「トール君よね。あなた、まだバイト生活しているの?」
両亭の個室で、差し向かいに座った女性が俺の釣り書きを手にしたまま固まっていた。職業の欄も収入の欄も、わざと空っぽに近くしてある。彼女はそれを見つめ、俺の顔を見て、また髪に目を落とす。何度もそれを繰り返していた。
7年ぶりだった。7年前、俺の方から振った女性が、今目の前に座っている。
俺は軽く笑って見せた。「まあ、そんなとこだよ」とだけ言って。心の中で「ニートだよ」と付け足した。日本で一番難しいと言われる脳の手術をいくつも引き受けている脳神経外科医だなんて、口が避けても言えなかった。目の前にいるのは、7年前に俺が自分の手で傷つけて置き去りにした人だ。その人が今、困ったような顔で俺を見ている。逃げ出したかった。それと同じくらい、このまま座っていたいとも思った。
この見合いの席が、止まったままだった2人の時間をもう一度動かすことになるなんて、あの時の俺はまだ知らずにいた。
俺の名前は大塚徹。35歳。脳神経外科医だ。都内の大学病院に務めている。専門は脳の血管の病気で、他の病院で匙を投げられた患者が最後にたどり着くのが俺の手術室だ。難しい手術ほど俺のところに回ってくる。学会に呼ばれれば海外にも飛ぶし、同じ年の医者と比べれば、稼ぎも肩書きも恵まれている方なのだと思う。なのに俺は35歳にもなって、一人身でこうして見合いを続けている。年収も書かず、無職同然の釣り書きを持って。
医者だと名乗った途端に変わる、あの女性たちの目が、俺は心底こりごりだった。肩書きじゃなく、俺という人間を見てほしい。たったそれだけが、どうしてこんなに難しいのだろう。婚活を始めたのは30歳の頃だ。大抵の女性は目の色を変えた。「お医者様なんですか?すごいですね」と急に前のめりになり、勤務先や年収を尋ねてくる。さっきまでそっけなかった人が急に笑顔になる。けれどその笑顔の先にあるのは、俺自身ではなかった。脳外科医という肩書きと、その肩書きが運んでくるお金だった。ある人は2回目の食事で「将来は開業するご予定は?」と聞かれた。まるで投資先を選ぶような目だった。ある人は「友達に自慢できる彼ができた」と、俺のいる前で電話していた。悪い人たちではないのだろう。ただ誰も、俺という人間そのものを見てはいなかった。
それで俺は肩書きを全部しまい込むことにした。釣り書きには「定職なし」とだけ書いた。そうやって近づいてくる人がいたら、その人はきっと肩書きじゃなくて俺を見てくれている人だ。そう思ったからだ。
現実はそう甘くなかった。定職なしの四文字を見ただけで、ほとんどの女性は席を立った。プロフィールを一目見て時間の無駄だと言わんばかりに帰る人、鼻で笑う人、お茶一杯も頼まずに出ていく人もいた。それでも俺はこのやり方を変えなかった。変えられなかった、と言った方が正しいのかもしれない。
俺がこんなにも中身を見てほしいとこだわるのには、訳がある。
俺は10歳の時、母をなくしている。母さんはいつも台所に立っていて、エプロンの似合う人だった。夕方になるとカレーや味噌汁の匂いが漂ってきて、「手を洗っておいで」と柔らかい声が聞こえた。その母さんがある冬の日、台所で倒れた。学校から帰ると救急車のサイレンが鳴っていた。母さんはそのまま帰ってこなかった。心臓に病を抱えていたのだと、後になって聞かされた。あの日を境に、家の中から色が消えた。それから2年もしないうちに、今度は父さんが事故で亡くなった。俺は一人になった。
親戚の家を点々として育った。どこの家でも、俺は遠慮しながら箸を持つ子供だった。「うちの子」と呼ばれたことは一度もない。忘れられない場面がある。中学の頃世話になっていた叔父の家で、正月に親戚が大勢集まった。賑やかな食卓の真ん中で従兄弟たちが笑い転げている。俺はその輪の一番端で、味のしない雑煮を食べていた。おばさんが悪気なくこう言ったのを覚えている。「トール君は手がかからなくて助かるわ」と。
手がかからない子。それはきっと、いてもいなくても同じ子という意味だ。子供心にもそう聞こえた。それから俺は誰の前でも手のかからない子供を演じるようになった。困らせない。迷惑をかけない。期待もしない。そうやって心の扉を少しずつ閉めていけば、これ以上は傷つかずに済むと思っていた。だから俺は勉強だけを頼りに生きた。気づけば医学部に進み、奨学金という名の借金を背負いながら、夜はアルバイトで食いつないだ。人の命を救う仕事なら、自分にも生きている意味があるかもしれない。そう思ったのだ。
医者になってからの俺は、ただひたすら手術に明け暮れた。腕は上がった。難しい病気を治せるようになった。患者や家族に頭を下げられ、「ありがとうございます」と泣かれることも増えた。つい先日も、よその病院で手の施しようがないと言われた中年の男性が、家族に支えられて俺の外来にやってきた。脳の奥深く、誰も触りたがらない場所にできた血管の塊だった。手術には10時間以上かかった。それでも俺はその塊をきれいに取り除いた。目を覚ました男性が奥さんの手を握って泣いていた。その隣で小さな娘さんが「ありがとう」と頭を下げた。その瞬間だけは、俺も世の中とどこかで繋がっている気がする。けれど手術が終われば、俺はまた一人に戻る。患者の家族が抱き合って喜ぶのを、俺はいつもガラス一枚隔てた向こう側から眺めているような気持ちでいた。
人の家族は救えるのに、自分の家族だけはいつまで経っても持てない。俺はそういう男だった。
夜、高い階のマンションに帰ると、部屋はいつも静まり返っている。広いリビングにソファとテレビと、きれいに片付いたキッチンがあるだけだ。「おはよう」と声をかけてくれる人もいない。コンビニで買った弁当を、一人でテレビもつけずに食べる。そんな夜が何年も続いた。金は使いきれないほどあるけれど、その金で温かい食卓は買えなかった。「誰かと向かい合って『いただきます』と言う」。たったそれだけのことが、俺には世界で一番手の届かない贅沢だった。
いつか自分にも温かい家族を持ちたい。子供の頃からずっと変わらない、たった一つの願いだった。
そんな俺の事情を、たった一人だけ知っている人がいる。脳外科の部長、神母先生だ。俺をこの道に引き上げてくれた恩師でもある。その神母先生がある日の回診の後、俺を捕まえて言った。
「大塚、お前また見合いを断ったそうだな」
俺は曖昧に笑ってごまかそうとした。
「腕はいいんだが、お前はいつまで一人で飯を食う気だ?人を治す腕は、自分の幸せのためにも使え」
先生は知り合いの世話で、また一つ見合いの話を持ってきていた。相手のことは何も言わなかった。釣り書きを交換するだけの、よくある形式的な席だという。俺は気が進まなかったけれど、世話になった先生の顔を立てるつもりで一度だけと引き受けた。その見合いの相手が、まさかあの人だったとは。
白い上着の内ポケットには、いつも一枚の色褪せた絵が入っている。クレヨンで書かれた子供の絵だ。白い服を着た人が、ベッドに寝た小さな子の手を両手で握っている。その絵が何を描いたものなのか、知っているのは俺だけだ。誰にも話したことはない。話せるはずもなかった。7年前、俺が全てを捨てて逃げ出したあの日から、ずっと肌身離さず持ち歩いているものだったから。手術の前、手を洗う直前に、俺はいつもこの絵に指で触れる。そうやって自分が何のために手を磨いてきたのかを確かめるのだ。
見合いの当日、俺はいつも通りの格好で両亭に向かった。夜に安物のジャケット。とても医者には見えない。それでいいと思っていた。中居さんに案内されて個室の襖を開けた時、俺は思わず足を止めた。座っていたのは七瀬みさだった。7年ぶりに見る顔だった。少し大人びて化粧も昔より落ち着いているけれど、目元の優しさも、少し困ったように笑う癖も何一つ変わっていなかった。彼女の方も、俺を見上げたまましばらく言葉を失っていた。
「トール君」
俺は何と言えばいいかわからなかった。逃げ出したい気持ちと、座ってしまいたい気持ちが同時に湧き上がった。結局俺はぎこちなく頭を下げて、向かいに腰を下ろした。まさか見合いの相手がみさだとは。神母先生は本当に相手のことを何も言わなかった。これはただの偶然なのか、それとも何かに仕組まれた運命なのか。ただ、7年間夢に見た顔が今、手を伸ばせば届く距離にある。その事実だけで頭の中が真っ白になった。会いたかった。本当は、ずっと会いたかったのだ。
みさは俺の釣り書きを手に取って職業の欄を見て、それから俺の顔を見た。「まだバイト生活してるの?」彼女の声には軽蔑も嘲笑もなかった。ただ戸惑いと、どこか痛々しい色があった。無理もない。彼女が知っている俺は、奨学金に追われ、昼は病院、夜はコンビニや引っ越しのバイトで走り回っていた貧乏な研修医だ。そして7年前、その俺は彼女の前から逃げるように消えた。「俺の道を行く」とだけ言い残して。彼女の中の俺は、多分夢に挫折してそのままどこかでくすぶっている男なのだろう。
ここで本当のことを言えば、全ては一瞬で変わる。「実は脳外科医になって、難しい手術をいくつもやっている」と。たった一言そう言えばいいだけだ。けれど俺は言わなかった。言えなかった。正体を明かせば、7年前になぜ消えたのか、その全部を話さなければならなくなる。あの日の本当の理由を。それに、もし俺が脳外科医だと知ったら、みさの目にもあの肩書きを見る色が浮かぶのではないか。彼女にだけは、そんな目で見られたくなかった。だから俺は、嘘でも本当でもない言葉でごまかした。「うん。まあ色々あってさ。今はフラフラしてるよ」情けない声だった。みさは何も責めなかった。ただ小さく「そう」と言って、お茶に手を伸ばした。
沈黙が流れた。気まずいはずなのに、不思議と息の仕方を思い出すような時間でもあった。運ばれてきた料理に、二人ともなかなか箸をつけられなかった。やがてみさが小鉢の煮物を一口食べて、ふっと表情を緩めた。「ここの味付け、ちょっとうちのお母さんに似てる」その一言で、俺の中の何かがぐらりと揺れた。七瀬家の食卓。わこさんの作る少し甘めの煮物。忘れたふりをしてきた記憶が一気に押し寄せてきた。俺は何も言えずにただ頷いた。
それからぽつりぽつりと近況を話すようになった。みさは地元の小さな保育園で働いているのだと言った。7年前、彼女には保育士になりたいという夢があった。それは叶えていたのだ。俺は少しだけほっとした。
話していると昔のことが自然と蘇ってきた。金のない俺たちはデートらしいデートもできなかった。それでも近所の安いラーメン屋で分け合った一杯や、川原に座って分け合ったコンビニのおにぎりが、今でも俺の中ではどんな高級店の料理より美味しい記憶として残っている。
「覚えてる?あの商店街のラーメン屋さん。君、いつもスープまで全部飲んで。もったいないからって」
「覚えてるよ。そこの親父さん、まだやってるのかな?」
「去年閉めちゃった。ご主人が体を悪くして」
そう言って彼女は少し寂しそうに笑った。時間は俺の知らないところで確かに流れていた。ふと気づくと、みさの顔にはどこか疲れの色が滲んでいた。聞けばこの見合いも自分から望んだものではないらしい。「お母さんがね、どうしてもって。私のこと心配なんだと思う。うちはちょっと色々あるから」その言葉に、7年前と同じ何かを一人で抱え込む癖を見た気がした。母子家庭で幼い弟がいて、家計はいつも苦しかった。それでも彼女はいつも誰かのために笑っている人だった。7年前、貧乏で冴えない俺を文句一つ言わずに支えてくれたのもこの人だ。けれど、嘘をついている俺にそれを聞き出す資格はなかった。
会計の時、彼女がそっと財布を出そうとしたので、俺は慌てて止めた。皮肉なものだ。本当はこの店ごと買えるくらいの蓄えが俺にはあるというのに。ここで羽振りのいいところを見せれば嘘がばれる。俺は安い財布から泣けなしの金を出すふりをして会計を済ませた。情けない芝居だった。それでも彼女と過ごしたこの短い時間が、なぜか惜しくてたまらなかった。
別れ際、店の前でみさはもう一度俺を見た。「トール君が元気そうでよかった。本当に」その言葉がなぜかずしりと沁みた。元気じゃない。お前に嘘をついている。そう言いたいのを、俺はぐっと飲み込んだ。そのまま彼女は駅の方へ歩いていった。俺は店の前から、その背中が見えなくなるまで動けなかった。7年前にもこうして彼女の背中を見送ったことがある。あの時は二度と振り返らないと決めて見送った。それなのに今の俺は、もう一度だけでいいから振り返ってほしいと願っていた。我ながら勝手な男だと思った。
これで終わりだと自分に言い聞かせた。もう会うこともないだろう。会ってはいけないのだとも思った。
ところが運命はそう単純にはできていなかった。その夜、スマートフォンが鳴った。みさから一通のメッセージが届いていた。7年ぶりの彼女からの連絡だった。そこにはこう書かれていた。
「突然ごめんなさい。実は弟の日向が、トール君が来てたって聞いて、どうしても会いたいって。覚えてるかな?あの子、君のことずっと忘れてないんだ」
日向。その名前を見た瞬間、俺の心臓は一際大きく跳ねた。日向は、みさのずっと年の離れた弟。7年前に会った時、あの子はまだ8歳の小さな男の子だった。俺の後ろをいつもくっついて回って、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と呼んでくれた。俺をうちの子のように迎えてくれたあの家族の、一番小さな一員。そして俺がこの世で一番救いたくて、けれど7年前のあの日救えなかった子供だ。
スマートフォンを握る手がかすかに震えていた。会いに行ってはいけない。頭では分かっていた。それでも日向が俺を覚えていてくれた。その事実だけで、目の奥が熱くなった。俺は長い間画面を見つめ、それからゆっくりと返事を打った。「会いに行くよ」と。この一通の返信が、止まっていた全てをまた動かし始めることになる。
約束の日曜日、俺は七瀬家へ向かった。電車を降りて見慣れた商店街を歩く。7年前と同じ景色のようでいて、シャッターの下りた店が増えていた。胸の鼓動が、自分でも分かるくらい速くなっていく。手術室に入る前ですら、こんなに緊張したことはない。家は古いアパートの2階だった。鉄の階段を一段ずつ上がる。この一段が、7年ぶりの一歩だった。インターホンを押そうとした手が、途中で止まる。引き返すなら今だと臆病な声がした。けれど扉の向こうから、誰かが駆けてくる足音が聞こえた。扉が勢いよく開いた。
「まあ、トール君。本当にトール君なのね」
七瀬わこさん。みさと日向の母親だ。7年前より髪に白いものが増えていた。少し痩せて、目じりのしわも深くなっている。それでもその笑顔は、俺の記憶の中にあるものと寸分も変わらなかった。わこさんは玄関先で俺の顔をしばらく見つめ、それから目に涙を貯めた。「よく来てくれたね。よく」それ以上は言葉にならないようで、わこさんは何度も頷いていた。俺は「御無沙汰しています」と頭を下げるのが精一杯だった。
その時、奥から背の高い少年が顔を出した。
「お兄ちゃん、本物のトールお兄ちゃん」
日向だった。7年前、俺の後ろをついて回っていた8歳の男の子が、もう俺の肩に届くほどの背丈になっている。声も低くなって、顔つきも少年らしくなった。それでもその大きな目だけは、あの頃のままだった。俺は込み上げるものをこらえながら、できるだけ軽い調子で言った。「おう、日向。でかくなったなあ。もうお兄ちゃんを追い越しそうじゃないか」日向の顔がくしゃっと歪んだ。そして15歳の少年は一目もはばからず俺に駆け寄ってきた。「会いたかった。ずっと、ずっと。また会えるって信じてた」その言葉が、俺の胸を深くえぐった。信じてくれていたのか。俺が捨てたこの家族は、それでも俺を待っていてくれたのか。俺は日向の頭に手を置いた。昔よりずっと高い位置にある頭だったけれど、その頭の中に今も爆弾が眠っていることを、俺は知っていた。だからこそ、この子の頭に触れる手に俺は人知れず力を込めた。大丈夫だ。俺が必ずなんとかする。声には出せない誓いを、その手のひらに込めた。
上がって、と案内された6畳の間は、7年前と何も変わっていなかった。ちゃぶ台には家族3人の写真が飾られている。狭くてものが多くて、どこを見ても誰かの気配がある、温かい部屋だった。俺がずっと欲しくて、けれど決して手に入らなかったものが、この6畳の中には当たり前のようにあった。
わこさんはすぐに台所に立った。「すぐにご飯にするからね。トール君、お腹空いてるでしょ?ちゃんと食べてるの?また痩せたんじゃないの?」俺は思わず笑ってしまった。7年ぶりに会って開口一番が「ちゃんと食べているかな」なのだ。この人は昔からずっとそうだった。誰かのお腹が空いていないか。それをいつも気にしている人だった。
ちゃぶ台に並んだのは、なんてことのない家庭料理だった。肉じゃがにお味噌汁、そして少し焦げのついた甘い卵焼き。わこさんの卵焼きだ。一口食べた瞬間、俺は危うく泣きそうになった。この味だ。7年間、どんな高級な料理店に行っても出会えなかった味。俺がずっと探していた、家の味だった。「うちの食卓はね、トール君、いつでもあなたの分も開けてあるからね。それは昔も今も変わらないのよ」その一言に、俺はもう何も言えなくなった。うつむいて、ただ卵焼きを噛みしめた。手のかからない子を演じてきた俺は、温かくされることに未だに慣れていなかった。
ふと壁の写真に目が止まった。家族3人のたくさんの写真。日向の入学式、みさの成人式、海に行った時の一枚。どれも俺のいない7年間の記録だった。当たり前だ。俺はここにいなかったのだから。それでもその一枚一枚を見ていると、胸が締めつけられた。本当なら俺もこの中にいられたかもしれない。そう思うと、自分のしたことの重さが改めてのしかかってきた。
食器を下げるのを手伝おうと台所に立つと、わこさんが少しだけ声を落としていった。「この7年、色々あったのよ。日向が倒れてようやく一命を取り止めたと思ったら、今度はトール君までいなくなってしまった。あの子の病気が分かった時は、目の前が真っ暗になった。お金のことも随分心配した。それでも不思議とね、どうにかやってこられたの。みさが文句一つ言わずに支えてくれたから」俺は皿を洗う手を止めた。「あの子はね、トール君がいなくなってから、笑わなくなった時期があったの。でも日向のために無理にでも笑うようになって、気づいたら自分のことは全部後回しにする子になっちゃった。それがね、母親としては一番辛いの」
みさが自分を後回しにして生きてきた。その7年の始まりを作ったのは、他でもない俺だった。俺はかける言葉が見つかなかった。ただ蛇口から流れる水の音だけが、台所に響いていた。
食間、みさは俺と日向のやり取りを静かに見ていた。目が合うと、彼女は少撕慌てたように視線をそらした。その頬がほんの少撕明らんで見えたのは、俺の願望が見せた幻だったのかもしれない。
食事の間、日向はずっと喋り通しだった。学校のこと、好きな科目のこと。そしてふとこう言った。「僕ね、お兄ちゃん、将来お医者さんになりたいんだ」俺は箸を止めた。「人を助けれる人になりたいんだ。理由はまだ秘密だけど」そう言って日向は少撕照れたように笑った。けれど医者になりたいというその言葉は、なぜか俺の心を強く掴んで放さなかった。
食事の後、日向は自分の部屋を見せてくれた。机の上には人体の図鑑や理科の参考書がきれいに並んでいた。壁には自分で書いたらしい心臓や脳のスケッチが貼ってある。「ねえ、お兄ちゃん、また来てくれる?毎週でも来てほしいな。お兄ちゃんがいると、なんか安心するんだ」その安心するという言葉に、俺は胸を打たれた。この子は、自分の頭の中に爆弾を抱えていることを、多分ちゃんと分かっている。15歳はもう子供ではないのに、明るく振る舞っているのだ。家族に心配をかけないように。俺と同じだ。手のかからない子を演じている。「ああ、毎週でも来るよ。約束だ」俺は迷わずそう答えた。指切りをした手を見ながら、日向が小さな声で言った。「お兄ちゃんは、約束破らないよね」その一言に、俺は息が止まりそうになった。7年前、俺はこの子との約束を破ったのだ。「また遊ぼうな」といった、あの約束を。日向は覚えているのだろうか。それともただの何気ない言葉なのか。俺には分からなかった。ただ今度こそ破らない。たとえ同僚の手術明けでもここへ来よう。この子の安心を守ろう。そう心に決めた。日向はパっと顔を輝かせて、指切りをしようと小指を差し出した。俺はその小さな小指に、自分の小指を絡めた。あの頃より随分大きくなったけれど、まだ細い指だった。
その夜、帰り道を歩きながら俺は何度も空を見上げた。冬の星が、夜空にきれいに見えた。久しぶりに心が温かかった。手術で大金を稼いでも、学会で表彰されても、こんな気持ちには決してなれなかった。日向の「お兄ちゃん」という一言、わこさんの「お帰り」という笑顔、みさのはにかんだ横顔。そのどれもが、俺の凍りついていた心を少しずつ溶かしていく。同時に、俺は怖くもなった。この温かさに慣れてしまったら、もう二度と手放せなくなる。それなのに、俺は嘘をついている。いつかこの嘘が全てを壊してしまうのではないか。幸せと不安が、同じだけ胸の中で膨らんでいった。
その時、台所の棚に並んだたくさんの薬の袋が目に入った。子供一人の家にしては、多すぎる量だった。俺の中の医者の部分が反射的に反応した。あれはただの風邪薬の量ではない。けれど、俺は気づかないふりをした。気づいてはいけないと思った。俺は今、ただのニートなのだから。
それから、俺は休みの度に七瀬家に通うようになった。ニートという立場は、皮肉なことに好都合だった。平日の昼間にふらりと現れても、誰も不審に思わない。本当は与通しの手術を終えた足で、ふらふらになりながら通っていた日もある。それでもあの食卓に座れるなら、どんな疲れも吹き飛んだ。
ある日のことだ。俺が隣で日向の宿題を見ていると、急に日向の様子がおかしくなった。
「あれ?お兄ちゃん。なんか、頭が」
日向は頭を抑えて顔をしかめた。見るみるうちに顔色が白くなり、額に脂汗がにじむ。そしてぐらりと体が傾いた。俺の体は考えるより先に動いていた。日向の体を支えて静かに横にする。気道を確保し、脈と呼吸を確かめる。頭の中では、いくつもの可能性が一瞬で組み上がっていく。これはただの立ちくらみではない。脳の中で何かが起きている。
「日向、俺の声聞こえるか?大丈夫だ。ゆっくり息をしろ。そう、いい子だ」
俺はできるだけ落ち着いた声で話しかけ続けた。台所から飛んできたみさがその様子を見て、息を飲んだ。「日向!救急車。救急車呼ばなきゃ」
「いや、待て。今は意識もある。脈も戻ってきている。慌てて動かす方が危ない。少し様子を見て、それからかかりつけの病院に連絡を」
言ってしまってから、俺ははっとした。みさが、俺をまじまじと見ていた。「トール君、なんでそんあことが分かるの?なんでそんあに落ち着いてるの?」その目には、戸惑いとかすかな疑いが浮かんでいた。俺はとっさにごまかした。「いや、昔バイトで介護施設にいたことがあって。それでちょっとかじっただけだよ」苦しい言い訳だった。みさはそれ以上は何も言わなかったけれど、その横顔には納得しきれない何かが残っているようだった。昔から勘の鋭い人だった。下手にごまかし続ければ、いつか見抜かれる。そんな予感がした。
俺は自分のしていることのずるさを改めて思い知った。正体を隠したまま、この家族の優しさに甘えている。日向の命に関わる病気のことすら、知らないふりをして。これは優しさでも何でもない。ただの保身だ。それでも本当のことを言えば全てが終わってしまう気がして、俺は口を継み続けた。臆病な自分を心の中で何度も罵りながら。
幸い日向はほどなく落ち着いた。その後、俺も付き添ってかかりつけの病院へ行った。家族の付き添いという顔をして、診察室の外で待った。薄い壁越しに、医者の声が漏れ聞こえてきた。「今回は大事には至らなかったけれど、病変の状態は少しずつ悪くなっていること。いつ破裂してもおかしくないこと。根本的に直すには、やはりあの難し手術しかないこと。そしてそれを引き受けてくれる医者が、なかなか見つからないこと」医者の口調は丁寧だっが、どこか諦めの滲んだものだっが。俺にはその気持ちが痛いほど分がった。同じ医者として、手の届かない場所にある爆弾を前に、できることが限られている、あの無力感。
けれど俺は知っていた。あの爆弾は決して手の届かない場所にあるわけではない。少なくとも、俺の手なら届く。
診察室から出できたみさとわこさんは、無理矢理笑っていた。日向に心配をかけまいとしているのだ。その笑顔を見て、俺の胸は引き裂かれそうだった。
その夜、帰り際にみさが玄関先でぽつりと打ち明けた。
「ねえ。7年前に、脳の血管の病気で倒れたことがあるの。手術はしたんだけど、全部は取りきれなくて。今も頭の奥に、爆弾みたいなものが残ってるんだって。いつまた破れるか分からなって」
知っていた。俺はその病名も、その状態も、痛いほど知っていた。なぜなら、それは7年前、俺がこの目で見て、そして何もできなかった、あの病気だったから。けれど俺は、初めて聞いたような顔でただ「そうか」と頷くしかなかった。
「お医者さんはね、その爆弾を取り除く手術はものすごく難しいって。日本でもできる先生はほとんどいないっていうの。だからずっと騙し騙し、検査して薬を飲んで、祈るみたいに毎日を過ごしてる」
みさの声は淡々としていた。淡々としすぎていた。きっと何度も何度も絶望して、その度に無理矢理自分を立て直してきたのだろう。その平静さが、かえって痛々しかった。
「お金もね、正直きついの。検査だけでも馬鹿にならなくて。お母さん、昼も夜も働いて。私もできるだけのことはしてるんだけど。ごめん。なんでトール君にこんな話」
彼女は慌てたように口をつぐんだ。ニートの俺に、こんな重い話をして悪いとでも思ったのだろう。違うんだと叫びたかった。俺はその爆弾を取り除ける、多分数少ない人間の一人なんだと。今すぐ正体を明かして、日向を病院に連れて行きたかった。
その夜、俺は自分の務める病院に立ち寄った。誰もいない病棟で、俺は日向の病気の最新の資料を片っ端から読み返した。脳動静脈奇形。生まれつき脳の中で動脈と静脈が異常につながってしまう病気だ。それが破れれば、命に関わる。手術で取り除くしかないが、場所が悪ければ、執刀できる医者は世界でも限られる。そして皮肉なことに、俺はまさにその病気の手術を最も多く手掛けてきた医者の一人だった。7年前、日向を救えなかったあの日から、俺はこの病気だけを追い続けてきたのだから。
日向の頭の中にある爆弾が、今どんな状態なのか。資料の数字を見ただけで、俺には手に取るように分かった。そして確信した。今の俺の腕なら、あれを取り除ける。多分、国内でも数えるほどしかいない、その一人として。救える。俺になら救える。それなのに、俺は自分のついた嘘に縛られて、一歩も動けずにいる。これほど残酷なことがあるだろうか。机に向かったまま、俺は両手で顔を覆った。手術台の上ではどんな難しい局面でも震えたことのないこの手が、今は生きた心地もなく震えていた。
俺は何度も自分に問いかけた。今すぐ七瀬家に行って本当のことを話せばいい。俺が医者だと。日向を救えると。なぜそれができない?答えは分かっていた。怖かったのだ。7年前に消えた理由を問われ、嘘をつき続けてきた自分を軽蔑されるのが。結局、俺は日向の命より自分の保身を優先しようとしている。そんな自分が心底嫌になった。医者として、人として、一番やってはいけないことだ。分かっていて、それでも足がすくむ。俺はどこまでも臆病な男だった。
検査や治療にかかるお金のことも頭をよぎった。七瀬家の暮らしぶりは、見ていれば分かる。わこさんは昼は弁当屋、夜はビルの清掃と、体を壊しそうなほど働いている。みさの給料も、その多くが弟の医療費に消えているのだろう。普通の病院で手術を受けるとなれば、その費用は決して安くはない。けれど、俺の手なら。いや、考えても仕方がない。今の俺は、ただのニートなのだから。
俺は一層足しげく七瀬家に通うようになった。季節が夏に近づいた頃だった。その日は日向の定期検査の結果が出る日だった。家族みんなで結果を聞きに行った帰り、みさが言った。結果が思ったより良かったというのだ。病変は今のところ大きくなっていない。しばらくは落ち着いていられそうだと。
「ねえ、トール君。今夜、良かったらうちでお祝いしない?ささやかだけど。日向もお兄ちゃんに来てほしいって」
俺は二つ返事で向かった。
その夜の七瀬家は、いつにも増して賑やかだった。わこさんは腕によりをかけてご馳走を作ってくれた。ちゃぶ台に乗りきらないほどの料理。もちろん、あの卵焼きもある。日向は検査結果が良かったことが嬉しくて、はしゃいでいた。みさも久しぶりに心から笑っていた。その笑顔を見るのはいつぶりだろう。再開したばかりの頃のあの疲れた横顔は、もうどこにもなかった。
考えてみれば不思議なものだ。俺がニートのふりをしてこの家に通うようになってから、まだ数ヶ月。それなのにこの食卓は、もう俺にとって世界で一番帰りたい場所になっていた。仕事でどんなに難しい手術が続いても、ここへ来れば心が解けた。俺が与えているつもりで、本当は俺の方がこの家族に毎日生かされていたのだ。
その笑い声の中心に、俺がいた。
「お兄ちゃん見てよ。これ、今日の検査で先生に褒められたんだ。君はお薬もちゃんと飲んで偉いねって」
「おう、すごいじゃないか。さすがだな」
「でね、僕決めたんだ。絶対に元気になって、お兄ちゃんみたいに頭のいい大人になる。それでお医者さんになるんだ」
俺みたいにと、日向は言った。ニートの俺みたいになってどうする?俺は笑ってそう返したが、日向は真剣な顔で首を横に振った。
「ニートでも、お兄ちゃんはすごいんだよ。だって僕の知らないこと何でも教えてくれるもん。それにお兄ちゃんといると、みんなが笑うんだ。お母さんも、お姉ちゃんも」
俺は言葉に詰まった。みさが台所の方でそっと目元を拭ったのが見えた。わこさんは何度も頷きながら、日向の頭を撫でていた。なんでもない、ありふれた家庭の夜だった。けれど俺にとっては、奇跡みたいな夜だった。
ふと、わこさんがしみじみとした口調で言った。
「こうして4人で食卓を囲むとね、なんだか本当の家族みたいだね」
その一言に、場が少しだけ静かになった。わこさんは俺の方を見て、優しく微笑んだ。
「トール君、7年前もね、私はあなたのことを、もう一人の息子みたいに思ってたのよ。あなたがある日突然いなくなっちゃって、正直寂しかった。日向なんて、毎晩『お兄ちゃんはどこ行ったの』って泣いてね」
俺はうつむいた。申し訳なさで、顔が上げられなかった。
「でもね、責めてるんじゃないのよ。きっとあなたにも、あなたの事情があったんでしょ。だからこれだけ言わせて。トール君。よかったら、またうちの子に戻ってきてくれない?この食卓には、ずっとあなたの席があるんだから」
うちの子。その言葉を、俺は生まれて初めて心から言ってもらえた気がした。叔父の家でも、おばの家でも、ついてもらえなかった、その三文字。手のかからない子を演じて、いてもいなくても同じだと思って生きてきた俺に、「ここにお前の席がある」と言ってくれる人がいる。気づけば、俺の頬を涙が伝っていた。35歳の男が、ちゃぶ台の前で声を殺して泣いていた。日向がびっくりして俺の顔を覗き込む。みさがそっとティッシュの箱を差し出してくれた。
「すみません。なんか、嬉しくて」
それだけ言うのが精一杯だった。わこさんもみさも、もらい泣きしていた。日向だけが状況がよく分からないまま、それでも釣られて泣いていた。おかしな光景だった。理由もよく分からないまま、4人で笑いながら泣いていた。
この涙の意味を、俺はよく知っていた。ずっと欲しかったのだ。こうやって誰かと一緒に笑って、一緒に泣ける場所が。手のかからない子を演じて感情に蓋をして生きてきた俺の、その蓋が、わこさんの一言で音を立てて外れた。35年かけて、ようやく俺は自分の居場所にたどり着いた気がした。止まっていた俺の時間が、この夜はっきりと、また動き出した。俺は決めた。もう逃げない。近いうちに、ちゃんと本当のことを話そう。脳外科医であること。7年前に消えた、本当の理由。そして、もう一度みさのそばにいたいという、この気持ちを。
日向が寝た後、俺とみさはいつものようにベランダに出た。夜風が、火照った頬に心地よかった。しばらく、2人とも何も言わなかった。下の通りを、終電帰りらしい人影がぽつぽつと通り過ぎていく。
「トール君、さっきはありがとう。お母さん、あんなこと言って困らせちゃったよね」
「いや、困ってない。本当に嬉しかったんだ」
俺は夜空を見上げた。星は街明かりに溶けて、ほとんど見えなかった。それでも隣にみさがいる。それだけで、この夜は十分に明るかった。7年前も、こうして2人で夜空を見たことがある。貧乏で何も持っていなかったあの頃。それでも俺たちは笑っていた。「いつか結婚して、小さくてもいいから温かい家庭を作ろう」そんな話を何度もした。あの夢を、俺は自分の手で壊したのだ。今こうしてもう一度同じ場所に立てていることが、奇跡のように思えた。言わなければと思った。今この瞬間に全部打ち明けて、もう一度あの夢の続きを始めたい。
俺は口を開きかけたけれど、それより先にみさの方がぽつりと口を開いた。
「ねえ。トール君、1つだけ聞いてもいい?」
みさの声が、少撕震えていた。俺は来るべきものが来たと思った。
「7年前、どうして、いなくなっちゃたの?ずっと聞きたかった。私、何か悪いことしたのかなって。ずっと、自分を責めてた」
その言葉は、ナイフのように俺の胸に刺さった。彼女は7年間、自分を責めてきたのか。俺が逃げたせいで、俺が自分の都合で勝手に消えたせいで、この優しい人はありもしない自分の落ち度を、ずっと探し続けてきたのだ。これ以上、彼女に嘘を重ねることはできなかった。俺はここで全てを話すべきだった。本当は脳外科医であること。日向を救うために医者になったこと。そして、お前を傷つけてまで消えた、本当の理由を。
俺は覚悟を決めて、口を開いた。
「なあ、みさ。俺、本当は?」
けれど、その続きは言えなかった。ちょうどその時、奥の方で「どさり」と鈍い物音がした。慌てて駆け寄ると、日向が頭を抑えて畳の上にうずくまっていた。
「ごめん。なんか、急に頭が割れそうで」
前に倒れた時より、明らかに様子がおかしかった。顔から血の気が引いている。俺はすぐに日向を横にして容態を確かめた。意識はある。受け答えもできる。けれど、俺の中の医者が警鐘を鳴らしていた。これはただの一時的なものではない。爆弾が、その輪郭を変え始めている。そういう嫌な予感がした。幸い発作はしばらくして収まった。日向は疲れたように、そのまま眠りに着いた。その横顔を、みさとわこさんが心配そうに覗き込んでいる。俺はその光景を見ながら、さっき言いかけた言葉をもう一度喉の奥で握りしめていた。今は言えない。今正体を明かして家族を動揺させている場合ではない。それより優先すべきことがある。この子の命だ。
穏やかな日々の裏で、日向の頭の中の爆弾は、静かに、けれど確実にその時を刻んでいた。本当の試練は、ここから始まろうとしていた。
それは、よく晴れた土曜日の昼下がりに起こった。俺がいつものように七瀬家を訪ねると、日向は少し元気がなかった。朝から頭が重いと言って、横になっていた。気をつけて様子を見ていよう。そう思った夜だった。
日向が突然、短く悲鳴を上げて頭を抱えた。
「痛い。頭、頭が」
それまでとはまるで違う叫び方だった。俺の血の気が一瞬で引いた。日向の体がガクガクと震え始める。意識が急速に遠のいていくのが分かった。爆弾が、破れかけている。医者としての俺が、全てに優先して頭の中で動き出した。俺は震えるみさを押しのけるようにして、日向のそばに膝をついた。
「みさ、救急車だ。今すぐ呼べ。場所と、男性、15歳、意識レベルの低下、激しい頭痛と伝えろ。落ち着いて、ゆっくりはっきりとだ」
俺の声がいつもと違ったのだろう。みさは硬い顔で、けれどすぐに電話に飛びついた。俺は日向を横向きに寝かせ、気道を確保した。嘔吐したものが喉につまらないように。痙攣の様子を、時間と共に頭に刻みつけていく。発症は何時何分、痙攣は何秒続いたか。この情報の一つ一つが、後で日向の命を分ける。
「日向。日向」
泣き崩れそうになるわこさんの肩を、俺はしっかりと掴んだ。
「わこさん、大丈夫です。俺がついてます。日向は、必ず助かります」
なぜそう言い切れるのか。わこさんは不思議そうな顔をした。それでも俺の声に何かを感じ取ったのだろう。少しだけ、落ち着きを取り戻した。救急車が来るまでの数分が、永遠のように長かった。俺はずっと、日向の手を握っていた。7年前と同じだ。あの日も、俺はこの子の手を握ることしかできなかった。
7年前のあの夜のことが、まざまざと蘇ってきた。研修医だった俺は、ストレッチャーで運ばれていく8歳の日向に、ただついていくことしかできなかった。手術室の前で置いていかれ、扉の向こうから漏れる機械の音を、ただ聞いていた。隣ではみさとわこさんが泣き崩れていた。俺は何の役にも立てなかった。医者の卵のくせに、好きな人の家族一人救えない。あの夜のあの無力感を、俺は一日たりとも忘れたことがない。けれど今は違う。今の俺には、この手でこの子を救う術がある。あの夜の俺とは違うのだ。その思いだけが、握った手に力を込めさせた。
救急車に同乗し、日向は近くの総合病院へ運ばれた。検査の結果は、俺が恐れていた通りだった。脳の中の病変が、ついに出血を起こし始めていた。今はまだ小さな出血で済んでいるけれど、いつ大きく破裂してもおかしくない。一刻も早く、手術でその病変を取り除かなければならない。検査画像を、家族の付き添いという立場で横からちらりと見た。その一瞬で、俺の背筋は凍りついた。素人の目にはただの白い影かもしれないけれど、俺には分かる。出血は確実に広がりつつある。あと何日持つか。いや、何時間の話かもしれない。これは一刻の猶予もない状態だった。
廊下のベンチに座るみさとわこさんの姿があった。二人とも、祈るように手を組んでいる。日向の無事だけを、ただ願っている。この人たちは何も悪いことをしていない。ただ真面目に、つましく、助け合って生きてきただけだ。それなのに、なぜこんな理不尽な目に何度も遭わなければならないのか。
やがて、その病院の医者は深刻な顔でこう言った。
「正直に申し上げます。これは、うちでは手に負えません。場所が非常に悪い。脳の最も深い、大切な機能が集まった場所に病変が食い込んでいます。これを完全に取り除ける医者は、日本にほんの数えるほどしかいません」
みさの顔が、絶望に染まった。
「そんあ。じゃあ、その先生にお願いすれば」
「それが、どの先生も予約が何ヶ月も先まで埋まっていまして。中には海外を飛び回っている方もいる。今すぐにというのは、現実には非常に難しいのです」
その言葉に、わこさんが力なく呟いた。
「やっぱり、そんあんですね。この7年、何度も聞いた言葉です。こんあ病院に行っても『難しい、難しい』って。名医がいるらしいって聞いて辿り着いても、いつも同じ。順番待ちか、断られるか」
その声には、もう涙すら出ないような深い疲れが滲んでいた。この家族は7年間ずっと、こうやって希望と絶望の間を行ったり来たりしてきたのだ。直せるはずの病気を抱えながら、それを直せる医者にたどり着けないまま。その理不尽さに、俺は医者の一人として唇を噛んだ。世の中には、救える腕を持つ者と、救われるべき患者が確かにいる。それなのに、その二つはいつもすれ違ってしまう。今まさに、その二つが同じ部屋にいるというのに。
「待てない。日向の爆弾は、もう待ってくれない」。それは、その場にいた誰もが感じていた。みさはその場に崩れ落ちて泣き始めた。わこさんは、ただ呆然と立ち尽くしていた。医者は「できるだけのことはします」と言った。けれど、その口ぶりからは「最悪の覚悟をしておいてほしい」という響きがにじんでいた。
「トール君、どうしよう。どうしたらいいの?どこかにいないのかな?日向を助けてくれる、すごい先生が。お金ならどうにかする。私が一生かけても払うから。だから、誰か、助けて」
その言葉は、何の気なしの、ただすがる思いから出たものだった。彼女は目の前にいる俺が、まさにその「すごい先生」だなどとは、夢にも思っていない。ニートの幼なじみに、ただ心細さをぶつけているだけだった。けれどその一言は、俺の一番痛いところを突いた。ここにいる。お前が探している医者は、今お前の目の前で、お前に腕を掴まれている。一言そう言えばいい。たった一言だ。なのに、その一言が喉の奥で詰まって出てこない。7年分の嘘が、最後の最後で俺の足を引っ張っていた。もしここで名乗り出たら、みさは、わこさんは、どんな顔をするだろう。「騙していたのか」と軽蔑するだろうか。日向の病気のことを全部知っていて、それでも黙っていたのか、と。
俺は一度その場を離れた。誰もいない病院の非常階段の踊り場で、上着の内ポケットに手を入れた。あの色褪せた絵が、そこにある。指先でその紙の感触を確かめた。7年前、何もできずにただ手を握ることしかできなかったあの夜。俺は誓ったはずだ。次にこの子が倒れた時、今度こそ俺が救うと。そのために、この7年、何を捨ててでも手を磨いてきた。みさを傷つけたのも、一人で生きてきたのも、眠る時間を削って難しい手術ばかりを引き受けてきたのも、全てはこのたった一つの瞬間のためだったのではないか。それなのに、今その瞬間を前にして、「嘘がばれるのが怖い」などと、何をためらっているのだ。俺は自分の頬を両手でぴしゃりと叩いた。答えは、とっくに出ていた。
俺は病院の廊下に出て、一本の電話をかけた。相手は神母先生だった。
「先生、お願いがあります。今すぐ、緊急の手術を一つ入れさせてください。脳動静脈奇形の、破裂寸前の症例です。患者は15歳の男の子。場所は最深部。俺が執刀します」
電話の向こうで、神母先生はしばらく黙っていた。それから、静かにこう言った。
「大塚、その子はな。もしかして、お前がずっと探していた子か」
俺は息を飲んだ。
「脳動静脈奇形の、それも誰もが匙を投げるような難しい症例ばかりを選んで引き受けてきた。普通じゃない。執念だった。俺はずっと不思議に思っていた。お前ほどの男が、どうしてそこまで一つの病気にこだわるのかとな。先生、いつか話してくれる気になったら聞こうと思っていた。だが、今分かった気がするよ。お前は誰か、たった一人の子を救うために、この7年その手を磨き続けてきたんだろう」
俺は廊下の壁に背中を預けた。図星だった。全部、お見通しだったのだ。
「分かった。手術室を開ける。最高のチームを集めておく。お前はその子のことだけ考えろ。医者がな、大塚。目の前の救える命から、逃げていいわけがない。行ってこい」
俺は受話器を握ったまま、頭を下げた。
「先生、ありがとうございます。それと、すみません。ずっと何も話さずに」
「いいんだ。人には、誰にも言えないことの一つや二つ、あるものさ。俺もなあ、若い頃、救えなかった患者がいる。その後悔があったから、ここまで来られた。お前の7年も、きっとそういうものなんだろう。大塚、お前のその手はな、自分一人のためのものじゃない。お前が辛い思いをして磨いてきたその手で、今度こそ、その子と家族を笑わせてやれ。それが、お前にしかできないことだ」
その言葉が、俺の背中を強く押した。電話を切ると、不思議と震えは止まっていた。腹は決まっていた。その瞬間から、俺の頭は完全に医者のものに切り替わった。上着のポケットから、もう一つの見慣れたスマートフォンを取り出す。普段、病院で使っている医者の俺の電話だ。手術に必要な検査の手配、麻酔科への連絡、日向のこれまでのカルテの取り寄せ。一つ一つ淀みなく指示を出していく。電話の向こうの誰もが、「大塚先生の言葉なら」と、すぐに動いてくれた。ニートのふりをしていたさっきまでの俺は、もうどこにもいなかった。やるべきことははっきりしている。あの爆弾が完全に破裂する前に、日向を俺の手術台まで運ぶ。それだけだった。
俺は待合室へ戻った。泣き崩れるみさと、その肩を抱くわこさんの前に、まっすぐ立った。二人が俺を見上げる。俺はできるだけ静かな声で言った。
「みさ、わこさん。日向を、俺の病院に移させてください」
「え?トール君、何を言ってるの?」
「俺が、日向の手術をします。俺なら、あの病変を取り除ける」
二人は、俺が何を言っているのか、すぐには理解できないようだった。無理もない。目の前にいるのは、定職もないニートのはずの男なのだから。みさの目に、戸惑いとわずかな怒りのようなものがよぎった。こんな時に、何を言い出すのか、と。俺は上着のポケットから、一枚の医師免許証を取り出した。普段は決して見せない、もう一人の俺の証だ。そこにはこう書かれていた。脳神経外科医、大塚徹、と。
「俺はニートじゃない。脳神経外科医だ。それも、この病気の手術を、日本で一番数多くやってきた医者の一人なんだ」
みさが息を飲んだまま固まった。わこさんも目を見開いて、俺とその免許証を交互に見ている。7年ぶりに明かす俺の正体。それは、こんな最悪の形で暴かれることになった。長い沈黙の後、最初に口を開いたのは、わこさんだった。
「そう。トール君、お医者さんになってたのね。それも、立派な」
その声は、責めるものでも、驚きすぎるものでもなかった。むしろ、どこか納得したような響きがあった。
「私ね、本当はずっと、思ってたの。トール君が、あんな風に急にいなくなるなんて、おかしいって。あなたは、そんな薄情な子じゃない。きっと何か、私たちには言えない事情を、一人で背負ったんだろうって。母親の勘って、案外当たるものね」
俺は言葉を失った。わこさんは、女手一つでみさと日向を育ててきた人だ。早くに夫をなくし、それでも弱音一つ吐かずに、二人の子供を守ってきた。人の痛みに誰より敏感な人だった。その人が、7年間ずっと、俺のことを信じてくれていた。
「詳しい話は後でゆっくり聞かせて。今は、日向をお願い。あなたを信じるわ。昔も、今も」
あなたを信じる。その一言が、俺の迷いを最後の一片まで消し去った。一方のみさは、まだ混乱の中にいるようだった。涙を貯めた目で俺を見上げ、何か言おうと口を開いては、また閉じる。聞きたいことがありすぎるのだろう。けれど、彼女もまたぐっとそれを飲み込んで、最後にただ一言絞り出した。
「日向を、助けて。お願い、トール君」
「ああ、任せろ」
日向は、俺の務める大学病院へと搬送された。受け入れの準備は、神母先生が全て整えてくれていた。俺が病院に着いた時には、最高のチームがもう待機していた。俺は白衣に袖を通した。よれたシャツの上に、白をまとう。その瞬間、俺はニートのトールから、脳外科医の大塚へと戻った。
手術の説明をするため、俺は家族控室でみさとわこさんに向き合った。残された時間はわずかだったけれど、俺はどうしても先に話しておかなければならないことがあった。これからこの手で日向の頭を開く。その前に、嘘を一つも残しておきたくなかった。
「みさ、手術の前に、全部話す。聞いてほしい」
俺は、7年間誰にも話せなかった全てを打ち明けた。7年前、俺の目の前で8歳の日向が倒れたこと。あの時の俺は、何の力もない研修医だった。好きな人の弟が死にかけているのに、ただ手を握ることしかできなかったこと。別の医者の手で日向は一命を取り止めたけれど、病変は取りきれず、頭の中に爆弾が残ったこと。
「あの日、俺は誓ったんだ。次にこの子が倒れた時、今度こそ俺が救える医者になる。この病気を、誰よりも治せる医者に。だからこの7年、俺はずっと、この病気だけを追いかけてきた。来る日も来る日も論文を読み漁った。海外の難しい手術を見るためなら、わずかな休みも全てつぎ込んだ。誰もが引き受けたがらない危険な症例ばかりを選んで執刀した。眠る時間も削った。友人も作らなかった。全ては、いつか必ず来る、この日のために」
みさが口元を抑えた。その肩が、小さく震えていた。
「それからもう一つ。7年前、俺がお前の前から消えた、本当の理由だ」
俺は息を整えた。これが、一番言いにくいことだった。
「あの頃のお前は、貧乏な俺を必死で支えてくれていた。自分の夢も後回しにして、家のことも、日向のことも、全部背負って。俺がそばにいる限り、お前は俺のためにも自分をすり減らし続ける。そう思ったんだ。俺は、お前の人生をこれ以上奪いたくなかった。だから、わざとひどい男のふりをして、逃げた。お前が、俺のことを未練なく忘れられるように」
「バカ」
みさの声が、震えていた。
「バカ、バカ。なんでそんな。一人で全部抱え込んで。私がどれだけ自分を責めたと思ってるの?私が至らなかったから、君は夢を諦めたんだって。私のせいでって。ずっと、ずっと」
彼女は堰を切ったように、泣きじゃくった。
「違う。お前のせいじゃない。むしろ逆だ。お前が、俺に守りたいものを教えてくれた。天外孤独で、何も持っていなかった俺に」
みさはぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げた。
「だったら、どうして一言ってくれなかったの?日向の病気を治せる医者になるって。待っててくれって。そしたら私、7年だって、10年だって、待ったのに」
その言葉に、俺は息を飲んだ。待っていてくれた。きっと、彼女は待っていてくれたのだ。俺が勝手に、その未来を奪ったのだ。
「すまない。俺がバカだった。お前の気持ちを信じきれなかった。お前を守ってるつもりで、本当は、俺が一番逃げてたんだ。お前に嫌われるのが、怖くて」
七年の長い回り道だった。もっと早く、向き合えたはずだった。それでも、みさは首を横に振った。
「もういい。もう、いいの。理由が分かったから。トール君が逃げたんじゃなかったって、分かったから。それだけで、それだけで、私、救われた」
俺はその思いを、ただ受け止めることしかできなかった。そして、もう一つだけ言っておかなければならないと思った。
「あの見合いの席で、俺がニートだなんて嘘をついてたこと。あれにも、わけがあるんだ」
俺はぽつりぽつりと話した。医者だと名乗ると、誰もが肩書きと、その先のお金しか見なくなること。俺自身を見てくれる人なんていなかったこと。だから、何もかも隠して見合いをしていたこと。
「バカみたいだろう。脳外科医の肩書きが嫌で、ニートのふりをしてたんだ。なのに、見合いの席に、よりによってお前が座ってた。天外孤独の俺を、肩書きなんかじゃなく、ただの貧乏な俺を、丸ごと好きでいてくれた、たった一人の人」
みさは涙を拭った。そして、少しだけ笑った。
「私、トール君がお医者さんでも、ニートでも、どっちでも良かったよ。昔からずっと、トール君がトール君なら、それで」
その言葉は、喉から手が出るほど欲しかった言葉だった。けれど、俺はそれに答える時間はなかった。俺は白衣の内ポケットから、あの色褪せた一枚の絵を取り出した。7年間、肌身離さず持ち歩いてきたお守りだ。
「これを、覚えてるか?」
みさが絵を見て、目を見開いた。クレヨンで書かれた白い服の人。ベッドに横たわる小さな男の子の手を、しっかりと両手で握っている。
「7年前、日向が入院してた病室で、この絵を見つけてな。拾って、ずっと持ってきた。この絵が、ずっと俺の支えだった。手術の前には、いつもこの絵に触れた。俺は、何のためにこの手を磨いてきたのか。それを、確かめるために」
みさはその絵を、震える手で受け取り、胸に押し当てた。
「この絵、覚えてる。日向が入院してた時、ベッドの上で一生懸命書いてた。『お兄ちゃんにあげるんだ』って。退院したら渡すんだって言ってた。でも、その前にトール君はいなくなって。だから渡せなかったって、あの子、ずっと気にしてたの」
俺は知らなかった。その絵を、日向が俺に渡すつもりで書いていたことを。俺はただ、その絵が病室のゴミ箱の脇に落ちているのを見つけて、拾ったのだ。捨てられたのだと思っていた。違った。あれは、俺に渡されるはずの贈り物だった。
「ちゃんと受け取ったよ。7年遅れたけど。この絵が、ずっと俺を支えてくれた。これがあったから、俺はどんなに辛い手術でも、逃げ出さずに来られたんだ」
わこさんは、もう声を上げて泣いていた。7年分のすれ違いと、隠されていた思いが、この一枚の絵の上で、ようやく一つにつながった。俺は立ち上がった。もう、行かなければならない。残された時間はない。その時、わこさんが俺の手を両手で握った。手術で何百もの命を扱ってきたこの手を。
「トール君、あなたのその手はね、きっとこのためにあったのよ。7年前、日向の手を握ってくれたあの手。あれからずっと、磨いてきてくれたんでしょう。うちの子を救うために。だから、自信を持って行ってらっしゃい。私たちは、ここで信じて待ってるから」
その言葉が、俺の最後の迷いを消した。俺は深く頷いた。
「行ってきます。日向は、必ず助ける。今度こそ、俺が約束を守る番です」
手術室の無影灯の下に、日向は横たわっていた。眠っている。その顔は、まだあどけなかった。7年前、8歳だったあの子。俺の後ろを「お兄ちゃん、お兄ちゃん」とついて回ったあの子。俺が救えなかったあの子が、今、俺の目の前にいる。俺はメスを握った。手を洗う時、俺はいつものようにあの絵のことを思った。今日ばかりは絵に触れることはできないけれど、その必要もなかった。なぜなら、俺がこの7年、何のためにこの手を磨いてきたのか。その答えが、今まさにこの手術台の上にあるのだから。
「始めます」
俺の声で、手術が始まった。脳の最も深い場所。少しでも傷つければ命に関わる。あるいは、二度と目を覚まさないかもしれない危険な場所。そこに、日向の病変は食い込んでいた。普通の医者なら、手を出すことをためらう。いや、ためらって当然だった。けれど、俺はこの瞬間のために7年を捧げてきた。似た症例の一つ一つの血管のわずかな違い、手の角度、力の加減。その全てが、今、俺の指先に宿っていた。俺はただ、無心で手を動かした。時間の感覚が消えた。世界には、俺の手と、日向の脳だけがあった。心の中で、俺はずっと日向に話しかけていた。もう少しだ、日向。もう少しで、お前の頭の中の爆弾を取ってやれる。だから頑張れ。お前は医者になるんだろう。誰かの手を握れる人になるんだろう。だったら、こんなところで終わるな。
手術は長時間に及んだ。途中、一度肝を冷やす場面があった。病変の根元に近い細い血管が、メスの先で不意に出血を始めたのだ。視界が見る見る赤く染まる。一瞬でも判断を誤れば、命に関わる。手術室の空気が張りつめた。「血圧、下がってきます」けれど、俺の手は止まらなかった。落ち着け。この瞬間のために、お前は何度もこの局面をくぐってきたはずだ。俺は的確に出血点を抑えた。そして、淡々と処置を進めた。
「さすがだな。お前ならできると思っていた」
すぐ後ろで、神母先生が静かに言った。一人では、決してできなかった。麻酔科医、看護師、神母先生。多くの人の手が一つになって、この小さな命を守ろうとしていた。俺はその真ん中で、ただ自分にできる最善を尽くした。
手術はいよいよ山場に差しかかった。病変の一番奥、脳の大切な神経のすぐそばに、最後の血管が絡みついていた。ここを一つ間違えれば、たとえ命が助かっても、二度と目を覚まさないかもしれない。あるいは、手足が動かなくなるかもしれない。日向の、医者になるという夢も、全て奪うことになる。俺は呼吸を整えた。額に汗がにじむ。看護師がすかさずそれを拭ってくれる。俺はミリ単位の慎重さで、その血管を一本ずつ剥がしていった。何百回と頭の中で繰り返してきた手順だ。指は迷わなかった。この7年の全てが、今この一点に注がれていた。日向。お前を、絶対に元の元気なお前に戻してやる。心の中でそう唱え続けた。
そして、ついにその瞬間が来た。俺は、長年日向の頭に巣食っていた、その病変を、最後の一本の血管まで全てきれいに取り除いた。爆弾は消えた。もう二度と、この子の命を脅かすことはない。
「取れた。終わりだ。よく頑張ったな、日向」
俺は眠る日向に、そっと語りかけた。手術室の張りつめていた空気が、ふっと緩んだ。スタッフの何人かが、涙ぐんでいた。神母先生が、俺の肩をぽんと叩いた。
「見事だ。お前の7年は、無駄じゃなかったな」
俺はマスクの下で、ただ頷いた。込み上げるものをこらえるのに、必死だった。7年。長い、長い7年だった。好きな人を自分の手で傷つけて、たった一人で歯を食いしばって手を磨いて。何度も心が折れそうになった。「何のためにこんなことをしているのだろう」と、夜中に一人で問いかけた夜もあった。その7年の全ての答えが、今、この手術台の上で穏やかに眠っている。日向の規則正しい寝息。それを聞きながら、俺は心の中で何度も呟いた。間に合った。今度こそ、間に合ったんだ。
手術室を出ると、廊下でみさとわこさんが待っていた。二人の顔を見た瞬間、俺は医者の仮面を保っていられなくなった。
「成功です。日向は、助かりました。もう、大丈夫です」
その一言で、みさはその場に崩れた。わこさんがそれを抱き止める。二人は抱き合って、泣いた。7年間、騙し騙し、祈るように過ごしてきた日々。その長い年の終わりが、ようやく来たのだ。俺もその場にしゃがみ込みそうになった。手術中は感じなかった疲れが、どっと押し寄せてくる。けれど、それ以上に胸の中が、温かいもので満たされていた。救えた。今度は、ちゃんと救えた。7年前、あの手術室の前で何もできずに立ち尽くしていた、あの研修医の俺に教えてやりたかった。お前のその悔しさは、無駄じゃない。7年後、お前はちゃんと、あの子を救うんだと。
みさが涙で濡れた顔を上げて、俺を見た。
「ありがとう。ありがとう、トール君。あなたがいてくれて、本当に良かった」
その言葉に、俺はただ首を横に振った。礼を言われるようなことじゃない。むしろ、救われたのは俺の方だ。この7年、俺を生かしてきてくれたのは、他でもない。日向を救うという、その一つの願いだったのだから。
その夜、麻酔が覚めて、日向はぼんやりと目を開けた。枕元には、俺がいた。白衣を着た、俺が。日向はしばらく、俺の顔を見つめていた。それから、その目がだんだんと大きく見開かれていった。
「あ、お兄ちゃん。白いお兄ちゃんだ」
日向の目から、涙がつっとこぼれた。
「ずっと、思ってたんだ。8歳の時、僕の手を握ってくれた、白いお兄ちゃん。あの人にもう一度会いたいって。お医者さんになりたかったのも、あの人みたいになりたかったから。ずっと、ずっと、探してた。あの人が、トールお兄ちゃんだったんだね」
俺は、もう言葉にならなかった。7年前、握ることしかできなかったあの小さな手を、俺はもう一度握った。今度は、その手で、この子の未来を掴み取ることができた。
「ああ、遅くなってごめんな。ずっと、お前を助けたかったんだ」
日向はまだ麻酔の残るぼんやりした頭で、けれど一生懸命何かを思い出そうとしているようだった。
「お兄ちゃん、ずっと、ニートだって言ってたのに。お医者さんだっの?」
「ああ、ごめんな。嘘ついてて。本当は、お前のその頭の病気を直すための、医者だっだんだ」
日向の目が、またうるんだ。けれど、それはもう痛みのためではなかった。
「やっぱり、お兄ちゃんはすごい人だっだ。僕、嬉しい。あのね、僕、絵書いたの覚えてる?お兄ちゃんにあげようと思って。ちゃんと渡せたかな?」
「ああ、ちゃんともらった。ずっと大事に持ってたよ。ほら」
俺は白衣の内ポケットから、あの絵を取り出して見せた。色褪せて、すいぶ汚れてしまったその絵を、日向はそれを見て、くしゃっと笑った。
「わああ、ぼろぼろだ。7年も持っててくれたんだ」
「お前の絵が、俺のお守りだったからな」
ベッドの脣では、みさとわこさんがその光景を、涙を流しながら見守っていた。みさはもう何も言わなかった。ただ、俺の白衣の袖をそっと掴んだ。その手はまだ震えていたけれど、その指先からは、7年前と同じ温かさが伝わってきた。窓の外が、ゆっくりと明るくなっていく。朝の光が病室に差し込んできた。その光の中で、日向の寝顔は穏やかだった。もう頭の中に爆弾はない。この子はこれから、何の心配もなく、夢に向かって進んでいける。医者になって、誰かの手を握れる人に。俺は、7年前のあの自分にもう一度語りかけた。手術室の前でただ立ち尽くしていた、あの無力な研修医に。お前の下回り道は、間違いじゃなかった。お前は、ちゃんとたどり着いたぞ。この子の未来のある場所まで。そう思うと、こらえていたものが、マスクの中でついに溢れた。医者になって初めて流す、男の涙だった。俺は日向の細い手をもう一度握った。約束を守れた。7年の約束を。
病室に、家族の泣き声と笑い声が、混ざり合って響いた。窓の外はもう白み始めていた。長い、長い夜が、ようやく明けようとしていた。
日向の回復は、驚くほど順調だった。頭の中の爆弾が消えたのだ。あれほど家族を苦しめてきたいつ破れるともしれない不安の種が、もうない。日向は日に日に元気を取り戻していった。手術から1週間も経つと、ベッドの上で「退屈だ、退屈だ」と文句を言うまでになった。それを聞いて、みさとわこさんは声を上げて喜んだ。文句を言える元気がある。それが、どれほどありがたいことか。俺は毎日回診の合間に、日向の病室に顔を出した。今は、こそこそ隠れる必要もない。白衣を着た俺を見て、日向はいつも得意げに、同室の子供たちに自慢した。「あれ、僕のお兄ちゃんなんだよ。すごい先生なんだ」と。くすぐったかったが、悪い気はしなかった。
日向が退院する日、俺は久しぶりに七瀬家に招かれた。ささやかな、お祝いの席だった。ちゃぶ台の上には、わこさんの手料理が所狭しと並んでいた。もちろん、あの甘い卵焼きもある。日向が「退院したら一番にこれが食べたい」と言ったらしい。みんなで、その食卓を囲んだ。なんでもない、家庭の味。けれどそこには、俺がずっと探していたものが、全部あった。
食卓を囲みながら、日向がもりもりとご飯を食べる姿を、俺はただ見ていた。7年前、ストレッチャーの上で青い顔をして俺の手を握っていたあの子が、今はこんなにも元気に白い飯をかき込んでいる。それだけのことが、奇跡のように思えた。
「日向、たくさん食えよ。大きくなるためには、まず食うことだ」
「うん。お兄ちゃんももっと食べてよ。お母さんの卵焼き、美味しいでしょ」
お兄ちゃん、と日向は俺を呼んでいた。その響きが、まだ少しこそばゆかったけれど、温かかった。わこさんが、俺の茶椀にまたご飯をよそってくれる。山盛りの白い飯。7年前と同じだった。この食卓で、俺は初めて、「お腹も心も満たされる」ということを知ったのだ。
食事が終わって、日向が部屋に戻った後、俺はわこさんに頭を下げた。
「わこさん、7年前、何も言わずにいなくなって、本当にすみませんでした。それから、ずっと隠していて」
「もういいのよ。トール君がどんな思いでこの7年を過ごしてきたか、全部聞かせてもらったから。むしろ、お礼を言うのはこっちの方。日向を救ってくれて、本当にありがとう」
わこさんはそう言って、優しく微笑んだ。それから、少し悪戯っぽい目で、俺と隣にいるみさを交互に見た。
「さて、私はちょっと、日向の様子を見てこようかしらね」
そう言って、わこさんは席を立った。気を利かせてくれたのだ。残された俺とみさの間に、少し照れくさい沈黙が流れた。俺は、意を決して口を開いた。
「みさ、7年も待たせてごめん。いや、待たせたなんていうのもおこがましいか。俺が勝手に消えただけだ」
みさは黙って、俺の言葉を待っていた。
「だけど、もう逃げない。二度と、お前の前からいなくならない。今度は、ちゃんと、言葉にする。俺は、お前のことが好きだ。7年前も、今も、ずっと。お前と、日向と、わこさんと、あの食卓を。今度こそ、本当の自分の家族にしたい」
俺はまっすぐ、みさの目を見た。
「みさ、俺と、結婚してください」
みさの目から、大粒の涙がこぼれた。けれど、その口元は笑っていた。泣きながら笑う、その顔は、7年前と何も変わっていなかった。
「うん。うん。こちらこそ。ずっと、ずっと待ってた。トール君が、帰ってきてくれるの」
俺はその手を握った。もう二度と、離さない手だった。7年前、見送ることしかできなかった、この手を。今度は、しっかりと握り返すことができた。その手の温かさを感じながら、俺はふと、亡くなった母さんのことを思った。10歳で母をなくして以来、俺はずっと一人だった。温かい家庭という言葉は、いつもガラスの向こうにある、眩しいものだった。手に入れたいと願いながら、「どうせ自分には無理だ」と半分諦めてもいた。それが、今、目の前にある。涙ぐむみさと、その手の確かな温もり。母さん、俺、ようやく帰る場所を見つけたよ。心の中で、そう報告した。空の上の母さんも、きっと喜んでくれている。そんな気がした。
その時、襖の影から、日向がひょっこり顔を出した。わこさんも、その後ろでエプロンで目元を押えている。盗み聞きしていたらしい。
「やった!お兄ちゃんが、本当のお兄ちゃんになる!」
日向が飛びついてきた。わこさんが、声を詰まらせて、俺に言った。
「お帰りなさい、トール君。うちの息子」
うちの息子。その一言で、俺の35年分の孤独が溶けていくのを感じた。手のかからない子を演じて、心の扉を閉ざして生きてきた俺に、ようやく帰る場所ができた。開けて待っていてくれた、あの食卓の席が、ようやく本当に、俺の席になったのだ。
その夜、俺は日向の部屋に布団を並べて泊めてもらった。隣で、日向は興奮してなかなか寝つけないようだった。
「お兄ちゃん、僕、絶対お医者さんになるからね。それでいつか、お兄ちゃんと一緒の病院で働くんだ」
「ああ、楽しみにしてる。でも、その前にまずは受験を頑張れよ」
「えー、お兄ちゃん、お父さんみたいなこと言う」
お父さん。日向が何気なく呟いたその言葉に、俺は布団の中でそっと目頭を押えた。父親。俺が自分には一生縁がないと思っていた、その役割を。この子は、もう俺に与えようとしてくれている。隣の部屋から、みさとわこさんの楽しげな話し声が聞こえてくる。古いアパートの小さな部屋。けれどここには、世界一の幸せがあった。俺はその夜、久しぶりに、何の不安もなくぐっすりと眠った。
後日、俺はみさを連れて、両親の墓参りに行った。長い間、足が遠のいていた墓だった。一人で来るといつも寂しさに飲み込まれそうで、足が向かなかったのだ。けれど、その日は違った。隣に、みさがいた。俺は墓石に向かって報告した。父さん、母さん、俺、結婚するよ。とても優しい人なんだ。あったかい家族もできた。もう、心配いらないからな。言いながら、声が詰まった。みさがそっと、俺の背中に手を添えてくれた。墓地に春の風が吹いて、近くの桜が少撕揺れた。俺はその時はっきりと感じた。25年前、母をなくしたあの日から止まっていた、俺の家族の時間が、今ようやくまた動き出したのだと。一人ぼっちだった少年が、長い、長い時間をかけて、ようやく帰る家を見つけたのだ。
日向の手術から、3年の月日が過ぎた。俺とみさは、手術の翌年の春に結婚した。式はささやかなものだったが、忘れられない一日になった。日向は誰よりもしゃいでいた。わこさんは、ずっと泣いていた。神母先生も来てくれて、「お前がこんなに穏やかな顔で笑うのを、初めて見た」と目を細めていた。
俺は結婚を機に、わこさんに夜の清掃の仕事をやめてもらった。もう、無理をして体を壊すような働き方をする必要はない。最初、わこさんは「迷惑はかけられない」と遠慮していたけれど、俺は言った。「家族なんだから、遠慮なんていらない。今度は、俺にわこさんを支えさせてください」と。わこさんは、また泣いた。7年前、天外孤独だった俺を、何の見返りも求めずに食卓に座らせてくれたこの人に。今、少しでも恩を返せることが、俺には何よりの喜びだった。最近のわこさんは、近所の子供たちに料理を教える小さな教室を開いている。長年、女手一つで二人の子供のお腹を満たしてきた、その腕は本物だ。教室は、いつも笑い声でいっぱいだという。誰かのためにご飯を作る。それが、この人の生きがいなのだ。
今、俺たちは4人で暮らしている。広い部屋に引っ越したけれど、相変わらず一番大切な場所は、食卓だ。朝、目が覚めると、台所から味噌汁の匂いが漂ってくる。「おはよう」と声をかけてくれる人がいる。あの静まり返った、高い階のマンションにはもう戻れない。俺がずっと、ガラスの向こうに眺めていた温かい家庭は、今確かに、俺の手の中にある。休みの日には、みさがあの甘い卵焼きを焼いてくれる。わこさんから教わったのだという。少し焦げのついたその卵焼きは、わこさんのものとそっくりの味がする。一口食べるたびに、俺は自分がちゃんと家族の一員になれたことを噛みしめる。その味は、不思議ともう一つの味も思ひ出させた。10歳まで、俺が食べていた、母さんの料理の味だ。長い間忘れていた。思い出すのが辛くて、心の奥にしまい込んでいた。けれど、今は違う。みさの卵焼きを食べながら、母さんのカレーの匂いや、「手を洗っておいで」というあの声を、温かい気持ちで思い出すことができる。失った温かさと、今手にした温かさが、俺の中で一つにつながっていく。きっと、これでいいのだ。母さんがくれた家庭も、わこさんがくれた食卓も、どちらも本物だったのだから。
日向は、すっかり元気になった。あれから一度も、あの発作は起きていない。今は高校3年生。受験生だ。夢はもちろん、変わっていない。医者になるという夢だ。
「僕、お兄ちゃんみたいな脳外科医になるんだ。それで、昔のお兄ちゃんみたいに、困ってる家族を助けるんだ」
お兄ちゃん、と、日向は俺を呼ぶようになった。机に向かうその背中は、もうすっかり大人びている。あの8歳の小さな男の子が、あの白いヒーローの絵を描いてくれたあの子が、いつか本物の白衣を着る日が来る。その日を、俺は誰よりも楽しみにしている。
あの色褪せた絵は、今は額に入れて、リビングに飾ってある。我が家の宝物だ。それを見るたびに、俺は思う。7年間のあの回り道は、決して無駄ではなかった。あの回り道があったから、俺は日向を救える腕を手に入れた。そして、もう一度この家族の元に帰ってくることができたのだ。
この前の日曜日のことだ。夕飯の食卓で、日向が参考書を片手に、俺に難しい問題をぶつけてきた。脳の血管がどうのこうのという、専門的な質問だ。俺が丁寧に答えてやると、日向は目を輝かせて聞いていた。その横で、みさが呆気れたように笑った。「もう、ご飯の時くらい、お勉強の話はなし。せっかくの卵焼きが覚めちゃうでしょ」「まあまあ、男の子が2人楽しそうで、いいじゃないの」
4人で囲むちゃぶ台。湯気の立つ味噌汁。甘い卵焼き。とりとめのない言い合い。笑い声。7年前、俺がたった一度だけ味わって、そして自分の手で手放してしまった、あの食卓が、今は毎日ここにある。当たり前のように、ここにある。その当たり前の中に、俺は生きている。
先日、神母先生に言われた。「お前、肩書きを隠して見合いをしていた頃が、嘘みたいだな」と。確かに、そうだ。あの頃の俺は、誰かに本当の自分を見てほしくて、それなのに本当の自分を隠していた。矛盾している。今なら分かる。俺がずっと探していたのは、肩書きを抜きにして俺を見てくれる人ではなかった。肩書きがあろうとなかろうと、ニートだろうと医者だろうと、ただ俺が俺であるだけで、「ここにいていい」と言ってくれる場所。それが欲しかったのだ。その場所は、もう、ここにある。
家族ができて、俺は医者としても変わった気がする。昔の俺は、ただ病気を治す機械のように手術をしていた。けれど、今は手術台の向こうにいる、患者の、その家族の顔が見えるようになった。この人にも、帰りを待つ人がいる。一緒にご飯を食べる人がいる。この命の向こうには、一つの食卓があるのだ。そう思うと、握るメスにも、自然と祈りがこもる。手術が終わって、家族に「成功しました」と告げる時、俺はあの日の七瀬家の控室をいつも思い出す。患者の家族が抱き合って泣く姿を、もうガラスの向こうから眺めてはいない。俺は、その温かさの内側にいる。
神母先生は、そんな俺を見てよく言う。「お前、いい医者になっだな。腕の話じゃないぞ」と念を押して。俺はその度に照れ臭くて、頭をかく。けれど、確かにそうなのかもしれない。人を本当の意味で救えるのは、自分も誰かに救われたことのある人間だけなのだ。俺は、七瀬家に救われた。だから今、ほんの少しは、人を救える医者になれた気がする。
今日も、仕事を終えて家のドアを開けると、温かい光といい匂いが、出迎えてくれる。
「お帰りなさい」
「お兄ちゃん、お帰り」
「ただいま」
と、俺は答える。世界で一番言いたかった言葉を。止まっていた俺の時間は、もう止まらない。これからも、この温かい食卓と共に、ゆっくりと刻まれていく。



