「こんな仕打ちは初めてだ。もう一度言う。全取引を解約する。五十億円を下ろす。支店長を呼びなさい」…

「こんな仕打ちは初めてだ。もう一度言う。全取引を解約する。五十億円を下ろす。支店長を呼びなさい」...

「こんな仕打ちは初めてだ。もう一度言う。全取引を解約する。五十億円を下ろす。支店長を呼びなさい」

「申し訳ありませんでした。そのような方とは存知らず…。この件につきまして、お目こぼし願えないでしょうか」

若造は頭を下げたが、こいつはこういうことにだけは頭が回るようだ。

「知らなかったのですか? それで許されるなら、日本はもっといい国になっていたでしょうね」

私は鼻で笑った。

私は上田譲二、六十二歳。趣味は貯金と投資だ。暗号資産や株、投資信託などを行い、その利益を得ている。仕事もあるので投資家というほどではないが、妻が株主優待を楽しみたいと言うので、優待の質が高い企業の株をそれなりに保有している。外貨中心のデイトレードは外国為替のオープン時間に張り付く必要があり、睡眠時間がなくなるので、暗号資産のガチホオンリーだ。

仕事はまあそれなりに利益を出せる会社で働いている。仕事を楽しみながら、時折株取引をするといった感じだ。投資と仕事のバランスは、投資二割、仕事七割、付き合い一割といったところか。

今夜はお得意様を招待して食事会を行うところだ。定期的に接待をして、互いに情報交換をするのだ。情報交換とは聞こえがいいが、酒が入れば仕事の話は二の次になる。それでも懇親を深められれば、次の引き合いにつなげることも可能だ。

取引先の重鎮をお迎えして、地域で人気の高級料亭へ足を運ぶ。地元の議員たちも利用する老舗で、ここの刺身と天ぷらが絶品なのだ。取引先の重鎮もこの店をひいきにしているため、女将にはいつも世話になりっぱなしだった。

ただ、今日はいつになく女将が困っている様子だった。品のない若造が一人、怒鳴り散らしているのだ。

「おい、なんだよ。客二人くらい入れるだろうがよ。なんで断られなきゃいけないんだよ」

「本日は予約が入っておりまして、飛び込みのお客様はお断りしております」

「いくつも個室がある店なのに、そんなに客もいねえだろうが。腹減ったんだよ。うまい天ぷら食べさせてくれるって言ったじゃん。ほら、妻も腹を空かせてんだよ」

女将が私たちの姿を認めると、そのカップルを二の次にして深々とお辞儀をした。

「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。上田様とお連れ様、お待ちしておりました。どうぞ」

女将は仲居に私たちを引き渡し、部屋へ通すように言いつける。

「なんだよ。俺らよりも後に来た連中を先に通すのかよ。差別すんのもいい加減にしろよな。今日はこいつの誕生日なんだ。うまいものを食わせてくれよ」

若造のスーツは見たところいいブランド品のようだが、肩のラインや袖の長さ、色合いも若造には全く合っていなかった。おそらくブランド専門店で販売されている中古品だろう。それに、妻と呼ばれた女性はこの料亭にふさわしくない服装だ。紫色のドレスは体の線を強調させたデザインで、露出が多すぎる。ドレスと一応言ってみるが、布をまとっただけと言っても過言ではない。見かけもミセスという印象は全くない。

「あのう、当店は完全予約制なんですよ。食材なども予約を受けてから集めますので、飛び込みでおいでになってもお食事はご用意できません。それに…」

女将は何かを言いかけて口ごもった。

「なんだよ。そこまで言いかけてやめるのかよ。そういうところも納得できねえんだよ」

「おそらく、このお店の飲食代を女将さんは心配してくれているんだろうね。お通しだけで三千円。いい酒と刺身、天ぷらのお任せで大将に頼めば、一人分五万円コース。それに消費税とサービス料が加算されるからな。君に支払い能力があるかって聞きたかったんだろう」

女将はぶんぶんと首を横に振って否定していたが、あながち間違いではないようだった。私の一言に、取引先の重鎮たちが笑い出す。

それに、一見の客がこの店の性質上断らざるを得ない。地方議員や国会議員などの政治家たちがこの店でよからぬ相談をすることもある。聞かれてはまずいことも多いので、信用できる人間しか予約を受けないのだ。

「やい、爺さん。俺は都内にある国立大を首席で卒業したエリートだぞ。後客の短いお前らの席を俺たちに譲れ」

「それは構いませんが、女将さんに五人分の食事代を現金でお支払いくださいよ」

「はあ? 五人分なんて俺とミキで食い尽くしてやる。いくらだよ」

女将さんもこくりとうなずいている。前払いなんて不粋なことはこの店ではしていない。サイズの合わないスーツに安っぽいドレスを着て入店する客が信用できないから、追い返しているのだ。女将さんは、あらかじめ用意してあった五人分の食事代の請求書を見せる。

若造の表情を見て、お得意先の重鎮は満足したように大笑いする。若造は「え、あの…」としどろもどろになりながら、一目散に逃げていった。紫色の安っぽいドレスを着た、誕生日を迎えるであろうミセスを置き去りにして。

「え、ちょっと…置いていかないでよ」

「ちょっと奥さん、あんな男とはすぐに別れなさい」

また笑いが巻き起こる。

「やあ、面白い客だったな。女将さんも大変だったね。食事と美味しい酒を、今日もまた頼むよ」

この十分ほどの出来事を肴に、今日の情報交換会は楽しく時間が過ぎていった。女将からは集合のお詫びにと天然鯵の塩焼きをサービスしてもらった。

それからしばらくの時間が経過した。私は朝一で銀行の待合ロビーにいる。普段なら妻に用足しを頼むのだが、このところの銀行は融通が利かない。本人が出向いた方が話がスムーズに進むため、時間を作って銀行へ向かったのだ。午後から用事があったので、朝一で処理を済ませようと、九時のオープンと共に大きな銀行の本店に足を踏み入れた。

大きな銀行は都銀の中でメガバンクと言われる存在だ。行員が声を揃えて「いらっしゃいませ」「おはようございます」と声をかけてくれる。私は合併前の一番銀行の頃から取引があり、とても頼りにしている銀行だ。

窓口にいた行員と目が合ってしまった。その行員は、先日高級料亭で門前払いを食らったあの若造だった。窓口担当らしく、中井戸健と書かれたプレートが置かれている。やはりあの体に合わないスーツを着ており、他の行員とはどこかずれているような印象を受けた。私がにこやかに会釈をすると、営業担当とは到底思えない表情でこちらを睨みつけてきたのだ。

「ほう、怖いな」

小さな声で呟くと、すでに五人の顧客の順番待ちがあったので椅子に座って待つことにした。大きな銀行の本店は窓口がいくつもあるので、すぐに呼ばれるだろう。

「お取引の都合上、順番を変更させていただきます。番号六番でお待ちのお客様、四番窓口へお越しくださいませ」

いつもなら電子音声で聞こえる呼び出し案内だが、今回は係員が案内をしている。私の番号札は五番だ。

「ほお、抜かされてしまったか」

そのうち電子音声が七番、八番、九番と、私より後の人間を呼び出している。呼び出しが十二番にまで至ったところで、私は窓口の担当者に聞いてみることにした。

「あの、五番って呼ばれましたかね」

窓口の行員は呼び出し状況を確認し、「もうすでにご案内済みで、お手続きは完結しています」というのだ。

「おかしいですね。私ずっと待っているんですが、一向に呼ばれませんよ」

そう言うと行員は素っ気なく、もう一度番号札を取って待っていてほしいというのだ。

「ほお、そうかい」

私も気が長くなったものだと思う。もう一度番号札を取ると、七十二番の表示が出た。

「七十二番か…」

その番号を見て軽くため息が出る。今急いで手続きが必要だというわけではなかったので、帰り直しても良さそうだったのだが、私は見逃さなかった。番号札を取り直した時に視界に入った、あの中井戸とかいう若造のほくそ笑む表情が気になったのだ。

「これは報復だな」

うすうす気づいてはいた。しかし、時間がない割に、めにあってみようかという好奇心が勝った。

やはり呼び出し順を操作しているようだった。七十一番、七十三番、七十四番と、私の順番を抜かして呼び出していた。七十九番の顧客が呼び出された時に、私はもう一度別の行員に問い合わせてみる。やはりさっきと同じ回答で、案内済み、手続き完了済みと言われたのだ。この行員に至っては、「手続きが済んだのに呼ばれていないって、なんかくせつけてくる爺さん」と不審な視線を投げかけてきた。

「分かったよ。もう一度順番を待つことにするよ」

番号札を再度受け取った時に確信する。中井戸がさっきの行員に何やら耳打ちをしていたのが目に入ったのだ。行員が私の行動を把握し、何やら小声で返答をしている。中井戸が「ああ、そうして」とうなずいている姿も見て取れた。

その数分後には、私の近くにさりげなく警備員が立っているではないか。どうやら不審者認定されたようだ。

「あそこの椅子に座った人物は不審者だ」という連絡が行員たちの間で広まったらしく、番号札を再度受け取りに行くことを何度も繰り返す私に、声をかける行員はいなかった。

「おいおい、ここはこんな対応する銀行だったか?」

数年ぶりに銀行に出向いたから、様子が全くわからない。すると館内から「蛍の光」のメロディが流れてきた。もう十五時のクローズを知らせる音声も聞こえてきた。時計を見ると、もう六時間も待たされたとわかる。呆れながら呆れ果ててしまったが、不思議と怒りが湧き出てくることはなかった。

警備員がいよいよ私に声をかけようとしたところを、手で制す。ロビーにはすでに私しかおらず、行員全員に緊張が走る。

「どうなさいましたか? ご用でしょうか?」

責任感を振りかざしたような笑顔で中井戸が出てきて、私に声をかける。

「全ての取引を解約する。今日はそのために来た」

私は努めて感情を表に出すことなく声にしたつもりだったが、低く濁った声が出てしまったようだ。

「はい、爺さんよ。なんだよ、その言い方。こっちとら日本最大規模の大きな銀行だぞ。お願いの仕方ってもんがあるだろうが」

警備員に聞こえないくらい小さな声で、中井戸は私に言う。そして手を出しながら、通帳をこっちによこせとジェスチャーをした。

一冊の通帳を渡す。本当はこの通帳の解約手続きだけだったのだが、こんなにも時間がかかってしまった。すると中井戸はブッと泡を吹いたように吹き出し、大笑いを始めたのだ。

「おい爺さん、なんだよこれ。残高、一万円しかねえじゃんか。全ての取引って…おい、これだけかよ」

中井戸の態度に異変を察知したらしく、知った顔がようやく私のところに飛び込んできた。

「あ、あの、上田様、手前どもの中井戸が何か失礼をしておりましたでしょうか?」

「ああ、平野君か。相変わらず得意先回りに出ていたのかね。大変だなあ。君とコンタクトが取れなかったので、用事を済ませるために本店まで来てみれば、このざまだよ」

平野は平謝りしている。

「中井戸君、こちらの方は上田物産会長の上田譲二様だよ」

中井戸はぽかんとしているが、すぐに自分のターンへ引き込んだ。

「何わけありますか? このおっさんはゴミ企業の会長さんでしょ? だってこの通帳、残高一万円ですよ」

「それは平野君が個人ノルマを達成させたいからと、付き合いで作ったカードローンの口座だ。一年経過してほとぼりも覚めただろうから、解約しに来たんだよ」

そして一瞬だけ平野を一瞥する。

「解約して欲しいと伝えれば、のらりくらりとかわして一日延ばしにするのは、この銀行の企業風土なのかね。この通帳の解約に関しては六時間どころか、もう一年も待ったんだが。追加融資に関してはすぐに担当の平野が会社まで来ていたのだが、有資金の返済や解約という話になると、途端に『戦略あり』などと約束を取り付けられないでいたのだ」

「もういい。支店長をここに呼びなさい。全取引を解約するよ」

「ちょ、ちょっとお待ちください。それは突然困ります」

「会社の資産だけではなく、個人資産もだよ。管理を任せていた仮想通貨も、全て取引を解消させてもらうよ」

若造の中井戸は、私が何を話しているのか。上司の平野がなぜ止まらぬ平謝りを続けているのか、分からないようだ。そしてスーツのポケットからスマホを取り出し、検索をかけた後に、目の前にいる「爺さん」が何者であるかが分かったようだ。

「こんな仕打ちは初めてだ。もう一度言う。全取引を解約するよ。五十億円を下ろす。支店長を呼びなさい」

「申し訳ありませんでした。そのような方とは知らず、この件につきまして、お目こぼし願えませんでしょうか?」

九十度の最敬礼で、かつ大声で平謝りしてくる。この若造は、こういうことに関しては頭が回るようだ。

「知らなかったのですか? それで許されるなら、日本はもっといい国になっていたでしょうね」

私は鼻で笑った。

すると、事態を知った支店長が顔面蒼白の状態で現れた。支店長の後ろには女性が一人、寄り添っている。

「慎ちゃん。え、いや、上田様、お話は把握いたしました。との全力、取引解約は…そのう、ご勘弁いただけますでしょうか?」

「はあ、久しぶりだね。いや、俺も分かっているよ。君のとこに預けた会社資産や個人資産を全て解約して引き出してしまえば、プチ取り付け騒ぎになることは百も承知だよ」

下山支店長とは三十年の付き合いで、一流ホテルの最上階にあるスポーツジムで一緒に汗を流す仲だ。私は普段から「慎ちゃん」と呼ばれているが、今はそうもいかない状況だ。

「まあ、ここまでひどい仕打ちを受ければね。ていうか、下山支店長、私が立て替えていたゴルフ会員の費をもう五年も支払ってもらってないんですよね。それっきり、スポーツジムでのお付き合いも途切れているじゃないですか」

行員たちの前でみっともなくさらされる支店長。

「もっと言おうか。ゴルフクラブや食事代など、私のところに回ってきた請求書の数々」

「いや、やめてくれ」

頭を抱えてうずくまる下山支店長を見て、平野や中井戸は呆然と立ち尽くすばかりだ。

本当に、この銀行の行員もそうだが、支店長、大したものだ。

その時、裏口から一人の男性が入ってきた。

「おお、助けに来たよ。ああ、助かったよ」

先日、料亭で中井戸の惨状に大笑いした、取引先の重鎮だ。下山支店長は、その顔を見ても、まさに正気ではいられないようだ。

「なんだかこの銀行やばいって話を聞いて、うちの会社も全取引解約することにしたよ。上田君の会社でも、当座を持っている富士山銀行に乗り換えることに決めたからな」

上田物産が主要取引先銀行から大きな銀行を除外することで、この銀行の経営状況は間違いなく悪化することは間違いない。重鎮は、私からの連絡を受けて解約すると言い出したのだ。

支店長と平野は体の芯から震え出している。全国規模の企業が二つも主要取引先銀行から除外すると言っているのだ。経済すら揺るがす大事件に発展する可能性が強まっている。もはや中井戸のこの六時間の振る舞いどころではない。

「悪いね、平野君。ゴミ企業の経営者が持っている、残高一万円のカードローン口座を解約するだけだったのに。この若造君と支店長の振る舞いで、取り付け騒ぎに発展しそうになっているよね」

平野は無言で首をぶるぶると横に振ることしかできない様子だ。

「あの、私、秘書課長の中井戸千春と申します。状況は今、行員から伺ったとおりです。夫の中井戸の非礼をお詫びしたく…」

そう言って頭を深々と下げた。

「君がこの若造の奥さんかい?」

うなずく彼女を見て、私と重鎮は顔を見合わせる。

「ほお、すごいもんですなあ。最近の女性は、大きく変わるもんですね」

首をかしげて、千春がこちらを見る。

「この間、料亭でお会いしましたよね。その人は妻の誕生日を祝いに来たから、私たちの予約の席を譲れと言ってきたんですけど」

「何のこと?」

千春がそんな表情でこちらに向けてきた。

「十日ほどの間で、ここまで素敵なロングヘアになられるとは。それに、十日ほどの間でここまでお腹が大きくなるなんて。いやはや、びっくりです。あの紫色のドレス、とてもお似合いでしたね」

これだけの情報で、千春は全てを悟ったようだ。千春は妊娠しており、見たところ臨月に近い様子だ。チラリと夫を睨みつける。その目には涙がうっすら浮かんでいた。

「おや、別人だったようですね。すみませんね。こういうところが、『爺さん』と呼ばれる由縁ですわ」

今の流行り言葉で言えばテヘペロの感覚で、軽く伝えた。

「じゃあ、二社分と個人口座の解約手続きよろしくね。富士山銀行を今後のメイン口座にするから、そのつもりで」

私と重鎮は二人で笑いながら、銀行の裏口を後にした。そして二人で「やっちまったな」と笑い合い、二人でガッツポーズをかわした。

そしてスマホで料亭に電話を入れた。

「あ、女将さん、上田です。飛び込みで悪いんだけどさ、今日二人、一部屋空いてる?」

「分かった。ありがとう。十八時に伺うよ」

Thumbnail