その日、私たち一家は久しぶりに家族で高級寿司店に来ていた。娘の有沙は六歳で、まだ生魚が苦手だから、いつもお気に入りの稲荷寿司を注文する。店の大将もそれを覚えていて、いつも笑顔で稲荷寿司を出してくれる。私たちはこの店が気に入っていて、すっかり常連になっていた。
だが、その日は偶然にも、同じ小学校に子どもを通わせているママ友の裕子さんが同じ店にやって来た。裕子さんはかなり癖の強いママとして有名で、些細なことで教師や他のママたちを激しく罵倒したり、気に入らないことがあると「自分はヤクザだ」と言って脅してくるような女だった。
「あら、偶然じゃない。千早さんもこの店で食事するの? あなたって結構お金持ちなのね。とてもこんな高級店に来られるような人には見えなかったけど」
裕子さんは私を見るなり、そう言って笑った。金ピカのアクセサリーをじゃらじゃらと身につけ、いかにもブランド物のスーツを着ている裕子さんと、私たち家族はどう見ても一般人の服装だった。
「貧乏くさいわね。このお店は一般人が気楽に来れる場所じゃないのよ。素直に回転寿司みたいな庶民のお店に行きなさいよ」
私たちは裕子さんと関わらないように、離れた席で食事をすることにした。娘はその日も大好きな稲荷寿司を頼んだ。すると、それに気づいた裕子さんが鬼の首を取ったような顔をする。
「ほら私の言った通りじゃない。千早さんの娘さん、さっきから稲荷寿司しか食べてないわ。いつも回転寿司にしか行ってないから貧乏が体に染みついてるのよ。せっかく高級店に来てるのに貧乏くさい」
「娘は稲荷寿司が大好きなの。ただ好きなものを食べているだけだから、そんなこと言わないでくれる? 」
「それって高級なネタの味が分かってないってことでしょ。やっぱり貧乏ってことじゃない」
私は裕子さんにそう告げたが、裕子さんはうんざりするほどしつこく絡み続けた。娘は自分が悪口を言われていることに気づいたのか、すっかり箸を止めてしまった。
「ママ、私、稲荷寿司食べない方がいいのかな? 」
「何言ってるの?

ここは好きなネタを握ってくれるお店なんだから、有沙の好きなもの注文していいのよ」
すると裕子さんは横から口を挟んできた。
「何言ってるの? 高級店ではちゃんといいネタを食べないと大将に失礼ってものだわ。娘が貧乏らしい食事をしているとご両親も恥ずかしい思いをするでしょう」
「もう裕子さん、いい加減にして。娘に好きなものを食べて欲しくてこの店に来たのよ。お互い家族での食事を楽しみましょうよ」
私がそう告げると、裕子さんは鋭い視線で私を睨みつけた。
「あら、千早さん、私に口答えするつもり? 私がどれだけすごいのか、あなたはまだ知らないみたいね」
「何を言っているの? 私たちは同じ小学校に子供を通わせているママ同士でしょ。そこに上下なんてないと思うけど」
「そんなことないわ。金と力がある家が上よ。これが世間の常識なんだから。私はね、大海組で組長をしているの。この私に意見を言うなら、大組に逆らうのと同じことだと思いなさい」
裕子さんがヤクザだと名乗ったことは、正直あまり驚かなかった。以前からママたちの間でも噂になっていたし、今日の格好もいかにもヤクザみたいだったから。だが、一般のお客さんが多いこの店でヤクザを名乗ったことには驚いた。周りの客たちも明らかに引いていた。
「裕子さんがヤクザなのは分かったわ。でもそういうことはこういう場所ではあまり言うものじゃないわよ。最近警察だって厳しいんだから、あまり人前でヤクザを名乗って脅かすような真似はしない方がいいと思うわ」
「何よ、千早さん。片棒の分際で全然ヤクザにビビってないじゃないの。可愛げないわね」
私は普段から他のママたちと同じような生活をするよう心がけている。今日も他のお客さんと同じような服で来ていたから、裕子さんは私もヤクザだとは思っていないようだった。
「とにかく、これ以上私たち家族に難癖をつけるのはやめてもらえる?
私たちだけじゃなく、他のお客さんにも迷惑になるから」
私は裕子さんにそう告げ、家族で寿司を楽しむことにした。それでも裕子さんは「貧乏人だ」「店のランクが分かってない」と散々難癖をつけてきた。だが、私たち家族が全く相手にしなくなると、次第に苛立ちを募らせていく。
とうとう我慢の限界に達したのか、裕子さんは突然立ち上がると、近くに置かれていた日本酒の瓶を手に取った。
「千早さん、あんた何様のつもり? ヤクザである私を無視するなんていい度胸じゃないの。どうやら少し痛い目を見ないとヤクザの恐ろしさが分からないようね。これでも食らいなさい」
そして、私の頭に向けて日本酒の瓶を振り下ろしてきた。私はとっさにガードしたので、幸いにも瓶が直撃することはなかった。だが、テーブルにぶつかった瓶は派手に割れてしまい、私の服はこぼれた日本酒でびしょびしょに濡れてしまった。
それまで静かに見ていた夫が、堪忍袋の緒が切れたようにゆっくり立ち上がると、怒りを込めた目で裕子さんを睨みつけた。
「いい加減にしろ。お前、大海組の組長とか言ったな。今からお前の組を潰してやるから覚悟しろ」
夫はそう言ってスマホを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。一方の裕子さんは手を叩きながらゲラゲラと笑っていた。
「ちょっと、私の組を潰すってどういうことよ? 大海組を潰そうって言うの? あなた一般人だから知らないと思うけど、大海組って結構大きいヤクザなのよ。それを片棒のあなたがどうやって潰すって言うのよ。やれるもんならやってみなさい」
裕子さんは夫に嘲笑を浮かべながら、何度もそう言い続けた。
それから三十分後、ボロボロになった男が店へ転がり込んできた。
「あなたは若頭の白石じゃない。一体どうしたの?
」
どうやら入ってきたのは大海組の若頭のようだった。全身が傷だらけで、スーツもボロボロの男を見て、裕子さんは随分驚いているようだった。
「何よ、ひどい怪我じゃない。その怪我は一体どうしたの? 一体何があったのよ? 」
「そ、それが組長。俺たちがいつものように事務所にいたら、突然ヤクザが襲撃してきて事務所をボロボロにしていったんです。部下も大勢やられて、何人も病院に運ばれていきました。俺はせめて組長に知らせなければと思って、急いでここに」
「一体どこの組の連中がそんな真似を? こいつら名乗ってなかったの?
」
「実は相手は、どうやら小倉組の組員みたいなんですよ」
「小倉組ですって? そんな大きな組の連中が、どうしていきなりうちの組を襲撃したりするのよ。大体、なんでそんなにボコボコにされているの? うちの事務所にも精鋭が集まっていたはずじゃない」
「相手がそれだけ強かったんですよ。俺たちも必死に立ち向かいましたが、とても歯が立ちませんでした」
驚く裕子さんを前に、夫がゆっくり立ち上がると高笑いをした。
「どうだ? 宣言通り、お前の組をぶっ潰してやったぜ」
「ど、どういうこと?
あんた片棒じゃなかったの? まさかあなた? 私と同業者? 」
「なんだ?
俺の顔も知らねえとは。大海組の組長はとんだ脳なしのようだな。俺は小倉組組長、小倉吉秀だ。ちなみに嫁はうちの若頭だよ」
「そんな、千早さんの旦那があの小倉組の組長ですって? 」
「おい、ここで呑気に飯を食ってる場合じゃねえだろ。事務所を見に行かなくてもいいのか? 最も、今更言ってももう遅いだろう。もうお前の事務所は廃墟同然にボロボロになっている頃だろうけどな」
夫の言葉を聞いて、裕子さんは真っ青になって店を出ていった。
「さっき電話してた相手は、部下だったのね」
「ああ、そうだ。その部下から連絡があった。事務所にいた組員は徹底的に痛めつけてやったし、事務所もめちゃくちゃにしたそうだ。組を立て直すにも相当時間がかかるだろうな。二度と俺たちに逆らうことはねえさ」
夫はそう言ったが、私はなんとなく嫌な予感がしていた。そして、その予感は的中することになる。
翌日、いつものように小倉組の事務所にいる私の元に、一本の電話がかかってきた。
「お前が小倉組の若頭、小倉千早か」
知らない男は声を潜め、まるで周囲の様子を伺うように話す。明らかに怪しい電話だったので、私はすぐにスピーカーモードをオンにして、フロアに会話の内容が伝わるようにした。
男は、組長の夫や他の組員たちが聞いているのも知らずに話を続ける。
「お前の娘は俺たちが預かっている。返して欲しければ、身代金二億を持って指定の場所まで来い。いいか? 必ずお前一人で来るんだ。さもなくば娘の命はないと思え」
「待って。娘を誘拐したって本当なの?
それにあなたは一体何者? どうしてこんなことをするの? 」
「一つ目の質問は今から証拠を送る。二つ目の質問は俺たちに会えばすぐ分かることだ。三つ目の質問は、お前たちが邪魔だと思う連中なんていくらでもいるということだな」
直後、スマホに映像が送られてくる。そこには、縛られてぐったりした様子で、冷たそうな床に転がされている有沙の姿があった。ひどくボロボロな廃墟で、映像だけでは場所が分からない。
「有沙、一体どうしてこんなことをするの? あの子はまだ子供なのよ」
「それに答えるつもりはない。娘を無事に返して欲しければ、今から一時間後に二億を持って山奥の潰れたキャンプ場へ来い。その中にある廃墟の三階で取引をする。いいか?
必ず一人で来るんだ。もし部下を連れて大勢で来たなら、娘の命はないと思え」
相手はそう告げると、一方的に電話を切った。
「大変だわ。あなた、今から一時間後にキャンプ場へ行くとしたら、すぐに出ないと間に合わないわ。二億、すぐに準備できる? 」
「金庫を開ければそれくらいは準備できるが、一人で行くつもりなのか? いくら何でも危険すぎる」
「でも、一人で行かないと有沙の命が危ないのよ。相手が誰だか分からないけれど、子供に手を出すようなやつだもの。何をするか分かったものじゃないわ」
「それなら俺もついて行こう。大勢の部下を連れて行けば相手にも悟られるだろうが、俺一人なら気づかれないはずだ。それに俺だって有沙の親なんだ。こんな時にじっとしていられるかよ」
私たちは互いに頷くと、アタッシュケースに二億を準備して、指定された場所まで駆けつける。到着し、きっちり一時間が経った後、私たちは指定された廃墟へと向かった。
廃墟は思ったより雑然としており、夫は置き去りの荷物の影に隠れて潜む。すると、廃墟の奥から何者かが声をかけてきた。
「時間通りじゃない。それに本当に一人で来たようね」
「裕子さん、あなたが一体どうして」
「決まっているでしょう。あなたの旦那に私の組はボロボロにされたのよ。ほとんど組員は大怪我をして壊滅状態。しばらくとても活動できそうにないわ。でも、私はやられたらやり返す主義なの。だけど、小倉組みたいな大きい組と戦ったら勝てるはずもないでしょ。だから、あんたの娘を誘拐したってわけ」
裕子さんの後ろには有沙がぐったりと俯き、椅子に縛られている。意識がないのか、微動だにしない有沙を見て、私は悲鳴を上げそうになった。
「有沙、大丈夫? 裕子さん、有沙は無事なの?
」
「心配しなくても大丈夫よ。今は薬を飲んで眠っているだけだから」
「薬? 有沙はまだ子供なのに薬なんて使ったの? そんな、何かあったらどうするつもり? 」
「千早さんだって人の親でしょ。そんなことしたら危険だってことくらい分かっているわよね。だって仕方ないじゃない。あんたの娘がギャーギャー騒ぐんだから。それより、ちゃんとお金は持ってきたのよね」
気づいたら、私は裕子さんの部下に取り囲まれていた。襲撃を受けず無事だった組員を集めて、私を待っていたのだろう。夫は有沙を救出する隙を狙っていたが、裕子さんが有沙にぴったりくっついていて離れないため、なかなか隙がないようだ。
「さあ、こっちに来て二億渡しなさい」
私は言われた通り裕子さんの前に行き、置いてある机にアタッシュケースを置く。
「はい。約束通り二億よ。これでいいんでしょう?
娘を返してくれる? 」
「いちいち私に指示しないで。それに、この程度で済むわけないでしょ。あなたの旦那には私の可愛い部下たちが散々お世話になったんですもの。あなたにも責任取ってもらわなくちゃね」
「責任? 私に何をしろって言うの? 」
「そうね。まず謝罪しなさい。『私に逆らってすいませんでした。二度と小倉組は私たちに手出しをいたしません』そうやって謝るの。いいわね」
裕子さんに言われ、私はその場に膝をつくと土下座をし、言われた通り謝罪する。すると近くにいた裕子さんの部下が私の頭を踏みつけた。
「いい気味ね。それじゃ次は、少しばかり痛めつけてあげるわ。うちの組員たちはほとんどが大怪我で入院したんだもの。あなたにだって責任があるものね」
続いて裕子さんは部下に命令し、私を殴りつける。私はうずくまり必死に殴られるのを耐えたが、体中がボロボロになっていた。
「あはは。いい気分だわ。でもそれくらいにしておきましょう。今あなたに死なれたら、金が手に入らないもの。そのアタッシュケース、番号の鍵付きよね。開けてくれない」
私は言われるがままアタッシュケースの鍵を開ける。中には裕子さんたちが指定した通り、二億の束がぎっしりと詰め込まれていた。
「本当に二億持ってきたみたいね。さすが小倉組ほど大きな組になると、このくらいの金すぐに準備できるのね」
裕子さんは目を輝かせ、アタッシュケースを覗き込む。そして他の組員たちと二億があるか確認するため、金を数え始めた。その時、ようやく裕子さんが有沙から離れる。
それに気づいた夫はすぐさま有沙へ近づき、縄を解くと、ぐったりする有沙を抱き上げ走り出した。私は夫が有沙を連れ出したのを確認すると、目の前の二億にすっかり気を取られた裕子さんを殴りつけた。
「何するの?
娘の命が惜しくないの? 」
「娘ならもう返してもらったわよ。たった今、私の夫が助け出してくれたの」
「ここに小倉組の組長も来ていたの? 」
「そうよ。私の娘に手を出したこと、後悔させてあげるわね」
私はそのまま裕子さんを思いっきり殴りつける。裕子さんを守ろうと他の部下たちも襲いかかってきたが、娘を安全な場所へ連れ戻ってきた夫がすぐに応戦してくれた。
「もう有沙は無事だ。部下にも連絡した。すぐこの廃墟に来るだろう。こいつらを全員片付けるぞ」
私は夫と共に迫りくる部下たちを、片っ端から投げ倒していく。ほどなくして小倉組の組員たちも廃墟に駆けつけ、周囲に潜んでいた裕子さんの部下たちを次々と捕まえていった。どうやら小倉組の部下たちは私たち夫婦を心配して、すぐ近くまで来てくれていたらしい。
あっという間に全ての部下が拘束され、自分自身もボコボコにされた裕子さんは、ぱんぱんに腫れ上がった顔で私たちへ土下座をした。
「ごめんなさい。もう許して。二度と小倉組には逆らわないわ」
「今更何を言ってるの? 有沙を誘拐した上、妙な薬まで飲ませるような相手を許せるわけがないでしょ」
「そうだ。そもそも、どうして有沙や千早を狙ったんだ?
」
「そ、それは妻である千早さんと娘を始末すれば小倉組も弱体化するだろうと思ったからよ。千早さんは女だから、人数が減った大組でもなんとかなると思ったし。妻と娘を失ってあなたが呆然とすれば、小倉組も少しは弱体化すると思ったから」
裕子さんの言葉に、私たちはすっかり呆れていた。
「とにかく、うちの有沙を誘拐した罰は受けてもらわないとな」
「そ、そんな。何でもするわ。お金なら払う」
「お前みたいな小さな組から金なんてもらわなくても、うちは十分やっていけるんだよ。何でもやるって言うなら、その命で償え。なあに、心配するな。せっかくいい景色の山まで来てるんだ。このまま埋めてやるよ」
夫は裕子さんと部下たちを手頃な場所に連れて行き、その場で穴を掘るように命令する。裕子さんたちは何度も謝罪し、泣きながら自分たちが埋められる穴を掘っていた。だが、誰一人同情することもなく穴を掘らせ、見事な穴ができた後、その上から容赦なく土をかけ、みんなで踏み固めていく。
最初は謝罪し、それから泣き喚き、最後は怒って恨み言を吐いていた裕子さんも、やがて静かになっていった。
私たちは無事に裕子さんを埋め終わると、いつもの生活へ戻る。幸いなことに有沙はすぐに目を覚まし、元気な様子で私たち夫婦に飛びついてきた。裕子さんに触られた時の記憶はあまりないようで、すぐに普段通りの有沙に戻ってくれた。
それから数日後、裕子さんが消えたことで、他のママ友たちは以前より過ごしやすくなったという声がよく聞かれるようになっていた。裕子さんの家族は心配するかと思っていたのだが、実は以前からヤクザの組長である裕子さんの傍若無人ぶりに夫も子供も散々振り回されており、今は以前より伸び伸び過ごしているという。
そして、私たちはまた近いうちに、あの高級寿司店に行く予定だ。楽しい寿司屋の食事を邪魔されたリベンジとしても、あの店に行こうと決めている。今からすでに寿司屋に行くのを楽しみにしている有沙に、私は言う。
「もう遠慮しなくていいから、好きなだけ稲荷寿司が食べられるからね」
有沙は嬉しそうに笑って頷く。私はその笑顔を見て、改めて有沙が無事だったことを喜ぶのだった。


