あの日の電話で、義母の口から出た言葉に、私は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「あんた、私の大切な息子を病気にしようとしてるんだってね。」
数日前、夫の淳が言ったのだ。「お前の料理はもう無理だ。今後は実家で食う。お前はまずい飯を作って自分で食ってろ」と。
結婚して13年。私は42歳。淳は高校時代からの親友・恵の兄で、大手企業の主任だ。初めて会ったのは私が26歳の時、恵の家に遊びに行った時だった。恵は兄と母に冷たくされていると愚痴っていたが、実際に会った淳は優しくて、義母も私に気さくに話しかけてくれた。恵の言っていることが信じられなかった。
その後、恵が海外勤務になり、空港で淳と再会した。喫茶店に誘われ、いきなり告白された。
「俺とも母さんとも楽しそうに話してただろ。明るくて素直ないい子だと思ったんだ。」
たった一度しか会っていないのに驚いたが、淳に惹かれていた私は承諾した。それから3年後、結婚。トラブルと言えば、デート中にファストフードのフライドポテトしか食べさせてもらえなかったことくらいだった。味の好みが合わない食事は嫌だと言うので、仕方ないのかと思っていた。
しかし新婚旅行で不安が募った。ツアーの食事を淳はだんだん残すようになり、最後にはビュッフェの和食コーナーからご飯とのり、義母の作った梅干しだけを取って食べるようになった。
「まずいものばっかりじゃないか。あんなもの食えるか」
「え、普通に美味しかったよ」
そう言うと、淳はため息をついた。
「俺がまずいと思うものをさやかはうまいと感じている。お前がうまいと思って俺に出す料理は、俺にとってはまずいってことだろう」
婚約時に料理教室に通っていたことを説明しても、疑いの目は変わらなかった。
新居で私の料理を数日食べた淳は、こう不満を漏らした。
「さやかの料理って、なんでこんなに甘いんだ?砂糖入れすぎじゃない?俺、嫌いなんだけど」
「味をまろやかにするために必要なの」
「砂糖の取り過ぎが体に悪いって知らないの?俺は血圧が高いって健康診断で指摘されてるのに、俺の健康なんてどうでもいいのか」
あんな風に言われるとは思わなかった。有名なレシピ本にも砂糖はよく登場する。少し好みが合わないだけで、なぜ健康被害まで持ち出されなければならないのか。とにかく砂糖を減らして試してみたが、いつも「まずい」の一言だった。味見だけしてスナック菓子で済ませる淳に腹が立った。
「子供みたいじゃない?栄養とか健康とか考えて作ってるんだから、私の味付けに慣れてよ」
すると淳は逆切れした。
「なんでまずい味になれなきゃいけないんだよ。料理が下手なのをごまかすんじゃない」
もうどうしたらいいか分からず泣きそうになりながら訴えると、淳は「じゃあ母さんに聞けよ。同じ味を作れ」と言ってきた。恥ずかしかったが、義母に教えを乞うことにした。
しかし義母は冷たい目を向けた。
「あしちゃんから聞いたわよ。あんた、私の大事な息子を病気にしようとしてるんですって。」
私が持参した料理を口に入れた義母は、すぐに吐き出した。
「何これ、木の抜けた味。本当にまずいわね。料理できるって自慢していた割に、この程度なの?」
屈辱的だったが、淳に気に入ってもらうためには耐えるしかない。頭を下げて教えてほしいと頼むと、義母は吐き捨てた。
「すぐに人に頼ろうとするなんて、なんて嫁かしら。だから私は結婚に反対したのよ」
結婚を喜んでくれたと思っていた私は、強い衝撃を受けた。
「そんな、反対してたなんて… 」
義母は背を向け、「自分でしっかり研究して、あちゃんの好みの味を作りなさい」とだけ言って、私を家から追い出した。
淳が帰宅するとすぐに問い詰めた。なぜ反対されていたのか。すると淳は平然と答えた。
「お前が恵の友達だったからだよ。母さんも俺も、できそこないの恵が大嫌いだったからな」
「じゃあ、なんで私と結婚したの?」
「タイミングだな。ちょうど俺が結婚したいと思った時にお前がいたんだ。俺の会社は上層部が古い考えで、男は結婚して初めて一人前と見なされる。独身だという理由で昇進のチャンスを奪われたことがあったんだよ。ちょうどお前と出会って、順調だし、料理も好きだって言うから結婚してやったんだ。おかげで主任に昇進できたよ」
頭の中が真っ白になった。私は淳に愛されていたわけではなかった。出世のための道具だったのだ。ショックで言葉も出なかった。淳は私の気持ちなどお構いなしに続けた。
「もうお前の料理には耐えられないから、今後は実家で食うよ。お前はまずい飯を作って自分で食ってろ」
我慢の限界だった。
「それじゃ結婚してる意味ないじゃない!もう離婚する!」
しかし淳は怒鳴り返した。
「離婚なんかしたら、また上司に評価を下げられて降格されるかもしれないだろう。絶対に別れないからな」
そう言い残して部屋を出ていった。その晩、私は一睡もできなかった。
それ以降、淳は本当に家で食事をしなくなった。半年後、義母から電話があった。
「やっぱり淳ちゃんは実家が一番だって言ってるから、今後はこっちに戻らせるわ。そっちの家賃は淳ちゃんが払うから、心配しないで住んでていいわよ」
勝ち誇ったような口調だった。ここまで来て、私はようやく恵が言っていたことが本当だと分かった。結婚が決まった時、恵は絶対にダメだと言って大反対した。「兄さんはさやかのこと好きなんかじゃないから」と。あの時の私は淳に盲目で、腹が立って恵と絶縁してしまった。それから連絡を無視し続けていた。
恵に謝らなければ。傷つけたと思うけれど、直接話す勇気を振り絞って、私は恵に連絡をした。
するとほんの10分後、恵から電話がかかってきた。嬉しくて、申し訳なくて、私は泣き出してしまった。全てのことを話すと、恵は言った。
「今度一時帰国するから、実家で会おうよ。あの2人にも痛い目に合わせたいからさ」
私たちは、二人で計画を練った。
恵の帰国翌日。私は手料理を数点持って義実家を訪れた。リビングに入ると、義母が用意したと思われる料理が何種類も並べられ、義母は妙にニコニコしている。
「恵ったら、あちらのセレブに気に入られて結婚するんですって。プール付きの豪邸だなんて、さすが我が娘だわ」
恵を「できそこない」と扱っていたくせに、この手のひら返しには呆れた。しかし恵は気にしないそぶりだ。
「久しぶりにお母さんとさやかの料理が食べたくて、リクエストしちゃった。楽しみ」
すると義母が私の料理をつまんで、ぷっと笑った。
「本当にいつまで経っても下手なままね。料理できるって言っておいて、この程度?」
むっとしながらも無視して、私は初めて義母の料理を口にした。その瞬間、あまりの塩辛さに吐き出しそうになった。塩まみれだったのだ。
それを見た淳が怒鳴った。
「こんなうまい母さんの料理に何てことするんだ。この味音痴が!」
すると恵が吹き出した。
「あはは!味音痴の男が、さやかに味音痴だって!」
恵は笑いすぎて声が出なくなり、ヒーヒーと喘いでいた。
「何がおかしいんだよ!味音痴を味音痴と言って何が悪い!」
顔を真っ赤にして淳が怒鳴ると、恵は突然真顔になり、怒鳴り返した。
「味音痴なのはどっちよ?お父さんが血圧200超えで脳梗塞で倒れたの。お母さんの塩まみれの料理のせいじゃない?お父さんも私も塩分控えめの食事にしたら、血圧が正常になったんだから。味音痴なのはそっちだよ」
淳は知らなかったが、義父母が離婚したのは、後遺症が残った義父を義母が見捨てたからだった。恵は一人暮らしを始めた父のアパートに通い、海外に行くまでずっと料理を作って一緒に食べていたのだ。
ショックを受けている淳に、今度は私が話しかけた。
「淳、会社の健康診断でずっと血圧のこと注意されてたんでしょ?確かこの前の結果、上が180超えてなかった?それって、棺桶に片足突っ込んでる状態なんだって」
そう言うと、淳は悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「でね、私もお母さんと同じで、そんな人の面倒を見たくないから離婚しようと思うのね。お母さんみたいに」
義母に向かってにっこり微笑んでそう言うと、義母は無言のまま震えていた。
「離婚なんてダメだ!」
淳は声を絞り出したが、私がこれまでのことをずっとSNSで発信していたこと、その内容を会社に送ることも考えていると言うと、淳は目を見開き、がっくりと膝をついた。
その後、離婚をSNSで公表しないこと、これまでのSNSも全て削除することを条件に、私たちは離婚した。慰謝料ももらうことができた。
半年後、義母も高血圧で脳梗塞を起こしたらしい。海外の豪邸で生活を始めた恵の助けも得られず、淳がボロボロになりながら世話しているようだ。いずれ淳も倒れるかもしれないが、もう私には関係ないことだ。
私は恵に誘われ、健康を取り戻した元義父を連れて、今度彼女の結婚式に出席する予定だ。「素敵な男性を紹介するよ」と言われ、その日を指折り数えて楽しみに待っている。



