」
「権利書を見れば分かるわよ。法務局で確認してみたら?」
「ちょっと、待ってくれ」
電話の向こうで、慎司が美香に説明する声が聞こえてきた。美香の悲鳴のような声が響く。
「母さん、今から家に行く」
「どうぞ。でも、他人が勝手に家に来るのは困るんですけど」
私は冷たく言った。
三十分後、息子夫婦が慌てた様子でやってきた。
「母さん、どういうことだよ!」
慎司は玄関先でまくしたてた。リビングに通すと、すぐに詰め寄ってきた。
「名義変更するって約束だったじゃないか!」
「約束? いつそんな約束をしましたか?」
「三年前に土地を使っていいって言ったじゃないか!」
「使っていいとは言いました。でも、あげるとは言っていません」
美香が口を挟んだ。
「でも、私たちはもう建築会社と契約してるのよ! 来月から工事が始まるの!」
「それは知りませんでした。土地の所有者に無断で…って、無断って。家族じゃない!」
「家族?」私は首をかしげた。「昨日、絶縁すると言ったのはあなたたちでしょう。もう家族ではないと」
慎司の顔が真っ赤になった。
「それは…でも、土地は別だろう!」
「なぜ別なんですか?」
「だって、俺たちが家を建てる前提で話が進んでたんだから!」
「前提」私は立ち上がり、金庫から土地の権利書を取り出してきた。「これを見てください」
震える手で権利書を受け取った慎司は、所有者欄を食い入るように見つめた。確かに「三浦京子」と記されている。
「これは三千万円の価値がある土地です。これを無償で提供すると思いますか?」
「でも、親子だろう!」
慎司が声を荒げた。
「親子?」私は静かに笑った。「あなたは昨日、何と言いましたか? 『もう親子関係は終わりにしよう』と。私はその言葉を尊重しているだけです」
美香が泣きそうな顔で言った。
「お母さん、お願いします。一千五百万円も払ったのに」
「払った? あれは家の頭金として払っただけでしょう。土地代ではありません」
「じゃあ、土地はどうするんだ!」慎司が怒鳴った。
「賃貸します。月額二十万円でいかがですか? 相場より安いですよ。あの立地なら、月三十万円は取れます」
「そんな金払えるわけないだろう!」
「だったら、他の土地を探してください」
慎司は突然、私の肩を掴んだ。
「今すぐ名義変更してくれ!」
「痛い…離して。話しては、名義変更するまで」
慎司の目は据わっていた。
「これは脅迫です。警察を呼びますよ」
私がそう言うと、美香が慎司を止めた。
「やめて! 余計なことになる!」
慎司は舌打ちをして手を離した。
「母さん、頼む。土地がないと家が建てられない」
今度は懇願するような口調に変わった。
「知りません」
「一千五百万円返すから、土地を譲ってくれ!」
「返す? もう建築会社に払ったんでしょう」
慎司と美香は顔を見合わせた。
「それはできません」私ははっきりと言った。「もう家族ではないので、他人に三千万円の土地を無償で提供する理由はありません。お帰りください」
私は玄関を指差した。
「これで終わりじゃない! 絶対に土地を奪ってやる!」
慎司は捨てゼリフを残して出ていった。
私は震える手でスマートフォンを取り出し、以前から相談していた弁護士に電話をかけた。
「先生、三浦です。ついに息子が本性を現しました。今すぐ法的措置を取りたいのですが」
弁護士事務所で、顧問弁護士の高橋先生が温かく迎えてくれた。夫の代から二十年以上お世話になっている、信頼できる方だ。
「電話でお聞きした件ですね。一千五百万円を受け取った直後に絶縁宣告。そして土地の無断使用。これは看過できない問題ですね」
「息子夫婦を訴えることは可能でしょうか?」
「十分可能です」高橋先生は力強く頷いた。「まず、詐欺罪での告訴が考えられます。老後の面倒を見るという虚偽の約束で金銭を詐取した。これは立派な詐欺です。さらに、強迫未遂の疑いもあります。そして、土地については明け渡し請求ができます。無断で建築計画を進めているなら、差し止め請求も可能です」
「本当ですか?」
「ただし、証拠が重要です。何か証拠はお持ちですか?」
「実は…」私はバッグから分厚いファイルを取り出した。「これまでの援助の記録を全て残してあります」
高橋先生は驚いた表情でファイルを開いた。
「素晴らしい。通帳のコピー、振り込み明細書…全て揃っていますね。八年間で総額二千万円以上。これだけあれば十分です」
「他には、お金を振り込んだ日の会話を録音してあります」
私はスマートフォンを取り出し、録音を再生した。
『もう母さんに用はないから…お金だけが目的だったの…介護なんてする気、最初からありませんから…』
高橋先生の表情が険しくなっていった。
「これはひどい。完全に計画的な詐欺です」
「メールもあります」
「お母さんのおかげで幸せな家庭が築けます。老後は必ず私たちがお世話します」――全て、一千五百万円を要求してきた後の、感謝と恩返しを約束する内容だった。
「完璧です」高橋先生は確信を持って言った。「これだけの証拠があれば、確実に勝てます」
「でも、息子たちはどんな反撃を…」
「大丈夫です。法律は正義の味方です」高橋先生は立ち上がった。「まず、内容証明郵便を送ります。土地の使用禁止と一千五百万円の返還請求です」
「返還請求もできるんですか?」
「詐欺による契約は無効です。ただし、相手が素直に応じるとは思いません。そこでもう一つ、提案があります」
「何でしょうか?」
「明日、息子さんの職場に行きましょう」
「職場に?」私は驚いた。
「はい。正式な法的手続きとして、職場で通告するんです。執行官に同行させます。三浦さん、息子さんはあなたに恥をかかせたんですよ。銀行で人前で絶縁を宣告した。それなら、同じように人前で責任を取らせるべきです」
確かに、そうかもしれない。
「慎司の会社は上場企業ですよね」
「はい。営業部の課長をしています」
「なら、なおさら効果的です。会社のコンプライアンスも関わってきます。社員が詐欺で訴えられるとなれば、会社も無視できません。さらに、建築会社にも通知を送ります。土地の所有者が建築を認めていないことを正式に伝えるんです」
「建築会社も巻き込むんですか?」
「必要です。無断で他人の土地に建築することは違法です」
私は深く息を吐いた。
「やります」
翌朝、ついに決行の時が来た。午前九時、私は高橋弁護士、そして執行官と共に慎司の会社へ向かった。大手商社のビルは都心の一等地にそびえ立っている。ガラス張りの立派なエントランスには、多くのビジネスパーソンが行き交っていた。受付で来意を告げると、慎司が慌てた様子で降りてきた。
「母さん、何しに来たんだ!」
慎司は私を見るなり怒鳴った。その声の大きさに、ロビーにいた人々が一斉にこちらを振り返った。
「正式な法的手続きのためです」高橋弁護士が冷静に答えた。「執行官の立ち合いのもと、書類をお渡しに参りました」
「ここは俺の職場だぞ!」
慎司の顔は怒りで真っ赤になっていた。
「存じております。だからこそ、確実にお渡しできると判断しました」
執行官が前に出た。制服姿の執行官の登場に、周囲が騒めいた。
「三浦慎司さんですね。土地の明渡請求書及び詐欺による告訴状をお渡しします」
朝の出社時間で、ロビーには多くの社員がいた。皆が立ち止まり、この異様な光景を見つめている。中にはスマートフォンを取り出す者もいた。
「詐欺だって!?」
慎司の声が響き渡った。
「はい」高橋弁護士が書類を広げた。「虚偽の約束により一千五百万円を詐取した疑いです。また、他人の土地に無断で建築を計画した不法行為についても追求します」
「課長、どうしたんですか?」
慎司の部下らしき社員が、心配そうに近寄ってきた。
「いや、これは誤解なんだ…」
慎司は言葉に詰まった。額には脂汗が浮かんでいる。そこへ、慎司の上司らしき年配の男性が現れた。
「部長、どういうことだ? 執行官まで来て」
部長は厳しい表情で慎司を見た。
「お母様とのトラブルですか?」高橋弁護士が説明した。「三浦慎司は母親から一千五百万円を詐取し、さらに三千万円相当の土地を無断で使用しようとしています」
「なんだと?」部長の顔色が変わった。「これは会社のコンプライアンス推進委員会に報告しなければならない案件だが…」
「部長、違うんです! 家庭内の問題で…」
慎司が必死に弁解しようとした。
「家庭内でも、詐欺は詐欺だ。後で詳しく聞く。とりあえず会議室へ」
私たちは会議室に通された。そこで正式に書類が手渡された。
「七十二時間以内に、土地から完全撤退すること。建築会社との契約を即座に解除すること。一千五百万円を七日以内に返還すること。従わない場合は、刑事告訴の手続きに入ります」
執行官が読み上げた。慎司の顔は真っ青だった。手が震えている。
「そんな…建築会社には違約金で五百万円も…」
「それはあなたの問題です」私は冷たく言った。「他人の土地に家を立てようとした、その責任を取ってください」
会議室を出ると、フロア中の視線が慎司に集まっていた。
「詐欺罪って聞こえたけど…」「執行官まで来てたよ」という噂話が聞こえてくる。慎司は顔を真っ赤にして俯いていた。
会社を出た後、私たちは建設予定地へ向かった。そこには、すでに建築会社のトラックが止まっていた。
「おい、どういうことだ?」
現場監督らしき男性が慎司に詰め寄った。土地の所有者から工事中止の通達が来たぞ。
美香も現場に駆けつけていた。
「お母さん!」
美香は私を見るなり叫んだ。
「どういうつもりですか? もう基礎工事の準備まで進んでいるのに!」
「どういうつもりも何も、私の土地です」
私は土地の権利書を見せた。
「所有者の許可なく建築はできません」
そこへ、建築会社の社長が到着した。
「三浦慎司さん、説明してもらえますか? 土地の名義があなたじゃないって、本当ですか?」
「それは…いずれ変更する予定で…」
慎司は言葉に詰まった。
「契約違反です」社長は怒りをあらわにした。「土地の所有権を偽って契約したんですか? これは重大な背信行為だ」社長は部下に指示した。「すぐに損害を計算しろ」
「手付金五百万円は違約金として没収。設計費用百五十万円。建築確認申請費用五十万円。資材の手配費用百万円。人件費その他で百万円。合計で九百万円の損害です」
美香が悲鳴をあげた。
「そんな金額…! お母さんが詐欺みたいに私たちを落とし入れようとして!」
「詐欺?」私は美香を見つめた。「一千五百万円もらって、『模様はない』と言った。どちらが詐欺師ですか?」
美香は言葉を失った。
測量の結果、すでに基礎工事の準備で土地を整地し、木まで伐採していたことが判明した。
「現状回復費用、約二百万円ですね」測量士が見積もりを出した。
「二百万円…」
慎司は膝から崩れ落ちた。
「母さん、お願いだ!」
突然、慎司が土下座した。アスファルトの上に額をすりつけている。
「許してください! 俺たちが間違っていました!」
美香も慌てて土下座した。
「お母さん、お願いします! 全部で千百万円以上の損害になってしまいます! 破産してしまいます!」
「破産?」私は冷たく見下ろした。「私が受けた精神的苦痛に比べれば、安いものです」
「母さん!」慎司が顔をあげた。涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。「本当に申し訳ありませんでした! 絶縁なんて本気じゃなかったんです!」
「本気じゃなかった」私は録音を再生した。
『もう母さんに用はない…お金だけが目的だった…介護なんてする気ない…邪魔になる前に縁を切りたい…』
慎司と美香の声が現場に響き渡った。建築会社の社長が呆れた顔をした。
「これはひどい。親にこんなことを言うなんて、人として最低だ」
現場監督も首を振った。
「こんな人間とは、関わりたくないな」
「違うんです! あれは…その時は感情的になって…」
美香が必死に弁解しようとした。
「八年間で二千万円以上も援助を受けながら、計画的に一千五百万円を騙し取ったんでしょう」
高橋弁護士がメールの証拠も提示した。
「『老後の面倒を見る』『一生恩返しする』。全て嘘でしたね」
社長は首を振った。
「三浦慎司さん、七日以内に九百万円を支払ってください。払えない場合は、法的措置を取ります」
社長は部下を連れて帰って行った。
「母さん、助けてくれ…」
慎司がすがるような目で見上げてきた。
「私たちは、もう他人でしょう」私は慎司の言葉をそのまま返した。「他人を助ける義理はありません」
「でも、親子じゃないか!」
「親子? あなたが絶縁したんです」
私は背を向けた。
「母さん、お願いします!」
慎司と美香の叫び声が背後から聞こえたが、私は振り返らなかった。
その日の夕方、慎司から電話があった。
「母さん、会社を首になりそうだ」
「そうですか。コンプライアンス違反で、調査委員会にかけられるのでしょう。自業自得です」
「美香と離婚することになった」
「それもあなたの問題です」
私は電話を切った。
あれから三か月が経った。私の生活は驚くほど充実したものになっていた。以前なら、この時間は慎司からの無心の電話に怯えていた時間だった。でも今は、誰にも邪魔されない静かな朝を楽しんでいる。
私は新しい趣味を始めた。フラワーアレンジメントと陶芸。これまで息子への心遣いで諦めていたことを、今は思う存分楽しんでいる。あの一千五百万円は、全部自分のために使うことにした。
あの土地を訪れると、更地になった三百坪の土地には、今、美しい花畑が広がっている。コスモス、桔梗、バラ。季節ごとに違う花を植えて、地域の人々に楽しんでもらっている。通りかかった老夫婦が「綺麗ですね」と言って立ち止まる。私は嬉しくなった。
「以前はここに家を建てる予定だったんですが、拍車がかかって、今はこうして花を育てています。こちらの方がずっと幸せです」
花の手入れをしていると、スマートフォンが鳴った。古い友人の田中さんからだった。
「京子、聞いた? あなたの息子さんのこと。会社を首になったって。コンプライアンス違反で追い出され、退職金も出ないらしいわよ」
「そうですか」
「それだけじゃないの。奥さんと離婚したって。慰謝料も払えなくて、裁判になってるらしいわ」
「因果応報ですね」私は淡々と答え、花に水をやりながら言った。「人を裏切れば、自分も裏切られる。それだけのことです」
電話を切った後、私は亡き夫の写真に向かって話しかけた。
「あなた、見ていますか? 私は負けませんでした」
写真の中の夫は、優しく微笑んでいるように見えた。
夕方、フラワーアレンジメント教室で、私は仲間たちと楽しい時間を過ごした。
「京子さん、最近本当に生き生きしてるわね」講師の先生が言った。
「ええ、やっと自分の人生を取り戻せた気がします」
「素敵よ。私たちの年齢になって、やっと自由になれるなんて」
「でも、遅すぎることはないんです。年を取っても、理不尽と戦う勇気さえあれば、人生は変えられます」
その夜、私は日記を書いた。
『今日も充実した一日でした。慎司と美香のことを思い出すこともありますが、もう心は痛みません。彼らは彼らの選んだ道を歩んでいるのです。聞いた話では、慎司は今アルバイトで生計を立てているそうです。美香は実家に戻ったものの、両親から見放されたとか。一千五百万円という大金に目がくらみ、親子の縁を捨てた報いです。でも、私は彼らを恨んでいません。むしろ、感謝しているくらいです。あの出来事がなければ、私は一生都合のいい財布として使われ続けていたでしょうから。今の私は本当に幸せです。誰にも縛られず、誰の顔色も伺わず、自分のペースで生きています。毎月の十五万円の援助がなくなったおかげで、貯金も増えました。その分を自分の趣味や健康に投資できるようになりました。友人も増えました。そして何より、自分の尊厳を取り戻せました。あの土地には、もう憎しみも怒りもありません。ただ、新しい命が美しく咲いているだけです。私は今、心から言えます。理不尽な要求に屈しなくて、本当に良かったと』
もしあなたが今、家族からの金銭的な搾取に苦しんでいるなら、声を大にして言いたい。我慢する必要はありません。年齢は関係ありません。親だから、祖父母だからという理由で、全てを犠牲にする必要はないのです。自分の財産は自分で守る権利があり、自分の人生は自分で決める権利があります。そして、理不尽には断固として立ち向かう勇気を持ってください。金銭的な繋がりだけの家族関係は、お金が切れれば終わります。本当の家族なら、お金ではなく心で繋がっているはずです。援助が当然だと思い、感謝の気持ちを忘れた子供たち。彼らは親の愛情を金銭と勘違いしているのです。でも、それは親の責任でもあります。際限なく与え続けることが愛情だと勘違いしていた、私のような親の責任でもあるのです。だからこそ、時には毅然とした態度を取ることが必要です。それが本当の愛情なのです。
慎司と美香は今頃、それを理解しているでしょうか? いいえ、理解していなくても構いません。それも彼らの人生です。私は私の人生を生きます。六十三歳からの再出発。遅すぎることなんてありません。一千五百万円で買った自由。高い買い物だったかもしれません。でも、後悔は一切ありません。なぜなら、今の私は人生で一番幸せだからです。理不尽に屈しなかった人だけが手にできる本当の幸せを噛みしめながら、私は今日も前を向いて歩いていきます。



