ある朝、俺は出社した途端に違和感を覚えた。同僚たちの視線が普段とは違う。デスクに座りパソコンを起動すると、愕然とした。画面は初期化され、これまで積み上げてきた顧客データも相談記録も全て消えていた。隣の後輩が困惑した顔で画面を指す。そこには俺名義で全社員に送信された退職メールが表示されていた。
「川端さん、どこかに引き抜かれたんですか?」
俺は動揺を必死に隠して答えた。「まさか。退職なんかしないよ」
真っ先に西浦部長の顔が浮かんだ。この男だ。学歴第一主義を掲げ、高卒の俺を見下し続けてきた西浦。先日も部内会議で「高卒。こんな時代にまだいるんだな。過去の実績は一応認めるが、今後の重要案件は大卒以上に任せる」と言い放った男だ。
俺は直接抗議するため西浦の部屋へ向かった。「部長、私名義の退職メールを送信したのはあなたですね」西浦は不気味な笑みを浮かべた。「証拠はどこにもないだろ。パソコンはセキュリティ上の理由で初期化した。車内規定に基づく退職時の正当な処置だ」
そして西浦は椅子に深く座り直し、見下すように言った。「君のような低学歴がこの部署で偉そうにしているのが気に食わなかったんだ。高卒のくせに周りからちやほやされて。無能が自主的にやめるとは偉いな。荷物をまとめて出ていっていいぞ」
怒りで体が震えたが、反論しても無駄だ。俺は無言で部屋を後にした。人事部に抗議しても、人事部長は西浦と同じ学歴派で意図的に対応を避けていた。
肩を落としてデスクに戻ろうとした時、フロアに緊張が走った。壷井会長が巡回に来たのだ。72歳とは思えないしっかりした足取りで、会長は俺を見つけると大股で近づいてきた。
「なぜ君が退職を?」
周囲が静まる。この瞬間、俺はある戦略をひらめいた。10年間守り続けてきた秘密を明かす時だ。俺ははっきりと答えた。
「私ではなく部長の意思ですよ。というわけで、本社の借地料20倍になりますが、やめますね」
フロアが凍りついた。誰もが狐につままれた顔をしている。ただ一人、壷井会長だけは静かに言った。「詳しい話を聞かせてくれ」
会長室で俺は全てを説明した。退職メールの偽装、パソコンの初期化、西浦の侮辱。そして続けた。
「私はやめるつもりはありません。ですが、もしこのまま退職に追い込まれたら、祖父にこの地上話さざるを得ません。この本社ビルの土地は祖父の不動産管理会社が所有しています。今は市場価格の五分の一という破格で貸していますが、私が不当に扱われたと知れば、祖父は失望するでしょう。きっと契約更新時に市場価格を要求するはずです」
会長は目を閉じた。「薄々そうじゃないかと思っていたが、あの破格の土地使用料は川端さんの配慮だったのか」
沈黙が流れ、会長は目を開けた。「学歴第一主義を掲げる派閥が台頭し、経営層にも影響力が増している。このままでは会社の魂が失われる。君と一緒にこの派閥を一掃したい。力を貸してくれないか?」
俺は答えた。「徹底的にやりましょう」
作戦は二つあった。会長が内部を徹底調査し、西浦と派閥の不正を全て洗い出す。俺は顧客への退職挨拶回りをする。俺の顧客は学歴ではなく俺自身を信頼している。担当変更を聞けば取引の見直しを求めるだろう。外からの圧力と内部の調査で追い詰める。来週の定例役員会議が勝負だ。
翌日、俺は最大顧客である中堅メーカーを訪れた。社長は笑顔で出迎えてくれたが、俺が「突然ですが退職することになりました」と言うと、笑顔が一瞬で消えた。
「なんだって? 冗談だろ」
「担当変更を命じられまして、会社に居場所がなくなりました」
社長は机を叩いた。「担当変更など認めんぞ。川端君以外の担当者と仕事をする気はない。出なければ契約を見直す」
その場で本社に電話をかける社長。俺は深く頭を下げ、次の顧客へ向かった。5日間で主要顧客全てを回った。どの顧客も同じ反応だった。担当を元に戻せという声、契約を見直すという声。結局、主要顧客全てが本社に何らかのクレームを入れた。年間売上の約15パーセントを占め、利益率が高い有料顧客ばかりだ。
6日目の夕方、会社に戻ると西浦とすれ違った。西浦の顔は蒼白で、目の下にはくまができている。「川端、ちょっと話が」と焦った様子で声をかけてきたが、俺は無視して通り過ぎた。
その夜、俺は再び壷井会長の部屋を訪れた。会長は重い表情で資料を見せた。「今日決定的な証拠が出た。総務部が保管していた社内メールの記録だ。派閥メンバー間のやり取りが全て残っている。『低学歴を重要ポジションから排除する計画』という内部文書、『我々の派閥で主要ポストを独占する』という密約も書かれていた」
さらに会長は別の資料を取り出す。「人事部の記録から虚偽報告も見つかった。寺内部長が担当していた案件で重大なトラブルが発生したという報告だが、実際に顧客に確認してもトラブルは存在しなかった。西浦の捏造だ。これにより寺内部長は責任を問われ、海外事業部へ移動させられた」
俺は怒りで声が震えた。会長は続ける。「IT部門の解析で君のアカウントへの不正アクセスも判明した。ログには西浦のIDとパスワードが使用された記録、管理者権限を使った記録が残っている。君の退職メールの一斉送信も、パソコン初期化も、西浦が実行した記録が残っている」
着々と証拠が揃っていた。
翌日、緊急役員会議が開催された。重苦しい空気の中、西浦は蒼白な顔で席についている。俺もこの場に呼ばれていた。
壷井会長が口を開いた。「6日前、川端君名義で退職を表明するメールが全社員当てに一斉送信された。しかし川端君本人にそのつもりはなかった。誰かが川端君のアカウントを不正使用したのだ。私は直接川端君から事情を聞き、この件の背景に重大な問題があると判断した」
会長は西浦を一瞥する。「そこで私は川端君に主要顧客への訪問を依頼した。担当変更の影響を確認するためだ。川端君、報告を頼む」
俺は資料を配布し、冷静に報告した。「5日間で主要顧客全てを訪問しました。結果、ほとんどの顧客から本社へクレームが入りました。私が長年担当してきた顧客群は年間売上の約15パーセントを占め、利益率が高い有料顧客ばかりです。顧客が信頼していたのは私の学歴ではなく、10年間の誠実な対応です」
役員たちが驚愕の表情を浮かべる。俺は続けた。「次にIT部門の調査結果です。私のアカウントへの不正アクセスが判明し、管理者権限を悪用して私名義の退職メールを送信した記録が残っています。人事部の記録から虚偽報告も見つかりました。寺内部長が担当していた案件でトラブルが発生したという報告ですが、顧客に確認したところ存在しませんでした。総務部が保管していた社内メールには『低学歴を重要ポジションから排除する計画』の文書が残っています」
西浦が立ち上がった。「私は間違っていない。組織には明確な基準が必要なんだ。学歴こそが客観的な能力の証明だ」
俺は西浦を見据えた。「部長は私に直接言いました。『高卒のくせに周りからちやほやされて気に食わない。無能が自主的にやめるとは偉い』と。あなたが軽視した考察レベルの仕事が実は会社の屋台骨を支えていたんです」
西浦は開き直る。「だが組織には秩序が必要だ」
俺は遮った。「秩序? あなたがやったのは不正アクセス、データ削除、虚偽報告、そして派閥による不当な人事です。これのどこに秩序があるんですか? 私の祖父は言いました。『現場経験はどんな学歴をも上回る』と。あなたはその教えを否定しました。しかし顧客は学歴ではなく信頼を選んだ。これが現実です」
会議室が静まり返った。壷井会長が重々しく口を開く。「西浦部長には厳重な処分を下すことを提案する。降格、給与カット、そして地方の支社への移動だ」
西浦が顔を歪めた。「そんな、家のローンが……」
会長は冷たく言い放った。「自業自得だ。加担した者たちにも関与の度合いに応じて処分を検討する」
そして会長は俺を見つめた。「川端君、会社に残ってくれるか?」
俺は深く頷いた。「はい。喜んで」
会議が終わり、西浦はうなだれて退出していく。俺は静かな達成感を胸にその背中を見送った。
翌週、西浦には降格と給与カット、地方の小さな支社への移動という処分が下された。加担した派閥のメンバーたちにも、関与の度合いに応じて処分が下される。一方、寺内部長は本社営業企画部に復帰した。俺は改めて主要顧客を訪問し、退職しないことを報告した。どの顧客も安どの表情を浮かべた。
俺はこの一件で学んだ。学歴や肩書きではなく、誠実さと実力こそが本当の価値だ。現場経験はどんな学歴をも上回る。祖父の教えは正しかった。俺はこの信念を胸に、これからも歩んでいく。



