受付で自分の名前を告げた瞬間、背中に嫌な気配を感じた。
「荒木」
振り返ると、そこにいたのは砂川部長だった。3年前、学歴だけを理由に俺を退職へ追い込んだ男だ。
「やはりお前か。中卒は珍しいから覚えていたんだ」
彼の目は3年前と変わらず、人を見下すような色をしていた。
「万年平の中卒が受付に来るな。ここはお前のような低学歴の男が来る場所じゃない。入間禁止だ」
俺は鞄の持ち手を強く握りしめた。中には特許技術の資料が入っている。あの内村社長が38億円の独占契約を申し出てきた、俺の技術だった。
「それとも何だ。このビルの清掃員にでも応募しに来たのか?」
怒りが込み上げてきた。だが、同時に冷静な考えが頭をよぎった。この会社と独占契約を結べば、俺の会社の運命はこの会社に握られることになる。そして俺はまた、学歴で人を測る人間の下で働くことになる。そんなのはごめんだ。
「おい、いつまでそこに突っ立ってるんだ。用がないならとっとと帰れ」
砂川が追い立てるように手を振った。
「了解した。だが、昨日俺に頭を下げてた社長に、38億の独占契約は破談と伝えとけ」
砂川の顔から一瞬表情が消えた。しかしすぐに、嘲笑うような顔に戻る。
「はっ、38億の独占契約だと。嘘をつくならもっとマシな嘘をつけ」
俺は何も言わずに背を向けた。外の空気は生ぬるかった。怒りより先に、冷静な確認が頭の中を占めていた。
おそらく砂川は俺の言葉を嘘だと思っている。だから内村社長には報告しないだろう。あの男は、現場の仕事を見ることなく学歴だけで判断を下す人間だ。自分に都合の悪い情報を上に届けるはずがない。
会社に戻ってしばらくすると、携帯に着信が入った。あの会社の番号だ。俺は出なかった。何度着信が来ても、出なかった。
その後、同じ技術部門にいた矢部から連絡が来た。
「荒木、今日会社で何かあったのか? 内村社長が昼前からお前を探してるんだ。約束の時間を過ぎても来ないから、秘書が受付に問い合わせたらしい」
「そうか。砂川は何か言ってたか?」
「最初は知らないと言ってたらしいんだが、受付が砂部長が追い返すところを見ていたと話したらしい。その後、砂川はお前の訪問理由を受付に確かめたらしいが、それも別の社員が見ていたっていう話も出てる」
俺は黙って聞いていた。
「社長がかなり怒ってるっていう話も流れてきた。さっき砂部長が廊下で顔色が真っ青だったのを見かけたよ。お前が言い残した言葉も広まってる。38億の独占契約って本当なのか?」
「ああ、本当だ」
「そうか」
矢部は少し黙ってから言った。
「お前の特許公報で見た時から思ってたんだ。技術部門にいると業界の特許公報には定期的に目を通す。これだけの技術があれば、どこかが必ず食いつくってな」
その後も着信は続いたが、俺は出なかった。38億という数字が頭の中で何度も浮かんでは消えた。
内村は技術の価値を理解した上で、わざわざ俺の会社に来て頭を下げた。あの誠実さは本物だと思っている。だが、その同じ会社で砂川は、今の俺が何者かも知らず学歴だけで追い返した。その砂川を俺の上司にしたのも内村なのだ。
2つの事実の整理がつかないまま、何事もなかったように再びあの会社に向き合うことが、どうしてもできなかった。
その夜、俺は寝つけず机の上に座ったまま動けなかった。
38億という数字でも、砂川の顔でもなく、頭の中には現場の音があった。バルブの動作音。圧力計の針。あの夏の経験が今も俺の判断の軸になっている。
俺が開発し、特許を取った充填ラインの不良検知技術は、どこの工場でも役に立つ技術だ。それを一社に独占させてはいけないと思い始めていた。
翌朝、俺は引き出しから名刺を取り出した。特許が公報に掲載されてから、複数の会社から問い合わせがあった。その中には内村の会社とは競合関係にある会社もある。
内村は誠実な男だと思う。だが契約はまだ結んでいない。俺には選ぶ権利がある。
俺は携帯を手に取り、その担当者に連絡を入れた。
「先日お声がけいただいた件で、お時間をいただけますか?」
「是非、いつでも」
相手は即答し、早速翌日に面談を設定した。
翌日、競合の会社を訪れた俺に対し、担当者は真剣な対応を見せた。まず資料を見ながら、俺の特許の核心部分である不良検知という技術について質問を重ねてくる。現行の検査工程でどれだけのロスが出ているのかを述べ、特許技術を導入した場合、それをどれだけ減らせるかという、実態に照らした質問だった。
「是非、前向きに進めたいです」
その言葉に社交辞令の軽さはなかった。
競合との面談を終えた翌日のお昼前、見知らぬ携帯番号から着信が入った。
「荒木さん、内村です。先日は弊社の者が」
俺は遮って言った。
「内村社長、先日受付で何があったかはご存知ですか?」
「秘書から報告を受けました。改めて詳細を確認させていただけますか?」
内村の声に取り繕った響きはない。俺は経緯をそのまま話した。受付で名を告げると砂川が現れ、訪問の理由を確認することなく追い返したことを。
電話口の向こうで内村が深く息をついた気配があった。
「荒木さん、弊社の者がそのような対応をしたことについて、まず私から深くお詫び申し上げます。本来あってはならないことでした」
内村はそう言った後、少し間を置いてから続けた。
「1点確認させてください。砂川が荒木さんの顔を知っていたということは、以前弊社にお勤めだったということでしょうか?」
「はい。3年前まで技術部門にいました」
内村はしばらく黙っていた。
「退職の経緯について詳しくは承知していませんでしたが、今のお話を聞いておよその見当はつきます。弊社の者が荒木さんの経験と技術を正当に評価しなかった。それについても改めてお詫び申し上げます」
俺は何も言わなかった。社長が現場の一社員の処遇を逐一把握できるはずもない。
「その上で、荒木さん。改めて契約の話し合いを続けさせていただけないでしょうか?」
俺は即答しなかった。
「1つ申し上げておきます。別の会社とも話が進んでいます」
内村の声に動揺はなかった。
「承知しました。それならば、できるだけ早い日程でお時間をいただけますか?」
「明日の午後で構いません。その場で結論を出します」
「お待ちしています」
翌日の午後、俺は内村の会社に向かった。2日前と同じ正面玄関を通り、今日はすんなり社長室まで案内された。
ドアを開けると、内村がすぐに立ち上がった。机を挟んで向かいのソファー、その端にもう1人座っているのが見えた。砂川だ。顔色は悪く、腕を組んだまま床に視線を落としている。俺が入ってきた気配には反応したが、視線を上げなかった。
俺は砂川の向かいの席に腰を下ろした。
「内村社長、本題の前に申し上げたいことがあります」
俺は契約関連の書類には手を伸ばさず、あえて砂川に聞かせるように言った。
「3年前のことです。砂川部長は着任から3日で、私の仕事ぶりを確認することなく学歴だけを理由に退職を勧告してきました。私の40年以上の経験と技術を評価する機会すら、砂川部長は与えてくれなかった」
そこで砂川が口を開く。
「3年前の話を今更持ち出すのか。当時は部門の方針だった」
俺は遮った。
「学歴を選別基準にするよう、会社があなたに命じたのですか?」
砂川は俺から視線を外したまま、低い声で言った。
「人件費削減の課題があったのは事実だ。私にはその判断権限があったんだ」
「では、判断する時の基準として私の仕事を見たのですか? 私の技術を考慮しましたか?」
砂川は再び目を伏せた。
「それだけではありません。2日前のこともあります」
俺は砂川を見据えて続けた。
「その前日、私は内村社長と約束を交わしていたにも関わらず、あなたは受付で私の訪問趣旨を確認することなく追い返した。理由は、万年平の中卒だからでしたよね。3年前に退職を迫った時と、全く同じ理由です」
砂川が口を開いた。
「社長との商談で来たとは知らなかったんだ。知っていれば対応は変えていたはずだ」
「では、なぜ確認しなかったのですか? 訪問趣旨を一言聞けば済むことです。あなたはそれをしなかった」
砂川の顔が歪む。俺は畳みかけた。
「社長と特許契約の最終段階にある私に、清掃員に応募しに来たのかとも言いましたね」
俺は内村に向き直った。
「内村社長に1点お聞きしたい。3年前のリストラについても、2日前の対応についても、砂川部長から私に対して謝罪は1度もありません。このような判断をされる方が部長職にある。私が人事に口を出す立場にないのは分かっています。ただ、この2点を叱るべき場所でご判断いただけるかどうか、それだけお聞きしたい」
内村は砂川を一瞥してから、俺に向き直った。
「役員会に諮り、しかるべき処分を検討します。砂川、荒木さんに謝罪しなさい」
砂川の肩がわずかに動いた。言い訳を探すように視線が泳ぐ。
「それは3年前のリストラは正当な人事判断の範囲で、謝罪すべき事案とは考えておりません」
「いい加減にしろ、砂川」
内村の怒声が遮る。砂川は椅子の上で姿勢を正し、口元を歪ませながら言った。
「申し訳ありませんでした」
言葉は俺ではなく、机の上に落ちていく。その言葉が本心でないことは明らかだった。
「承知しました」
俺は鞄から書類を取り出していった。
「では、契約の話に移ります。まず契約内容を変更させてください。貴社との独占契約は結べません」
内村がわずかに眉を上げた。
「この特許は私の事業の核になるものです。一社が独占すれば、私の選択肢がなくなる。貴社にお使いいただくことは構いません。ただし、同じ特許を別の会社が使用することも、今後はありうるとお考えください。それは貴社の競合他社を含めてです」
内村はすぐには答えなかった。書類に目を落とし、しばらく真を置いてから顔を上げる。
「我が社にしてみれば、競合他社が使用することは望ましくない。だが、私はこの特許技術の価値を十分理解しているつもりだ。その判断は変わっていない。その条件で進めましょう」
俺は言葉を返した。
「では、契約金は38億円で期限は5年。その後は双方の合意の上で更新する形にしたい。それでよろしいでしょうか?」
「承知しました」
内村がペンを走らせ、車名の横に署名が入る。38億円の特許使用ライセンス契約が確定した。
俺は書類を鞄に納め、砂川を見る。
「2日前、あなたは私を入間禁止にした。しかし、中卒の万年平でも、38億円の契約は取れるんですよ」
内村が静かに言った。
「砂川、退室していいぞ」
砂川は椅子を引き、立ち上がった。言葉はない。俺はその背中を、扉が閉まるまで目で追った。
社長室に内村と俺だけが残っている。廊下を遠ざかる足音が聞こえ、俺は一度だけ深く息をついた。
3年前、この会社を去った日のことを思い出す。あの日の怒りをその場で爆発させず、その力を技術に変え、今日この部屋にいる。
俺は内村に一礼してから、社長室を後にした。
矢部から連絡が来たのは、契約締結から数週間後のことだった。
砂川の所行に対する役員会の結論が出たらしい。調査の結果、学歴による不当な退職勧告をしたのは俺だけではなかったようだ。過去に遡って調査が入り、他にも同様の被害を受けた社員がいたことが判明する。砂川はその経緯も含めて処分を受け、諭旨解雇の後、間もなく会社を去った。
今どこで何をしているかは、誰も知らないと矢部は言った。
競合の会社との交渉は、内村との契約から間もなく、非独占という形でまとまった。金額は内村の会社と同じ条件を基準に、さらに上乗せとなる数字が加わった。
技術を持つものが自分で条件を決められるということを、俺は身を持って知った。
今は次の特許の開発に取りかかっている。現場で40年積み上げてきた経験は、まだしばらく俺の武器であり続けるだろう。



