朝6時の競馬場で、誰にも期待されない最下位人気の老馬と、その馬を本気で信じる12歳の少年に出会った。10年前、天才心臓外科医と呼ばれた俺は、あの日救えなかった少女の願いを胸に、この場所で掃除夫として暮らしてきた。少女の最後の言葉は「あの馬が走っている間は絶対に死なない」だった。今、シングルマザーの命が尽きようとしている。執刀できる医師は見つからない。あの老馬の引退レース当日、俺は10年ぶりに…

朝6時の競馬場で、誰にも期待されない最下位人気の老馬と、その馬を本気で信じる12歳の少年に出会った。10年前、天才心臓外科医と呼ばれた俺は、あの日救えなかった少女の願いを胸に、この場所で掃除夫として暮らしてきた。少女の最後の言葉は「あの馬が走っている間は絶対に死なない」だった。今、シングルマザーの命が尽きようとしている。執刀できる医師は見つからない。あの老馬の引退レース当日、俺は10年ぶりに...

朝6時、競馬場のスタンドにはまだ誰の姿もない。俺はゴミ拾い用のトングと袋を手に、観客席の段差を一段ずつ上がっていく。昨日の馬券の半券、空き缶、丸められた新聞紙。それらを拾い集めながら、俺は誰とも目を合わせずに生きてきた。

俺の名前は野並優馬。45歳。この競馬場の施設管理員だ。かつて俺は心臓外科医だった。世界中の難病患者が俺の手を求めて来日し、雑誌は俺を「手術の神様」と書き立てた。10年前、その全てを捨てた。今、俺の手にあるのはメスではなく、錆の浮いたトングだけだ。

それでいい。そう思って10年やってきた。

スタンドを降りていくと、馬券売り場の窓口に明かりがついていた。倉沢なお。シングルマザーで、ここで5年働いていると聞いている。俺と顔を合わせるといつも明るく挨拶してくれる。
「野並さん、おはようございます。今日も早いですね。」
「ああ、おはよう。今日は風が冷えるから、暖房つけといた方がいいぞ。」
「ありがとうございます。気にかけてくださって。」

なおは笑った。その笑顔の裏に疲れの色が滲んでいることに、俺は気づいていた。気づいていて、見ないふりをした。

午後開催日の競馬は人で埋まる。俺はパドック裏の通路を掃除していた。そこに、小学生くらいの男の子が1人、柵にしがみつくようにして馬を見ている。
「ラストランナー、頑張れよ。今日こそ、今日こそだからな。」

声をかけられた馬は、白い毛の混じった栗毛の老馬だった。足を引きずるように歩いている。予想師を見なくても分かる。人気は最下位。12頭中12番人気だ。

俺がそばを通りかかると、少年が振り返った。人懐っこい目をしていた。
「おじさん、ラストランナーって知ってる?すごく強かった馬なんだよ。昔はG2も勝ったんだから。」
「そうか。よく知ってるな。」
「俺、リクト。倉沢リクト。母ちゃんここで働いてるんだ。」
「ああ、倉沢さんの息子さんか。お母さんにはいつも世話になってる。」

リクトと名乗った少年は嬉しそうに笑った。そしてまた馬の方を向いた。
「みんな、もう走らせるなって言うんだ。かわいそうだって。でも、走りたいのはラストランナー自身なんだよ。だって、走ってる時の目がすごく綺麗なんだもん。」

柵にしがみつく小さな背中が、なぜか胸に刺さって離れない。誰にも期待されない馬を本気で信じている子供。その姿が、遠い記憶の中の誰かと重なった。

その日のメインレース、ラストランナーは最下位でゴールした。それでもリクトは拍手を送り続けていた。

数日後の朝、俺は階段の踊り場でしゃがみ込んでいるなおを見つけた。胸を押さえ、額に汗を浮かべている。
「倉沢さん、大丈夫か?」
「あ、野並さん、すみません。ちょっと立ちくらみが…もう大丈夫です。」

顔色が悪い。少し座って休んだ方がいい。なおの唇にはわずかに青さが出ていた。息は浅く不規則だ。俺の10年前の知識は、まだ目の前の症状を読み取ってしまう。これはただの貧血じゃない。
「ご心配かけてすみません。最近寝不足が続いていて…リクトの塾の送り迎えもあるし。」
「無理しない方がいい。一度ちゃんと病院で見てもらった方がいいんじゃないか。」
「そうですね。落ち着いたら行ってみます。」

「落ち着いたら」という言葉に、俺は何も返せなかった。シングルマザーが「落ち着いたら」という時、それは行けないという意味だと俺は知っている。

立ち去ろうとした俺の背中に、なおの声が追いかけてきた。
「野並さん、なんだかお医者さんみたいな見方されますね。」

足が止まった。
「昔、家族に病人がいたんだ。それだけだよ。」
「そうでしたか。すみません、変なこと言って。」

廊下を出て、俺はしばらく壁に持たれていた。助けたいと思った瞬間に、別の声が頭の中で鳴る。お前にまた人の命を背負う資格があるのか。あの少女を救えなかったお前に。

その日の午後、競馬場の相馬場長が出てきた。顔つきが暗い。
「野並君、ちょっといいか?」
「はい。」
「来月の役員会で人員整理の話が出る。売上がもう3年連続で落ちている。何人かにはやめてもらうことになるかもしれん。」
「俺の名前も入っていますか?」
「君は残ってもらう。問題は若い職員の方だ。倉沢さんのようなパートの女性も…」

相馬は言いにくそうに目を伏せた。シングルマザーで、心臓に異変を抱えているかもしれない女性が、職を失う。俺の中で何かがきしみ始めていた。

俺はいつからか、毎朝馬房の前にラストランナーの姿を見に行くようになっていた。ニンジンを1本ポケットに忍ばせて。理由は自分でもうまく説明できない。ラストランナーの首を撫でていると、背後から声がかかった。
「野並さん、毎朝来てくださってるんですね。」
「ああ、牧瀬先生に立ち入ってすみません。」
「いえ、ラストランナーも野並さんが来ると落ち着くみたいで。」

競馬場の獣医師、牧瀬裕子は若いがしっかりした意志だった。
「野並さん、前から伺いたかったんですが…」
「何でしょう?」
「先週、脚に裂傷ができた時、消毒のやり方を見ていらっしゃいましたよね。あの時、ガーゼの当て方について私にアドバイスをくださいました。あれは素人の知識じゃないと思うんです。」

俺は微笑んで首を振った。
「昔、本で読んだだけです。たまたま覚えていただけで、深い意味はありません。」
「そうですか。」

牧瀬はそれ以上は聞かなかった。ただその目には、確かな疑いの色があった。

その夜、俺はアパートの押入れの奥から古いダンボールを引っ張り出した。10年間、開けることを避けてきた箱だ。アルバムを開く。病院のベッドの上で、痩せた少女が笑っている写真があった。塙山弓。生まれつきの心疾患で、何度も手術を繰り返してきた少女だ。俺が最後に執刀した患者だった。

弓は競馬が好きだった。特に当時3歳でデビューしたばかりの1頭の馬を、いつもテレビで応援していた。
「先生、あの馬ね、ラストランナーっていうの。最後に走るランナー。私、あの馬が走っている間は絶対に死なないって決めたの。」

そう言って笑った少女の顔を、俺は忘れたことがない。手術は失敗だった。俺の技術ではなく、運命がそう決めていたのだとしても、俺はメスを置いた。

アルバムの最後のページに、弓の母親から渡された手紙が挟まっていた。震える字でこう書いてあった。
「先生、弓はあなたを恨んでいませんでした。最後までラストランナーを応援していました。あの馬が引退する日まで見届けてあげてください。それがあの子の最後の願いでした。」

俺は手紙を閉じた。窓の外で夜の風が鳴っていた。ラストランナー。最下位を走り続ける12歳の老馬。あいつの引退を見届けるために、俺はこの競馬場へ流れついた。それだけのつもりだった。

その週の終わり、なおは休憩室で意識を失いかけた。話を聞いた相馬は半ば強引に、なおを地元の総合病院へ送り込んだ。検査結果が出たのは3日後の朝だった。俺は事務所の前で、検査帰りのなおと待ち合わせた。封筒を抱えたなおの顔は沈んでいた。
「倉沢さん、結果は?」
「先天性の心臓の病気だそうです。生まれつきの。私、貧血だと思って生きてきたんですけど…」
「医者は何と言ってたんだ?」
「手術しないともう長くは持たないって。それもかなり難しい手術だって言われました。」

なおは乾いた笑い方をした。
「費用もすごくかかるみたいで、私、貯金なんてほとんどないんですよ。リクトの中学のお金を貯めるのが精一杯で。」
「リクトには話したのか?」
「いえ、これからお話します。多分、もう働かせてはもらえないですよね。」

俺は何も言えなかった。封筒の中の病名を聞かなくても分かってしまう自分がいた。10年前、塙山弓のカルテにも同じ文字が並んでいた。

「野並さん、リクトにはしばらく言わないでもらえますか?あの子、まだ12歳なんです。親が病気だなんて、知らない方がいいんです。」
「分かった。約束する。」

なおは深く頭を下げて事務所へ入っていった。

その日の夕方、リクトが制服のまま競馬場へ駆け込んできた。ランドセルを事務所の隅に置き、慣れない手付きでパドック裏のゴミ拾いを始めた。俺はトングを差し出した。
「リクト、これ使え。素手じゃ危ない。」
「ありがとう、おじさん。俺、母ちゃんの代わりに少しでも稼ぎたくて。社長さんが、手伝うなら小遣いくらいは出してやるって。」
「そうか。無理はするなよ。」
「うん。ねえ、おじさん、ラストランナー引退するって本当?」

俺は手を止めた。馬房の方を見る。正式な通達が出たのは昨日のことだった。
「ああ、来月の最終開催で引退レースになる。」
「そっか。じゃあ、あいつの最後、ちゃんと見届けてやらなきゃな。」

リクトの横顔は12歳の子供のそれではなかった。母親の異変に、多分もう気づいている。

牧瀬裕子が俺のアパートを尋ねてきたのは、雨の夜だった。彼女は玄関先で頭を下げた。
「夜分にすみません。どうしてもお話したいことがあって。」
「どうぞ。」

狭い部屋に牧瀬を招き入れた。彼女は座るなり、1冊の医学雑誌をテーブルの上に置いた。12年前のものだった。表紙に若い頃の俺の顔写真が載っている。「世界が注目する天才外科医・野並優馬」と見出しが踊っている。
「大学の頃、教授に進められて読んだ雑誌です。捨てられなくて、ずっと持っていました。」

俺は黙って聞いた。
「先週、ラストランナーの心音を聞いていた時、野並さんが横で『不正な期外収縮』っておっしゃいました。獣医師の私でも、聴診なしには気づけない音でした。」

俺は黙ってお茶を入れた。
「人違いだと言っても、信じてもらえそうにないな。」
「はい、もちろんです。」
「俺は10年前にメスを置いた。もう医者じゃない。」
「なぜやめられたんですか?」

俺は答えなかった。代わりに押入れから弓のアルバムを取り出して、写真を見せた。牧瀬は長いことその写真を見つめていた。
「この子、救えなかったんですね。」
「俺の腕でも救えない命があった。」

「野並さん、倉沢さんの病気、ご存知ですよね。」
「ああ、分かってる。」
「執刀できる医師が、この地域にはいません。県外まで探しても、なかなか見つからないそうです。」

牧瀬はまっすぐに俺を見た。
「あなたがもう一度メスを握ってくださるなら、倉沢さんは助かるかもしれません。」
「俺はもう、手が動かない。10年握っていないんだ。指先が自分のものじゃないみたいだ。」

「本当にそうですか?私は、医者の手は忘れないと思っています。忘れていたら、ラストランナーの異変に気づけるはずがない。」

俺は窓の外を見た。助けたいと思う気持ちは確かにある。あると認めた瞬間に、弓の顔が浮かんでくる。俺の手の中で、戻ってこなかったこと。もう1人失うのが怖いんだ。それだけだ。
「すまない。今夜はこれで帰ってくれないか。」

牧瀬は静かに立ち上がった。
「倉沢さんも、リクト君も、ラストランナーも、みんな最後まで走ろうとしています。先生だけが立ち止まってていいんですか?」

ドアが閉まった。俺はテーブルの上の雑誌を長いこと見つめていた。

事態が動いたのは、その3日後の朝だった。俺がスタンドの掃除をしていると、馬券売り場の方から悲鳴が聞こえた。駆けつけると、なおが窓口の前で倒れていた。
「倉沢さん、聞こえるか?倉沢さん!」

呼吸が浅い。脈は早く弱い。俺の手は自然に頸動脈に伸びていた。
「救急車を今すぐ!リクトには後で連絡を入れてくれ!」

職員が走った。俺はなおの頭を膝に乗せ、気道を確保した。自分でも驚くほど落ち着いていた。

なおは搬送先の市民病院で緊急処置を受けた。夜になって、相馬場長と俺は病院の廊下で医師の説明を聞いた。
「心臓の弁の状態がもう限界です。1週間以内に手術をしなければ、命の保証はできません。ただ、この症例を執刀できる医師が当院にはおりません。今、全国に紹介を出して受け入れ先を探しています。」
「見つかるんですか?」
「正直に申し上げて、難しいです。手術自体が特殊なんです。」

相馬は廊下の椅子に崩れるように座った。俺はその隣に立ち尽くしていた。病室のドアの向こうでなおが眠っている。ロビーではリクトが膝を抱えて泣いていた。

その時、競馬場から連絡が入った。来月の最終開催、競馬場の存続をかけた最後の開催が正式に決定したという。ラストランナーの引退レースが組まれることになった。

俺は病院を出て夜道を歩いた。冷たい風が頬を打った。ポケットの中で、手のひらをゆっくりと開いて閉じた。10年ぶりに、その動きを意識していた。

街灯の下で立ち止まり、俺は空を見上げた。弓と心の中で呼びかけた。あの日、俺は君を救えなかった。だけど、君が応援していたあの馬はまだ走っている。俺はどうすればいいのだろう。

引退レース当日の朝、空は薄曇りだった。俺はいつものように馬房へ向かった。ラストランナーは首をゆっくりと上下させながら、俺の差し出したニンジンを受け取った。その時、相馬が駆け足を変えて走ってくるのが見えた。
「野並君!倉沢さんが容態が急変したと連絡があった!」
「いつですか?」
「ついさっきだ。病院からだ。リクト君が今、向こうに1人でいる。私は開催の準備があって、すぐには動けない。」

俺は頷いて、競馬場のトラックを借りた。市民病院までは車で20分の距離だった。

病院のロビーに着くと、リクトが長椅子の端で両膝を抱えていた。肩が小刻みに震えていた。俺が隣に腰を下ろすと、リクトは顔を上げた。泣き腫らした目だった。
「おじさん…母ちゃんが、母ちゃんが…」
「落ち着け。今、お母さんはどうしてる?」
「集中治療室。先生たちが、もう手術しないと無理だって。でも、執刀する先生が見つからないって。母ちゃん死んじゃうの?俺、母ちゃんしかいないんだよ。」

リクトの声がロビーに響いた。俺は手のひらをゆっくりと開いて閉じた。10年間、誰の命にも触れずに来た手。1人の少女の顔が浮かんでいる。あの子が応援していた馬の引退の日に、俺はここに立っている。偶然じゃない。弓が俺をここまで連れてきたんだろう。

「リクト、よく聞いてくれ。おじさんは昔、医者だったんだ。」
「え、どういうこと?」
「心臓の手術をする医者だ。10年、メスを置いてきた。だけど今日、もう1度握る。お母さんは、おじさんが助ける。約束する。」

リクトは目を見開いたまま、声を出さなかった。俺は立ち上がり、手術室ステーションへ向かった。付き添いの看護師に外科部長への取り次ぎを頼んだ。名乗ると、看護師の表情が固まった。雑誌で見たことがあるという顔だった。

外科部長室で、俺は10年ぶりに自分の名前を口にした。
「野並優馬です。倉沢なおさんの執刀を、私にやらせていただきたい。」
「野並…?あの野並先生ですか?10年前に引退された…」
「正式な復帰ではありません。今日、この一例だけです。責任は全て私が取ります。」

部長は立ち上がって、深く頭を下げた。

牧瀬裕子に連絡が入ったのは、その10分後のことだった。

午後2時、手術室の扉が閉まる。無影灯の下、なおの胸は青いドレープに覆われていた。
「メスをお願いします。」

差し出されたメスを握った瞬間、10年が音もなく溶けていった。最初の切開を入れる。血管の走り方、心膜の厚み、全てが記憶の中にあった通りだった。

同じ時刻、競馬場のスタンドは最終開催の客で埋まっていた。牧瀬裕子はパドックの柵越しに、ラストランナーを見ていた。老馬はいつもと変わらず静かに歩いていた。相馬は特別観覧席でリクトの隣に座っていた。リクトはモニターで母親の手術室の様子を見つめ、それから芝生を見つめた。

最終レースのファンファーレが鳴った。12頭立て。ラストランナーは大外の12番。単勝は200倍を超えていた。ゲートが開いた。スタートでラストランナーは出遅れた。前の11頭が一団となって先へ走り、老馬は最後方に取り残された。

スタンドからため息が漏れた。リクトは身を乗り出した。
「走れ!走れ!ラストランナー!」

その声に答えるように、第3コーナーの手前から、1番外を回る栗毛の影がじわりと追い出しを始めた。

手術室では、俺が破損した弁にアプローチしていた。癒着が想定より強い。スタッフが息を飲むのが分かった。俺は呼吸を整えた。縫合の糸が指先で滑らかに動いた。

第4コーナーを回って最後の直線。戦闘は内側、ラストランナーは大外。追い込んでくる。あの引きずるような歩き方の老馬が、地面を蹴っていた。牧瀬の目から涙が流れていた。相馬は立ち上がっていた。スタンド全体が立ち上がっていた。最下位を走り続けた馬の名前を、誰もが叫んでいた。
「ラストランナーが走ってる!走ってるよ!」

ゴールの瞬間、ラストランナーは先頭から半馬身差の3着でゴールした。勝てなかった。それでも、誰1人としてその走りを「負けた」とは思わなかった。

同じ時刻、手術室の心電図が安定した拍動を刻み始めていた。俺は最後の縫合を終え、メスを置いた。
「執刀を終了します。みなさん、ありがとう。」

無影灯を見上げた。眩しさの向こうに、笑っている少女の顔が見えた気がした。

なおが目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。リクトが枕元にかけ寄り、母親の手を握って泣いた。なおは息子の頭を撫でながら、ベッドの脇に立つ俺を見て静かに微笑んだ。
「野並さん…先生って呼んでいいんですか?」
「倉沢さん、今は野並でいい。よく頑張ってくれた。」

廊下に出ると、リクトが追いかけてきた。俺はベンチに腰を下ろし、隣にリクトを座らせた。ポケットから古いアルバムを取り出した。
「リクト、聞いてくれるか?10年前のことだ。」

俺は少女のことを話した。病室のテレビで、デビューしたばかりの1頭の馬をいつも応援していたこと。その馬の名前がラストランナーだったこと。お母さんから手紙をもらったんだ。あの馬の引退を見届けてやってくれ。それが弓の最後の願いだったと。だから、おじさんはこの競馬場に来た。掃除をしながら、だけど。
「母ちゃんを助けてくれた。」
「君があの馬を信じていたからだ。リクトと君のおかげで、おじさんはもう一度メスを握れた。」

リクトは俺の作業着の袖に顔をうめた。俺はその細い肩にそっと手を置いた。

数ヶ月後、退院したなおは普通の暮らしを取り戻していた。窓口にはまだ立てないが、事務所で軽い仕事を任されている。リクトは学校から帰ると、ラストランナーが暮らす牧場へ通っていた。笑い声が競馬場に戻ってきた。

ある朝、俺は競馬場の小さな記念碑の前に立っていた。ラストランナーの名前と生涯の成績が刻まれている。牧瀬裕子が隣に並んだ。
「先生、市民病院からもう一度、連絡が来ていました。非常勤でいいから来て欲しいと。」
「ああ、受けようと思ってる。」
「ようやくですね。」

遅すぎたかもしれない。だが、まだ間に合う命があるなら。俺は記念碑にそっと手を置いた。

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