海外出張中、夫の竜介から突然電話がかかってきた。軽い口調で、まるで不要品の処分でも告げるかのように「家を売った。引っ越し済みだ」と言い放たれた。
「離婚して母さんと暮らすわ」
私は1ミリも動揺しなかった。本当にラッキーだと思った。
「じゃあそのまま離婚でいいよね」
「は? 強がってるのか? 後で寂しいって泣きつくなよ」
彼はそう言って一方的に電話を切った。海外出張中に勝手なことをしてくれたものだ。泣きつくことになるのはどっちだろうね。
それから90日後、帰国した私は離婚届を提出し、慌ただしく手続きを済ませた。机の上のスマホを手に取り、電源を入れると通知が続々と表示された。発信者は竜介。着信履歴は108件。連続して電話がかかってきていた。
深呼吸して折り返すと、焦ったような声が飛び込んできた。
「やっと出たなあ。頼むから話を聞いてくれ。家賃が払えなくなりそうで、母さんの生活費も重なってどうにもならない。少しでいいから助けてくれないか?」
「離婚したのだから、もう私たちは他人よ。自分たちで何とかするのが筋じゃないの?」
言葉は冷たくなったが、そう言うしかない。もう帰ってこなくていいと言って引っ越していったのは彼ら自身だ。事前連絡もなく家を売ったのはどこの誰だったのか。
竜介の収入は15万円程度。家計を支えていたのは私だった。それなのに、私の知らない間に勝手に新居を探し、引っ越しまで決めたのは竜介と義母だ。その責任を今更私に振るとは、あまりに身勝手だ。
「分かってる。分かってるんだけど、母さんが一緒に暮らすなら早めに新居探さなきゃって言い出してさ。俺の収入じゃギリギリだし、引っ越しも思った以上にかかって……」
義母は私を一貫して専業主婦だと決めつけていた。実際は在宅でプログラミングや英会話のオンライン講師として稼いでいたのに、彼らはそれを把握しようともしなかった。その結果がこれだ。
「私がいないと家計が厳しいって、結婚していた頃には気づいてたんじゃないの? 私の収入がどれだけ支えになってたか、あなたもお母さんも本当は分かってたんでしょ?」
「そ、それは知らなかったんだよ。母さんもお前がずっと家にいるから専業主婦だって信じてたし……」
家計簿を見せてもまともに読もうとせず、「女の仕事なんて大した額にならない」という思い込みに固執していた。自分たちだけで十分やっていけると踏んでいたのだろう。しかし現実に直面した今、手のひらを返したように泣きついてくる。
「悪いけど、もう関係ないわ。あなたの収入やお母さんのパート代でどうにかするしかないでしょ」
「やっぱりダメか……無茶を言ってるのは分かってるんだ。だけどこっちにも事情があるんだよ」
「事情ね。実は私、知ってるのよ。どうしてあなたとお母さんが引っ越したのかを」
「何言ってるんだ?」
「ミサっていう浮気相手のためでしょ? 海外出張前にはもう、あなたとその女の関係を知ってた」
「ちょっと待ってくれ。それは母さんと……いや、色々誤解も……」
「理由は何でもいいわ。あなたたちが私を捨てることを選んだのは事実よ。浮気相手と新居で優雅に暮らすつもりだったんでしょうけど、どうせ思ったよりうまくいかなかったんじゃないの?」
必死に言い訳をしているが、もう私の中に同情や後悔という感情は微塵もない。こちらからすれば、別れた後で金を無心される筋合いは全くない。
「悪いけど、今更何を言われても私は知らない。浮気を知った時点で離婚は考えてたの。手間が省けて助かったわ。ありがとうね」
「あの……どうにかならないのか?」
「以上、私にはもう頼らないで。生活が苦しいならミサさんと一緒にどうにかすればいいじゃない。あなたたちが選んだ道なんだから」
そう言い捨てて電話を切った。私もこの数年、怒りや苦しみ、屈辱を抱えながら過ごしてきた。私をただの専業主婦と見下し、自分勝手に離婚を進め、挙句に浮気相手と新居で暮らそうとした。そのツケを今度は「稼げる女だから」というだけで私に押し付けるつもりなのだろうか。
スマホをテーブルに置くと、胸がじんと熱くなった。痛みなのか安堵なのか、自分でもよく分からない感覚が混ざり合う。ただ一つ言えるのは、あの頃のように何も言えず我慢する私ではいられないということ。
翌日からスマホはまた鳴り続け、メッセージのアイコンが絶え間なく点灯し始めた。最初は無視を決め込んでいたが、仕事で使用する端末のためブロックまで踏み切るのは迷った。レッスンの合間に確認したメッセージはどれも泣き言ばかり。
「頼むから少しでいい。助けてくれ」
「母さんがどうしても家賃の足しが必要だって」
「お前に捨てられたら俺はもう終わりだ」
義母からも何通も送られてきている。
「まゆさん、あなたがいないと家のことが回らないのよ。元を辿れば、あなたがこの家の嫁だったんだから責任取ってちょうだい」
「専業主婦なら息子と母親を支えるのが当然でしょ」
「専業主婦じゃないって何度説明したと思ってるの?」
苦笑にも似た吐息が漏れる。彼らは離婚後になってようやく私の収入源に気づいたのか、それとも今まで稼ぎを独り占めしていたとでも思い込んだのか。私を都合よく利用したいという意図が見え見えだ。
夜になってレッスンを終え、スマホを手に取ると、今度は竜介のSNS投稿が目に入った。共通の知り合いがリツイートしたらしく、タイムラインに流れてきた。
「離婚してから人生が地獄になった。元嫁が冷酷で、母親と2人暮らしの俺に手も差し伸べない」
「実は元嫁は金があるくせに、俺たちを見捨てたんだ」
歪んだ被害者意識が全開の文章がずらりと並んでいる。結婚当初、私がオンライン講師として安定した収入を得ていたことを全く理解しようとしなかったのは竜介と義母だ。それなのに、今になって「実は金持ちだった」などと騒ぎ立て、同情を引こうとしている。
翌日、レッスンの合間に昼食を済ませていると、義母から着信が入った。普段なら無視するが、今日はなぜか嫌な胸騒ぎがする。覚悟を決めて通話した。
「まゆさん、ようやく出てくれたわね。全く、どれだけ待たせるの?」
「お母さん、今更何かしら?」
「あなた、主婦だったくせにどうしてそんなに稼ぎがあるの? まさか浮気か何かしていたんじゃないでしょうね」
「私は前から言ってますけど、在宅でオンライン講師してるんです。浮気なんてそっちの話でしょ?」
「何言ってるの? 竜介が浮気なんてするわけないでしょ。あなたが余計なことを考えてたんじゃないの?」
「私が余計なことを考える前に、あなたたちは勝手に離婚を決めたんです。しかも浮気の証拠ならとっくにこの目で見てるわ」
「ちょっと意味が分からない」
「意味が分からないなら結構です。とにかく家賃も生活費も自力で何とかしてください。もう私とは関係ないんですから」
すると義母は明らかに取り乱した声をあげ始めた。
「あなた、それでも嫁だった人間なの? 捨てる気なの? 私たちがどれだけ苦しいか分かってるでしょ?」
「だからもう離婚したんです。私を嫁扱いしないでください。そもそも浮気相手との新居に引っ越したのはあなたたちですよね。支えが必要ならその人と力を合わせればいいでしょ」
「なんてひどい。ああ、本当にあの子がかわいそうだわ。母親の私までこんなに困ってるのに」
「お母さん、あなたには他にも頼れる親戚がいるんじゃないですか? 私の知ったことじゃないですけど、身内同士で話し合って解決すればいいと思いますよ」
その言葉を最後に電話を切った。耳に残る義母の苛立ち混じりの叫び声に、心が少しだけ冷えていくのを感じた。
それから数日後、朝にオンラインレッスンを準備していると、玄関のチャイムが突然けたたましく鳴り始めた。モニターで確認すると、そこには義母の姿があった。どうやって住所を突き止めたのか。しつこく鳴る呼び鈴は近所迷惑の域に達している。
仕方なくドアスコープを覗くと、義母が苛立ちを隠さない表情で立っている。ドアチェーンをかけたまま扉を少しだけ開け、冷静に声をかけた。
「何のご用ですか? 無断で押しかけられるのは困ります」
「ようやく出てきたわね。まゆさん、いい? あなたには責任があるのよ。竜介が今どれだけ苦しんでいるか分かってるの?」
「離婚してから随分立ちますけど」
「竜介は新しい会社に就職したけど、すぐ首になってしまったの。毎日ミスばかりで、先方からこれ以上は無理だって。それに家賃も払えなくて滞納してるのよ。母親の私だってどれほど苦労してると思うの?」
「そうですか。でもそれは私には関係ないことです」
「関係なくなんかないわ。あなたが稼げるって分かってるから、竜介も頼りたいのよ。というか、稼いでいるなら堂々と言いなさいよ。専業主婦だと勘違いしちゃったじゃない」
「だからと言って、もう私たちは他人です。いい加減その事実を認めてください」
「谷、あなた、うちの息子を見捨てるの? 離婚したからって、あんなに苦しんでる子を放っておくなんて、嫁としての情がないの?」
「嫁じゃありません。第一、離婚を決めたのはそちらでしょ。浮気相手を家に迎え入れて私を追い出したのに、今更支えてくれなんて虫が良すぎます」
義母は悔しそうに唇を噛み、涙声になりながらまくし立てた。
「最初はね、ミサさんが一緒に暮らすなら私が助けますよって言ってくれていたの。でもあの女も、いざ生活が苦しくなると手のひらを返して出ていっちゃったのよ。竜介に押し付けるようにして、家賃も何もかも。それなのに仕事まで首になっちゃって、もうどうしようもないの」
結局、浮気相手も浪費癖のある竜介を支えきれずに逃げてしまったということだ。事情を聞かされても、私の心は1ミリも動かない。むしろ「やっぱりそうなったか」という確信が込み上げてくるだけだ。
「あなた、竜介が就職できるように口利きしてあげられないの? それに家賃も少し援助してくれたら、私としては本当に助かるのよ。きっと竜介も反省してるし、あなたに頼りたいはず」
「言いましたよね。私はもうあなたたちとは関係ない。謝りたいなら勝手にすればいいし、援助なんて論外です。これ以上私の生活に入り込まないでください」
「どうしてそんなに冷たいの? あなた昔は優しかったじゃない。うちの息子がこんなにも落ちぶれてるのよ。少しはかわいそうだと思わないの?」
「私もかつてはかわいそうなほど辛い思いをしました。勝手に浮気されて、勝手に離婚を決められて。少しは私の立場も考えたらどうですか?」
「で、でも、私にはどうしようもないことばかりだったのよ。あの子が悪いのは認めるけど、あなたが助けてあげないと本当に路頭に迷うの」
「それはあなたたちが払うべき代償です。迷惑なので、もう帰ってください」
「冷酷すぎるわ。母親として教育してあげたのに」
「残念ながら、あなたは私の母親ではありません。どう言われようと、こっちは2度と関わるつもりはないので」
義母は怒りと悲しみが混ざったような唸り声を漏らしながら、足音荒く去っていった。「最後まで覚えてなさい。こんな仕打ちがあるか」と罵声を投げかけていたが、私には何の響きもなかった。
私はドアを閉めて鍵をかけ、ゆっくりと深呼吸をした。竜介は完全に追い詰められているのだろう。浮気相手も逃げてしまい、頼れるのは母親と私。しかも母親は専業主婦でパートすら長続きせず、残るは私だけ。そんな計算が透けて見えるからこそ、怒り以上に呆れが勝る。
季節はゆっくりと冬へ向かおうとしているが、日の当たる場所はまだ温かく穏やかだ。気分転換をしようと外出することにした。カフェに立ち寄って書類整理や買い物を済ませたいと思ったのだ。
歩き始めてしばらくすると、背後に妙な視線を感じた。最初は気のせいかと思ったが、どうも私の動きに合わせて足音が近づいたり遠のいたりしている。確かめるためにわざと曲がり角を増やして道を変えてみたが、それでも気配は消えない。
人気のある通りへ向かい、人波に紛れようと歩を早めた瞬間、後ろから声が聞こえた。
「まゆさん、待ちなさいよ」
「おい、そっちに行くなって。頼むから話を聞いてくれ」
背筋が凍る思いで振り返ると、そこには間違いなく義母と竜介がいた。まさか尾行されるなんて想像もしていなかった。彼らは周囲の視線を気にも止めず、大声で呼びかけてくる。
「どうして私を尾行なんてするんですか? 非常識にも程がありますよ」
「だって家に行っても会ってくれないし、電話も全部無視されるんだもの。もうこうするしかなかったのよ。あなたどれだけ冷たいの?」
「そっちが勝手に離婚を決めて私を追い出したんでしょ。こっちは冷たいどころか、ただ当然の拒絶をしているだけですよ」
「頼むよ。話を聞いてくれ。母さんだって反省してる。俺ももう浮気のこととか、本当に悪かったって思ってるんだ。だから少しだけでも助けてくれないか」
昔ならこの必死な声に少しは心が揺らいだかもしれない。でも今となっては、散々傷つけられた自分の感情が先に立つ。彼らがここまですがりつくのは、私に利用価値があると考えているからだ。呆れと怒りが混ざった感情しか湧いてこない。
「助ける義理はありません。私がどれだけ必死に働いて家計を支えていたと思ってるの? それなのに勝手に浮気して新居に引っ越し、いざ暮らしが回らなくなったら私を頼る。何度も言いますが、都合が良すぎます」
「そこをどうにかならないの? ミサさんだって家賃をちゃんと入れるって言ってたのに、結局うちの息子に全部押し付けて逃げちゃったのよ。こんな悲惨な状況、察してくれないでしょ?」
「知りません。私を追い出した挙げ句、好き勝手やっていたのはそちらですよね。今更泣きつかれても応じる気はありません」
「そんなどれだけひどい仕打ちなの? あんなに家事を手伝わせてあげたのに」
「『手伝わせてあげた』って言葉、もう何度も聞き飽きました。自分で家事すらまともにやらなかったのは、あなたでしょ」
私が畳み掛けるように言葉を投げると、義母は肩を震わせて唇を噛んだ。竜介は気まずそうにしながらも、なおも私を引き止めようと声を荒げる。
「おい、行くなよ。頼むから話そう」
「聞きません。2度と話すつもりはありません。私は海外に移住するつもりですから」
「え?」
「何驚いているの? 自分で言ったこと忘れた? 『母さんと引っ越すから、海外に住めば』って、笑いながら言ってきたわよね」
竜介は目を見開いたまま絶句している。義母は声を震わせながら口を開きかけたが、まともに言葉にならないようだ。私は冷やかな視線で2人を見つめる。
「別に今すぐじゃないけど、近いうちに手続きが整い次第、ここを離れます。あなたたちがどんなに困ろうと、もう私には関係ない。2度と尾行なんてしないでください。次は警察か弁護士を通して対応しますから」
「ま、待って。そんなの冗談のつもりだったのよ。どうして海外に行く必要があるの? ねえ、まゆさん」
「あなたたちが勝手に切り捨てておいて、今何を言ってるの? もう私にはあなたたちの事情に付き合う理由はありません。さようなら」
その言葉を残し、私は2人の前から足早に立ち去った。さっきまで心を燻ぶっていた罪悪感やわずかな未練は、厳しい口調で拒絶を突きつけた瞬間に嘘のように消え去っていた。背後から2人の叫びや足音がついてこないことを確認し、ようやく深い息をついた。
彼らの声にはもう動かされない。そう確信している。
人気のあるカフェを見つけると、ふらりと中へ入った。明るい店内はそこそこ混み合っていたが、1人用の席がちょうど開いており、奥のテーブルに腰を下ろす。注文したコーヒーが運ばれてくるまでの短い時間は、頭をクールダウンさせるのにちょうど良かった。
ほんの少し前までの私なら、こんな風に堂々と突き離せたのかな。カップに唇をつけながら、自然と過去の記憶が蘇る。
結婚当初の私は義母に気に入られようと懸命だった。料理一つ取っても「習慣が違うから」と指摘されれば何度でも作り直し、家事の手順を指示されればそれに従った。竜介は義母にべったりで、私が少しでも逆らおうものなら「母さんを困らせるなよ」と責められた。こんな2人の板挟みになりながらも、私は家族という形を壊したくなくて必死に耐えてきた。結局、私の努力が認められることはなかった。むしろ「家にいて家事をするだけが役目の女」というレッテルを貼られ、在宅での仕事を主婦の暇つぶし程度にしか思われなかった。それだけならまだ我慢できたかもしれないが、竜介の浮気を知ってからは心が限界に達していた。
でも、もう終わったことだ。
オンライン講師という仕事柄、ネットさえあればどこでも働ける。海外移住の準備を進めるのは、面倒ではあるが自由で希望に満ちている。スマホを取り出すと、もはや気に留めることもなく通知を全て無視し、移住先候補の情報を確認し始めた。レッスンを拡張するためのサイトやコミュニティも海外向けにシフトすることを考えれば、準備することは山ほどある。だがその作業が苦にはならない。新しい世界への一歩を踏み出す期待が、私の心を駆り立ててくれる。
スケジュール帳を開いて検討を始める。生活拠点を完全に海外へ移すには、住居はもちろん必要経費やビザの調整も細かく計画する必要がある。大変な道のりではあるが、その先にある解放感を思うと、多少の苦労はむしろ張り合いを与えてくれる。コーヒーを飲み干す頃には、頭の中に大まかな移住準備のスケジュールが描かれていた。
私は私の人生を生きる。誰にも邪魔させない。そう心に誓うと、自然に小さな笑みがこぼれた。
海外移住に向けて具体的な準備を進め始めた頃、いつものようにオンラインレッスンをこなしながら、新しく受講を申し込んでくれた生徒カイトと初めての顔合わせをしていた。軽く自己紹介を交わし、学習プランを確認していくうちに、彼の表情がどこか曇っているのに気づいた。
「カイトさん、今日はどうかしましたか? もし学習内容で気になることがあるなら、遠慮なく言ってくださいね」
「いや、学習内容じゃなくて……ちょっとプライベートな悩みがあって。先生には関係ない話かもしれないんですけど」
躊躇するように視線をそらすカイトに、私は少し胸騒ぎを覚えた。これまでの経験上、こういう時の相談は深刻な個人的問題であることが多い。彼が望むなら話を聞く用意はある。
「もし私で力になれそうなら聞きますよ。講師と受講生という枠に囚われなくて大丈夫です」
「実は……とあるSNSで知り合った女性と交流を深めているんです。最初は趣味の話や軽い雑談で盛り上がったんですが、いつの間にか『海外移住を一緒にしよう』とか『投資や資産運用に詳しい人がいるから任せて欲しい』という話をされ、さらに大きな金額を求められているんです」
「海外移住を持ちかけてくる相手か。その女性、名前や顔ははっきり分かるんですか?」
「一応ハンドルネームはミサって言ってました。プロフィール写真も送られてきたんですけど、実在する人なのかは分からなくて」
その名を聞いた瞬間、私の頭にひやりとした感覚が走る。ミサはかつて私の夫だった竜介を浮気に引き込み、新居まで一緒に構えようとしたあの女に他ならない。まさか今度は新しいターゲットを物色しているのか?
「その写真、もしよければ見せてもらえますか?」
「もちろん。実は僕も最近ちょっと怪しいと思って、スクショ残してあるんです」
そう言ってカイトがパソコンの画面共有を始めると、そこに映ったのは紛れもなくあのミサの顔写真だった。涼しい表情で微笑む姿に、私の中でかつての怒りや行き場のない感情が一気に蘇る。
「カイトさん、正直に言うと、その女性は危険です。私の知人が彼女に似た手口で騙されかけたことがあるんです」
「え、そうなんですか? やっぱり詐欺みたいなものなんでしょうか?」
「詐欺と言い切れるかは分かりませんが、お金を狙って近づく可能性は高いですよ。すでに振り込んでしまったりはしていないですか?」
「少しだけ渡してしまいました。証拠を残すために振り込み控えはスクショしてありますけど」
彼の肩は小刻みに震えている。大金ではないとはいえ、信頼を寄せていた相手に裏切られるのは相当なダメージだろう。私はかつて自分自身も同じような気持ちを味わわされてきた。その苦痛がどれほど大きいか、痛いほど分かる。
「まずはお金の流れややり取りの履歴を全部保管しておいてください。それともしその人と会う約束をしたなら、私にも共有してくれますか? 私の方で力になれるかもしれません」
「え、先生に迷惑じゃないですか?」
「むしろ放っておけません。私には少しだけ、その女性との因縁があるんです。あなたを同じ目に合わせたくない」
カイトの顔には戸惑いと安堵が入り混じった表情が浮かぶ。こうしてレッスンの枠を超えた相談に踏み込むのは私も初めてのことだが、ここで黙って見過ごせば後悔するだろう。過去にミサに振り回され、挙句に夫や義母との家庭までも崩壊する事態を経験したからこそ、今度こそ逃すわけにはいかない。
「後で詳しく作戦を立てましょう。私に任せてください」
それから数日後、カイトからミサがオンラインで打ち合わせをしたいと言っていると連絡が入る。直接対面ではなくビデオ通話を希望しているらしい。相手はきっと同じ手口で言葉巧みにお金を引き出そうとするつもりだろう。
私はカイトの了解を得て、そのビデオ通話にこっそり参加する形を取った。カイトが画面を共有してくれるおかげで、こちらの姿は見せずに相手の話を丸ごと聞くことができる。
「あ、カイト君、今日も来てくれてありがとう。海外移住の話、進めてる? そろそろ大きな資金を準備してもらわないと困るんだけど」
画面に映ったのは、やはり間違いなくあのミサ。その態度には相手への思いやりなど微塵も感じられず、むしろ早く金を出せとでも言うような下心が滲んでいる。カイトはあえて困った素振りを見せる。
「実はまだ決心がつかなくて。お金を用意するって言っても、具体的に何に使うのかよく分からないんだ」
「大丈夫よ。私が提携している投資家がすごく優秀なの。だから一度預けてくれれば、すぐに増えるから安心して。海外移住もスムーズにできるよう、私が全部手配してあげる」
「提携してる投資家か。そんなの絶対に嘘に決まってる」と心の中で突っ込みながら、私はカイトと示し合わせた合図を待つ。彼がタイミングを見計らい、ミサに少しだけ疑念をぶつけてみる。
「それ、契約書とかあるの? 口約束じゃないよね」
「あら、心配性なのね。ちゃんと書類は用意するけど、細かいことは気にしなくてもいいのよ。私たち信頼関係があるんだから」
そう、飴と鞭を使い分けるような口調で丸め込みにかかるミサ。その手口はまさに、かつて竜介を引き込んだやり方そっくりだ。私は息を整え、画面の横から声をあげた。
「へえ。信頼関係ね。竜介の時も同じこと言っていたんじゃないの?」
「な、何? 誰?」
ミサが一瞬驚いて言葉を詰まらせる。その表情は慌ててカメラの向こうを探るように、あちこちに視線を動かしている。
「あなた、竜介と暮らすために新居を構えてでも、金が回らなくなったらあっさり切り捨てたわよね。それと同じことをカイトさんにしようとしてるんでしょ」
「ちょ、ちょっと何よ? あんた、どうして竜介のこと知ってるの?」
「覚えていないかもしれないけど、私は竜介の元妻。あなたに家庭を壊された側よ。あまりにも懲りないから、こうして確認させてもらったわ」
ミサの目が大きく見開き、明らかに焦っているのが分かる。カメラをオフにして逃げるかと思いきや、動揺で指先が震えているのか、うまく操作できないようだ。
「そ、そんなの……カイト君、どうしてこんな人に話を?」
「彼女は僕の先生だよ。オンライン講師としてお世話になってるんだ。で、君の名前を聞いたら、色々と教えてくれたんだよ。竜介さんのこととか、全部ね」
「ちょっと待って。誤解よ。私はただ親切で投資の話をしてたの」
「また嘘。もし本当に投資家と提携してるなら、カイトさんにもきちんと契約内容を見せて説明するはずでしょ。曖昧な言葉で資金だけ先に出させようなんて、詐欺行為と変わりないわ」
「何よ、あんた黙ってなさいよ。これは2人の問題なんだから」
「ええ、そうね。でもその『2人』というのは、あなたが一方的に利用しようとしてるだけ。カイトさんが被害を受ける前に止めるのは当然よ。私も2度とあなたのような人に泣かされたくないから」
そこで画面の向こうから激しい物音が響く。ミサが机を叩いたのか、音声がガリガリと乱れた。次の瞬間、彼女の声は震え混じりの泣き声になる。
「余計なことしないで。あんたが邪魔しなければ、うまくいく話だったのに」
「邪魔って何? やっぱり僕を騙すつもりだったんじゃないか。もう観念して。あなたが竜介にやったことも、今カイトさんにやろうとしていたことも、全部把握してるわ。もしこれ以上やり口を変えずに繰り返すなら、私も黙ってない。弁護士や警察に相談するわよ」
ミサは何か言い返したかったのだろうが、感情が混乱しているのか、ただ唸るような声しか聞こえない。少しの沈黙の後、画面がパチンと切れた。通話が終了したのだ。
「逃げたわね」
「先生、ありがとうございます。こんなことになるなんて、僕も怖かったけど話してよかった」
「こちらこそ協力してくれて助かった。ミサがまた何か言ってきても、全部証拠を残しておきましょう。そうすれば彼女はもう動きづらいはず」
カイトの目には安堵の色が広がっていた。私も胸の奥にわずかな達成感を感じる。過去に彼女に振り回されて痛い思いをした私だからこそ、こうして先回りして誰かを救うことができたのだ。思えばあの辛い経験も無駄ではなかったのかもしれない。
「大丈夫。もうあの人に好き勝手はさせない。あなたが被害を受ける前に止められたから、結果オーライよ」
ひとまずこれでカイトが被害に遭う事態は防げた。ミサはしばらく姿を隠すか、別の手口を探るだろう。しかし確かな証拠が手元にある限り、彼女が同じように誰かを落とし入れようとしても、私が立ち上がればいい。痛い記憶はあれど、今の私にはオンライン講師としてのネットワークがある。今回みたいに誰かを守りつつ、過去の清算を果たすこともできるのだ。
それからミサの件をきっかけに、カイトとの関係は単なる講師と生徒の枠を超えて深まっていった。彼は誠実で思いやりがあり、私の仕事を心から応援してくれる。何より、私の過去を知った上で「辛い経験をされたんですね。でもそのおかげで僕は救われました」と言ってくれた。その言葉に私の心は大きく動かされた。
かつての夫や義母とは違い、カイトは小さなことでも「ありがとう」と言ってくれる。家事を手伝ってくれるだけでなく、私の仕事を心から理解してくれる姿に、いつしか心の傷も癒されていった。そして数年後、私は思いがけない幸福を手にしていた。海外移住の準備を進める傍ら、いつも穏やかに私を励ましてくれるカイトと再婚し、やがて愛らしい子供にも恵まれたのだ。
「あなたと出会えて本当に良かった」
そう伝えると、カイトは照れ臭そうに微笑む。以前の私なら信じられなかった当たり前のやり取りが、今では何よりも尊い日常だ。大切な家族がそばにいて、互いに感謝を言葉にできる。それこそが私がずっと望んでいた幸せなのだと強く思う。
竜介と義母からの連絡は、あの日以来ぱったりと途絶えた。おそらく私が本気で海外移住を検討していることを知って、ようやく諦めがついたのだろう。あるいは別の誰かを頼るようになったのかもしれない。どちらにしても、もう私には関係のない話だ。たまに思い出すことはあっても、もう胸が痛むことはない。あの経験があったからこそ、今の幸せがより輝いて見えるのだから。



