高級イタリアンの個室。ママ友たちの前には彩り豊かなコース料理が並び、私の前にだけ、塩も胡椒も何もかかっていない生のゴーヤが一本。白い皿の上で、その濃い緑色が異様に浮かんでいた。
「あら、藤村さんがゴーヤ苦手だって言ってたでしょ。特別メニューよ」
矢島由亜は満面の笑みを浮かべながら言った。彼女の目は心底楽しそうに光っている。先日のお茶会で私が何気なく口にした言葉を、彼女は覚えていたのだ。
「これはさすがに…」
一人のママ友が小さく抗議しかけた。しかし次の瞬間、鋭い音が響いた。反対意見を述べたママ友の頬を、由亜が平手打ちしたのだ。
「黙りなさい。私のパパは総流会のボスよ。あなたたちに何ができるって言うの?」
部屋の空気が凍りついた。総流会。誰もが知る暴力団の名前。彼女の傲慢さの理由を、私はようやく理解した。他のママたちは恐怖と無力感で言葉を失っている。店員たちもまた、彼女の素性を知っているのか、ただ固まっているだけだった。
私は背筋を伸ばし、冷静に立ち上がった。
「失礼します」
「腰抜け。逃げるの?」
由亜が怒りを込めた声で叫ぶ。そして素早く私の腕を掴み、無理やりゴーヤを私の口元に押し付けた。強烈な苦みが口いっぱいに広がり、胃がひっくり返りそうになる。しかし私は表情を変えなかった。感情を表に出せば、彼女の勝利になる。私は静かに彼女の手を振り払い、口の中のゴーヤをナプキンに吐き出した。
「皆さん、お元気で」
私は背筋を伸ばしたまま、部屋を出た。背後から由亜の叫び声が聞こえるが、振り返らなかった。
家に帰り、何度もうがいをしても苦みは消えなかった。それは味覚だけでなく、心に刻まれた屈辱の記憶だった。鏡に映る自分の顔。穏やかな主婦の顔に、さっきまでとは別の感情が浮かんでいる。決意、そして復讐心。
多くの人は、私のことをご近所でも評判の料理上手で、PTAや子供会に積極的に参加する模範的な主婦だと思っている。夫の信司は家では穏やかな優しい夫であり、良き父親。中学2年生の娘みさきとの平穏な日々を、私は何よりも大切にしてきた。私の表の顔だ。しかし、私にはもう一つの顔がある。信司は組事務所に足を踏み入れれば誰もが名を聞いただけで震えるような組織、藤村会の若頭。そして私は、その藤村会のレディ組長。漆黒の着物に身を包み、感情を見せず、どんな修羅場でも一歩も引かない。組員たちの信頼を得てきた、もう一つの私。
私は表の顔を守るためだけに、由亜の嫌がらせをずっと黙って耐えてきた。集まりのたびに繰り出される嫌み。先月のお茶会では私の手作りケーキを「スーパー以下」と言い捨てられ、子供の運動会では転んだ娘のことを笑われた。彼女の父親の肩書きを恐れ、誰も逆らえない。今日の屈辱は、その集大成だった。
夜、夫が帰宅した。玄関で出迎えると、信司は私の表情に何かを感じ取ったようだ。
「どうしたんだ」
「明日、仕事で出かけるわ」
私の口調に、信司は何も言わずに頷いた。「気をつけろよ」とだけ言って、私の肩に手を置いた。
翌日、私は藤村会の本部に由亜を呼び出した。
真っ黒な着物に家紋入りの羽織りを身につけ、髪を丁寧に結い上げた私は、昨日までの主婦の姿とは別人だった。通された由亜は、高級な和室の異様な雰囲気に戸惑っている。そこには総流会の幹部たちも集められていた。
「お久しぶり、由亜さん」
「…え、藤村さん?なぜあなたが」
彼女の目は信じられないものを見るように見開かれている。私は静かに微笑んだ。
「紹介するわ。私は藤村会レディ組長、藤村あみ。あなたのお父様や総流会の皆さんは、うちの組織に頭を下げている関係よ」
由亜の顔から血の気が引いていく。総流会の幹部たちは一斉に深く頭を下げた。私はゆっくりと口を開く。
「昨日はご馳走様。特にあなたが無理やり食べさせてくれたゴーヤ。なかなか忘れられない味だったわ」
私の声は穏やかだが、その場の空気が一気に張り詰める。表情を失った由亜の横で、総流会の幹部たちは硬い表情で彼女を睨んでいた。
「あなたの父親も幹部たちも私には頭を下げている。つまり、あなたは誰にも守られていないってこと」
由亜から滝のように汗が流れ落ちる。私の怒りを買ったことを知った彼女の父親は、額を床につけ震える声で懇願した。
「どうかお許しを…娘は何も知らなかったのです」
「あなたの娘さんは、自分は総流会のボスの娘だと言って周囲を威圧していたのよ。それも知らなかったと?」
私は冷たく言い放つと、テーブルの上に資料を広げた。彼女がママ友たちから巻き上げていた金、嫌がらせの記録。ガソリン代や電気代を立て替えさせたまま返済していないことも含めて、全て記録されていた。
「迷惑料と慰謝料を含めて総額1億円。3日以内に用意しなさい。もし支払いが滞れば、あなたの指一本では済まないでしょうね」
私はテーブルに小さな箱を置いた。開けると中には刃物と白い布が用意されている。由亜は青ざめた顔で震え、その父親は泣きながら許しを乞う。総流会の幹部たちも黙って頭を下げている。彼らにとって藤村会との関係は、絶対に壊せないものだった。
「1週間後、私が特別なママ友会を開くわ。そこであなたに支払ってもらうことにする。もし支払えないようなら、別の方法で返済してもらうことになるわ。遠い海の向こうで働いてもらうの。あなたにも稼ぐ才能があるはずよ」
由亜は私の言葉の意味を理解したのか、顔面が青ざめていった。
1週間後、私が手配した高級料亭の一室に、かつて由亜に被害を受けたママ友たちを集めた。皆、不安そうな表情を浮かべている。私は穏やかな笑顔を見せたが、部屋の隅には藤村会の女性組員たちが静かに控えていた。
「今日は特別なお客様がいらっしゃるの」
扉が開くと、由亜とその父親が姿を現した。由亜の顔色は蒼白で、完全に別人のようだった。
「由亜さん、皆さんに言うことがあるのでは?」
由亜は震える手で封筒を差し出し、深く頭を下げた。
「これまで本当に申し訳ありませんでした。こちらは皆様からお借りしたお金、そして慰謝料です」
封筒には数千万円が入っていたが、それは私が提示した支払いのほんの一部に過ぎなかった。
「残りは?」
由亜は目を伏せ、別の封筒を差し出す。それでも足りていない。私は静かに告げた。
「この場で指を詰めさせることも考えたけれど、今日はママ友会だから特別に免除してあげる。その代わり、残り1億円きっちり払ってもらうわ。支払いができないなら、こちらが用意した仕事についてもらう」
由亜の父親は冷や汗を浮かべながら深く頭を下げた。
「総流会としても、娘が逃げたり支払いを拒むことがないよう、監視と管理を徹底いたします」
本筋である藤村会に対する忠誠を示すため、総流会はこの命令に逆らえない。由亜はその日から、借金返済のための仕事に就くこととなった。
それから半年後。組事務所で、部下の葛西が分厚い封筒を私の前に置いた。
「組長、あの件の後始末が終わりました。由亜からの借金は全額回収しました。彼女は香港の事務所へ送られ、返済のために働いています」
私は静かに頷く。
「彼女自身が、延縄漁業の船ではなく別の道を選びました。ある種の接客業です。そこでの生活はかなり厳しいようです。すでに2度ほど逃亡を試みたようですが…事故の可能性はかなり高いでしょう」
私は手を上げて葛西の言葉を遮った。自業自得とはいえ、女として同情する気持ちもある。しかし、あの日のゴーヤと屈辱を思い出せば、因果応報以外の何者でもない。
「保険は万全です。何かあれば、残りの借金は全て保険で相殺される手はずになっています」
私は無言で頷いた。罪のない家族まで巻き込むつもりはない。
「由亜の夫と子供は北海道の小さな町に引っ越しました。夫は地元の工場で働き始め、子供も転校しています。幸せに暮らしているようです」
「…そう」
私は決して、彼女がしてきたことの全てを家族に負わせるつもりはなかった。翌日、私はママ友たちを自宅に招いた。普段着の私には、藤村会のレディ組長の面影はない。
「皆さん、これを受け取ってください」
一人一人に封筒を手渡す。中には現金と明細が入っている。封筒を開けたママ友が驚きの声を上げた。
「これは…私が払った金額より多いわ」
「利息と、精神的苦痛への保証です」
「藤村さん、あなたが…」
「私は何もしていません。ただの主婦ですから」
私は微笑みながら、緑茶を注いだ。回収した金は被害にあったママ友たちに分配され、こうして平和な日常が戻ってきた。たまに、あの後どうなったのかと恐る恐る尋ねるママ友もいるが、私は穏やかに微笑むだけだ。
「ご心配なく。もう彼女に会うことはないでしょう」
力を持つということは、それだけ責任も伴うもの。私は娘を見つめながら、二度とこういう報復が必要ない世界を願った。二つの顔を持つ私だからこそ、平和の尊さを知っている。娘には普通の幸せな人生を送ってほしい。それが私の本当の願いなのだから。



