十年間、彼女の顔が忘れられなかった。手術台の上で、声を取り戻せないと気づいて、口の形だけで叫んでいた小学四年生の女の子。俺は彼女の命は救ったけど、歌声を奪ってしまった。それが耐えられなくて、医者を辞めた。 それから七年。俺は音響スタッフとして全国を回るようになった。地味な仕事だ。誰かの歌を、邪魔せずに客席へ届けるだけ。そうやって、許しを請うように生きてきた。…

十年間、彼女の顔が忘れられなかった。手術台の上で、声を取り戻せないと気づいて、口の形だけで叫んでいた小学四年生の女の子。俺は彼女の命は救ったけど、歌声を奪ってしまった。それが耐えられなくて、医者を辞めた。 それから七年。俺は音響スタッフとして全国を回るようになった。地味な仕事だ。誰かの歌を、邪魔せずに客席へ届けるだけ。そうやって、許しを請うように生きてきた。...

低いトーンがスピーカーから響き、まるで別れの挨拶のようだった。真夏の太陽が組み立てられた鉄のステージを白く照らしていた。

俺は音響システムの前で、フェーダーを一本ずつ確認していた。指先に伝わるわずかな抵抗。昨日のリハーサルで気になっていた箇所だった。

「イガラシさん、モニター3番、まだ上がってます」

インカム越しに若いスタッフの声が聞こえた。俺はシステムの一番左のツマミを12時の位置からほんの少し右に回した。

「下げた。もう一度マイクに向かって声を出してみてくれ」

「ハウリング消えました」

俺はシステムのそばのメモ用紙に小さな丸を書いた。

俺の名前はイガラシ。35歳の音響スタッフだ。夏祭り、冬のホール、地元のライブハウス。機材と一緒に全国を回って、もう7年になる。

俺の仕事は音を作ることじゃない。音の邪魔をしないことだ。ステージで誰かが心を込めて歌っているなら、その声を余計なものを足さずに客席に届けるだけ。それだけだ。

「イガラシさーん」

ステージ袖からフェス制作のクボタが歩いてきた。首にタオルを巻き、Tシャツは汗で背中に張り付いている。年は40代後半。業界のガチな男だ。

「悪いんだけどさ。明日からの3番ステージの音響、急遽倒れちゃって。手伝ってもらえないかな」

「俺の持ち場はどうするんだ」

「代わりはハシモトに任せる。お前に3番を任せたいんだ。頼むわ」

俺はしばらく黙って、テーブル上の資料を見た。明日のセットリスト、出演者リスト。そこに見覚えのある名前があった。

藤村レナ。

指が一瞬止まった。

クボタは気づかず続けた。

「藤村レナのステージなんだよ。あの子、最近またチャート上がってきててさ。スポンサーもかなりノリノリだ」

「……わかった。やらせてもらう」

「助かるわ。んじゃ、よろしく」

クボタは俺の肩を一度叩いて、人混みの中へ戻っていった。俺はメモ用紙に書かれた「藤村レナ」という文字をしばらく見つめていた。それからボールペンの先で軽く線を引いた。ただのタスクリストだ、と自分に言い聞かせた。

夜の10時を過ぎていた。リハーサル初日が終わった。スタッフ用のプレハブは冷房が効きすぎていて、外との気温差で頭がぼんやりする。長机の上に明日のステージ進行表が広げられていた。

「明日の藤村レナさんの出番は、16時半。曲は7曲。MCが2回。最後の曲が新曲でしたっけ」

若いスタッフの一人が言った。

「結構、バラードのアレンジにこだわってるらしいですよ。ピアノだけの語りから始まる曲があるって」

ピアノだけの語り。

その言葉が心の奥に小さな波紋を広げた。

「イガラシさん、バラードの音作りお願いできますか。あの子、声が繊細だから、リハブの書き方一つで印象変わっちゃうんですよね」

「やってみる。一度合わせてもらえるか」

「もちろん。明日の10時にブッキングしてあります」

若いスタッフの一人が言った。

「そういえば、藤村レナさんって、子供の頃に大きな事故に遭ってたらしいですよ。歌手を辞めかけたって」

「ああ、そうなんだ」

「10年くらい前だったかな。小学生の頃だと思います。命に関わる大怪我だったらしいです。よく歌い続けてられますよね」

俺は何も言わなかった。

「イガラシさん?」

クボタが俺の顔を覗き込んだ。

「イガラシさん、明日早いからもう上がっていいよ。宿は取ってあるし」

「ああ、すまない」

俺は立ち上がり、机の上の進行表を一枚折りたたんで胸ポケットに入れた。プレハブの扉を開けると、熱い夜風が外にあった。

歩きながら、自分の手を見た。フェーダーを動かすこの手は、かつて何を握っていたのか。

あの夜から10年。消毒薬の匂いとともに、記憶が蘇ってくる。

俺はかつて医者だった。都内の救命救急センターで外科を担当していた。事故、転落、出血。夜になると運ばれてくる。この手で救えた命もあれば、救えなかった命もある。

あの夜、10年前。一人の少女が運ばれてきた。名前は確かに藤村レナだった。

安いビジネスホテルに戻った。窓を少しだけ開けて、椅子に座る。胸ポケットから進行表を取り出し、机の上に置いた。もう一度、指で藤村レナという名前をなぞった。

あの夜の記憶は、何度消そうとしても消えない。

10年前、俺は研修を終えたばかりの25歳で、救命の現場に立っていた。夏の夜、午前2時過ぎだった。交通事故の連絡が入った。家族4人を乗せた車がトラックと正面衝突した。両親は即死。後部座席に乗っていた小学生の姉妹のうち、姉が重傷。妹は無傷だった。

姉の名前は藤村レナ。当時10歳だった。

俺は彼女の手術に立ち会った。小さな体は土にまみれていた。出血が止まらず、何度も心臓が止まりかけた。必死だった。上からの指示に従い、それ以上のことをしてでも、と。

彼女は生きた。命は助かった。

ただ、声を失った。喉をやられていて、体も傷ついていた。俺たちは命を優先した。今でも論理的には間違っていなかったとわかっている。

それでも、手術後に彼女が目を覚ました時、声が出ないと気づいて、口の形だけの叫び声を上げた時の顔が忘れられなかった。

そのあとも、俺は現場に立ち続けようとした。立ち続けたかった。でも、メスを持つ手が震え始めた。他の患者の手術中にも、彼女の顔が浮かぶ。

このまま続けていたら、今度は誰かを殺してしまう。

そう思って、俺は医者を辞めた。逃げたと言っていい。この7年、音の世界で生きてきた。ただ人の声を届ける仕事。彼女への自分の贖罪のようなものだったのかもしれない。

藤村レナ。彼女は声を取り戻せたのか。それとも同姓同名の別人か。何も知らずにここまで来た。

窓の外の夜風が少し強くなってきた。明日のリハーサルは10時。俺は自分のデスクで、彼女の声を扱うことになる。偶然なのか、何かの運命なのかはわからない。でも、仕事を引き受けた以上、仕事をやる。それだけは決まっていた。

会場は朝の薄暗さの中にあった。ステージにグランドピアノが一台、ぽつんと置かれている。俺は音響システムの前で、フェーダーに指をかけた。真夏の太陽はもう高く昇り、会場の地面から熱気が立ち上っていた。

ヘッドホンをつけ、機材の最終確認をする。ステージ袖からクボタが手を挙げて合図を送った。

「イガラシさん、藤村さん来られました。リハ始まります。ピアノ調整済み、マイクもご指定のSM58をセッティングしました」

「了解。任せた」

しばらくして、袖からスリムな女性がスタッフに付き添われてステージに上がってきた。白いシャツに淡い色のロングスカート。背は高くないが、姿勢がきれいだった。肩くらいで切りそろえられた髪が、ステージの風に揺れる。

息を呑んだ。あの夜、手術台にあった小さな体の輪郭が、目の前の彼女と重なる。10年。俺の中で彼女はいつまでも10歳のままだ。

藤村レナはピアノ椅子に座り、マネージャーらしき女性に軽く会釈した。それからマイクの前でゆっくりと口を開いた。

「おはようございます。今日はよろしくお願いします」

声は少し掠れていたが、生き生きとしていた。俺はデスクでその声を聴いていた。

藤村がピアノの蓋を開け、鍵盤に指を置いた。イントロが会場に静かに流れ始める。俺はフェーダーを少しずつ上げて、彼女の声の通り道を作った。

彼女の歌声がスピーカーから帰ってきた瞬間、俺は無意識にデスクの縁を強く握った。

その声には、はっきりとした傷の跡があった。高音のわずかな揺れ。音の変わり目ごとに、喉の奥で何かに引っかかるような軽い摩擦。医者の耳と、音響の耳が同時にそれを拾った。

インカム越しにクボタが小さく呟いた。

「どうですか、イガラシさん」

「悪くない。リバーブは最小限でいこう」

「了解。任せます」

一回目のリハーサルが終わった。藤村はピアノから手を離し、マイクに口を寄せて息を整えていた。俺は無線を切り、デスクでメモを書き始めた。喉の調子、息継ぎの癖、転換の位置。

リハーサル後、藤村は控室に戻っていった。俺はスタッフにデスクの片付けを任せ、機材ケースを取りにステージ裏の廊下を歩いていた。角を曲がったところで、部屋から出てきたばかりの藤村と鉢合わせた。

無意識に一歩後ずさった。

「あ、すみません」

「あ、音響の方ですよね。イガラシさんですよね。リハーサルの音、すごく聴きやすかったです。さっきのバラード、自分の声がマイクから返ってくるのが。久しぶりにいい音だと思いました」

彼女は決然とした笑顔で言った。

俺はすぐに何も言えなかった。

「喉、張ってませんか。本番はもうちょっとマイクに近づいてもいいかも。無理に押さなくていいように持ち上げておきます」

「あれ、わかります? 実は長く歌ってると喉が痛くなりがちで。聴けばわかるんですね」

藤村は驚いた顔をした。それからペットボトルを手渡してきた。

「よかったら、お茶です。飲んでください」

俺は受け取って軽く頭を下げた。

藤村は壁に寄りかかり、少しだけ自分の話を始めた。

「私、子供の頃に事故に遭って、声を失ったんです」

「……そうなんですか」

「先生に命を助けてもらって、それから何年もリハビリして、やっとここまで話せるようになりました」

「そうでしたか」

「最初は誰も、歌えるようになるとは思ってなかったんです。私も。でも、声を取り戻すたびに、不思議と、あの夜助けてくれた人たちに聴いてほしいと思うようになって。それで頑張れました」

俺はペットボトルを握る手に力を入れた。

彼女はたぶん、あの夜自分を手術した者の名前を知らない。当時の俺は、誰かに名前を覚えられる立場じゃなかった。ただの若造だった。

「変な話ですよね。初めて会った人に」

「いいえ。……いい話だと思います」

「あの日の病院の先生方も、今日は観客席に来てくださってるんです。最前列に。10年越しに歌でお返しできるのが、すごく嬉しくて」

俺は一瞬、足を止めそうになった。

あの夜の同僚たちが、客席にいる。俺が辞めてから10年間、現場の最前線で戦い続けてきた人たちだ。俺はあの現場から逃げ出した側の人間だ。

藤村は深くお辞儀をして、控室に戻っていった。

午後4時を過ぎていた。会場には観客が集まり始めていた。ステージ前のフロアはもう人で埋まっている。俺は最終チェックに入っていた。

「イガラシさん、お客さんの席に医師の方がいらっしゃいます。あの子の命を救った先生だそうで、ステージから紹介されるそうです」

「ああ、彼女から聞いた。最後の新曲をその人たちに捧げるんだってな」

「はい。よろしくお願いします」

俺は短く返事をして、デスクのフェーダーに指を置いた。心臓の音が聞こえるくらい高鳴っていた。

開演のブザーが鳴り、客席から歓声が上がった。藤村レナがステージに現れた。スポットライトが彼女の動きを白く照らす。彼女はマイクの前に立ち、客席に向かって深くお辞儀をした。

一曲目のイントロが流れる。俺はデスクで息を整えながら、彼女の声を待った。

スピーカーから帰ってきた声は、リハーサルの時よりも確かな輪郭を持っていた。客席が一つになり、彼女の声とピアノの音が一体となって会場中に広がっていく。俺はその音の中で、ずっとデスクに立ち続けていた。

やるべきことは一つだけだった。彼女の声を、余計なものを足さずに、客席の隅々まで届けること。医者を捨てた今の自分にできるのは、それだけだった。

曲が進むにつれて、客席の空気が変わっていくのを感じた。藤村の声が、何かを確かに人々に伝えていた。

セットリストは進み、とうとう最後の新曲の時間が来た。ピアノだけのバラード。俺はデスクのメモをもう一度見た。

藤村がマイクの前に立った。

「次の曲は、私の声をこの世界に戻してくれた先生方に捧げます」

会場に静かなざわめきが広がった。俺はデスクの縁を握り、ステージの彼女を見つめていた。

ピアノのイントロがゆっくりと会場に流れ始めた。空気が変わる。静寂が訪れた。

藤村はピアノ椅子に座り、両手を鍵盤に置いた。

「この曲は新曲です。タイトルはまだ正式には決まっていません。10年前のあの夜、私の命を救ってくれた先生方を思い浮かべながら書きました」

俺はデスクのメモを見下ろした。リバーブは最小限に。声そのものを聴かせる。

「あの夜のことは、ほとんど覚えていません。目が覚めたら声を失っていて、もう二度と歌えないんだと思いました。それでも10年かけて、ここまで戻ってこられました。今日は、あの時の先生方が客席にいらっしゃいます」

スポットライトが柔らかく客席前方を照らした。シャツやジャケットを着た男女が数人、席で軽く頭を下げているのが見えた。

俺はデスクで息を呑んだ。心臓が少しだけ速く打つ。

イントロのピアノの音が、一粒ずつ会場に降り積もっていく。藤村の声がマイクに届く瞬間、俺の指が止まった。

歌の最初の音。あのかすれて揺れる声が、スピーカーから帰ってくる。俺はその声を、ただの一人の人間として聴いていた。

歌詞は難しい言葉を使っていない。「ありがとう」という言葉を、様々な表現に変え、ただ繰り返し歌っている。

曲が進むにつれ、藤村の声はわずかに揺れながら伸びていく。俺はその揺れを、フェーダーに置いた指でそっと支えた。すぐにリバーブのつまみに触れた。声の余韻がほんの少し厚みを増した。

頬に熱いものを感じた。手の甲で拭った。

ヘッドホンの中では、藤村の声だけが流れていた。

7年前、業界に入ってすぐの頃。クボタと安い焼き鳥屋で飲んだ夜があった。酔いの中で、俺は口を滑らせた。

「昔、人の命を預かる仕事をしてたんだ」

「ああ、そうなんだ。今は音を預かってるんだな」

それだけだった。クボタはそれ以上聞かず、俺も何も言わなかった。

曲は最後のフレーズに入っていた。客席の誰も動かない。最後の一音が天井に吸い込まれていく。数秒の静寂の後、拍手が波のように沸き上がった。

ライブ終了から2時間が過ぎていた。撤収作業は夜遅くまで続いたが、藤村レナ隊のスタッフはひとまず解散していた。俺は機材ケースを車に積み終え、駐車場の片隅で缶コーヒーを開けた。夜風が、一日の熱を少しずつ運び去っていく。

後ろから足音が聞こえた。振り返ると、藤村レナがマネージャーらしき女性と一緒に立っていた。ステージ衣装ではなく、Tシャツにカーディガンを羽織っていた。

「イガラシさん、今日は本当にありがとうございました。素晴らしいステージでした。ちゃんと客席に届いてましたよ」

「……お疲れさまでした」

「最後の曲、イガラシさんの音響だったから歌い切れた気がします。ステージ上で、声がちゃんと届いてるのがわかったんです」

俺はハンドルを持ったまま軽く頭を下げた。言葉を探したが見つからなかった。

「変なことを聞いてもいいですか。イガラシさんって、昔お医者さんでしたか」

顔を上げた。彼女の目がまっすぐに俺を見ていた。

「リハーサルの時にすぐ喉の状態をわかってもらえたのも、マイクの距離の合わせ方も正確で。普通の音響の方とはちょっと違うなって思ったんです」

「……昔はね、医療現場にいたんだ」

「もしかして。10年前、私の手術に立ち会ってくださいました?」

夜風が彼女の髪を揺らした。それからゆっくりと頭を下げた。

「ありがとうございます。あなたに、声を二度助けてもらいました」

「違う。俺はお前から声を奪ったんだ。命を救ったことは、一度お前の歌を止めてしまったこと。お前は命を選んだ。だから私は今、ここに立って歌えている。声を取り戻せた。感謝しかありません」

俺は何も言えなかった。10年の間、自分が許せなかったことが、目の前の人の口から、まったく違う形で差し出されていた。まだ、受け取っていいのかわからなかった。

藤村はもう一度軽くお辞儀をして、マネージャーと一緒に駐車場を歩いていった。車のドアが閉まる音が聞こえ、テールランプが遠ざかっていく。

夜空を見上げると、夏の星がいくつか滲んで見えた。

明日もステージがある。誰かの声を客席に届ける仕事が、待っている。

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