手術室を出た瞬間、同僚たちの笑顔が見えた。全員助かった。でも、そこに現れた一人の医師の言葉に、部屋の空気が凍りついた。「今日の奇跡は、私が鞭を入れたからだ」って。俺はその時決めた。この病院を辞めるって。でも、まさかその決断が、十年越しの想い人との再会と、夢の始まりになるなんて思ってもみなかったんだ。

手術室を出た瞬間、同僚たちの笑顔が見えた。全員助かった。でも、そこに現れた一人の医師の言葉に、部屋の空気が凍りついた。「今日の奇跡は、私が鞭を入れたからだ」って。俺はその時決めた。この病院を辞めるって。でも、まさかその決断が、十年越しの想い人との再会と、夢の始まりになるなんて思ってもみなかったんだ。

手術室の電気が消えた瞬間、俺は思わず壁に手をついた。今日運ばれてきた重症患者は全員助かった。奇跡的な数字だった。同僚たちと疲れ果てた笑顔を交わし合い、やりきった感覚が部屋を満たしていた。そこへ、あいつが現れた。

「今日のことはニュースでも話題になっているよ。奇跡の救出劇だとね。これも私があの時、鞭を入れたからこそだ。そうだろう?」

織田島先生が一人で得意げに笑いながら入ってきた。朝見た時と全く同じ、整った姿で。どこで時間を過ごしていたのか、一人だけ涼しげな顔をしている。的外れな主張も相まって、部屋に張り詰めた空気が流れた。

さすがに空気を感じ取ったのか、少し慌てたように周りを見回す織田島先生。

「小田島先生。何か言いたいことでもあるのか?」

ふんぞり返ったその姿に、俺は決心した。

「他に言うべき言葉があるでしょう。今日頑張ったのはあなた以外のみんなです」

俺の言葉に、同僚たちがうんうんと頷いた。織田島の顔が赤くなっていく。

「それに、池山先生への失礼な発言への謝罪もお願いします」

「謝罪だと? 曲がりなりにも医師であるならば、研究だって大事な仕事の一つだと知っているでしょう。かつての先人たちが重ねた研究の末に、今の医療があるんだ。間違っても研究なんて言い方で貶めていいものではない。そこに携わっている人を含めてね」

「高尾…」

周りからも「そうだそうだ」という声が聞こえてきた。織田島の怒りが頂点に達したのが分かった。

「言わせておけば! お前の代わりなんていくらでもいるんだ。首にしてやる!」

部屋の外まで響く怒声。背中越しに、息を飲む音が聞こえた。不安そうな顔をする千歳に微笑みかけ、俺は前を向いた。

「構いませんよ。ちょうどそのつもりでしたから」

きっぱりと言い切ると、織田島は拍子抜けしたようにポカンと口を開けていた。

「それは困る!」

一人の人物が慌てた様子で部屋に飛び込んできた。

「父さん!」

突然現れた委員長に、織田島だけでなく誰もが驚いた。委員長は俺の前に駆け寄り、両腕をガシッと掴んだ。

「ヤブーチ内君、それだけはどうか考え直してくれないか?」

「いえ、もう決めたことなので」

「そこをなんとか頼む! 今、君に抜けられるわけにはいかないんだよ!」

病院のトップである委員長が、一階の医者である俺に懇願している。皆が驚いて見守る中、織田島が委員長のもとへ駆け寄った。

「何言ってるんだよ! この病院には俺がいるから安泰だろう。むしろ、こんな三流がいなくなってくれた方が病院の評判だって…」

「三流だと? このバカ者が!」

委員長の雷が落ち、織田島が肩をすくめる。

「ヤブーチ内君はこの六年間、世界各地の紛争地帯を回ってきた。日本でも数少ない麻酔専門医であり、凄腕の外科医だぞ! その腕に惚れ込んで、世界有数の大病院やVIPたちが彼を引き抜こうと躍起になっているんだ! お前なんぞ、目にも入らないわ!」

「VIP…世界…」

「ここまでバカだったとは情けない」

大きくため息をついた委員長は、呆然とする息子の頭を無理やり下げさせ、自身も深々と頭を下げた。

「ヤブ内君。必要なら、匠には何度だって頭を下げさせよう。顔も見たくないというなら、首にしてもいい」

「く、首…! だ、だから父さん! お前はこれ以上口を開くな!」

織田島が上げた頭を押さえ込みながら怒鳴る。その光景は何とも滑稽だった。

「だからどうか、考え直してくれないか」

「残念ですが、もう次が決まっていますので」

「そこをなんとか…! 何とか君にいてもらわないと病院の立て直しが…! バカ息子の所業のせいで経営が苦しいんだ! どうか、どうかこの通りだ! 望むなら、委員長の座も君に…!」

「委員長の座を…?」

息子の織田島も、病院の経営が苦しいことは知らなかったようだ。隣で頭を下げる父親の顔を、青ざめた顔で見つめている。気の毒ではあるが、正直なところ「身から出た錆」だろうという気持ちの方が大きかった。

「こうなる前に、息子さんを制御するなり、経営方針を見直すなり、委員長であるあなたにできることはいくらでもあったはずです」

俺の言葉に、委員長はうなだれた。

「確かに俺は、織田島先生のように一流の学校は出ていません。それ以前もその後の経歴だって、華々しさとは無縁です。でも、例え世間で三流だと言われる場所であっても、俺にとっては最高の学び舎でした。そこで得られたものは大きかった。ここでの勤務だって、俺の人生の糧になるようなものばかりでした。だから、俺はここをやめて世界へ旅立ったんです。もっと多くの人、もっと困っている人を助けられるようにと、技術を磨いて知識を深めるための勉強も怠りませんでした。もちろん周りの支えや協力もありましたが、俺が得ている評価は、死に物狂いでやってきたその努力の結果です」

そこまで言って、俺は父親の隣で縮こまっている織田島を見た。その情けない顔と目が合ったが、彼は気まずそうに顔をそらした。

「それに比べて、恵まれた環境で医師としての道を歩んできたはずの息子さんはどうですか? 環境や才能、父親の権力を傘に着て、その上に胡座を描いて座っているだけ。人を救うはずの医師が、その努力も放棄して、患者や仲間を自分勝手に選別し、病院を私物化した。その責任は、彼の親でありこの病院の管理者でもある委員長、あなたにもあるんじゃないですか。その責任は、しっかりと取るべきです」

最後にそう加えた俺の言葉に、委員長はガクッと膝をついた。

「…その通りだ。申し訳なかった」

そう言って、静かに涙を流したのだった。

織田島親子が肩を落として部屋から立ち去った後、俺は同僚たちに病院を退職する旨を改めて報告した。来たばかりだというのに去っていく俺のことを、誰も責めることはしなかった。むしろ、みんな寂しがってくれて、中には泣き出す同僚までいて慌ててしまう。

「ヤブ内先生がやめちゃうなんて…! みんなでお別れ会をしましょう!」

そんな話で盛り上がる彼らを眺めながら笑っていると、千歳が隣へやってきた。

「大人気ですね、ヤブ内先生」

「すっかり懐かれたみたいだ」

「まあ確かに、今日の高尾は特別かっこよかったもんね」

「ち、千歳…」

慌てふためく俺を見て、彼女はおかしそうに笑っていたが、ふと真面目な顔つきで俺をじっと見つめてくる。その大きな瞳に見つめられると、昔から心臓がドキドキして仕方ない。

「ありがとう。一緒に働けて、嬉しかった。あ、これもだよ。もっといられると思ってたから、寂しいけどね」

ぽつりと呟く。無理して笑っているのが分かるくらい、今にも泣き出しそうな顔で。

「でも、新しい病院でも頑張ってね。高尾なら、きっとそこでもたくさん活躍できると思うから」

昔から強くて優しい女の子。でも本当は強がって無理しているのを、俺は知っている。

「千歳に話しておきたいことがあるんだ。よかったら、俺の病院に来ないか?」

「え? 俺の病院?」

驚いて目を丸くする千歳の顔が可愛らしくて、思わず笑ってしまう。

「実はさ、病院を作っていて、もうすぐ開院するんだ」

「え…!」

「色々制約はあるけど、それでも昔の俺たちみたいに、貧困に喘ぐ患者でも安心して医療が受けられるようにしたい。いつかは海外にも作れたらと思ってる。海外を見て回って、満足に医療が受けられないケースをたくさん見てきたんだ。俺が回ってきたのは戦地や貧困地域も多かったから、なおさらだ。お金の問題、国の問題、文化や宗教。色々な問題がそこにはあったけれど、一人でも多くの命が救われるように、悲しみが減るように、自分にできることを一つ一つやっていきたい。三十八年生きてきて、見つけた大きな目標の一つだ。そのための資金を稼ぐためと、コネ作りで、いわゆるVIPと呼ばれる人たちの担当もしてきた。日本の開院の準備が進み、自分の担当患者の経過も良好だったため、こっちに戻ってきたのが先日のことだった。最初は小さな病院からになるけどね」

「私も、そこに行っていいの?」

「強制はしないよ。でも、来てくれたら嬉しい」

俺の言葉に、千歳が首を振る。その瞳は、かすかに揺れていた。

「…織田島先生の話、聞いてたよね。二年前にいた病院で担当していた患者さんが、手術後に亡くなったの。もっと私にできることがあったんじゃないかって。そう思ったら、手術に向かうのが今まで以上に怖くなって。それからは、逃げるように研究の方に重きを置くようになったの」

「おじさんが倒れたのも、その時期だったね」

「もしかして、それも自分にもっと力があれば…。あの患者さんも、お父さんも、もしかしたらって。その考えが頭を離れないの。そんな場面、これまでたくさん出会ってきたのに、情けないよね」

そう言って笑う千歳の瞳から、涙がこぼれ落ちる。俺はそれを優しく拭うと、首を振った。

「情けなくなんかないよ。俺だって、救えなかった人たちのことを思い出して、手術前は逃げ出したくなることだってある。それでもやめないのには理由がある。それは、千歳も同じなんじゃないか。目の前で困っている人がいるなら、放っておけない。俺たちだってスーパーマンじゃない。心が折れることもあるし、投げ出したい時だってある。力不足に涙を流すことも。それでも続けるのは、根底に医師としての信念があるからだ。どんなに優秀な医師だったとしても、人として尊敬できなければ一緒に働きたいとは思えない。でも、俺は千歳と一緒にいたいと思ってる。それだけじゃ、不足かな」

「高尾…」

「さっきも言ったけど、無理にとは言わない。もしおじさんも開院を受けてくれて、俺の病院に来てもらうことができるなら、千歳も仕事をしながらおじさんのことを見られるから、負担は少ないんじゃないかって思うんだ」

「ありがとう。色々考えてくれて」

千歳の瞳から、また涙がこぼれ落ちていく。

「高尾とまた会えてよかった。じゃなきゃ、大事なものを自分から手放してしまうところだった。本当にありがとう」

涙を拭おうとした俺の手をそっと握りながら、千歳が笑顔を見せる。泣き笑いのような表情だったが、その瞳は潤んでいた。少し先の未来に思いを馳せ、キラキラと輝いているように見えた。その瞳から、しばらくの間目が離せなかった。

あの一件から数日後のこと。委員長の言葉通り、息子の織田島匠は病院を解雇された。救命対応した患者を結果的に他の医師に押し付けたという話はあっという間に周囲に知れ渡り、近隣の病院で奴を雇うような物好きなところは現れなかったため、再就職に苦労したようだ。風の噂によると、ここから随分と離れた地方の病院で働き始めたらしい。だが「人の口に戸は立てられない」と昔から言うように、噂はどこまでもついて回ったようで、小さくなって働いているらしい。織田島だって、曲がりなりにも医師の道を選び、十年以上はこの道を進んできたのだ。開き直って人のために働くようになればいいとは思うが、その先は神のみぞ知るだ。

そして、小田島総合病院の方だが、こちらも評判はだいぶ落ちてしまい、経営に拍車がかかっているようだ。だが、元々はしっかりした方針の病院だったので、「患者や地域に寄り添った医療を」と心を入れ替える気持ちで、織田島委員長がなんとか踏ん張っているようだ。

俺はと言うと、当初の計画通り病院を開院することができた。小田島総合病院規模の病院にはまだまだ遠く及ばない小規模な病院ではあるが、自分たちが最大限力を発揮できるような環境を整え、患者さんたちにも安心して来院してもらえるような病院を作ったつもりだ。自分以外の医師をどう確保するか悩んでいたのだが、その問題はあっさりと解決した。なぜなら「俺も先生の病院に行きます!」「私も安内先生からたくさんのこと学びたいです!」と、送別会の日に同僚たちが俺の病院で働くことを希望してくれたのだ。もちろん、再起を図る小田島総合病院で委員長を支えるために残った者もいたが、ほとんどの同僚が希望してくれたことがすごく嬉しくて、思わず涙が溢れそうになった。千歳には「本当に涙もろいんだから」と笑われたが、嬉しくて勝手に溢れてくるんだから仕方ない。俺は彼らに感謝しながら、新たな一歩を踏み出すことができた。青臭くて少し恥ずかしくもあるが、まさしく夢に向かっての第一歩だった。もちろん、千歳も一緒だ。

それに、おじさんも立派になったね。

「高尾君、呼んでくれてありがとう。これから娘ともども世話になるが、よろしく頼むよ」

開院初日、そう言って俺の手をぎゅっと力強く握ってくれた。これで少しでも、あの時の恩返しができているだろうか。そう考えると、胸の奥が熱くなって涙が溢れてくる。

「君は本当に涙もろいね」

目頭を抑える俺に、おじさんが明るく笑う。一緒にいたおばさんと千歳も、「本当にね」と微笑んでいた。俺は本当に運が良かったと思う。あの時、この人たちに出会えて本当に良かった。

おじさんへの挨拶が終わって、千歳と共に仕事に戻る途中のこと。

「高尾。改めて言わせて。本当にありがとう」

そう言って頭を下げる千歳。

「こっちこそ、今まで散々お世話になったんだ。少しでも恩返しができてればいいんだけどな」

俺の言葉に、千歳がふわっと微笑む。

「そんなの、もう十分もらってるわよ。特に私はね」

「え?」

意味ありげに笑う千歳に聞き返したところで、同僚たちと鉢合わせする。

「ああ、いたいた。ヤブ内先生、池山先生」

「ああ、どうした? 何かあったのか?」

「いえ、少し聞きたいことがあったんですけど」

同僚はそこまで言うと、ニヤニヤしながら俺たちの顔を交互に見ている。

「相変わらず仲良しですね。前も思ってましたけど、こっち来てからはもっとですよね」

「なっ…!」

その言葉に俺は顔が熱くなり、変な汗をかき始めてしまう。千歳はと言うと、相当な慌てっぷりで顔の前で両手をパタパタしながら彼らの言葉を否定する。

「ヤブ内先生と私は、昔馴染みってだけよ! からかわないの!」

千歳の言葉にちょっとショックを受けつつも、なんとか平静を保とうと深呼吸をする。その隣で同僚たちはまた笑っていたが、千歳のあまりの否定っぷりに、んとした顔になる。そして俺の顔を見た後、気の毒そうな表情でため息をついた。

「もしかして、俺、鈍感すぎる?」

「まあ、ヤブ内先生も口下手っぽいもんな」

「池山先生も、その手のことには鈍いしね」

そんな声がひそひそ聞こえてくる。そして彼らは何やら相談した後、大きく頷くと千歳を名指しした。

「池山先生に問題です!」

クイズ番組の司会者のような身振りで。

「え? 私?」

「ヤブ内先生は、世界の有名なVIPたちを顧客に抱えるお医者さんでしたよね。このまま行けば、億万長者も夢じゃなかったのに。小田島総合病院に戻ってきたのは、なんでだと思いますか?」

「おい!」

「ヤブ内先生は黙っててください! このままじゃ、見てるこっちもじれったくて仕方ないんですから!」

「う、すみません…」

十歳以上離れた後輩たちにビシッと言い切られて、思わず謝ってしまう。そんな俺を横目に、千歳に再度問が投げかけられる。

「どうしてだと思いますか?」

「い、いきなりね…」

「まあいいじゃないですか。答えは出そうですか?」

千歳はうーんと唸った後、「日本の医療の現場を見ておくためとか…」と答えた。しかし同僚たちは「ブー!」という音と共に、顔の前でバツを作っている。本人である俺を差し置いてだ。よくよく考えてみればおかしな話なのだが、彼らはお構いなしに千歳とクイズバトルを繰り広げている。その後もいくつか回答したが、どれも不正解だったため、千歳はとうとう怒り出した。

「もう全然分かんない! でも、みんなは知ってるのよね?」

「もちろん、気づいてますよ」

「私だけ分かってないなんて、なんか悔しい…」

全く当たらないことが面白くないのか、子供みたいにじけている。少しむれた顔が可愛らしい。

「…正解は、池山先生のためですよね? ヤブ内先生」

水を向けられて、思わず言葉に詰まってしまう。耳まで熱くなっているのが自分でも分かる。俺の反応を見て、千歳の顔がわずかに赤く染まった。

「ヤブ内先生なら、きっと国内の情報もある程度調べてたんじゃないですか。その途中で池山先生の経歴や、小田島総合病院の実情を知って、それで戻ってきたと私は睨んでます。結果的には俺たちも助けてもらった形になりましたから、感謝しかないですけどね。だからこそ、俺たちみんな、お二人には幸せになって欲しいって思ってます」

同僚たちは言いたいことだけ言うと、「それじゃあ、後はごゆっくり!」と言って、足早に去っていった。

俺たちの間に沈黙が流れる。先に口を開いたのは、千歳だった。

「ねえ、本当にそうなの?」

千歳の声は、わずかに揺れていた。彼らに後押しされなくちゃきっかけをつかめないなんて情けない話ではあるが、今ここで濁すのは、してはいけない気がした。

「…本当だよ」

俺の答えに、息を飲む音が聞こえた。

「開院を進めているうちに、小田島総合病院の噂を聞いてね。胡散臭いし気になって調べたら、偶然にもそこに千歳がいたんだ。だから、俺は小田島総合病院に戻ったんだ。委員長側にも思惑があったためか、俺が戻りたいという話をしたら二つ返事で了承してくれたのは助かった。小田島総合病院の悪い噂自体は、正直どうでも良かった。ただ、そこに千歳がいるなら、なんとかしたいと思っていた。彼女の意思は尊重しようと思っていたけど、あまりにもひどい有り様なら、ここから強引に連れ去るつもりでもいた。辛い思いをしているなら、今度は俺が千歳を救い出したかったんだ。日本で夢を叶える前に、千歳に会って伝えたかったんだ」

口元に両手を当てながら涙ぐむ千歳の前で、膝をつく。背はすっかり追い越してしまったから、こうした方が千歳の顔がよく見える。

「ずっと、千歳のことが好きだった。初めて会った時から、千歳は俺にとって特別な女の子だったんだ」

そう言って、俺はポケットから小さな小箱を取り出して、手のひらに乗せた。

「俺と、結婚を前提に付き合ってください。お願いします」

声が震えないように、精一杯かっこつけて愛の告白を口にする。今まで遭遇してきたどんな場面よりも、緊張した。数秒後、差し出した俺の手と小箱を、温かな手が包み込んだ。

「…私でよければ」

涙に濡れた顔は、先ほどよりも赤く染まっていた。恥ずかしそうに微笑むその顔は、今まで見たどの表情よりも可愛らしくて、俺の心臓がドクンと跳ねる。

「千歳がいいんだ、俺は」

そう言って、千歳を抱きしめる。千歳もまた、腕の中で「私も…」と言いながら、抱きしめ返してくれる。ずっと秘めていた思いが通じ合ったことに、俺はこの上ない幸せを感じていた。こうして、俺は日本に戻ってきた目的の全てを、無事に達成したのだった。

今こうして俺が夢の一歩を踏み出すことができたのは、苦しい中でも必死に俺を育ててくれた両親と、辛い時に寄り添い心を支えてくれた千歳の家族、そしてこれまで出会って関わってきた多くの人たちが手を差し伸べてくれたおかげだ。医師という道を突き進むと決めた時から、俺は人からもらった優しさや思いやりを忘れないようにしたいと思って生きてきた。どんなに医療技術が優れていても、人を思う気持ちがなければ、やはりそれは成功しないと思うから。だから、俺はこれから先、何十年とこの道を歩んでいく中で、たくさんの人からもらった温かな思いをずっと胸に抱きながら、突き進んで行こうと思う。隣に最愛のパートナーがいてくれる限り、俺がそのことを忘れることは、絶対にないと思うから。

Thumbnail