「45万円って!」母の声が響き渡り、私は思わず顔を覆った。店員が怪しげな目で私たちを見つめている。高級鉄板焼きの店で、まさかこんな金額を提示されるとは思ってもみなかった。「どう見たって国産牛じゃなかったわよ。ぼったくりもいいとこだわ」母は平然と言い放つ。私は母の袖を引いた。「母さん、やめときなよ」だが、母の挑発的な言葉は止まらない。大将の表情が怒りに歪んだその時、店の引き戸が開き、柄の悪い男たちが3人入ってきた。「ここは井組の店だぞ。さっさと45万円払えや」私は唾を飲み込んだ。ああ、まただ。またこのパターンだ。数年前の3番街で味わった悪夢がフラッシュバックする。ただ歩いていただけなのに、夜か組を名乗るチンピラに囲まれたあの日の記憶が。でも、母は微動だにしなかった。むしろ口元に笑みすら浮かべている。「井組ね。あんたたち、兄さんたちに逆月きすらもらってないのに、その名前を使うなんて」私は凍りついた。母がこんな言葉を口にするのは珍しい。普段は優しい普通の母親なのに。「大将さん、井組とは関係のないただのハングれよ」店員が慌てて言うと、大将の顔色が変わった。私のボディガードがどこからともなく現れたのは、その直後だった。スーツ姿の男3人が店内に滑り込んできて、チンピラたちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。「あんたたち、来るのが遅いんだよ」母がそう言うと、スーツの男たちは深々と頭を下げた。大将は青ざめた顔で震えている。「夜坂組って知ってるかしら?」母の声は静かだが、威圧的だった。「井は夜坂元部の実定が取り仕切る団体よ。つまり組の株組織ね」大将の額から汗が滴り落ちる。「弟はね、勝手に組の名前を使われることを極度に嫌うのよ」私は、ただ呆然とその光景を見つめることしかできなかった。34年間、普通のサラリーマンとして生きてきたつもりだった。だが、現実は違う。私は夜坂現部の息子、直樹。ヤクザの組長を父親に持つ男なのだ。母はペーパー離婚で父親と別れ、私を普通の世界で育てようとしてくれた。でも、普通の世界で生きようとするたび、非日常が私を引き戻す。「直樹、せっかくだからガリさんで飲み直しましょう」母は何事もなかったかのように言った。私はため息をついた。今日は母の誕生日だったはずなのに、いつの間にかヤクザの仕事に巻き込まれている。数年前の3番街でもそうだった。泥水した後輩を解放しながら歩いていただけなのに、夜か組を名乗るチンピラに囲まれ、正体をばらされた。そのせいで、私は3番街を歩けなくなってしまった。ただの普通の人間でいたいだけなのに、なぜいつもこうなるのか。酒を飲み直すことになった店で、母が突然真剣な表情になった。「夜坂組はもう畳むことにしたんだよ」思わず聞き返した。「え?」「後継者どころか、法律のおかげで暮らせない世の中になってきちまった。若い子たちは全部構成させて社会復帰させている最中なのさ」その言葉を聞いて、何かが胸の中でほどけていくのがわかった。「それに、井組はもうとっくに解散してる。井は数年前からこの世にいないんだよ」「じゃあ、今日の件は…」「まあね。井はちょっと揉め事に巻き込まれてね。もう来月には5000員はみんないなくなる。それで終わり。あんたについて回る若い子もおくごめんだよ。今日はこれを伝えるつもりだったんだよ」私は言葉を失った。ずっと背負ってきたものが、突然消えようとしている。「母さんと父さんはこれからどうすんのさ?」「看板下ろしたってあの人にはいろんなものがついて回るからね。さん後再入籍して海外で暮らそうかと思っているんだよ」私はワインを一口含んだ。「ああ、そうか。それがいいよ」母は優しく微笑んだ。「あんたにとって、これからが本当の自由だよ」その言葉を聞いた瞬間、私の視界がかつかにぼやけた。焼きたての肉を口いっぱいに頬張った後でワインを飲んだからだろう。きっとそうだ。34年間、普通の世界で生きるために戦ってきた。そして今、ようやく本当の自由を手に入れようとしている。ちょっとだけ遅かった感は否めないが、これからは本当の自分を取り戻していこう。そう思った。


