開発部の休憩所で、私が資料を片付けていると、社長令嬢がヒールを鳴らして現れ、甲高い声で言い放った。「あんたはもういらない。今日限りで首よ」――私はその場で、十年以上続けてきた仕事も、共に戦ってきたチームも、全て失った。毎日のように部署に乱入し、「あんたなんてどうせ大した仕事してないんでしょ」と見下してきた彼女に、私はついに「あなたには無理です」と反論した。その一言が、これほど事態を大きく変え…

開発部の休憩所で、私が資料を片付けていると、社長令嬢がヒールを鳴らして現れ、甲高い声で言い放った。「あんたはもういらない。今日限りで首よ」――私はその場で、十年以上続けてきた仕事も、共に戦ってきたチームも、全て失った。毎日のように部署に乱入し、「あんたなんてどうせ大した仕事してないんでしょ」と見下してきた彼女に、私はついに「あなたには無理です」と反論した。その一言が、これほど事態を大きく変え...

「あんたはもういらない。今日限りで首よ。」

開発部の休憩所に、社長令嬢の甲高い声が響き渡った。彼女はヒールを鳴らしながら、こちらを睨みつけてくる。

突然の言葉に、俺は手に持っていた資料をそっとテーブルに置いた。これまで社長の娘という立場を笠に着て、やりたい放題してきた彼女だが、まさか自分に直接首を突きつけてくるとは。

「わかりました」

俺の静かな返事に、令嬢の目がさらに鋭さを増す。そしてヒールを鳴らして去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、俺は胸の中に込み上げる妙な安堵感を感じていた。この会社にはもう、俺の居場所はないのかもしれない。そんな考えが頭をよぎる一方で、この瞬間が何かの始まりになるだろうという予感がしていた。

俺の名前は目黒正典。とある産業用機械メーカーに勤務している。

我が社は規模こそ中程度であるが、技術力には定評がある。中小の身軽さと確かな技術力を武器に、大手が占めるシェアの一角へ食い込もうと、社員一丸となって日々仕事に取り組んでいた。

ちなみに俺は開発部に所属していて、様々な機械の設計開発に携わっている。特に俺は、稼ぎ頭の一つであるIT機器に欠かせない部品を製造する工場のライン設計を任されていて、これまでにも確実に実績を積み重ねていることもあり、社内外から信頼を寄せてもらっていた。

さて、そんなある日のこと。昼休憩中、部下が俺の近くへと寄ってきて、ひそひそ話し始める。

「目黒さん、聞いてくださいよ。俺、営業部に同期がいるんですけどね。そいつがこないだめっちゃ愚痴ってたんですよ。ほら、例の社長令嬢の…」

言葉は濁されたが、部下が何を言いたいのかは即座に察せられ、俺は曖昧に「ああ」と頷く。

実は数ヶ月前、我が社のトップである伊藤社長の娘、伊藤さゆりさんが、父親のコネで入社してきたのだ。それもさゆりさんはほとんど働いたことがないにも関わらず、いきなりの役員待遇である。というのも、さゆりさんはその1ヶ月前に離婚して実家に戻ってきており、心配性の彼女に伊藤社長が哀れみを感じ、役員職を与えたばかりか、娘の望むまま会社の運営にも関わらせているとのこと。

さゆりさん、この頃は営業部にご執心みたいで、毎日顔を出してはあれこれ口出しして、それもそのご意見が全く見当違いなもんだから、みんなほとほと振り回されてるって。

よほどその同期に愚痴を言われたのか、部下も嫌な顔を浮かべている。

そんな経緯で我が社へと入社した社長令嬢さゆりさんは、今社内において「歩く迷惑」と囁かれていた。もちろん社員たちの間だけでだが。きっと暇なのだろう。彼女は毎日社内の様々な部署を覗いては、やり方が悪い、もっとこうしろなどと、頼まれてもいないのに上から目線でアドバイスをし、周囲を散々振り回しているのである。

それも、自分はあれこれ言うくせに、他人からの意見は一切受け付けないというおまけ付き。社長の娘という立場から表だっては誰にも止められないのをいいことに、とにかくやりたい放題の人なのだ。

「もう、あれがうちの部署に来る日を想像すると恐ろしくて…」

ブルっと肩を振るわせる部下に、俺は苦笑しながら答える。

「気持ちは分かるが、俺たちは俺たちの仕事をしよう。誠実に仕事をしていたら、さゆりさんもきっと分かってくれるさ」

そう部下を励ましつつも、さゆりさんが来てからというもの、どうもおかしなことになってしまっている会社の雰囲気に、俺は一つの不安を覚えていたのだった。

そしてそれから数日後、ついに噂のさゆりさんが開発部に姿を現した。

「やだ、あんたたち効率悪すぎじゃないの?あ、もしかしてわざと効率悪くして、その分残業代稼ごうとでも思っているんじゃないでしょうね」

顔を出して早々に甲高い声を発し、さゆりさんが早速ケチをつけてくる。難癖をつけられているのは俺とは別のチームであったが、とことん嫌味なその言い草に、他の面々も嫌な様子を見せていた。

「これはですね、このやり方が一番合っていて…」

と、チームの担当者が一生懸命に説明するも、そもそも話が分かっていないさゆりさんはポカンとした顔で首をかしげたままだ。

話が全く通じていない両者を見かねて、俺は間に割って入る。

「補足しますと、実はこの機械の仕組みは特許を取っているんです。ゆえに、やり方を急に変えることはできなくて、機械の品質にも影響してしまいますから」

助け舟を出した俺の横では、チームの担当者がほっとした様子で何度も縦に首を振っている。だがそれとは逆に、さゆりさんはうさん臭いものでも見るような目で俺を睨むと、「あんた誰よ」と高飛車に詰め寄ってきた。

「開発部第一課長の目黒です」

端的に答えた俺を、彼女はなおも睨みつけてくる。

「ちょっと、自社の特許製品くらい私だって知ってるわよ。それとも、あんた私が何にも知らないとでも思ってバカにしてるの?」

嘘だ。絶対に分かっていなかったじゃないか、というその場にいる社員たちの心の声が聞こえてきたが、俺は即座に彼女の言説を否定した。

「いえ、そんなことは全く」

しかしさゆりさんは俺を脅すように強く睨めつけると、途端に唇を歪めて帰ると言い始める。

「ああ、どっかのバカ社員のせいで仕事する気分じゃなくなっちゃったわ。さっさと帰ってエステでも行こっと」

そのまま彼女はくるりと踵を返し、ヒールの足音も高らかにフロアを去っていってしまった。

「歩く迷惑」とさゆりさんを見送りつつ、部下や同僚が心配そうに俺を見つめてくる。それには笑顔を返したものの、俺はこれから巻き起こるであろう嵐の予感に胸のざわめきを覚えていた。

そして、そんな俺の予感は残念ながら的中することとなる。

その翌日から、さゆりさんは毎日開発部に顔を出しては、俺にまとわりつくようになったのだ。やれ「こんなやり方でよく仕事ができるわね」とか、やれ「課長が聞いて呆れるわ」など、こちらの仕事にいちいちケチをつけては偉そうに指図する。さらには「あんたのせいで疲れたから、何か甘いもの買ってきて」などと、仕事に全く関係ない小使いのようなことまで命じてくるのだった。

さゆりさんにとっては、あの時の俺の言い草がよほど癪に触ったようであるが、物には限度というものがある。それに連日の彼女の来訪で、当然ながら俺の仕事並びにチームの仕事はことごとく邪魔をされ、仕上がりにも遅れが出始めていた。

それでも俺は、進行中であった新しいライン設計案を期日までになんとか完成させた。取引先との商談の前日という、本当にギリギリのタイミングである。

だが、俺が安堵しながら一息入れようと、フロアのすぐ横に設置されている休憩所へ移動したその時。すっかり聞き慣れた感のある例のヒール音を響かせて、さゆりさんが姿を現したのである。そして彼女は、休憩所の椅子に座る俺にきつい視線を投げてきた。

「ちょっと、あんた何サボってんのよ」

疲れた頭へ容赦なく突き刺さるその甲高い声に、俺はため息をつきたくなるのをぐっとこらえて答える。

「今、明日の商談に向けての急ぎの仕事が一段落したものですから。すみません、すぐに戻ります」

そう言って立ち上がった俺に、けれどさゆりさんはなおも言い放った。

「なーに格好つけたこと言って。あんたなんてどうせ大した仕事してないんでしょ。あんたくらいの仕事なら、私にだってできるわよ。むしろ、あんたよりも効率よく仕上げられるわ」

得意げに顎をあげてそんなことを言い放つ彼女に、さすがの俺も苛立ちを隠しきれなかった。誰のせいでスケジュールが遅れたと思っているんだ。その遅れを取り戻すために、俺だけじゃなくチームのみんなが連日必死になって頑張ったことなんて知りもしないで。

にわかに湧き上がる怒りを抑えきれず、俺はそっけなく告げる。

「あなたには無理です」

だがその瞬間、派手な化粧を施されたさゆりさんの顔が見る見るうちに赤く染まった。

「はあ?無理って何よ?あんた、私が誰だか分かって言ってんの?高が課長の分際で、社長令嬢である私に盾つこうなんて生意気にも程があるわ」

目を見開いて、廊下に響き渡るくらいの怒声をあげるさゆりさん。さらに彼女は続けた。

「その商談、私がやるわ。だから、あんたはもういらない。今日限りで首よ」

相手の口から飛び出した突然の解雇通告に、俺は思わず言葉を失ってしまった。いくら何でも話が急すぎる。だが、目の前でこちらを睨んでいるさゆりさんは、どうやら本気で言っているらしい。

言葉を失ってしまった俺の様子に、さゆりさんがますます顔を赤く染める。そうして彼女はヒステリックに叫んだ。

「何よ、その態度。私にはできないっていうの。見てなさい。パパに言いつけたら、あんたの首なんてすぐに飛ばせるんだから」

叩きつけるように告げられたその無責任な言葉に、頭も体も疲れていた俺は、もう抗う気力を吸い取られてしまった。社長の娘という立場を笠に着て、やりたい放題のさゆりさん。さらには、そんな娘可愛さで、社員が困っていても放置している伊藤社長。この会社はいつからこんな風になってしまったのだろう。

俺は静かに目を伏せる。自分の居場所はもうここにはないかもしれない。

俺は言葉少なに頷いた。

「わかりました。俺は会社をやめます。それでは、失礼します」

そうして俺は、長年務めたこの会社をあっけなく去った。

だが、その翌日。俺が自宅で家事をしていると、立て続けにスマートフォンが鳴る。見ると、それは伊藤社長からであった。

俺が電話に出るや、相手は開口一番怒鳴り声をあげる。

「何やってんだ?50億の商談がパーになるぞ。無断欠勤するな。すぐに出社しろ」

乱暴に投げつけられた言葉に、俺は小さくため息をついた。

実は今日、俺が同席するはずだった商談は、伊藤社長からの時々の案件だったのだ。まとまれば50億の大型案件である。本来なら、その商談にチームリーダーであった俺が欠席するなどありえない話なのだが、けれど昨日、そのありえないことが起こってしまったのだから仕方がない。

「聞いてらっしゃいませんか?私、昨日付けで社長令嬢、あなたの娘さんに首にされたので、出社は無理です」

努めて冷静にそう告げた俺に、電話の向こうから伊藤社長の不審げな声が響く。

「は?首?どういうことだ?」

だがその時、電話口に甲高い声が割って入る。

「パパ、言うの忘れてたけど、そいつ昨日私が首にしたの。でも心配しないで。今日の商談は私が仕切るから。だってそいつ生意気だし。言うこと聞かない社員はいらないでしょ」

言わずもがな、さゆりさんだ。さらに彼女は、まだ事態が把握できていない様子の父親から電話を奪ったようである。

「ということで、あんたの首、今パパが承諾したわ。今日から無職よ。おめでとう。さっさと次の仕事でも探しなさい」

楽しげにそう言うや、電話はすぐに切れてしまって。昨日だけでは飽きたらず、一方的にこちらを傷つけようとするその物言いに、俺は今度こそ深々と呆れたのであった。

さて、それからあっという間に数週間が経った。俺の元に、その日再び社長から電話がかかってきた。

「今更なんだが、どうかもう一度会社に来てくれないか」

娘と同じく頭の硬いところがあった伊藤社長だが、今は平身低頭といった様子で「頼む」とまで口にするものだから、こちらも「わかりました」と言うしかなく、その足で俺はかつての勤務先へと出向く。

久しぶりに足を踏み入れたフロアは、なんだか静かで、社員の人数自体も少なくなっているようだった。そんな様子に疑問を覚えながらも、俺は「話せば分かるだろう」とばかりに社長室へと向かう。

ノックをして入室すると、そこには数週間前に比べてげっそりと痩せた伊藤社長と、それから父とは正反対に脳天気な様子のさゆりさんが待ち構えていた。

促され、俺が席に着くや、それまでどこかうつろな目をしていた伊藤社長が、ぽつりと頭を下げてくる。

「目黒君、すまない。どうか、この会社に戻ってきてくれないか」

突然そんなことを言い出す伊藤社長。そうして俺が驚いて言葉をなくしているのを見ると、ぼそぼそと経緯を話し始めた。

曰く、数週間前、あの電話の後に陣頭指揮を取り商談に臨んださゆりさんだったが、当然ながら説明は支離滅裂。先方からの質問にもろくに答えられず、失態を演じ、話は呆気なく破談となったらしい。そして先方は、この会社のライバル会社へと取引を持っていってしまったとのこと。

けれど、俺からしてみれば、それはまあそうだろうな、と言うしかない。口先だけで何も知らないさゆりさんが、まともなプレゼンなどできるわけもなく、また、そんな娘の状態を知っていながら本当に商談を任せてしまった伊藤社長も、どうかしているとしか思えない。さゆりさんが絡まなければ比較的話の通る人だっただけに、俺は娘可愛さで目が曇ったとしか思えない伊藤社長に呆れ、口が塞がらなかった。だって50億の商談だ。無事に契約を結べていれば、継続的な受注にも期待でき、これまでに費やした多額の開発費用も早々に回収の目途が立っただろうに。

何も言えない俺を前に、伊藤社長は力なく続ける。

「あの商談がなくなり、取引先からのうちへの信用も一気になくなってしまった。それに、君を首にしたと社内からの苦情が殺到してね。君を信頼していた取引先からは、次々に契約を切られたよ。本当にすまなかった」

と、椅子から立ち上がり、伊藤社長が俺へと深く謝罪する。

「今更、調子の良いことを言っているのは分かっている。だが、このままではこの会社は持たない。お願いします。どうか今一度、我が社へと戻ってきてください」

けれど、汗を流しながら必死に頭を下げる父の横で、さゆりさんが相変わらず脳天気な声をあげた。

「ちょっとパパ、こんなやつに頭下げるなんてどうかしてるわ。てか、あんな商談の1つや2つなくなったって、また私がそれ以上の仕事取ってきてあげるわよ」

その根拠のない自信は一体どこから来るのだろうか。もはや呆れるのを通り越して、俺はさゆりさんを見つめた。しかし、彼女の父でありこの会社のトップである伊藤社長は違ったらしい。事態になっても緊張感のない娘に、さすがの親も手に負えなくなったようで、伊藤社長は青白かった顔を真っ赤にしながら、唸るような怒鳴り声をあげる。

「いい加減にしろ!何も分かってないお前に、何ができると言うんだ!そもそも、お前が勝手に彼を首にするから、こんなことになったんじゃないか!」

すると、父の剣幕に気圧されたような顔をして、さゆりさんが口を挟んだ。もしかしたら、これまで彼女はこうして父に怒られたことすらなかったのかもしれない。だが、気の強さだけは父譲りだったのか。一拍後、さゆりさんは父に負けじと声を張り上げる。

「何よ、パパがこんなやつに頼ってばかりいるから、会社が傾いたんじゃないの?それを全部私のせいにするとか、信じらんない」

甲高い声が社長室にこだますると、その時だった。

どん、と大きな音を立てて、社長室の扉が勢いよく開かれた。そして、なだれを打ったように入ってきたのは、開発部の社員たち。

「お、お前ら、なんで?」

突然の出来事に伊藤親子と俺が驚く中、彼らは口々に言う。

「社長の言う通りだ!口だけ達者なお飾り役員は、今すぐ辞めろ!」

どうやら彼らは、今までの俺たちのやり取りを聞いていたらしい。

「み、みんな、ちょっと落ち着け…」

思わず俺が仲裁に入ると、「目黒さんはちょっと黙っててください」と逆に怒られてしまう始末。

その間にも、辞めろ、辞めろと詰め寄る社員たちに、さゆりさんがとうとう絶叫する。

「あんたたち、誰に物を言ってるの?私はこの会社の社長令嬢よ!」

だが、娘のそんな叫び声は、父によって遮られた。

「黙れ!さゆり!お前は、今日限りで首だ!」

「え…?」

数週間前、自分が俺に言い放ったことを、そっくりそのまま父から返されて、さゆりさんは戸惑ったように目を瞬かせる。

「え、ちょっとパパ、何言ってんの?首って、私…私、パパの娘じゃないの?本当に何言ってんの?」

相手の正気を確かめるようにさゆりさんがそう話しかけるが、引きつった笑みを浮かべた娘の言い分など、知らないとばかりに、伊藤社長は断固としてそれを拒否した。

「何も知らん。お前は今日で、この会社から出ていけ。どうせ大した仕事もしていないんだ。荷物の整理も、すぐに済むだろう」

そう言い放った伊藤社長は、ついで俺を見ると、なんとその場で土下座をしたのである。

「ちょっと、伊藤社長!パパ!」

俺とさゆりさんの悲鳴が重なる中、伊藤社長は口を開く。

「お願いだ、目黒君。この会社に戻ってくれ」

すると、そんな自社の社長の姿に発破をかけられたのか、社長室に雪崩れ込んできた社員たちも口々に懇願する。

「そうですよ!お願いです!目黒さん、戻ってきてください!目黒さんがいないと、仕事が進まないんです!どうか、俺らを助けると思って!」

必死の眼差しでそう訴えてくる同僚たちに、やがて俺の視界もぼんやりと滲んでくる。みんな、あの時は情けなくなってしまったとばかり思えたこの会社だったが、そうだ。俺には、大事な仲間がいた。そのことを、俺は今ようやく思い出したのだった。

居場所。俺には、ちゃんとあるじゃないか。

「うん…ごめん、ごめんな、みんな…」

涙ぐみながら何度も小さく頷く俺を、同僚たちが駆け寄って抱きしめてくる。そうしてもみくちゃにされる俺の視線の先には、青い顔をしてフラフラと部屋を出ていくさゆりさんと、それから娘の方を支えるようにして後をついていく伊藤社長の背中が、ちらと映ったのだった。

さて、後日のことである。緊急役員会が開かれたその日、会社に混乱をもたらしたとして、正式にさゆりさんの解雇が決定した。また、伊藤社長もさゆりさんに対する任命責任があるとして、自ら社長職を退任。これを持って、伊藤親子は完全にこの会社から姿を消した。その後の彼らであるが、住んでいた家を売り、父の地元である田舎に引っ越して、ひっそりと暮らしているらしい。あんなことになったが、彼らにはどうか元気でいてほしいと、俺は心の中で祈るのだった。

一方、俺はといえば、この頃何かと忙しい。いや、忙しいという一言では済まないくらいの慌ただしさだ。なんと、会社の上層部とメインバンクの話し合いにより、この度俺が新たな社長として任命されたのである。その話を伝えられた時には、脳みそがひっくり返るかと思うくらい驚いた。

「俺が社長?冗談だろ?」

だが、もちろんそれは冗談などではなく、さらには社内に向けてその人事が発表されてからというもの、特に開発部の社員たちはお祭り騒ぎのようになり、何が何だかいまいち把握できないまま、俺は今日の就任式を迎えた。

本当に俺が社長なんて、どういう風の吹き回しなんだ。だが、その混乱の中でも良いニュースはあった。俺が社長に就任すると社外に発表された後、離れていた取引先が続々と戻ってきてくれたのである。一連の出来事に対する謝罪と感謝を伝えに回る俺は、取引先から温かい励ましの言葉をいただいたのだった。

さて、朝から緊張しっぱなしの俺は、今部署の課長以上を集めた会議室にて、マイクの前に立っている。そして、その場に立つ一人ひとりの顔をよく見回した。皆の目には、会社のこれからに対しての期待と不安が溢れていた。この場にいる社員、そしてカメラの前でこの光景を見守っているだろう社員の生活が、全て自身の判断にかかっていることを、俺はこの時初めて実感する。

俺の人事は好意的に受け止められたが、それでも今まで会社経営の経験すらない俺が社長を務めることに、何かと思うところはあるだろう。だが、それでも俺を信じてついてきてくれる社員が、まだこんなにもいてくれるのだ。その責任の重さに、そして信頼の大きさに、俺は武者震いを覚えた。

そうだ。引き受けたからには、ごちゃごちゃ言わずにやるしかない。

そう腹を括り、俺は毅然と顔を上げ、社長としての第一歩を力強く踏み出したのだった。

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