「現場上がりには適正金額だと言えるだろう。」
部署の朝礼の場で、部長の小倉が突然、俺に広格と減給を告げた。そばにいた後輩の堀田が、得意げに追い打ちをかける。
俺の名前は市川。43歳の会社員だ。産業機械メーカーの営業部で課長として働いている。金属年数は21年。地道に信頼を積み上げてきたタイプだが、この会社ではそのやり方はあまり評価されない。
特に上司の小倉にとっては。小倉は3年前に営業部に来た。社長の娘と結婚したタイミングとほぼ同じだ。「小倉さん、人が変わったよな」と皆知っている。結婚前は真面目で評判のいい社員だったらしいが、今は偉そうになっただけの人物だ。
小倉は大手との契約して派手な数字を取ることを重視する。「お前がやってることは無駄だ。現場上がりだからなんだ」と、断るたびに俺を「現場上がり」と罵る。その度に俺は怒りよりも悲しさを感じていた。
俺は昔から目先の数字より信頼関係を優先してきた。足しげく通っている小さな町工場がある。そこの社長は最初こそ塩対応だったが、根気強く通ううちに、ぽつりぽつりと技術の話をしてくれるようになった。
「うちの技術はな、金属の接合部を独自の熱処理で仕上げてる。大手が真似しようにも、この職人の勘に頼る部分が大きくて再現できないんだ」
特許を取得したばかりのその技術は、過酷な環境でも部品の寿命を大幅に伸ばせる。大手メーカーがまだ手を出していない分野で、この町工場だけが独自の地位を築いている。俺は確信した。いつか必ず世間が注目する力だ、と。
しかし小倉は「意味のないことはやめろ」と言う。俺は見てもらった方がいいと考え、小倉をその工場に連れて行った。だが少し外観と設備を見ると、社長の目の前で「わざわざ来いと言うから来てみれば実にくだらない」と吐き捨て、さっさと帰ってしまったのだ。
あの日の出来事は忘れるはずもなかった。
そして今日、普段通りの朝礼のはずだった。小倉が突然「今日は言っておきたいことがある」と言い出した。困惑する俺とは裏腹に、堀田はなぜか得意げな表情だ。
「長年営業部で課長として尽力してくれていた市川君だが、次の人事で広格してもらう。給料は16万も下がることになるが、まあ現場上がりには適正金額だと言えるだろう」
部署内がざわついた。唐突な広格宣言。しかもみんなの前で給料の額に触れるなんて尋常ではない。そもそも小倉にそんな権限があるはずがない。
「代わりに堀田君は20万昇給だ」
小倉と堀田は目を見かわし頷き合っている。まるで息のあった猿芝居に、俺は胸の奥が冷えるのを感じた。
「意味が分かりません。いきなりそんな」
「何度も言うが、現場上がりには適正価格だ。嫌ならやめろよ。お前がやめたってどうとでもなるんだよ」
まだ正式な事例すら出ていないはずなのに、小倉はすでに決定事項であるかのように振る舞っていた。だが、この場で問い詰めても権限を盾に強引に押し通すだけだろう。ならばまずは冷静に事実確認をすべきだ。そう判断し、俺はあえて言葉を飲み込んだ。
「そうですよ。市川課長が辞めになればいいんですよ」
堀田が両手を叩いた。困惑していた部下の1人が止めようとしたが、小倉が睨むと後ずさってしまう。
「市川課長、退職届けも今出してしまってはどうですか? 」
堀田はサラサラと髪をかきつけると、俺に紙を差し出してくる。汚い字でデカデカと「退職届」と書かれていた。
「私自身の意思で書かなければ意味がない」
そう言いかけて、俺は口を継ぐ。怒り、失望、諦め、虚無感。言いようのない感情の数々が、俺に「どうでもいい」と思わせていた。
ややあって俺は一言だけ尋ねた。
「仮に私がこのままやめたとして、私の抱えている仕事はどうなりますか? 」
俺の問いに小倉は面倒そうに答えた。
「そんなものどうにでもなる」
堀田が得意げに続ける。
「そうだそうです。どうとでもなりますよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが静かに決まった。
「わかりました。では、そうさせていただきます」
俺は差し出された「退職届」と書かれた紙を受け取った。そして、自分の胸ポケットから、昨日準備しておいた本物の退職届を取り出した。
「こちらが、正式な退職届です。今、この場で提出します」
俺が差し出した紙を、小倉は怪訝な顔で受け取った。そして中身を見ると、顔色がさっと変わる。
「な、なんだこれは… 」
「ご覧の通りです。私からは以上です。ご清聴ありがとうございました」
俺はそう言って、朝礼の場を後にした。背後から小倉の怒声が聞こえたが、もうどうでもよかった。
その後のことは、すぐに噂になった。俺がやめた後、彼らはどうしたか?

俺が長年かけて築いてきた取引先との関係は、誰も引き継げなかった。大口の契約を取るだけの小倉たちには、俺が積み上げてきた「信頼」という目に見えない資産の価値が理解できなかったのだ。
そして数ヶ月後、俺の元に一本の電話がかかってくる。それはあの町工場の社長からだった。
「市川さん、うちの技術をちゃんと評価してくれる会社を紹介してくれませんか? 」
俺はこの時思った。信頼関係を優先してきてよかった、と。
時は流れて、俺は独立して小さな会社を立ち上げた。あの町工場の技術と、俺が培ってきた取引先との信頼関係を武器に、地道に仕事を積み重ねている。
そんなある日、街で偶然、元後輩の堀田に遭遇した。かつての得意げな表情はどこにもなく、憔悴しきった顔をしていた。どうやら、俺が去った後の営業部は傾き、小倉は責任を取らされる形で更迭されたらしい。堀田も出世の夢が潰え、今は別の会社で働いているそうだ。
「市川さん… まさか、あの時… 最初から…
」
堀田は何かを言いかけたが、俺はただ静かに笑っただけだった。
あの時、俺が胸ポケットから取り出した退職届。それは、小倉が俺を広格すると言い出す前、つまり朝礼の前に、すでに準備しておいたものだった。
俺は知っていた。小倉と堀田が、薄々そういうことを企んでいることを。そして何より、俺はあの町工場の社長から、「市川さん、もし辞めるなら、うちの技術を一緒にやってくれませんか? 」と、すでに誘いを受けていたのだ。
「現場上がりには適正金額」という小倉の言葉。それを聞いた瞬間、俺は確信した。この会社に未練はない、と。
俺はあえて、小倉たちの芝居に付き合った。みんなの前で「退職届」を出される形になることを見越して、俺は「正式な退職届」を準備していた。そうすれば、俺が情けなくクビにされるのではなく、俺自身の意思で辞めるという、筋を通すことができたからだ。
そして何より、俺がこの会社に残って働く価値なんて、とっくに失われていたのだ。
堀田は、何かに気づいたような顔をしていた。だが、もう遅い。
「… 市川さんは、最初から… 僕たちを…
」
堀田の声は震えていた。俺は静かに言った。
「いや、最初から、じゃないさ。ただ、自分が信じてきたものを、最後まで大切にしたかっただけだよ」
そして俺は背を向けて歩き出した。後ろで、堀田が何か叫んでいたような気がしたが、俺は振り返らなかった。
俺がこれから作っていく会社は、俺の信じてきた「人と人との繋がり」を大事にする会社だ。あの町工場の職人たちと一緒に、いいものを作っていく。
そして、もしもいつか、どこかで小倉たちを見かけたら、その時はただこう言ってやろう。
「あなたたちにとっては、現場上がりは無能かもしれませんね。でも、あなたたちには絶対にできないと思っていたことを、私はこれからやっていきますよ」と。
俺の新しい人生が、今始まる。


