披露宴の真っ最中、姉のドレスが破れていた。悲鳴が響き、招待客たちの好奇の視線が姉に突き刺さる。センスの奥様たちは口元を扇子で隠し、ひそひそと笑っていた。
俺は立ち上がった。ポケットには、ある人物から渡された封筒が入っている。姉をここまで貶めた高の家の不正の証拠だ。俺は静かに、しかし確実に壇上へと歩み寄った。
「高の正一。お前がこれまで何人もの女性から結婚を餌に金を巻き上げてきたこと、そして音社の不正、全て調べがついている。」
俺が突きつけた資料には、国産と偽った輸入食材の記録、改ざんされた検査データがあった。正一の顔から余裕の笑みが消え、高の会長の額には脂汗が浮かぶ。ざわめきが広がる会場。化けの皮が剥がれた一家に、集まった取引先たちの目は一瞬で冷たくなった。
姉を助けてくれた水澄さんが駆け寄り、破れたドレスを自分の上着で覆い隠す。俺は震える姉の肩を掴んだ。
「姉ちゃん、これは会社を私情で動かしているんじゃない。不正をする取引先を切るのは、社長として当たり前の正しい判断だ。」
そして、俺は全てを知っていると伝えた。学費も、会社の資金も、全部姉が自分の人生を削って作ってくれたものだということ。母の遺産なんてなかったこと。水澄さんのプロポーズを、俺のために断ったこと。俺はポケットから母の手紙を取り出し、姉の震える手に握らせた。
「母さんは言ってたじゃないか。自分の幸せを一番に生きなさいって。なのに姉ちゃんはそれを聞いてくれなかった。30年間ずっと。」
姉の目から涙が溢れ出した。「れん、ごめんね。」子供のように泣きじゃくる姉を、俺は強く抱きしめた。会場は水を打ったように静まり返っていた。あれほど姉を笑っていた人々は、誰一人声を出さなかった。
「姉ちゃん、帰ろう。こんなところにいる必要はない。」
俺は姉を支え、まっすぐに出口へ向かって歩き出した。30年。長すぎた30年だった。ようやく、俺たちの止まっていた時間が動き出した気がした。
あの日から、高の家は全てを失った。300億円の契約が白紙になり、不正が明るみに出ると、他の取引先も次々と離れ、会社は間もなく倒産した。姉のことを心配していた俺の会社は、何の問題もなかった。不正をしている取引先を切ったことは、むしろ世間から評価された。社員たちも、身内のためにあそこまで本気になる社長に惚れ直したと言ってくれた。
高の正一は、姉を含む複数の女性から金を騙し取った罪に問われた。顧問弁護士の速水が尽力し、姉が渡した金は最後の一円まで取り返した。俺はまた、姉がこっそり手放していた母の形見のミシンを探させ、買い戻した。姉はそれを見て、声もなく涙を流した。「お母さんに合わせる顔がなかったの。これでやっと…」
姉を騙していた他の女性たちの救済も、速水が手助けした。姉の善意は巡り巡って、他の誰かを救うことにも繋がったのだ。
俺は姉をあの古いアパートから連れ出し、日当たりのいいマンションへ移った。引っ越しの荷物は本当に少なかった。あの古いミシン、母の巾着袋、そして縁の塗装がはげた500円の手鏡。それだけだった。
姉は少しずつ変わっていった。俺がたまには自分のために何か買えと言うと、初めて自分用の柔らかなカーディガンを買った。長年行ってみたかったという温泉にも連れて行った。電車の窓から景色を眺める姉は、まるで子供のようにはしゃいでいた。給食の仕事も続けている。ただ、もう体を壊すほど無理はしなくなった。
ある日、食事をしている時、姉がぽつりと言った。「ずっと黙っててごめんね。お母さんの遺産の話も出資の話も、全部嘘だったの。」「謝るのは俺の方だよ。気づいてあげられなくてごめん。」「お姉ちゃんは後悔なんて一つもないの。ただね…こうやってあんたとゆっくりご飯を食べられるなんて、夢みたい。」
それからしばらくして、俺は水澄さんを姉のところへ連れて行った。20年ぶりに顔を合わせた二人は、最初は何も言えずにいた。先に口を開いたのは水澄さんの方だった。「しおりさん、あんたずっと一人で頑張ってきたんだな。俺は何も力になれなくてすまなかった。」「水澄さんは何も悪くないわ。断ったのは私だもの。」「いや、俺がもっとしつこく食い下がってりゃよかったんだ。あんたを一人にしちまった。」
水澄さんは、昔と変わらないぶっきら棒な声で続けた。「なあ、しおりさん。今度こそ、俺にあんたを支えさせてくれないか?」姉は泣きながら、静かに頷いた。
あれから2年が過ぎた。柔らかな春の日差しが差し込む小さな教会で、姉は再びウェディングドレスを着た。今度のドレスはどこも破れてなどいなかった。隣には、緊張で顔を真っ赤にした水澄さんが立っている。招待客はごくわずか。水澄さんと食堂の常連だった人たち、水澄さんの仕事仲間、そして俺。大きな式ではなかったけれど、そこにいる全員が心から二人を祝福していた。
水澄さんは緊張で声を上ずらせながら誓った。「俺は…いや、私は、しおりさんを一生大事にします。もう二度と、この人に寂しい思いはさせません。この人が笑って過ごせるように、残りの人生を全部使います。」不器用な誓いだったけれど、一言一言がまっすぐで、その場にいた全員の胸を打った。水澄さんはもうボロボロと泣いていた。
披露宴は、姉が長年働いてきた食堂を貸し切って開かれた。俺は弟として短い挨拶をした。大勢の前で話すのは仕事で慣れているはずなのに、その時ばかりは声が震えた。「姉は私の親代わりでした。自分の青春も夢も、全部私のために捧げてくれた人です。今日、その姉がようやく自分のための幸せを掴みました。水澄さん、どうか、どうか姉をよろしくお願いします。」深く頭を下げた俺に、水澄さんは力強く頷いてくれた。あちこちですすり泣く声が聞こえた。
姉が俺の前に来ると、ふと足を止め、いたずらっぽく笑った。「ねえ、れん。お姉ちゃん、綺麗?」「ああ、世界で一番綺麗だよ。」「もう、お世辞でも嬉しいわ。」そう言って姉は子供のように笑った。
式の後、姉が俺のところへやってきた。「れん、今日は本当にありがとう。あんたがいなかったら、お姉ちゃんは今日という日を迎えられなかった。」「礼を言うのは俺の方だよ。姉ちゃん、今まで本当にありがとう。そして、ごめん。何も気づかなくて。」
俺はずっと言えずにいたことを、この日ようやく口にした。「姉ちゃん、俺の会社の名前、リアンって言うんだ。あれ、フランス語で『絆』って意味なんだよ。俺と姉ちゃんの絆。それを忘れないように、つけたんだ。」姉は目をまん丸にして、また泣き出してしまった。「もう、なんでそういうこと早く言わないのよ。」泣きながら笑っていた。その笑顔は、俺が生まれて初めて見るような、何の影もない晴れやかな笑顔だった。
姉は今、水澄さんと二人で穏やかに暮らしている。水澄さんの工務店を手伝いながら、時々近所の子供たちに手作りのお菓子を振る舞っているらしい。先日、二人の住む小さな家を訪ねた。縁側で、姉と水澄さんが並んでお茶を飲んでいた。何でもない穏やかな風景だったけれど、その何でもなさこそが、姉が30年かけてようやくたどり着いた場所なのだ。
帰り際、水澄さんがぽつりと言った。「れん君、しおりさんは俺が必ず笑顔にする。だから、お前はお前の家族を大事にしろ。」俺は深く頷いた。この人になら安心して姉を任せられる。心からそう思えた。
俺はと言うと、あの一件の後、少しだけ生き方を変えた。仕事一辺倒だった毎日を見直し、会社は信頼できる役員たちに少しずつ任せるようにした。俺はずっと立ち止まることが怖かったのだ。立ち止まったら、姉に恩を返せないまま終わってしまう気がして。けれど、姉が幸せそうに笑うのを見て、ようやく肩の力を抜くことができた。
そして、俺にも隣を歩いてくれる人ができた。仕事ばかりでそっけなかった俺を、辛抱強く待っていてくれた人だった。来年には、俺も父親になる。その報告をした時の姉の喜びようはすごかった。電話の向こうで、またわーわーと泣いていた。「良かった。本当に良かった。れんにも、やっと自分の家族ができるのね。赤ちゃんが生まれたら、お姉ちゃんに抱っこさせてね。」そのはしゃいだ声に、俺は胸がいっぱいになった。
「あんたが笑ってれば、それでいい。」姉のその言葉は昔と何一つ変わっていなかったけれど、今は俺もこう言い返すことができる。「姉ちゃんが笑っていれば、俺もそれでいいんだ。」
二人の兄弟だった。両親を早くに亡くし、寄り添うように生きてきた。長い間、姉が一方的に与えてくれるばかりの関係だったけれど、今は違う。俺たちはようやく、お互いを支える本当の家族になれた気がする。
人生は長い。途中でひどい目に会うこともある。それでも最後に、大切な人と笑い合えるなら、その人の本当の幸せを守ることができたなら、それだけで生きてきた意味はあったのだと、俺は思う。



