女が目を覚ますと、見知らぬ天井があった。見慣れた実家の天井ではない。体は水を含んだ綿のように重かったが、意識は澄んでいた。枕元に若い女が一人座り、薬鍋を前にして薬を煎じていた。目の下に隈があり、頬はやつれていたが、薬を攪拌する手だけは乱れがなかった。
「そなたは、どこぞの娘か」
女が尋ねると、若い女が顔を上げた。
「お目覚めにございますか。熱は引いてございます。峠は超えられました」
「そなたが私を救うてくれたのか」
「ご身体が病に耐えられたのでございます。私はその手助けをしたまでにございます」
そう言って差し出された薬の碗を受け取り、女はそれを飲み干した。苦い薬だった。しかし、その苦さが喉を下っていくことこそが、生きている証だった。
老女はその後も幾日か眠っては目覚め、を繰り返していた。その度に目を覚ませば、その娘がいた。薬を煎じているか、額の手拭いを変えているか、窓辺で薬草を整えているか。ある夜半に目を覚ますと、娘は座ったまま微かに歌を口ずさんでいた。手に濡れた手ぬぐいを握ったままで。
老女はその姿をしばらく見つめていた。あの娘は一体何者であろうか。見知らぬ病人に向けるには、あまりに献身的な様子である。
身体がいくらか癒えてきたある日のこと、老女は娘を呼び止めた。
「これ、そなたとは片付けない。医者たちが皆、青ざめて匙を投げたと聞いた。そなたがおらねば、私は今頃、黄泉の旅路を歩いておったであろう。ところで、私の傍らにおるそなたが、いずれの家の娘かまだ聞いておらなんだな。名は何と申すか」
娘は手を置き、老女と向かい合って座った。しばらく口を開かなかったが、やがて静かに言った。
「名は雪と申します。幸せは大和田にございます」
老女は頷きかけた。
「大和田雪と申すか。父はいずれのお方か」
娘は老女の目をまっすぐに見つめ、そして一呼吸置いて、はっきりと言った。
「大和田直之助の三女にございます」
部屋が静まり返った。老女の顔から表情が消えた。大和田直之助――十八年の間、この家で口にすることさえ許されなかった名である。
「三女……三女ならば、あの子であったか」
老女の唇が震えた。生まれたその日、産んだばかりの母の枕元で「この家を潰すものが生まれてきた」との呪いを浴びせられた、あの赤子だった。
老女は言葉を失い、長い間、娘の顔ばかりを見つめていた。今になって見えてきた。あの目元は我が息子によう似ておる。あの頬筋は、自分自身によう似ておる。孫娘だった。顔も知らずに十八年を生きてきた、自らの血筋だった。この家を潰すものと申したあの子が、今にも死にかけていた自分を、夜も昼もこうして見守り、生かしてくれたのである。
「そなたがあの時の赤子であったのか」
老女の声が掠れた。雪は答えなかった。答える代わりに薬鍋を引き寄せ、次の薬を煎じ始めた。
「明日よりは、粥に飯粒を少しずつ混ぜてまいりましょう。少しずつお力を取り戻していただかねば」
医者の物言いだった。恨みもなく、恩着せがましさもなく、ただ病人に尽くす者の言葉。それが老女の胸を突き刺した。一そ恨み言でも言うてくれれば、楽であったであろうに。この娘は何も問わない。何も責めず、ただ生かしてくれた。
その夜のこと。雪が臨室へ下がった後、老女は壁の方へ顔を向け、声を殺して泣いた。夜具の襟を噛み、肩を震わせて、置いた人が子供のように泣いていた。何がそれほど悲しかったのか、老女自身にもよくわからぬことだった。生き延びたことがありがたいのか。捨てた孫娘の手によって生かされたことが恥ずかしいのか。男事と唱えて過ごしてきた障害が、その夜に切なく虚しく思われたからなのか。老女はただ泣いた。
しかし、夜が開けると、老女は何も口にしなかった。詫びの言葉は出てこなかった。生涯を貫いてきた思い込みというものは、一夜にして崩れて口に出るものではなかった。「すまなかった」という言葉は、この老女にとって、この世で最も重い言葉となっていた。雪もそれを急かさなかった。薬を煎じ、脈を取り、飯を整え、二人の間には、介添え者と病人の言葉ばかりが交わされていた。しかし、老女の目は、雪が部屋を出入りするたびに、その後ろ姿をいつまでも追っていた。
十日が立ち、老女は床を離れられるようになった。その頃には、里の病の勢いもすでに衰えており、命を落とす者が減り、床を離れる者が増えていた。新たな病人も少なくなり、隣の里との境い目も次第に緩やかになり、市も再び立つようになった。里が生き返ったのである。
市が再び立った日、里の人々の口に登っていたのは、三人の娘の名だった。必要な薬を相場のままに集めた娘。病を広げぬ心を物語にして伝えた娘。そして、病人を見捨てず見続けた娘。薬草を抱え込んだままの商人も、その後は大関所の監督の下で相場を守ることとなった。大官は三姉妹を大館へ招き、大関所が忙しく動き回る中、「そなたたちの働きが里を支えた」と褒め、その名は近隣の里にまで知られるようになった。
本家の奥の間では、老女が一人座り込んで、長いこと考え込んでいた。几帳の上には、雪が置いていった薬の包みが置かれていた。「この薬、あと半月はお飲みください」と、丁寧な文字で描き添えてあった。老女はその包みを引き寄せ、膝の上に置き、そこに記された折り目正しい文字を指でなぞった。
ある日、息子が母の様子を見に参ると、老女は口を開いた。
「敬語よ、そなたの兄は、どこで過ごしておるか」
十八年ぶりのことだった。母の口から兄の話が出たのは。
「母城と東城で過ごしております」
「あの子らもか」
「三人ともまっすぐに育ちました。今ではこの里中が知る人物となっております」
老女は頷き、窓の外に目を向けた。庭の梅の枝に、つぼみが結ばれていた。そのつぼみをしばらく見つめた後、老女は低い声で言った。
「私は、嫡男に無実の罪を着せた」
息子は言葉を返せなかった。それは問う言葉ではなかったから。老女が自らに語りかけているのだ。生涯背負ってきた思い込みが崩れた地に立って、初めて口にする言葉だった。
「呼んで欲しい」
老女は息子の方へ向き直った。
「直之助の一家を、ここへ呼んで欲しい」
息子がその胸を一族の年寄りたちにも伝えたところ、難色を示す者もいた。かつて、跡継ぎの嫁を追い出せと申した年寄りの一人が言った。
「今更呼び戻すとは、大方様は一体何を考えておられるのか。家を捨てて出ていったものを招き入れては、家の筋が乱れましょう」
息子は静かに答えた。
「筋とは何でございましょうか。この十八年、我が家の名を汚く閉ざしたのは、一体誰であったのか。この里の命をお救いもしたのは、一体誰の娘たちであったのか」
年寄りは言葉に詰まった。
「母上の仰せになったことでございます。それがしはただ母上のお心に従うのみ」
この一件は、老女自らが一族の集まりの席で申し渡すこととなった。老女は杖をつきながら年寄りたちの前に座り、静かに言った。
「私は長きに渡り間違うておった。家を潰すものとの言葉にこだわるあまり、人を人として見ることを忘れておった。もし異存のある方があれば、この場で直に申されよう」
座敷は静まり返り、やがて誰一人異を唱える者はいなかった。老女の固い決意を知ると、年寄りたちもこの一件ばかりは老女の決意の硬さを感じ取った。老女はさらに、直之助一家の名を家譜に書き加えるよう、その場で申し付けた。
梅の花が咲く頃、直之助の家族が本家へと向かっていた。息子が自ら足を運んで、「母城が兄上のご一家を本家へお招きしたいと」伝えたのである。その言葉を聞いた時の家族の思いは、それぞれに異なっていた。直之助はしばらく言葉がなかった。妻は静かに俯いていた。三女が尋ねた。
「母上、参られますか」
あの家で最も辛い思いをしたのは、母だったから。妻が顔を上げ、微笑んだ。
「参りましょう。母上がお呼びくださっているのですから」
長女がこの夫婦を強くしたのか、夫婦が長女を強くしたのか。おそらくその両方だったのであろう。
本家の表門が見えてきた。十八年前の夜明け前、家族が出てまいったあの表門である。あの時は背に閉ざされた門だったが、この日は大きく開かれていた。その前に、老女が杖をつき立って待っていた。まだ病の癒えきらぬ身であったが、「我が足で出て迎えねば」と、部屋の中で待つことを良しとしなかったのである。
老女の目が、表門をくぐって参る家族に注がれた。十八年ぶりだった。息子の頭には、白いものが混じっていた。産まれたばかりの赤子であった三女が、今では立派な娘になっていた。老女の目はその顔一つ一つを辿った後、最後に嫁の顔で止まった。美しかった面差しに、歳月が刻まれてあったが、あの静かな目元は変わっていなかった。
老女は杖をつきながら、嫁の方へ一歩近寄った。嫁が慌てて歩み寄り、頭を下げた。
「母上、その後お変わりございませぬか」
追い出した者に向けてかけられる、礼に正しい挨拶。老女の唇が震えた。何かを言おうとして、言葉が出てこない。生涯に渡って睦まじくしてきた口である。「すまなかった」という言葉を発したことのない口だった。その口が開くまでに、しばらく間があった。
「花えよ」
老女は、嫁を昔呼んでいた名で呼んだ。
「私はそなたに無実の罪を着せた。そなたが産んだ子が、いかなる子か見ようともせず、ただ娘であると言うだけで拒んだ」
そう言うと、老女の腰が折れた。嫁に向かって頭を下げようとしていたのである。嫁が驚いて老女の手を支え、「母上、どうかおやめくださいませ」と言うと、老女は繰り返した。
「人は罪を犯せば、詫びねばならぬのだ」
嫁は静かに言った。
「過ぎた災いが消えるわけではございませぬが、母上が今こうして真実をお認めくださったこと。それを受けて、私どもはこれより先を新たに歩んでいくことができましょう」
老女の目から、涙がこぼれ落ちた。嫁の前で、庭の真ん中で、かつて呪いの言葉を浴びせたあの気性の激しい人が、涙を流していた。嫁も涙をこぼし、二人の女が握り合った手の上に、梅の花びらが舞い落ちた。
老女は涙を拭い、今度は孫娘たちに目を向けた。
「これへ参れ」
三人の娘が老女の前に並んだ。老女は三人を一人ずつ見つめた。
「そなたがさおりか。噂では、物語で里中を泣かせたり笑わせたりしておるという娘が、そなたか」
老女は長女に目を向けた。
「そなたが民か。噂では、薬草を相場のままに配って里を救うたそうな。買い占め者どもの花をへし折ってやったとも聞いた」
次女が含み笑いをこぼした。老女の目が、最後に三女に注がれた。雪だった。老女はしばらく黙って雪を見つめていた。そして、言った。
「この老いぼれを救うてくれた雪か。そなたが雪か」
そう呼んだのである。「この家を潰すもの」と申した娘を、老女は「そなたが雪か」と呼んだ。
「祖母上、お体はいかがでございますか」
雪が医者の言葉で応じると、老女は笑った。泣きながら笑った。
「今はこの老いぼれの体など問題ではないぞ」
老女は三人の孫娘の手を一人ずつ握った。
「男事のことばかりを唱えて生きてきたことが恥ずかしい。この老いぼれの命を救うたのも、この里を救うたのも、この家の名を再び立て直したのも、全て我が孫娘たちであったのだ」
その日の夕方、本家では穏やかな宴が催された。大きな宴ではなかった。一家の者たちが同じ膳を囲む、温かなひと時だった。この家に、このような膳が並ぶのは初めてのことだった。老女が上座に座り、傍らに直之助夫婦と二人の息子、そして三人の孫娘が並んだ。
老女は息子たちの杯に酒を注いだ。
「直之助よ」
「はい」
「あの日、私の言葉に逆らって出ていったこと。あれこそ、我が障害で最もようやったことであったのだろう」
直之助は杯を受け取りながら、思わず笑みをもらした。
「あの日の決断に、私は今も悔いはございませぬ」
座には笑いが広がった。次男が兄の杯に酒を注ぎ、兄が弟の杯に酒を注ぎ、三女が老女の膳に魚を並べ、長女が話を語って一座を沸かせた。雪は老女の顔色を伺いながら酒を控えさせ、代わりに煎じ薬を注いで差し出した。
「祖母上、まだ酒はなりませぬ」
「これ、この家で最も恐ろしいのは末の娘であるな」
老女がそう言うと、笑い声が庭を越えて響いた。
夜が更けて宴が果て、帰り道、月が明るかった。直之助と妻が並んで歩き、前を歩く娘たちの笑い声が夜道に響いていた。
「旦那様」
妻が声を掛けた。
「皆が私を追い出せと申した時も、旦那様だけは最後まで私の傍らにおいでくださいました。その一年だけで、ここまで参ることができました」
直之助は足を止め、妻を見つめた。
「私がそなたの傍らを離れるとでも思うたか。我が障害で最もようやったことは、あの日そなたの手を取って表門を出たことだろう」
月明かりの下、二人は向かい合って微笑み合った。前方で次女が声を張った。
「お二人とも、何をなさっておいでですか。参りませぬか」
「おう、今参ろうぞ」
家族は再び並んで歩き始めた。十八年前、逃れるようにして歩いたあの道を、今は笑いながら歩いていた。
幾月か後、庭の梅の木には青い実が結ばれていた。老女は縁側に座り、傍らに並ぶ三人の孫娘を見渡した。
「家をつぐのは男か女かではなかったのだ。人の才を見抜く眼と、互いを見捨てぬ心。こそが家を残すのであろう」
春に咲いた花が夏の実となるように。途絶えかけていた三人の家系も、今こうして確かな実を結んでいた。それは、妻の手を離さなかった直之助と、夫を信じた妻。そして、互いを支え合った三人の娘が、共に育てた実だった。



