「おい、役立たず。飯はまだか?ダメ嫁の分際で待たせるんじゃない。本当に、つくづく臭い子ね。本当に夏美さんは、天井で嫌になっちゃう。」
「お言葉ですけど、両亭の切り盛りも家事も雑務も、ほとんど私一人でやっていますが、自分のご飯くらい用意できないんですか?」
夫のハルトと義母は、驚いた様子で私を見ていた。これまで従順に従ってきた私が、突然、口答えしたのだ。二人の表情が、劣化のごとく燃え上がる。血管が切れそうな音が聞こえてくるほどだった。
「なんだ、その口の聞き方は。お前なんて、ここを出たら誰からも必要とされないんだ。寄生中の嫁のくせに。嫌なら出てけ。」
「夏美さんには、まだ教育が足りないのかしらね。ハルトに捨てられたら生きていけない貧乏人のくせに。許して欲しければ、床に頭をついて謝罪しなさい。私の気は長くはないわよ。さあ、早く。」
いつも通りの態度に、ため息しか出てこない。さらに、もう一人、私の態度に不満を持っている人物が現れる。
「早く謝っちゃいなよ、夏美さん。お兄ちゃんやお母さん、怒り出すと何をするかわからないよ。私のご飯も早く作ってね。お昼ご飯と晩御飯、それと夜食もね。私、夏美さんと違って多忙だから。」
不遜な態度で私を見下してくるのは、ハルトの妹であるあきちゃんだ。人気漫画家なのをいいことに、人を見下してばかりの、可愛げのない子だ。しかし、そんな関係性も今日で終わりだ。
「寄生中の嫁は出てけって言われたんで、じゃあ、実家に帰ります。」
私の言葉に、三人とも笑い出した。本当にバカな人たちだ。私は全て知っているというのに。せいぜい、今のうちに好きなだけ笑っておくといい。しばらくすれば、まともに笑える日々さえ、来なくなるのだから。
私がスマホで連絡を取ると同時に、玄関の扉が開く。それは、復讐劇の始まりの合図となった。現れたのは、所々が土で汚れたジャージを着ている男性。何事かと驚いていた義家族たちだが、男性を見て、再び声を上げて笑い始める。私は無視して、現れた男性と外に向かった。
直後、ハルトたちの笑い声はぴたりと止まった。そこにあったのは、知らぬ人間はいない有名メーカーの超高級車だ。すでに家を出る準備をしていた私は、私物を詰め込んだ鞄を手に車へ向かおうとした。
「ちょ、ちょっと待って、夏美。なんだ、そのバカみたいに高い車は。それに、そいつはお前の親父だろ。だったら、なおさらおかしい。お前の親父が、なんでそんな高級車を乗り回しているんだ?」
「別におかしい話ではないわよ。父さんは社長をしていてね。この中の誰よりもたくさんのお金を稼いでいる、すごい人なのよ。」
ハルトと義母、そしてあきちゃんは顔を見合わせる。そして三人で声を上げて笑い出した。
「バカも休み休み言えよ。お前の親父が社長なんて、聞いたことない。それに、こんな小汚いジャージ姿の奴が社長なわけないだろう。」
「本当に、冗談が得意なのね。夏美さん、そこまでして見栄を張りたいの? そんないい車、どこかで借りてきたに決まっているでしょ。私たちの家だって、そんな車買うなんてできないわよ。」
「夏美さんって、本当おかしくて面白いね。この話、次に書く漫画のプロットにしたいから、詳しく聞かせてね。」
私は父さんと顔を見合わせて、やれやれと肩をすくめる。笑いたければ笑えばいいわ。
「父さん、話してもいいのよね?」
「ああ、構わないよ。」
「父さんは、今の母さんと結婚する前に、一度離婚していてね。それ以来、仕事関係の人以外には、自分の正体を明かさないようにしているのよ。最初の奥さんは、父さんの財産目当てだったの。その経験があるから、あまり自分のことを人に話さないようにしてるのよ。私の父さん、何かとおかしなトラブルに巻き込まれがちでね。こんな乞食みたいなジャージ姿で来たのも、悪かったね。」
「階段や営業などの場以外では、あまり格好を気にしないことにしているんだ。元々、着飾った格好は嫌いでね。まあ、君たちみたいな人間に取り繕う必要がなかったというのもあるがね。だけど、今日は――」
そう言って、父さんはコツンと、無造作に五千万もする高級車を叩く。
「何か自分を証明できるものがないと、君たちに馬鹿にされかねないと思ってね。今日のために、わざわざいい車を買ってきたんだ。まあでも、他の証拠も見せた方がいいだろう。」
父さんは義母に近づくと、一枚の名刺を差し出した。呆けたような顔のまま名刺を受け取る義母。そこに書かれていた名前を見た瞬間、義母の表情が凍りついた。ハルトも、さすがに焦りを見せる。ただ唯一、分かっていないのが、あきちゃんだ。すっとぼけた顔で、ぽかんとしている。
「な、夏美さんの父親が、うちの両亭に仕入れをしている会社の社長?」
「そうだ。私は亡くなった、あなたの旦那さんと古い付き合いでね。それなのに、私の顔すら覚えていないとは。だが、今日でそれも、全部終わりだよ。あなたは、生前の旦那さんに全てを丸投げしていたんだろう。だから、旦那さんと私の関係も知らなかった。旦那さん亡き今は、夏美に全部押し付けているらしいね。」
正直、私の父親は、素性を隠そうが隠しきれないほどの人間だ。一人で農業の事業を始めた後、コツコツと経営を軌道に乗せた。そして、農家などの一般的な販路以外に、ネット販売や故郷納税に販路を広げたところで、需要が急増。設備や人員に膨大な投資をしなければいけないほどの会社に急成長した。両亭や高級料理店に食材を卸し始めた販路も、その一つ。農業業界の革命児としてメディアにも取り上げられており、調べれば当たり前にネットに顔が出ている。さらにSNSには、父さんが社長になった経緯を題材にした漫画が投稿されている。そして、その漫画は出版され、百万部を突破した。我が父ながら、赫々たる実績を誇っている人物なのだ。
「あきちゃん、よく聞いてね。あなたのところの両亭は、うちのお父さんからほとんどの食材を仕入れているの。その販路がなくなってしまえば、お店の経営が立ち行かなくなるほどね。漫画しかやってこなかったあきちゃんには、分からないかもしれないけど。」
「はあ? 夏美さんのくせに、私をバカにしてるの?」
「あき、黙ってくれ。お父さんが社長とは知らずに、大変失礼いたしました。あなたのおかげで、今のうちがあるようなものです。あ、よければ、上がっていってくださいね。夏美さんも、ほら、一緒にお茶でも」
さっきまで、ジャージ姿の貧乏親父と見下していたくせに、父さんの正体が分かると同時に、ぐるんぐるんと手のひらを返すハルトと義母。どこまでも卑屈になって、父さんにすり寄っていく。そんな彼らに、父さんはにっこりと笑う。
「ああ、お構いなく。私の機嫌を取る必要はないよ。今日限りで、そちらとの契約は打ち切らせてもらうからね。」
「な、ちょっと待ってください。俺たちは何も知らなかったんです。お父さんの会社に契約を切られたら、うちの会社は潰れてしまう。」
「そ、そうですよ。夏美さんには、お嫁さんとしての必要な教育はしてきましたが、ひどいことはしていません。今日もたまたま、口喧嘩が過ぎてしまって、出ていく話になっただけで――」
その言葉に、父さんの雰囲気が一変する。鋭く目を細め、言い縋るハルトたちを睨みつける。
「自分たちは何も知らなかった、必要な教育をしてきた、ねえ。私が聞いているのが、昨日今日の話だけだとでも思ってるのか。君たちの悪態は、これ以上聞きたくないほど聞いている。ヘラヘラと、人の神経を逆撫でするような態度を取るな。」
突然の雷声に、ハルトたちは体を震え上がらせる。
「私が過去に結婚した相手から受けた仕打ちは、さっき夏美が話した通りだ。家族であるはずの私を、元妻とその家族は財産以外に目もくれなかった。君たちと同じように、私のことをお金を生み出す装置くらいにしか思っていなくてね。だから私は、君たちのような人間が、どこまでも嫌いなんだ。」
「そ、それはだから、誤解があって。お父さんだって、俺の父親とは親しい関係だったのでしょ? そ、それなら、これからも取引は続けてくれても」
「ああ、君の父親は素晴らしい人だったよ。私は彼の人柄ややり方に惚れ込んで、いい食材を安く提供させてもらっていた。何度も店に足を運んでは、食事も食べさせてもらっていたよ。君たちは、全く知らなかったようだが。」
「え、それは謝ります。だから、取引はこれからも」
「それはできない相談だ。契約は打ち切り。その決定に変わりはない。今日のことで、君たちという人間がよくわかった。」
父さんは五千万の高級車に目を向け、鼻で笑う。
「私は普段から、こんな高級車を乗り回さないんだがな。特定のバカには、この手の小道具は、とても役に立つんだ。君たちも、金に目がくらんですぐ手のひらを返した。それなりの出費だったが、娘からゴミ虫をひっぺがすには、安いものだ。」
何も言えなくなったハルトと義母。しかし、ずっと話に入れなかったあきちゃんが、父さんの前に立った。
「ちょっと待ってよ。お兄ちゃんやお母さんが謝る必要なんてないじゃない。こんなの、全部嘘に決まってる。社長だろうと何だろうと、関係ないわ。それに、夏美さんのお父さんの会社なんて、どうせ大したことないんでしょ。」
「あきちゃんは、何も知らないのね。私たちの結婚は、元々約束みたいなものがあったのよ。」
「はあ? 何よ、わけのわからないこと言わないで。」
あくまでも噛みついてくるあきちゃんに、私は父さんに目配せをして続ける。
「私はそもそも、私の父さんとあなたの父さんの紹介で、ハルトと出会ったのよ。もちろん、父さんが自分のことは言いたくなかったから、会社のことは伏せて、友達の娘だって紹介されてね。あなたのお父さんは、本当に立派な人で、私も尊敬していた。だから結婚まで話が進んだ時、当然、私は両亭を手伝うことを申し出たの。両亭の仕事には、個人的に興味があったからね。でも、ハルトとお母さんは、両亭のことは一切気にしなくていいって言ったのよ。専業主婦として家庭を支えてほしい。それがうちの店としても助かるって。その言葉を信じて、私は家庭のことだけに専念することに決めた。でも、結婚してすぐに、ハルトは態度を急変させたわ。お母さんも、最初は優しいふりをしたけど、すぐに冷たくなった。挙げ句、家事だけではなく、何もかも私にやらせるようになった。両亭の手伝いだって、無給で、ほとんど休みなくさせられた。家事だって全部押し付けられた。感謝の言葉なんて、一度も聞いたことがないわね。」
「それは、お嫁さんとして当然のことじゃない。そんなおかしなことじゃないでしょ。」
「確かに、嫁としてきたから、家事や両亭の手伝いをすることは当然かもしれない。でも、感謝の気持ちもなく強制されることが、どれほど苦痛だったか、あなたたちには分からないでしょうね。お母さんやハルトにも何度も訴えたけど、聞く耳を持たずに、私を奴隷のように酷使してきた。そんな生活を続けてきた私は、一年と経たずに離婚を意識していたわ。でも、それでも我慢ができたのは、あなたたちのお父さんからのお願いがあったからよ。」
「願い? 亡くなる前に、うちの父さんと何を約束したって言うのよ。」
「お父さんは体を悪くして、両亭を離れて、ずっと私が完備をしていた。でも、亡くなる直前まで、家族のことを気にかけていたの。最後に私にお願いをした。『家族はお互い支え合っていくものだ。だから、君も息子たちを支えてやって欲しい』って。そのお願いがあったからこそ、私はこれまでの仕打ちがあっても、耐えてこられた。尊敬していた、あなたのお父さんからのお願いだったからね。父さんの離婚した際の話から、家族の苦労というものはたくさん聞いている。家族が支え合う大切さを、身に染みて知っている。だけど、それらを全て覆す、決定的な出来事があったのだ。」
私は鞄に忍ばせていたタブレットを取り出し、一つの動画をクリックする。画面には、ハルトと義母が映し出され、二人で何やら楽しそうに話し込んでいる様子が映し出されていた。
「計画、うまくいったな。」
「ええ、全然バレてないわね。」
私は音量を上げ、あきちゃんも三人に見えるように画面を向ける。ハルトと義母の顔は、土色のように悪くなってしまっている。動画の中で、ハルトは続けた。
「夏美がいいタイミングで来てくれて、本当に助かった。親父も、突然倒れるもんな。病人の面倒なんて、いつまでも見てられないっての。両亭だって、客の顔色ばかりで、だるいことこの上ない。結婚なんてするつもりなかったけど、都合のいい女が来てくれたもんだよ。最後まで親父の介護してたし。両亭だって、任せとけば勝手にやってくれるしな。」
「そう。あの人が倒れた時は、どうなるかと思ったけどね。夏美さん、あの人の言うことはよく聞いたし、両亭のことも、給料なしで休みなく働いてくれるし、楽できてよかったわ。」
「いや、本当に、俺たちの思惑通りになってくれたよな。俺たちにとって、あれくらい便利な存在はなかったぜ。」
私はそこで動画を止めた。
「亡くなったお父さんは、私とハルトを娶せて、縁談を進めてくれた。でも、あなたたちはそうじゃなかったのよね。自分たちのことを考えて、自分たちのためだけに私と結婚を決めた。私が騙されていた。ただそれだけのことだった。」
自分の口が、自嘲気味に歪むのが分かった。これが真実。お父さんの介護を押し付け、家事も両亭も、自分たちがやりたくないことは全部、私に押し付けた。私たちが本当に家族なら、私は今のままの生活を続けても良かった。でも、分かったのよ。私たちは、最初から家族なんかではなかったのよね。
「お前、俺たちを盗撮して、そんな動画を撮っていたのか。非常識にも程があるだろう。こんな、こんなことって、やっていいことと悪いことがあるでしょ。」
「これを撮影したカメラは、元々あなたたちを撮るために設置したものじゃないわ。私はお父さんの完備をしながら、両亭に出なければいけなかった。でも、家にいるお父さんに何かあってはいけない。あなたたちは、お父さんが寝ているのに、好き勝手に遊び回って、家を開けていたじゃない。もしお父さんに何かあったら、どうするの? 仕事がない時は、交代でも家にいるべき。私はそう訴えたけど、あなたたちは聞く耳を持たなかった。だから、いつでも様子が分かるように、お父さんの許可をもらってカメラを設置していたのよ。これでも、カメラを設置しない方が良かったと言えるのかしら?」
ハルトと義母は俯く。私は、改めて怒りが込み上げてきた。非常識なんて言われたくない。やっていいことと悪いことの区別もつかない二人にだけは。タブレットを鞄に戻し、代わりに封筒を取り出した。それをハルトに叩きつける。
「離婚届よ。私は、お父さんからのお願いがあったから、今まで耐えてきた。『家族と支え合って欲しい』って。でも、分かったの。私たちは、初めから家族なんかじゃなかった。だから、私たちの関係はこれまでよ。精神的苦痛による慰謝料も請求する。徹底的にやってやるから、せいぜい覚悟をしていればいいわ。」
ハルトと義母は体を震え上がらせ、二人揃って私に泣きついてきた。
「お願いだ、夏美。俺たちが間違っていた。どうか、どうか許してくれ。本当にごめんなさい。」
「私たちが悪かったわ。どうか、もう一度だけチャンスをちょうだい。」
しかし、間に入った父さんが、私に近づくことを許さない。無言で睨みつけると、しなりとその場に崩れ落ちる。
「行こう。もうやるべきことは、全て終わった。」
父さんは高級車に乗り込み、私もそれに続いた。そんな私の元に、あきちゃんが駆け寄ってきた。
「な、何よ。あんたなんて、自分では何もできないくせに、調子に乗らないでよね。縁が切れて清々するわ。もう二度と顔を見せるな。」
彼女の言葉は鋭かった。確かに、私は特に何かが秀でているわけではない。それでも、私は私なりに家族を支えようと、懸命に頑張ってきた。介護も両亭も、それなりに貢献できたはずだ。それでも、私たちは家族にはなれなかったのだ。私はあきちゃんには何も言い返さず、父さんが運転する車に乗り込んだのだった。
私が夫の家を出てから数ヶ月後、長年、波乱万丈の生活を送ってばかりだった私に、久しぶりに平穏な日々が戻ってきていた。両亭で朝早くから仕込みをしなければいけないこともない。元夫や義母に奴隷のように使われることもない。ストレスで心を病むこともない。これからのこと、未来のことを、明るい気持ちで考えられるようになっていた。しかし、私は今、ハルトの妹であるあきちゃんと向かい合っている。郊外にある、落ち着いた喫茶店に呼び出されたのだ。「二度と顔を見せるな」なんて言っていたけど、今日は一体何の用かしら。
「そ、それは、えっと……。」
あきちゃんは、しどろもどろに呟いて俯いた。私は今日、あきちゃんに呼び出されて、こうして出向いていた。私の元に、一通のメールが届いたのだ。差出人は元義妹のあきちゃんだった。あの家の誰かからは連絡が来るだろうとは思っていたが、あきちゃんから連絡があったのは、少し驚いた。「一度会って話がしたい。どうしても話したい。助けてほしい。」メールの文面からだけでも、火急の件であると見て取れた。最後にあんな別れをした手前、相当話しにくいだろうに。そうまでしなければいけないほど、大変な状況にあるのだろう。私はメールに返信し、あきちゃんと会う約束を取り付けたというわけだ。
私は余計な話はせずに、まっすぐあきちゃんを見つめる。黙り込んでしまうあきちゃんに、私は探りを吐き出す。
「私はこれでも忙しいんだけど、早く話をしないのなら、帰るわよ。」
私がそう言うと、あきちゃんは机に両手をついて頭を下げた。
「ごめんなさい。今すぐ、帰ってきてください。お兄ちゃんもお母さんも、もう限界なんです。」
私のことを見下していたあきちゃんが、こんな態度を取るのだ。予想通り、事態は相当まずい状態にあるのだろう。涙目になっているあきちゃんだが、私は知らぬ顔を貫く。私はコーヒーを一口飲みながら、すっとぼけてあきちゃんに問う。
「どうしたの? あなたがそんな風に謝るなんて、何か大変なことでもあったの?」
「お願い、夏美さん。うちの両亭が、もうダメなの。夏美さんのお父さんと取引がなくなって、どんどんお客さんが離れていってるの。予約もたくさん入っていたのに、すぐに代わりの食材を準備ができなくて。」
「仕入れっていうのはそういうもの。仕入れ価格の交渉、納品日の調整、トラブルで仕入れができなくなった時の代わりの仕入れや代わりの料理。あなたたちは、亡くなったお父さんの仕事を理解してなさすぎるのよ。全部、私に押し付けていたから、そんなことになるの。いい気味だわ。」
「そ、そんなこと言わないで、助けてよ。あなただって、ずっと両亭で働いていたんだから、愛着くらいあるでしょ。『ずっと予約を待っていたのに、来てみたら料理が出ないとは何事だ』って。クレームの電話も、客の怒鳴り声も毎日でもう、本当に限界なのよ。」
苛立ちを隠せないあきちゃんは、机の上で両の拳を強く握る。
「大体、変なのよ。なんで、夏美さんが一人抜けただけなのに、こんな風にお店が回らなくなるなんて。お父さんが倒れた時だって、店はこんなことにならなかったのに。お兄ちゃんもお母さんも、前よりずっと店に出て、それこそ休みなく働いているのに。」
「あのね、あきちゃん。ハルトたちから、何も聞いてないみたいだけどね。元々、お父さんが両亭を離れてから、両亭の経営を支えていたのは私なの。」
「え? なんで、どういうこと?」
「私が手伝っていた頃から、ハルトに対するクレームは数えきれないほどあったのよ。口には出さなかったけど、お父さんも悩みの種だったの。接客は雑。盛り付けは雑。掃除はすぐに手を抜く。声も小さい。問題点を上げれば、切りがない。一般の飲食店なら、それで良かったのかもしれないが、義父の両亭は超一流。小さな問題点でも、お客様の目には留まってしまうような場所だった。でも、あなたのお父さんは、家族というものを本当に大切にしていた人だったからね。『お客さんに向かって評判が落ちるから、両亭に立つな』とは言えなかった。だから、ハルトたちは少しずつ仕事から外されていって、最近では裏方仕事しかしてなかったのよ。私が両亭に立つようになって、どうにかお父さんと両亭を立て直したのよ。彼らが中心となって両亭の仕事をすれば、評判がめちゃくちゃになるのも、さもありなんというわけだ。私に仕事を押し付けてきたというのもあるが、彼らは、ただ単純に仕事ができない人間だったのだ。」
もちろん、彼らが心を入れ替えて、心身共に本気で仕事に向き合えば、そんなことにはならない。しかし、あんな小人の悪さを寄せ集めたような彼らのことだ。そんな殊勝なことをするわけもなく、店の評判を徹底的に悪くしていったというわけだ。スマホを取り出して、お店の口コミを見てみる。私が店を切り盛りしていた時期は、高評価ばかりだった両亭。しかし、今では圧倒的低評価がずらりと並んでいる。「料理が出ない」「聞いていた食材と明らかに違う」「店員の態度が悪い」。多種多様なクレームの数々が列挙されていた。私がいなくなって、店の評判がボロボロになって、もう誰にも立て直せない。そういうことよね。
「でも、あきちゃん、あなたが私に言ったことを覚えてる? 『縁が切れて清々する。二度と顔を見せるな』って。そう言ったのは、あなたでしょ。」
「でも、私にはどうしようもなくって。もう、夏美さんを頼るしかないのよ。」
「仮に両亭がなくなっても、大丈夫でしょ。あなたが支えればいいんだから。漫画家だって、生業にしていたんだから。それくらい、どうってことないでしょ。」
私の言葉に、あきちゃんは悔しそうに歯を食い縛って、目をそらす。
「実は、私の連載は打ち切りになっているの。もう収入もほとんどなくて、これまで稼いだお金も無駄遣いしちゃって、貯金も残っていない。だから、両店がなくなったら、もうどうしようもなくなっちゃうのよ。」
そして、日も暮れもさっちも行かなくなって、私に会いに来たということらしい。あきちゃんから打ち明けられた私は、そっと息を吐いた。
「あきちゃん、私はあなたの漫画が打ち切りにされていたこと、知っていたわ。」
「な、なんで知っているのよ。一体誰に聞いて。」
「聞かなくても分かるでしょう。あなたの漫画は、雑誌で連載されていたんだもの。あなたに言うと調子に乗りそうだから言わなかったけど、私はあなたが漫画を連載した初期から見ている。母から進められてね。実はね、私の母、漫画家なのよ。」
「夏美さんのお母さんが、漫画家?」
「私のお母さんは、SNSを中心に活動している漫画家だ。父さんが社長になるまでの経緯を漫画にして大ヒットさせたのも、何を隠そう私の母である。『結婚した経緯まで取材で連絡を取り合っているうちに、仲が良くなって』という物語までついている。恥ずかしいから言わなかったけど、あんな面白い漫画を書いている人が、義理の妹になって、本当に嬉しかったのよ。あきちゃんの漫画は打ち切りにはなってしまったが、連載当初は圧倒的人気を誇っていた。しかし、連載が続くにつれて話や絵が雑になっていき、打ち切られる頃には、連載中の作品でも低評価に落ち込んでいた。あのサボりっぷりを見ていることからも分かる通り、連載できたことに胡座を描いて、徐々に熱が落ちていったのは確かだろう。ハルトたちは、どうしようもないほど嫌いだけど、それでも、あきちゃんの漫画は好きだった。でも、あなたから見下されたり、乱暴な扱いを受けたりして、正直ショックだったわ。」
あきちゃんは驚いたように口を開けていたが、やがて声を震わせて話し始めた。
「漫画は、最初は楽しくって仕方がなくて、ただ書きたいものを書いていたの。でも、だんだん自分の漫画が読者の期待に答えられているのか分からなくなっちゃって、怖くて、不安で、不安で仕方なかったの。それで、その不満を吐き出すために、夏美さんにひどいことをしちゃっていた。本当にごめんなさい。」
この謝罪は、きっと心からの謝罪だろう。私はそれを受け入れる。
「あなたのことは許せないけど、ハルトたちみたいに、嫌いになったりもしないわ。それでも、ごめんなさい。私はあなたたちのところに戻るつもりはないわ。私は私で、もう新しいことを始めている。」
「新しいこと?」
「自分の料理店を始めるの。皮肉なことに、ほとんど一人で両亭を切り盛りしていた経験が生きたわ。」
「そ、それなら、うちの店でやってくれたって。」
「それはできないわ。私がやっていることは、私の父さんを助けることだもの。私は、あなたのお父さんに言われたことを、今でもよく覚えている。『家族は支え合うべきもの』って。今こそ、あなたたちが支え合うべきじゃないのかしら。」
あきちゃんはその言葉に、さらに深く後悔の色を浮かべる。そして泣きながら、何度も何度も謝罪をしていた。私はそんなあきちゃんを残して、店を後にするのだった。
あきちゃんにお店の真実と私の気持ちを伝えてから、いくつか季節が巡った。私が実家に帰ると、両親が温かく迎えてくれる。父は、いくつかの会話をすると、すぐに農業のために出ていく。相変わらず、汚れたジャージ姿。かつての超高級車ではなく、軽トラックに乗って、ただ、休日には進んで乗るようになっていた。なんだかんだで、高級車の運転が楽しくなってきたらしい。「ハルトたちをこらしめるために買った小道具だが、存外いいものだな」と豪快に笑っていた。父は、私が料理店を始めたことを、すごく喜んでくれた。両亭一つの売上がなくなったところで、父には大した痛手でもなかった。それでも父は、私が料理店を始めたことで、一層農業に精を出している。結局、かつて私が手伝っていた両亭は、経営不振で潰れてしまった。今では、私のお店に当時のお客さんが流れてきており、多忙だが充実した日々を送っている。
「そういえば、夏美はこれ読んだ?」
「うん、読んだよ。」
雑誌の表紙には、見知った名前が表示されている。随分前、母から「すごい新人漫画家が現れた」と教えてもらった。その新人こそ、ハルトの妹だったあきちゃんである。それで、私はあきちゃんの漫画を読むようになったのだ。彼女の才能は本物だと思った。漫画で人を感動させる、本物の力があると。だからこそ、人を貶めるようなことをして欲しくはなかった。私はハルトや義母、あきちゃんにされたことを、簡単には許せない。それでも、謝罪を認めたのなら、今度こそ家族で支え合って欲しいと思っている。母から手渡された雑誌の表紙には、読み切りではあるが、あきちゃんのペンネームがあった。私が新しい道を進み始めたように、あきちゃんもまた、始めている。私も、まだまだ道半ば。これからも、家族で支え合っていけるように、今日も頑張っていくのだ。



