ナヤの隙間から見た光景に、私は声を出すこともできなかった。
暗闇の庭で、ガソリンの携行缶を持った夫の正彦さんと、その姉のかずさんが立っている。二人の会話がはっきりと聞こえてくる。
「まだ帰らないのか。音が聞こえてたんだけどな」
「あいつがあの世に旅立てば、遺産は全て私たちのものね」
私は震えながら、隣にいる義母のしず子さんを見た。彼女は静かに頷き、口を塞いでいた手をゆっくりと外した。
「あなたも見たわね。いい、私の言う通りにして」
その日の夜、私は病院の休憩の関係で帰りが真夜中になっていた。暗闇の中、玄関のドアを開けようとした瞬間、誰かに腕を掴まれて庭の古い納屋に引きずり込まれたのだ。最初は最悪の事態を想像したが、相手は義母のしず子さんだった。そして、納屋の隙間から漂うガソリンの匂いと、夫と義姉の会話を聞いて、全てを理解した。
私はしず子さんの話を全て聞き終えると、何も知らないふりをして家に入った。普段通りにシャワーを浴び、冷蔵庫へ向かう。風呂上がりにペットボトルのお茶をコップ一杯飲むのが毎日のルーティーンだった。その手は震えていたが、私は目を閉じてお茶を一気に飲み干した。
ベッドに入り、明かりを消して布団を被る。30分ほど経った頃、焦げた匂いがしてきて、台所の方からパチパチという音が聞こえ始めた。火の音だ。しず子さんが話してくれた展開通りになっている。
「きゃあ、大変。火事よ。お母さん、早く逃げなきゃ」
「さあ、早く一緒に逃げよう。俺がいれば安心だから」
窓の外を見ると、正彦さんとかずさんがしず子さんを抱えて家から飛び出す姿が見えた。私は冷静に、裏庭に通じる窓から二人に気づかれないように避難した。
外では近隣住民が騒然としていた。消防車が到着する前に、正彦さんが私の名前を叫んで家に戻ろうとしている。
「話してくれ! 妻がまだ中にいるんだ!」
「リ彦、もう手遅れよ。今入ったらあなたまで危険だわ」
私は遠目でその光景を見ながら、鼻で笑ってしまった。あんな茶番を見せられて、本当に恥ずかしい限りだ。私は群衆の中から姿を現した。
「え? ルリ? どうしてお前がここに?」
「う、嘘。なんで生きてるの?」
私の姿を見た二人は、まるで幽霊でも見るかのような顔をしていた。私は冷ややかに微笑んだ。
「全く、兄弟揃って芝居が下手なこと」
私は看護師として地元の市民病院に勤めていた。両親はすでに亡くなり、一人で暮らしていた。職場の人間関係に悩んでいた頃、肺炎で入院してきたしず子さんと出会った。彼女は私のことを「命を救ってくれた神様みたいな人」と言ってくれて、仕事の悩みまで相談に乗ってくれるようになった。退院してからもお茶を楽しむ仲が続き、その流れで息子の正彦さんを紹介された。
正彦さんは普通の会社員で、音楽や映画の趣味が合った。交際一年でプロポーズされ、私はその申し出を受け入れた。結婚後も仕事を続けることを許してくれたので、私は看護師を続けた。
しかし、義父が倒れたことで状況は一変した。体の半分に麻痺が残り、退院しても今までの生活はできないと言われたのだ。正彦さんの提案で、私たちはマンションを引き払って実家に同居することになった。私は仕事を辞めて、義父の介護に専念することになった。
義父はほとんど全てのことに介助が必要だった。食事はスプーンで口に運び、体を拭き、着替えを手伝い、トイレの世話もした。介護に慣れていないしず子さんには難しいことばかりで、私はそれらの全てを一人で行う状況になっていた。
それなのに、正彦さんは仕事が忙しいという理由で全く介護を手伝ってくれなかった。毎晩遅くに帰ってきては「早く飯を作れよ」「風呂を沸かせよ」と命令ばかりする。以前から特別優しい人ではなかったが、実家での同居が始まってから、私に対する当たりが極端に強くなった気がした。
しず子さんはいつも謝ってくれた。彼女は本当に心配してくれて、自分にできることは精一杯やろうとしてくれた。過酷な介護生活だったが、しず子さんの存在が私の大きな支えだった。
それでも、義父は半年後に亡くなってしまった。悲しみにくれるしず子さんを励まそうとしたが、正彦さんは自分の父親が亡くなったのに全く悲しそうな様子を見せなかった。何かおかしいと感じていたが、それ以上のことはわからなかった。
しばらくして、正彦さんの姉のかずさんが突然家にやってきた。長年音信不通だったらしく、私も初めて顔を合わせた。仕事を辞めて精神的にきつい日々を送っていると言う。
「ルリさん、これまで家のことをありがとう。あとは私に任せて、正彦と一緒に新しい家を探すといいわ」
かずさんに感謝したが、正彦さんは姉の気遣いに胡散臭さを感じたようだ。遺産が目当てだと言い張り、このまま実家に住んで姉の行動を監視すると言い出した。そして、私たちが実家に残る決断をしたと知ると、かずさんの態度は急変して冷たくなり、まるで家政婦のように私をこき使い始めた。
そんな地獄のような日々の中でも、いつも私の味方をしてくれるしず子さんの存在が唯一の救いだった。しかし、ある日、しず子さんから衝撃的な言葉を聞かされる。
「あなたは二人の言う通りにしておけばいいの?」
私は崖から突き落とされた気分になった。あんなに優しかったしず子さんまでもが私に攻撃をし始めたのだ。かずさんが帰ってきてからしず子さんは変わってしまった。やはり、実の娘の方が可愛いということだろう。今、私の味方となってくれる人は一人もいない。
耐えきれなくなった私は、正彦さんとの離婚を考えるようになり、看護師の仕事を再開することに決めた。少しでも家から離れておきたかったのだ。
そして、あの夜。病院の休憩の影響で帰りが真夜中になり、庭の納屋に引きずり込まれた。しず子さんの口から聞かされたのは、私を亡き者にしようとする夫と義姉の計画だった。
「あの二人は、あなたが受け取っているご両親の遺産目当てに、火事を起こしてあなたを亡き者にしようとしているの」
しず子さんは涙を浮かべて言った。彼女は偶然、二人が計画を話し合っているのを聞いてしまったのだ。そして、私を守るために、あえて辛く当たる演技をして距離を取っていたのだ。
「二人の計画を暴くために、あなたに辛く当たってしまってごめんなさい」
私はしず子さんの手を握った。
「いいんです。それに、逆に感謝しています。しず子さんはいつもの優しいしず子さんだったんだって、分かったんですから」
その夜、私はしず子さんの指示通りに、何も知らないふりをして家に入った。普段通りにシャワーを浴び、風呂上がりのお茶を飲み干した。あの時、しず子さんが睡眠導入剤入りのお茶をすり替えてくれていたのだ。
火事が起きて、二人が外に避難した後、私は裏庭から無事に避難した。そして、群衆の中から姿を現した。
「おい、一体これはどういうことだ?」
「なんでルリがここにいるんだ? 計画と違うじゃないか。姉貴、さては仕組んだな」
正彦さんは鋭い目でかずさんを睨みつけた。
「ちょっと待ちなさいよ。なんで私のせいになるわけ?」
「そもそもあんたの計画が間違いだったんじゃないの?」
二人は騒然とする中でも、お構いなしに相手のせいにして見苦しく責め合っていた。
「やめなさい。あんたたちは本当に、なんて恥知らずなんでしょう」
いつも優しいしず子さんが、こんなに声を張り上げるのを初めて見た。
「あなたたちの計画は、事前にしず子さんから聞かされて全部知っていたのよ。だから私は騙されたふりをしていただけなの」
「な、なんでお袋が俺たちの計画を?」
「あんたたちが、ルリさんが受け取っているご両親の遺産目当てに火事を起こしてルリさんを亡き者にしようと話し合っているのを聞いてしまったのよ」
しず子さんの告白に、二人は顔を見合わせて驚いていた。正彦さんの不倫の証拠も、しず子さんは探偵に依頼して掴んでいた。正彦さんは私の両親の遺産を独り占めにして、不倫相手と海外に逃げようとしていたのだ。
その後、二人は放火及び殺人未遂の容疑で逮捕された。正彦さんは職場の経理の立場を悪用して会社のお金に手をつけ始めており、使い込みが発覚することを恐れて、私を亡き者にして遺産を受け取り、その一部を使い込みの補填に回そうと考えていたのだ。
私はその後、正彦さんと離婚するつもりだったが、その前にやりたいことがあった。全焼した自宅が再建されるまでの間、私はしず子さんと新しく借りたアパートで暮らすことを提案した。しず子さんは何度も謝ったが、彼女は何も悪くない。私はこれまで通りの関係を望んだ。
そして、私は亡くなった両親の遺産である土地を全て売却し、そのお金でしず子さんの自宅の再建費用に当てた。残りは災害事業に寄付した。
しず子さんは涙を浮かべて感謝してくれたが、私は嫁と義母という関係よりも、また仲良しの友達関係に戻れたことが何より嬉しかった。



