俺の前の席には、きらきらと照り焼きのタレが輝く特上のうなぎが入った重箱が置かれている。周りの同僚たちは、箸を手に、その香ばしい匂いを楽しそうに嗅いでいる。だが、俺の前だけ、何もない。空っぽのテーブルだけが、そこにあった。
ああ、やっぱりな。俺だけ、抜かされている。
ここ最近、嫌な予感はしていた。パーティーの準備に関わっている時から、どうも俺にだけ冷たい視線を感じることが多かったんだ。これは、間違いなくあの男の仕業だ。
「おい、宮城、お前の分はないぞ。」
俺の視線に気づいたのか、花村部長がわざわざ俺の席まで歩いてくる。口元には、いつもの嫌みたっぷりの笑みが浮かんでいる。隣の同僚たちがはっとした表情でこちらを見る中、花村は俺の顔を覗き込むようにしながら、からかうように続けた。
「今日は特別な日だからな。特上のうなぎを用意したんだが、社員の分しかないぞ。」
わざとらしく周りを見渡してから、笑いながら俺の肩を叩く。何が「社員の分しかない」だ。まるで俺が社員扱いされていないかのような物言いじゃないか。
いや、実際、花村はそう思っているのかもしれない。俺が撮影のマネジメントや運営の仕事で評価されていることが、心の底から気に食わないんだろう。映画のクリエイティブな才能がないと散々馬鹿にされてきた俺が、今ではスケジュール管理やスタッフの調整といった実務的な部分で頭角を表している。それを、どうしても認めたくないらしい。
そんなの、俺の努力を全否定するようなものだ。花村は、俺が上司に褒められるたびに嫌みを言い、些細なミスを見つけるたびに執拗に責めてきた。そして今日、ついにこうして大勢の前で俺を貶めようとしているってわけだ。俺にだけうなぎを用意しないことで、「お前はこの場にふさわしくない」とでも言いたいのだろう。
俺は歯を食い縛り、何もないテーブルに視線を戻した。俺を貶めるために、ここまで手の込んだ嫌がらせをするとは思っていなかった。だが、俺が動揺して見せたら、それこそ花村の思う壺だ。同僚たちは気まずそうに視線をそらし、上司たちも黙って見ている。花村が部長という立場上、誰も逆らえないのだろう。
「お前みたいな無能に、このうなぎの価値が分かるわけないだろう。」
花村はニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、わざとらしく自分の重箱を開け、たっぷりとタレのかかったうなぎを箸で持ち上げた。照り輝くうなぎが、まるで俺を嘲笑うかのようだ。周囲の空気は凍りつき、誰も助けの手を差し伸べようとはしない。こうして俺は、目の前の席に座らされながら、無惨にも孤立した状態でパーティーを過ごすことになった。
「花村部長、こんな幼稚なことをして、恥ずかしくないんですか?」
俺はその場で立ち上がり、花村に向かって強く言い放った。静まり返った会場に、俺の声が響き渡る。花村は明らかに動揺しているが、すぐに表情を引き締め、低い声で睨みつけてくる。
「お前、何を言ってるんだ?」
だが、俺は一歩も引かず、目をそらさずに続けた。
「部長、あなたは俺に嫌がらせをしてきた。それが何になるんです? こんなやり方は、ただのいじめです。あなたの立場でこんなことをして、恥ずかしくないんですか?」
花村の顔が怒りに染まるが、俺は構わず言葉を重ねた。ずっと胸に抱えていた思いが、次々に溢れ出す。
「そして、これはあなた個人の問題だけじゃない。この会社のやり方そのものが、もう時代に合っていないんです。」
この一言で、周囲の社員たちの視線がさらに鋭くなるのを感じた。花村がどれほど睨んでこようと関係ない。ここで引いてはいけない。今は、自分が抱えてきた全ての思いを伝える時だ。
「昔のやり方をいつまでも続けているせいで、現場が疲弊しているんです。社員の貢献が正しく評価されていない。制作費はどんどん削られているのに、無理な要求ばかりされる。これじゃあ、若い社員たちが育たない。」
俺は花村だけでなく、その後ろに立って黙って俺を見つめる池田社長にも視線を向けた。
「社長のやり方もそうです。豪快にやるのがあなたのスタイルなのかもしれないけど、今の時代には合っていません。無駄な経費を使いすぎるし、会社の規模に見合わない企画ばかり立てている。社長自身の経営スタイルが、かえって会社を苦しめているんです。」
俺は、この会社の今の体制を根本から変えるべきだと伝えた。花村のやり方は古臭いだけでなく、コンプライアンス違反にすらなりかねないと指摘した。特定の社員をいじめたり、意図的に無視したりする行為は、現代では許されない。さらに、社長が今も勢いのある会社を演出しようとしていることが、実際には現場に負担をかけ、社員を苦しめていると訴えた。社員のモチベーションが低下し、やりがいを失う原因になっていることも説明した。
池田社長は何も言わず、ただじっと俺の言葉を聞いていた。俺はこれまで社内で感じていたことを、全て吐き出すように話した。このままでは、いくら優秀な人材がいても誰も長続きしない。花村部長のような古い考えの人間が上にいるせいで、社員一人ひとりの成長が妨げられている。そして最後に、こう言い切った。
「このままでは、うちの会社は潰れます。」
会場は水を打ったように静まり返り、誰も言葉を発しない。俺が全てを話し終えた後も、池田社長は口を開くことなく、ただ黙って俺を見ている。その無言の圧力に一瞬緊張が走るが、俺は一歩も引かずに社長の目を見つめ返した。けれど、俺がここで声を上げなければ、何も変わらないことだけは確かだ。これが、俺の覚悟だ。
俺の言葉が終わるか終わらないかのうちに、花村の顔は赤く染まり、まるで火を吹くかのような勢いで怒鳴り声を上げた。
「お前みたいな脳なしが、社長に向かって何を言ってるんだ!」
怒りに任せて机を叩き、俺の目の前に詰め寄る。周囲の社員たちは驚いたように後ずさりし、会場全体がざわめきに包まれた。花村は広角を歪め、俺を睨みつける。その目には、明らかな侮辱が浮かんでいた。
「お前はただの下っぱだろうが! 映画のことも分かっていないくせに、偉そうに社長に意見するなんて100年早いんだよ!」
まるで怒りをぶつけることで自分の正当性を示すかのように、花村は言葉を吐き捨てる。その剣幕に、俺は一瞬言葉を失いかけたが、必死に反論しようと口を開いた。しかし、感情が先に立ち、容赦のない物言いの花村は聞く耳を持たない。
「社長のやり方が時代に合っていないだと? お前みたいな雑用係が口を出していい話じゃないんだよ。ただのマネジメントしかできない奴が、映画の世界で何を偉そうに語っているんだ。」
俺の反論を遮るように、花村は言葉を重ねてくる。俺がどんなに言い返そうとしても、彼の怒鳴り声に掻き消されて、うまく伝えられない。
「いや、俺は現場を支えて……」
必死に食い下がろうとするが、俺の言葉は断片的になり、まとまらない。そんな俺を見て、花村は勝ち誇ったように笑った。
「見ろ。この程度の奴だ。お前みたいな奴に、現場の何が分かる? そんなに自分が正しいと思うなら、証明してみろよ。お前はただの使い捨てのコマなんだ。」
俺は拳を握りしめた。花村は俺の言葉を切り捨て、さらに追い打ちをかけるように、社長に向かって振り返った。そして、怒りをそのままぶつけるように、社長に声を張り上げる。
「社長、こいつは首です! こんな場で社長を侮辱するなんて、到底許されることではありません。会社の恥ですよ!」
花村の言葉に、会場はさらに騒然とし、社員たちは息を飲んで俺と花村を見比べている。だが、池田社長は相変わらず無表情のままで、一切口を開こうとしない。花村は社長の反応を確認しようともせず、怒りに任せて話し続ける。
「こんな奴、今すぐ追い出すべきです! 創立記念の大切な日に、こんな疫病神を置いておく理由なんてありません! お前みたいな無能は、ここにいる資格すらないんだよ!」
花村は俺の前に立ちはだかり、指を突きつけるようにして叫んだ。激しい怒鳴り声と共に、周囲の視線が俺に集まる。言い返したい気持ちが胸を満たすが、花村の剣幕に飲み込まれそうになる。
「今すぐ出ていけ!」
その言葉が、俺の耳に鋭く突き刺さる。会場中の誰もが、俺の次の行動を見守っていた。
俺は、花村の視線をまっすぐに受け止めながら、ゆっくりと微笑んだ。そして、軽く肩をすくめて、一言だけ告げた。
「今日で、社員は最後なので。大丈夫です。」
その瞬間、会場は凍りついたように静まり返った。花村ははっと口を開けたまま、まるで何が起こっているのか分からないと言った表情で俺を見ている。俺が微笑んでいるのを見て、彼はさらに嫌な予感がしたようだった。
「どういうことだ?」
苛立ちを隠せない花村の声が会場に響く。俺は何も答えず、ただ彼の表情をじっと見つめ続けた。そして、その時だ。ずっと黙って俺たちのやり取りを見守っていた池田社長が、静かに口を開いた。
「お前の言う通りだ。」
その一言で、会場全体がざわめきに包まれた。花村は呆然としながら、社長の方に顔を向ける。
「し、社長……。」
しかし、社長は花村には目もくれず、俺をじっと見つめ続けた。
「お前の発言は全て正しい。俺も、この会社のやり方を見直さなければいけないと思っていた。だから、この場で伝えようと思う。お前に社長の席を譲るという、俺の決断は間違っていないと。」
社長の言葉に、会場中の視線が一斉に俺に集まった。突然の告白に、社員たちも来賓も、誰もが驚きの表情を浮かべている。俺は目を見開き、父である社長を見つめ返した。社長が、軽く頷く。
「宮城は、俺の息子だ。」
社長の声が、静かに会場に響いた。周囲がさらに騒つく中、俺はゆっくりと頭を下げた。
実は、俺と社長は、実の親子だ。父が母と別れ、会社を優先するために家庭を捨てた時、俺は母と二人で暮らしていた。それ以来、父とはほとんど連絡も取らず、母を支えながら育ってきた。しかし、結果的に父の愛した映画に支えられたのも事実。俺は、父の会社へ入社することを決めたのだった。
入社してからは、父の経営が時代に合わないことに気づき、ずっと指摘してきた。父は最初、俺の言葉を軽視していたが、何度も話し合いを重ね、ようやく考えを改めるようになった。そして、この記念の席で退任し、俺が次期社長に就任することが決まったのだ。
「お前が、これからこの会社を率いていくんだ。」
俺の肩に手を置きながら、社長は静かに言った。
「最後の仕事として、花村の処分を決めさせてもらう。」
社長の視線が、花村に向けられた。花村の顔は青ざめ、全身が震えている。
「花村。今まで宮城に対して行ってきた数々のパワハラ、嫌がらせについて、俺は全て知っている。そして、それだけではなく、他の社員にも同じようなことをしてきたな。」
社長の声は静かだが、鋭い威圧感が感じられた。花村は言葉を失い、ただ震えながら頭を下げるしかなかった。
「この会社に、お前のような人間は必要ない。今すぐ、荷物をまとめて出ていけ。」
花村は一瞬言葉を発しようとしたが、社長の鋭い視線にひれ伏して、口を閉じた。彼の全身から力が抜け、うなだれたまま、その場を後にする。社長は花村に、広格・異動または早期退職の処分を突きつけた。内容は、俺の指導下で雑務をこなすか、小額の退職金を受け取って会社を去るかの二択。花村は顔を真っ赤にして黙り込んだが、最後には退職を選ぶしかなかった。社長は、「パワハラで訴えられないだけ感謝しろ」とだけ言い残し、その場を去った。花村の姿は、その日を最後に、社内から完全に消え去った。
「宮城、これでいいか?」
俺は深く息をつき、ゆっくりと頷いた。父がこの場でこうして俺のことを認め、社長の座を譲ることを大勢に宣言するとは思っていなかったが、これも一つの決着だろう。俺は、社長として、これから新しい時代の経営を始めることになる。父の最後の仕事として、花村という過去の異物を断ち切ってくれたことに、心の中で感謝しながら、俺はゆっくりと会場全体を見渡した。会場の空気は張り詰めているが、確かな手応えを感じる。
これからは、俺がこの会社を変えていく番だ。社長の座に着くことに不安もあるが、これだけ大口を叩き、社長を追いやる形で手にした立場だ。気合を入れずにはいられない。時代にあった経営で、映画の可能性を広げていきたい。



