私はその言葉を聞いて、思わず手を握りしめた。「そんなに値引きが嫌なら、もういい。取引は中国に切り替えるからな」——新社長の野島は、そう言って嘲笑った。彼の低姿勢な要求を私が一貫して断り続けてきたからだろう。その脅しのような口調に、深い不快感が押し寄せてきた。
私の名前はミヤ。62歳だ。父から受け継いだ機械製造会社を経営している。若い頃は技術者として働き、今でも時間があれば工場に足を運んで工具を手に取る。社長になってから久しいが、正直なところ、私は機械をいじっている方が好きだ。それが自分に合っているのだと思う。
私たちにはさまざまな業界の取引先がある。その中でも、最も長く付き合ってきたのが食品加工会社だった。惣菜や菓子を作る老舗で、父が社長だった頃からの付き合いだ。
今から約8年前、その取引先は窮地に立たされていた。生産ラインの機械が老朽化し、次々に故障した。製品のばらつきが原因で不良品が増え、大口取引先からの注文に応えられず、契約を打ち切られてしまった。倒産してもおかしくないほどの危機だった。原因は雇っていたメンテナンス会社のせいだったが、取引先にとっては関係ない話だった。
ちょうどその頃、私は特許を取得したばかりの機械を開発していた。0. 01ミリ単位でクリアランスを管理し、金型の温度と圧力を常に微調整することで、一個一個の品質を一定に保つ精密成形機構だ。惣菜や菓子の世界では、わずかな重さや形の違いが製品の価値に直結する。一般的な機械では、この再現性を保証することはできなかった。
私は取引先の窮状を聞き、その機械を彼らの製品に合わせて調整した。そして、専用の成形機として格安で提供することを申し出た。さらに、今後の修理費——メンテナンス費用——も、すべて無料にする、と言ったのだ。
「ありがたいが、修理費無料とは。そこまでしていただく理由は?」
当時の社長は、私の提案に明らかに動揺していた。
「父の代からお世話になってきました。困った時には助けていただいたこともあります。だからこそ、これからも信頼関係を続けていきたい。そういう気持ちの表れだと受け取っていただけませんか」
その言葉に、社長は深く感動したようだった。
「ありがとう。本当にありがとう。このご恩は忘れません。孫の代まで、あなたの会社と付き合っていきたい」
社長はそう言って、私の手を強く握ってくれた。あの時の光景を、今でもはっきり覚えている。
それから8年が経った。私たちは本当に良好な関係を築けただろう。互いに信頼し、尊重し合う。理想的な関係だった。その特許機械は、一度も故障することなく、取引先の生産を支え続けた。
だが、それは終わりを迎えようとしていた。
去年の年末、取引先の社長——前社長は、病気で亡くなった。突然の発作だった。あまりにも急なことで、私も驚いた。
今、社長を務めているのは、野島という前社長の遠縁の男だ。元々は別の支店の支店長をしていたらしい。前社長には娘がいたが、結婚して家を離れ、ビジネスとは無縁の生活を送っていた。血縁関係などもあり、野島が社長に押し上げられたのだろう。
長年の取引先として、私は当然弔問に伺った。しかし、期待に反して、野島は見下すような態度で私に接してきた。
初めて会った時も、「長年の取引先と聞いて待っていました」と言いながら、私の名刺を見て顔をしかめたのだ。内心どう思っていようと、最低限の礼儀はあるべきだと思ったが、いきなり揉めるわけにもいかない。穏便に済ませようとしたが、短い会話の中で野島に対する印象はかなり悪いものになった。
どうやら彼は、前任者か上の者から私たちのことを何か聞いていたようだが、その言動から察するに、私たちの重要性をまったく理解していないようだった。
「君たちは、ただ長く付き合ってきただけの会社だろう?」
そう言って、彼はこう宣言したのだ。
「言っておくが、俺が社長になった以上、そういう理由だけで生き延びてきた会社は、容赦なく切り捨てていくからな」
その瞬間、私はこの男といずれ大きな衝突が起きるだろうと予感した。会議の後の帰りの車の中で、その予感は確信に変わった。
そして数ヶ月前、同じ野島が私に提案を持ちかけてきた。会社の工場拡張に伴い、特注の注文を増やしたいというのだ。初対面での悪い印象があっただけに、私は驚いた。時間が経って、ようやく私たちの重要性に気づいたのかもしれない。
いずれにせよ、私たちにとって悪い話ではない。話を進めることになったが——それが、私の苦難の始まりだった。
細かい指示やしつこい要求は、まだ我慢できた。
「長年の付き合いだろう?」
「半額以下でやってくれないか? 大切な取引先に、それを自ら申し出るのが誠意ってもんだろう?」
話の途中で、当初の見積もりの半額以下を要求された時には、深く後悔した。
「それは、あいにく、できかねます」
私は丁寧な口調で、しかし強い言葉で断った。その上で、今まで修理費を請求していなかった経緯を、もう一度説明した。
すると野島は鼻で笑って言った。
「ふん。作り話はいい加減にしておけよ。うちより小さい会社が、そんなことするわけないだろ。ありえないんだよ」
彼は私が嘘をついていると思ったらしい。手をひらひらと振って、こう続けた。
「仮に本当だったとしても、だから何だ? それはお前が勝手にやってることだろ。自己満足でやってることを、こっちに恩に着せるなよ」
修理費を無料にすると申し出たのは確かに私だ。しかし、そんな言われ方をされる筋合いはない。
別の日の会議で、もう一度状況を説明しようとした。低価格は、独占契約を前提にしたものだ、と。
「はいはい、その話は何度も聞いた。飽きたんだよ。とにかく値段を何とかしてくれ」
野島は私の話を最後まで聞かず、手を振って遮った。契約の根幹に関わることなのに、彼は些細な雑談のように扱う。
交渉が進むにつれ、毎回同じことを繰り返すうちに、私は徐々に心が疲弊していった。そろそろ、取引のあり方自体を考え直す時期かもしれない。前社長はいないのだ。互いを尊重し合える関係など、もう築けないのかもしれない——そんな考えが頭をよぎり始めた。
そして、また別の日の会議の日。事件は起きた。
取引先のオフィスに向かうと、野島はいつもの調子で切り出してきた。また値引きの話だ。何度断っても、終わらない。野島は、うちが仕事をやってやっているという上から目線で、そのうち私が折れて半額以下を受け入れると思っているのだろう。そうでなければ、半額以下をしつこく要求するはずがない。
「だから言っているでしょう。修理費をゼロにしたのは、独占契約を結ぶことを条件にしたからであって——」
私がそう訴えようとした瞬間、野島は遮った。
「またそのゼロ円修理の話から始めるのか?」
「しつこいな」
「うるさいんだよ」
怒鳴られて、私は一瞬間に言葉を失った。その隙に、野島は続けた。
「いいか。うちはお前の会社よりデカいんだ。うちにもいろいろ事情があるんだよ」
「そんなに値引きが嫌なら、もういい」
「中国製品に切り替えるからな」
「どうする? 取引をやめられたら困るだろ?」
その予想外の言葉に、私は目を見開いた。膝の上に置いた手に、無意識に力が入る。脅しだ。しかも、その嘲笑うような口調が、どうにも腹立たしかった。
「中国製品、ですか?」
私が絞り出すように言うと、野島はニヤリと笑った。
「ああ、実はもう自分で話をつけてあるんだよ。お前の見積もりの半額でやってくれるそうだ」
私は思わず額に手を当てた。仕事で感情をコントロールする術は身につけているつもりだが、ここまで不快な思いをしたのは初めてかもしれない。他社に話を持ちかけること自体は、別に問題ではない。しかし、この脅すような言い方が嫌なのだ。
「それにですね」私はため息をついて言った。「中国製に向いているものと、向いていないものがあると思います。これは後者ですよ。特許で守られた品質は、一朝一夕に代えられるものではありません」
そう伝えたが、野島は微動だにしなかった。
「慌ててるな。みっともない」
彼の歪んだ笑みは、さらに深くなる。
8年間、前社長とは互いに尊重し合ってきた。しかし、かつて信頼した人はもういない。目の前にいる野島は、その精神を受け継いでおらず、理屈も通じない。彼にとって、私も私の会社も、ただの駒に過ぎないのだろう。
そう完全に理解した時、私はゆっくりと心の中で首を振った。考えてみれば、これは都合がいい。向こうから取引をやめると言い出してくれているのだ。こちらから切り離す手間が省ける。
「で、どうするんだ?」
心底嬉しそうな声が聞こえて、私は顔を上げた。私の顔を見て、野島は一瞬、驚いたように目を見開いた。おそらく、ずっとこの瞬間を待っていたのかもしれない。8年分の我慢が、ふと軽くなるのを感じた。
心からの笑みを浮かべて、私は言った。
「ええ、どうぞお切り替えください」
そして、そのまま立ち上がった。
「は? 驚きすぎて頭がおかしくなったか?」
後ろから野島の困惑した声が聞こえる。ドアノブに手をかけた時、野島もようやく我に返ったようだ。
「は、はあ? そうかよ。勝手にしろ。俺は確認だけしておくからな。後悔して泣きついてきても知らんぞ」
震えた声で強がる野島を無視して、私は振り返らずにドアを開けた。
業界を知る者なら誰でも分かっている。粗悪なシステムが良い結果を生むはずがない。現場を見たことがあれば、すぐに理解できることだ。結局、最後に苦しむのは誰か。私はそう呟きながら、自社のオフィスに戻り、迅速に契約解除の手続きを進めた。もともと取引のあり方を考え直す時期だと思っていたので、作業はスムーズに進んだ。
全てが片付いて約1ヶ月後、従業員の一人から報告を受けた。
「野島社長が、お会いしたいと。かなり怒っているご様子です」
受付の者が震える声で言った。
「やはりな」
私は呟いた。正直、直接乗り込んでくるとは思っていなかったが、大方予想の範囲内だった。
「分かりました。通してください」
正式な応接室はあるが、今回は簡単な来客スペースに案内するよう指示した。野島がかなり感情的になっているのは明らかだったので、用心したのだ。他の人の目がある場所の方が安全だ。
私が顔を出すと、野島は目が合った瞬間に叫んだ。
「おい、社長!」
「どういうことだ、これは!」
あまりに感情的になっている野島を見て、私は思わず顔をしかめた。
「今日は予定がありませんでしたか?」
「そんなことはどうでもいい!」
「今まで使ってた機械が、動かなくなったってどういうことだ!」
野島の言葉に、私は「ああ」と呟いた。正直、彼が来た理由は最初から分かっていた。
野島は感情的になってまくし立てたが、要するにこういうことだった。私が去った後、彼は言った通り中国製の機械に切り替えた。生産ラインの一部だけを交換するつもりだったらしい。しかし、私たちの契約が解除されたことで、今まで動いていた特許機械が使えなくなったのだ。
「そりゃ、当然でしょう」
私は当然のことのように言い放った。私たちの機械は、消耗品を含めて全て特許で保護されている。さらに、特許機械の使用を許可したのも、野島の会社との独占契約を条件にしていた。つまり、野島自身が特許機械の使用を放棄したようなものだ。契約解除に伴い、特許に関する手続きと通知は、すでに完了してある。今になって騒いでも、遅すぎるのだ。
「独占契約なんて聞いてないぞ! 俺は部品の一部を交換するつもりだっただけだ!」
いや、社長として、その言い訳は通らないだろう。それに、あなたが中国製品に切り替えると言った日にも、その前の会議でも、独占契約の話を説明しようとしたはずだが——私の言葉に、野島は一瞬、顔を歪めた。どうやら、自分がそのたびに遮っていたことをようやく思い出したらしい。
とにかく、そのせいで生産ラインの一部は完全に止まり、出荷が遅れているらしい。それだけではない。野島は顔を歪めて、吐き出すように続けた。
切り替えた中国製の機械は安かったが、予想以上に壊れやすかった。2ヶ月足らずで駆動部が3回故障し、修理のたびに法外な請求が来るという。
「まあ、耐久性とか考慮して切り替えたんですか? まさか、値段だけで決めたわけじゃないでしょうね」
とにかく、前社長が見たら泣くだろうな。私は心底驚き、心からそう言った。私の言葉が聞こえなかったのか、聞きたくなかったのか、野島は大声で叫んだ。
「何とかしろ!」
謝罪でも懇願でもなく、ただ金を払うから何とかしろ、という要求だった。金を払えば済むと思っているのか。その態度は透けて見える——いや、誰の目にも明らかだ。周りでこの光景を見ている従業員たちの不安が伝わってくる。
私ははっきりと宣言した。
「あなたが私の説明を遮って、しつこいと言ったのは、あなた自身です。自分で選んだ結果を、自分で受け入れるしかないでしょう。それが社長というものです」
ガタンと大きな音を立てて、野島が立ち上がり、私に手を伸ばした。
「お、お前——! 俺は警察を呼ぶぞ!」
その時、ずっと成り行きを見守っていた従業員の一人が叫んだ。野島の手は、私の襟元を掴む寸前で止まった。その手には、スマートフォンが握られていた。画面は見えないが、録画の準備はしてあるに違いない。
「ぐっ……」
野島は苦しげな表情を浮かべ、手を引っ込めた。
「もうお終いですか? 言った通り、うちのスタンスはこれだけです」
「お願いします」
「今の単価の1. 5倍で——いや、2倍でもいいから!」
前社長なら、金の話をする前に、まず頭を下げに来ただろう。そう思うと、私は疲れたように首を振った。野島には、これは金の問題ではない、という単純な事実さえ理解できないらしい。説明しても、時間の無駄だ。
「社長を務めたことがあるなら、分かるはずです。チャンスはもう失われたんです」
私は子供に言い聞かせるように、野島の目をしっかりと見つめた。彼もようやく、希望がゼロであることを悟ったらしい。野島は、大人しく引き下がっていった。最後まで、謝罪の言葉は一言もなかった。
野島は、その不誠実さに対して、重い代償を払うことになるだろう。
それから時が経ち、ある人物が私を訪ねてきた。
「お久しぶりです」
そう言って頭を下げたのは、前社長の娘さんだった。彼女に会ったのは、葬儀以来だ。
「この度は、ご迷惑をおかけして——」
「いいえ、そんな——」
私がそう言っても、彼女は頭を下げ続けた。血縁はないのに、親戚の野島が私に対してやったことを、申し訳なく思っているようだった。
野島はこの一件で、周囲から責任を問われているらしい。きっと社長の座を追われて、道を外れていくのだろう。そう言ってから、娘さんは私の目をまっすぐに見た。
「どうしても伝えたかったんです。父はよく言っていました。『次の世代でも、ミヤ社長に頭を下げられる会社でありたい』って。父は本当に、ミヤ社長に感謝していたんです」
私はそれでいい、と彼女の言葉を遮った。
「前社長と、良い関係を築けた。それで十分です」
私の言葉に、娘さんの目に涙が浮かんだ。
「どうか、これからもお元気で」
娘さんはそう言って帰っていった。その背中を見送りながら、私はため息をついた。仕事が落ち着いたら、故郷の墓参りに行こう。今日も、工場には機械の音が絶えず響いている。



