「じじに支払う退職金はない。」
そう言って俺の目の前で給与明細を破り捨てたのは、まだ38歳の佐部長だ。佐部長は以前、支社から営業マンとして本社へ異動してきた。その後、営業課長となり、今は総務部の部長だ。佐の応対には俺も同僚もうんざりしていたところだ。そしてその日は俺の退職日の前日だったんだ。
「無能なじじは今日で首。」
俺はそう言われたのだ。高卒からずっと働いてきたこの会社だが、「俺はよくわかりました」そう言って残りの引き継ぎだけすると佐部長に申し出て、俺は人事部へ行って退職届をもらう。そして佐に退職届を叩きつけたんだ。
しかしその後、佐部長は大変なことになる。
俺の名前は柿原ひよし。還暦を迎えてしまった。振り返ると人生はあっという間に過ぎ去った気分だ。もう娘も結婚して、妻とのんびり老後を楽しもうかと思っていたところだった。
俺はサラリーマンの父と専業主婦の母の間に生まれた。父は俺が幼い頃から体が弱く、入退院を繰り返していたんだ。母は懸命に父の看病をしていて、そのためかそんなに裕福な家庭ではなかった。
長屋には母子家庭の正という同級生がいて、よく一緒に遊んでいた。近くには母方の、5歳上のいとこの政治兄さんがいて、まさと一緒に政治兄さんの家によく遊びに行っていたんだ。政治兄さんの家は一軒家で、幼い俺たちにとってはすごく広く感じたんだ。政治兄さんも一人っ子で俺たちを可愛がってくれた。勉強もよくできる政治兄さんに宿題を教えてもらったり、たまにかくれんぼの鬼になってもらったりしていた。
そして俺が小学3年生の時、とうとう父が亡くなってしまったんだ。父はいつも入院をしていたので、俺には何か現実感がなかった。でも病院へ行ってももう父とは会えないんだなと、仏壇の前で静かに涙が流れたんだ。同級生の正はもっと幼い頃に父を亡くしていたらしい。政治兄さんも告別式には来てくれた。もう中学生になっていて塾などで忙しくしていたんだ。
母はその後、政治兄さんのお父さんの工場で正社員として働き出した。俺と正はいつも互いの家を行き来して宿題をしたりテレビを見たりしていたんだ。お互いに母親が帰ってくるのは夕方6時ぐらいだ。
中学になってもまさと仲良くしていた。そして俺たちは一緒に商業の高校へ通う。まだその頃はタイプライターや簿記などを学んでいたんだ。まさと一緒に小遣いで小さなタイプライターを買って、持ち歩きできるような形になっていたので、俺たちはキーボードの配列を学んでいた。キーボードで打てるのは英語だけだ。商業英語の教科書の内容をタイプライターで打ちながら、いつも2人で練習していた放課後だった。俺たちにはとても大学に行けるほど家庭に余裕がなかったので、手に何か職をつけたくて頑張っていた。
政治兄さんは大学を出てお父さんの物流会社へ入社。あの時代はまだバブルで仕事はたくさんあったのだが、高校卒業間近、政治兄さんに「ひよし、うちの仕事を手伝ってくれないか?」そのように誘われた。俺は友人の正も一緒でいいかと尋ねるとオーケーだった。
その物流会社は百貨店での洋服の販売に加え、売れ残った商品を値札を変えて違う百貨店に流している。俺は母に教わりながら正と一緒に頑張っていた。まだ小さな会社だったが、夏は暑くて冬はとても寒い。事務所だけクーラーやストーブがあり、俺と正は昼休憩だけ事務所に呼んでもらえた。母はパートのおばさんたちと仲良く工場で弁当を食べていたんだ。
事務所には大きなパソコンがあった。俺とまさはパソコンに興味がある。そんな時、政治兄さんが「そういえばひよって商業の卒業だったよな。パソコンは使える?簡単な打ち込みならできると思うよ。」そのようにして俺と正は事務仕事に誘われたんだ。出荷した商品の打ち込みを正と順番で行った。まさは経理の補助もしていく。時間が余れば工場も手伝っていた。
仕事がどんどんと忙しくなり、25歳の時には近くに新工場を建築して社員やパートさんも引っ越したんだ。その時にはデスクトップのパソコンやワープロなどで資料作成をしたりしていて、今ではワープロも懐かしく思える。まさは相変わらず経理補助をしていて、俺は政治兄さんにルート営業を頼まれた。あの頃に使っていたポケベルも今じゃ懐かしい。
だんだんとバブルが崩壊し始めたが、百貨店のスーツや女性物のセーターなどには特に打撃はなかった。新しい営業社員が入ってきたので、俺は最初だけ付き合い挨拶回りをして事務仕事に戻った。
30歳になるとインターネットが少しずつ普及し始める。俺は詳しいことを学びたくて、夜はパソコン教室に通い出したんだ。その頃から少しずつプログラミングも覚えていく。パソコン教室である女性と仲良くなった。35歳で結婚にいたり、可愛い一人娘に恵まれた。娘はとても可愛い。
その後、俺は仕事にもどんどんと励み出す。妻は娘が小学生の高学年になるとIT企業で正社員として働き出した。俺は高校の同窓会にはパソコン教室に通っていたため行かなかったのだが、まさは出席して同級生と結婚して男の子に恵まれる。
俺は7年ほどプログラミングに熱中していて、ある程度の知識を習得した。パソコンもどんどん進化してノートパソコンで業務に当たっていたんだ。そして俺は配送会社への伝票や受注や出荷の簡単なシステムを構築して、経理のソフトも自分で作り、その頃に社長になった政治兄さんにも喜ばれた。
まさとはたまに飲みに行ったり家族ぐるみの付き合いをしたりしていた。俺もまさも一人である母親の近くにマンションを借りて暮らしてはいたんだ。母のことは毎日工場で見かけるが元気だ。孫をとても可愛がってくれていた。
俺と妻は共働きで、俺は家事も手伝いながら娘は元気に育っていく。パソコンでのシステムは時代が変わるごとに再構築していくことがよくあった。しかし社長はもう俺に任せてくれていたんだ。会社は順調だった。
そして少しずつ仕事も忙しくなってくる。バブルが弾けてアパレル関係は海外の商品の物流が増えていったんだ。今までは紳士服や婦人服を主にしていたが、子供服やカジュアルな洋服も増えていく。また季節ごとに棚下ろしをした商品をパソコンにまとめていく。
事務所も人が増えて改築工事を行い、総務部や営業部、経理部に分かれていった。人事は総務部が担当。俺は総務部で資料整理に没頭していき、まさまで頑張っていた。営業部もたくさんの店舗を持ち忙しくなっている様子だ。アパレルの服もチェーン店で売り出していく。売れ残った商品がトラックで送られてきて、俺たちの会社は店舗名が書かれた値札を取って別の店舗への納品をしたり不良品がないかを確認したりしている。それは工場で行われるのだが昔よりも工場も忙しくなった。俺は工場をよく手伝いに行っていたんだ。棚卸しの時はダンボールが重いので俺がダンボールを運ぶ担当をしていた。工場のほとんどが女性なんだ。
会社は支社も持つようになった。地方でもショッピングモールが増えてきたためアパレルのチェーン店も増えていく。俺はSEとして地方の支社にもシステムのチェックに駆け回り出した。やがてスクリーン越しに会話ができるようになり、パソコンのエラーなどは電話をしながら直していくことも可能な時代になった。
俺ももう50歳だ。ガラケーはスマホになり、タブレットなどで出荷の商品の知らせが出荷の担当から送られてくる。その頃、佐という営業マンが支社から入ってきた。営業のやり手であちこちのチェーン店から仕事を取ってくる。結構有名な大学卒でまだ30歳前で走り回っていた。しかし佐は結構生意気で、俺に「えっと、柿原さんこれすぐまとめてくれよ。窓際のおじさんは暇だろ。」そう言ってくる。俗に言う窓際社員ではなかったが、デスクの場所は窓際ではあった俺。俺は黙って資料を受け取り、サクサクとまとめた。まあ、おじさんと言われてもおかしくないのだが、礼儀というものを知らないのかと俺には結構苦手な若者である。
その頃、またシステムを新しく構築していっていた。営業の人間から見ればただパソコンで遊んでいるようにしか見えないかもしれない。
俺はまさを誘って居酒屋へ行く。
「あの新しい佐って営業マンに俺おじさんって言われちまったよ。年は取りたくないな。」
「あのさ、仕事はできるらしいが口が悪いよな。俺にも聞こえていたよ。今の世代の若者ってことなんだろうな。」
「かなりいい大学を卒業しているみたいだな。自己紹介で自分で言っていたから笑ったけど、それは言えてる。」
そんな風に話してたんだ。時代だと飲み込めばいいのだが。
その後も佐は「窓際のおじさん、今日はこれを頼む。新しい店舗の営業の書類なんだ。」「はい。」俺はそう一言で返事をしておいた。
「おじさん、営業部のデスクが埃だらけなんだよ。ちょっと拭いておいてくれない?みんな忙しいからさ。」「はいはい。え、掃除は1回じゃないの?」それともいやいやの返事。そんな風に目上の人に敬語も使えない佐に俺は言われる。黙ってすぐ営業社員のデスクを拭きに行った。
俺はいとこである社長にメールをしておいた。
「社長、あの佐なんだが結構口が悪いようだ。よかったら防犯カメラを1つオフィスに付けて欲しいんだが。」
「ああ、あの支社から来た佐か。仕事はできるんだがな。分かった。今度の休日につけておくよ。」
「ありがとう。」
こんな風に一応オフィスにカメラを設置してもらったんだ。
またいつも通り佐に資料を頼まれた時、
「佐君、僕は君から見ればおじさんに違いないけど、ここは一応会社なんだよ。できたらもう少し丁寧な日本語を話してくれないかな。」
「は、おじさんはおじさんだからいいじゃん。バットホームな会社じゃん。そんな硬いこと言わないでよ。」
何を言っても無駄なようだな。「はい。じゃあ今日の資料はこれだね。やっておくよ。」そんな風に注意してもダメだったので俺はもう諦めた。
そして時は流れる。佐は営業成績は上々ではある。その頃、人事異動があり、支社から営業が来たんだ。佐は営業課長に指導を負え、38歳になると総務部に入ってきた。しかも部長である。
俺は社長と正と食事に行くことになった。この時ばかりは居酒屋の個室で名前で呼び合い、今後の会社の流れの打ち合わせだ。
「いつもご苦労だな。ひよし、まさも今日はゆっくり飲んで好きなものを食べてくれよな。」
「社長。いや、政治兄さんありがとう。」
「政治兄さんって聞こえが懐かしいな。僕も幼い時は本当によく遊んでもらったのを思い出すよ。」
「あの時はまだ小さかったな。」
「宿題も教えてもらって本当に助かってましたよ。」
「しかし今回なぜ佐が総務に」
「ちょっと考えがあってな。まさ、営業部の方で不正な領収書が上がってないか調べておいて欲しい。ちょっと帳簿を見たのだが経費がかなり大きい。」
「政治兄さん、なるほど。佐ですね。きちんと見ておきます。」
「それにひよしに対しても相変わらずの態度のようだしな。あの口の悪さをこれからもっと見ておくよ。カメラではよく聞こえているからさ。」
「ありがとう。部長になればもっと偉そうになるだろうと思ってさ。」
「なるほど。しかしよく頑張ってくれてる2人には昇給とボーナスは奮発するよ。お母さんをもっと近くに住ませてあげなよ。」
「それは嬉しいです。政治兄さんありがとう。そうするよ。」
そうして俺と正は母を同じマンションの別の部屋に住ませてあげることができたんだ。まさのお母さんは長らく看護師をしていた。政治兄さんは母の弟の息子だ。もう63歳になった。俺たちはもう58歳だ。あと2年で定年は退職になる。
それから部長となった佐は社長の予想通り横柄となる。さすが社長の目は鋭い。俺は佐にいろんな雑用などを命じられていたんだ。オフィス内のモップ掛けをしたり、部長のコーヒーを入れたり、机を拭かされたりしていた。その上にはあ。「いつまでも窓際のじじ何をぼんやりしてるんだ。」「少し考え事。」その時俺は防犯システムを考えていたんだ。防犯システムのプログラミングはまだ考えていなかったんだ。
「考え事なんてしてるんじゃないよ。そんな暇があるならこの書類を片付けておいてくれ。」
「佐部長、わかりました。」俺はそう言って分厚い書類を取りに行った。そしてパソコンにまとめていく。
もうすぐ娘も結婚か。そんなことも資料まとめながら考えていた。娘は大学を出て外資系の会社に入り、大学時代一緒だった男性と交際し、結婚が決まっていた。寂しくなる俺だ。母はとっくに退職して、今はまさ木のお母さんとも仲が良く、サークル活動の習い事やベランダでの花育てを楽しんでいるようだ。
そして娘はもう嫁いでいった。日曜日に行われた結婚式にはまさも参加してくれ、俺は涙を我慢して娘を見送ったんだ。小さな結婚式ではあったが、綺麗なウェディングドレス姿の娘だった。仕事は忙しかったが、元気に娘を送り出すことができた。かなり寂しいのだが、ここは一つ親離れをしないといけない。
今回の資料は今までの総務部の資料を分かりやすく佐部長のためにまとめるという仕事なので難しい仕事ではなかった。なのでゆっくり打っていたのだが。
「おいおいさすがにじじだな。もっと早く打てないのか?」
「ああ、すみません。」そう言われて俺は少し指を早く動かす。全く俺のことを何かとターゲットにして、いつも俺の様子を見ている感じだ。
まさと飲みに行き、近況と佐部長の営業時代の経費がどうだったかを聞くと、毎晩飲み歩いている領収書が出てきたようだ。すでに社長には報告済みらしい。
「まさ、部長前はおじさんだったが最近はじじだぞ。」
「まあじじではあるのだが、本当1回だけしか苗字で呼ばれたことないわ。皆も佐部長のことをよく思ってないよ。みんな車内メールでブツブツと言ってるからさ。あれじゃ皆に嫌われるよな。若い営業社員へも偉そうだし。営業部長は他にいるのにさ、かのT大卒だからって偉いと思ってるんだろうな。」
「そうだろうな。学歴が良くてもあの人格では」
そんな風に2人でぼやいていた。
そして俺ももうすぐ退職を迎える。あっという間の還暦だ。娘から赤いトレーナーが送られてきてちょっと恥ずかしい気分だ。部屋着にするのだが。
そして最後の給料日前日。佐部長がにやりと笑っている。給料明細を渡してもらうために呼び出された俺。
「佐部長、退職は明日ですよ。」
「ああ、無能なじじには早めにやめてもらおうと思ってな。じじに払う退職金はない。」
そう言って佐部長は俺の給料明細を破り捨てたんだ。
「ちょっと何をするんですか?一体どういうことですか?」
「だから無能なじじは今日で首な。」
俺はそう言われたのだ。高卒からずっと働いてきたこの会社だが「俺はよくわかりました。」そう言って残りの引き継ぎだけすると佐部長に申し出て、俺は人事部へ行って退職届をもらう。そして佐に退職届を叩きつけたんだ。
俺は今まで自分で会社のために作ってきたシステムをUSBメモリにそっと移して、全てのシステムを削除したんだ。そうして皆に深々とお礼をしてデスクを片付けてオフィスを出て行った。引き止めたまさに俺は少し目くばせをしておいたんだ。そして俺は社長にも報告しておいた。防犯カメラで全てを社長も見ている。
その翌日のこと、俺はゆっくり眠っていたんだ。すぐまさから電話があった。
「佐部長が今までのシステムが使えないと騒いでいる。経理のシステムもだが」
「大丈夫だ。一時の問題だよ。後で社長と一緒にオフィスに行くからさ。」
「これが広吉の手口か。分かった。」
トイレから電話をそっとかけてきたまさだった。
しかし全てのシステムが使えずに本社も支社もパニックになっている。社長は後でSEが来るからとりあえず落ち着くようにと言っていたらしい。そして俺は夕方、社長と一緒にオフィスに出向く。社長が俺を紹介する。
「この人がSEだ。もう大丈夫だから安心しろ。そしてさ、ちょっと聞きたいのだが、なぜお前は勝手に柿原君を首にしたんだ。柿原君の退職届は人事部でまだ預かっておるが。」
「あ、あの、それは」
「柿原君の退職日は今日だ。それに退職金はきっちり僕が用意してあるのだが。柿原君は我が社の全てのシステムを構築してくれた。その上で従業員である柿原君には今後この会社での専務を命じた。そして柿原君ともう40年以上働いてくれている経理部の田村正君に新しく総務の部長を任せる。正君にも退職金は2000万円だ。だからもう君の席はない。すぐデスクを片付けろ。」
「え?いこ。それはどういうことですか?」
「さ、T大卒の割には頭が悪いようだな。これが今までの佐から柿原に対するパワハラの動画だ。目上にじじとは何事だ?」
そう言った社長はスマホで動画を流した。オフィスはシーンと静まり返る。そこで社長が次に「これが佐の不正な領収書だ。」
「いえ、これはあ、あの接待費です。」
「こんなに毎日同じスナックに通うのは経費としても出認められない。この分は損害賠償として支払ってもらう。さて、さっさとオフィスから出て行ってくれ。懲戒解雇とする。」
「え、僕がちょ、懲戒解雇。」
こう小さく震えた声で言いながら涙を流して佐は会社から出ていったのだ。オフィス内からは拍手の波が湧き上がった。
その後、40前である佐は最終就職先がなく離婚もされて、どこかで昼も夜もアルバイトで働いているようだ。経費の無駄遣いの分は弁護士を通して一括で支払われたらしい。
一方で俺は次期社長として専務になり、まさが総務部の部長になったんだ。俺と正は長い付き合いになった。だがこれからも一生の友達として付き合っていくことだろう。そう、俺たちの仲むつまじい母たちのように。



