「ねえ、あなたの口紅、ついてるわよ。」
そう言ったのは、他でもない私の妹だった。しかも、その口紅は、私の夫のものだった。
自分の大きなお腹を撫でながら、私は震える声で尋ねた。「あなた、姉の夫とこんなことになって、いいと思ってるの?」
妹はケロッとした顔で笑った。「だって好きになっちゃったんだもん、仕方ないでしょ。私の方が姉さんよりいいのよね。東郷さんもそう言ってくれてるわ。それに、私、お腹に東郷さんの子供がいるの。だから、離婚してって話をしてたのよ」
頭の上から冷や水を浴びせられたような衝撃。隣には3歳の娘がいる。お腹には、もうすぐ生まれてくる赤ちゃんがいる。それなのに、夫は「今はナナちゃんを1人にできない」と言った。
「それなら答えは一つね。もういいわ。私、実家に帰る。離婚することになったら、子供の親権は私だから」
私は娘を連れて実家へ身を寄せた。両親は激怒し、妹とは絶縁すると言ってくれた。そして私は、慰謝料と養育費をもらって離婚した。その後、無事に次女も生まれた。
それから7年。私は医療事務の仕事に復帰し、二人の娘を育てながら必死に働いてきた。そして今、私は病院やクリニック向けのコンサルティング会社の社長になっていた。今日は、医療事務の方々向けの講習会に参加するため、事務服を着て小学校の授業参観に来ていたのだ。
「え、もしかして、姉さん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには妹がいた。次女と同じくらいの年齢の男の子を連れて。彼女は私の事務服を見て、ニヤリと笑った。
「事務服ってことは、まだあの病院で医療事務してるの?シングルは大変ね。私なんて、今や医者の妻だから仕事もやめちゃったわ。やっぱり医者の妻っていいわよね。この服だって、可愛い息子の初めての授業参観のために新調したんだから」
自慢話を聞かされながらも、私は冷静だった。すると、素直な長女が口を挟んだ。
「ママね、この前ディズニーランドに連れてってくれたんだよ。動物園にも水族館にも行くし、夏休みは旅行にも行くんだ!」
妹は顔を歪めた。「どうせ、何かのイベントでチケットが当たったとかでしょ。シングルって、そういうことでもなきゃ遊園地にだって行けないものね」
「ち、違うよ。ママは、ジム員じゃないもん!」
「は?いや、だって、その格好、明らかに事務っぽいじゃない。事務じゃなかったら、その制服は何なのよ?」
妹が混乱しているのを見て、私はそっと教えてあげた。
「実はね、私、これでも社長なのよ」
「はあ!?」
妹は校内だというのに大声で叫んだ。周りの保護者がこちらを見始める。
「し、社長?どういうこと?あんた、数年前はただの事務だったでしょ!こんなところで嘘は良くないわよ!」
「別に信じてもらわなくたっていいけどね。病院やクリニック向けに、業務効率化や人材育成を支援するコンサル会社を経営してるの」
「こ、コンサル?なんで、ただの事務員だったあんたが、そんな会社の社長に!?」
「7年前はね、私もあれから色々と苦労したのよ。シングルになったから、仕事だけはしっかりしようと思って頑張ったわ。その結果、医療事務主任になって、事務へ昇格したの。するとね、色々なことが見えてきたのよ。病院は、医師や看護師がどれだけ頑張っても、経営方法に問題があったら成り立たない場合があるの。私はそういった問題を解決して、どの病院で働く人も快適に過ごせるように手助けしてるのよ」
「何よ、偉そうなこと言って!適当にアドバイスしてるだけでしょ!ただの事務のくせに!」
「あなたこそ、何?ただの医者の妻でしょ」
「だ、だから何よ!事務より医者の妻の方が偉いのよ!」
「相変わらずね。あんたこそ、どうせ小さい会社のコンサル崩れでしょ?」
「まあ、確かに少数精鋭だけど、おかげさまで大きな病院から依頼が来ることも多いわよ」
「じゃあ、なんでそんな事務服なのよ!」
「ああ、今日はね、ちょっとした講習の日なの。医療事務の方たち向けの講習よ。だから、同じ目線から話をしようと思って、事務の人たちと同じような格好で話をしてきたの。報酬は成功したんだけど、おかげで遅れそうになって、着替える時間がなかったのよ」
「じゃあ、本当に社長なの?」
「ママね、この前、雑誌の取材も受けたんだって!」
驚く妹に、長女はさらに追い打ちをかけた。「ああ、医療雑誌のやつね。まだ発売してないとは思うけど、そのうち出るわよ」
「う、嘘でしょ…!あ、何てことなの!東さんに捨てられて、惨めな生活をしていると思ったら、社長になっていたなんて!」
悔しそうに顔を歪める妹に、私は意外なことを教えてあげることにした。
「そうそう。今、いくつかコンサルを任されている病院があるんだけどね。その一つに、田中病院があるのよ」
「え、田中病院?それって、東さんの働いてる…?」
「そう。院長が経営をもっと効率よくしたいってことで相談を受けて、色々調べているんだけど、問題のある医師がいるみたいなのよね」
「そ、それって、もしかして…」
「これ以上は信用問題に関わるから教えられないけど、あなたなら何か知ってるんじゃないの?」
「なんですって!」
妹がさらにヒートアップしそうになった時、先生方が騒ぎを聞きつけてやってきた。
「すみません。お騒がせして。久々に知り合いに会ったものですから、話し込んでしまって」
先生の一人が長女の担任で、こう声をかけてきた。「響きさんのお母さんでしたか。何か問題でも?」「いえ、もう話は終わりましたから。それともう一つ、今年の音楽発表会も、うちのクラスは響きさんに伴奏をしてもらうことになりましたので、よろしくお願いします」「わかりました。響き、頑張ろうね」
それを聞いていた妹が、また何か言い出した。
「え、響き、ピアノが弾けるの?」
「ええ、幼い頃から習っていて、発表会にも何度か出て、優勝したこともあるのよ。音楽会の伴奏も、去年からさせてもらってるの。本来なら高学年になってかららしいんだけど、先生方が是非って言ってくださるし、本人の自信にもつながるから」
「なんですって!?うちの子はもうピアノを挫折したのに!」
「そうなの。まあ、子供には向き不向きや、成長の差があるのよ。響きはピアニストになりたいんだものね」
「あ、行かなくちゃ。話し込んでたら、もうこんな時間ね。実は今日もこれからピアノのレッスンなの。じゃあね、ナナ」
私はそう言い残し、娘たちを連れて、胸を張って校舎を出た。
(ちょっと、妹に自慢しすぎたかしら。子供の自慢までしてしまうとは、私としたことが。まあ、このぐらいでいいでしょ。自尊心満載のあいつに比べたら、何でもないわよね)
それから数日後、私のスマホに、珍しい相手から着信が来た。妹からだった。
「もしもし。姉さん、何てことをしてくれたのよ!」
「何のこと?」私はわざととぼけてみた。
「姉さんのせいで、東さん、バイトの病院をやめることになったのよ!」
「なんで私のせいなの?」
「だって、姉さんが院長に報告したんでしょ?」
「だって、仕事だもの。そもそも間違っているのは、あなたの夫よ。田中病院は、医師の副業を禁止しているわ。それなのに、あなたの夫は通常勤務の後に他の病院の非常勤をしているでしょ。休む暇もないほど働いて、その結果、診断ミスが多くなって、病院にいくつもクレームが入っているわ。経営コンサルとしては、こんな非効率な事態は改善すべきだもの」
「何てことすんのよ!これで、東さんの稼ぎが減っちゃうじゃない!色々買いたいものや、息子に習わせたいことだってあるのに!」
「それじゃあ、あなたが働けばいいんじゃないの?旦那ばかり当てにせずに」
「私だって、家事と育児で忙しいのよ!だから、東さんに稼いでもらおうと思って、バイトだって探してあげたのに!」
「つまり、あなたが旦那を言いくるめて、働きすぎに追い込んだってわけね」
「働きすぎって…!あの人は、自分から働いてくれてたのよ!別に私がしろって言ったわけじゃないわ!」
「へえ。それにしては、久々に見たあの人は、変わり果てた姿をしていたけどね」
「あ、会ったの?」
「一応、コンサルとしてね。院長立ち合いのもと、話を聞いたのよ。そうしたら、私の顔を見るなり、あの人、涙を流してたわ。ガリガリに痩せて、顔色も悪いし、医者じゃなくても疲れきっているのが分かったわ。患者目線からしたら、あんなに不健康そうな医師に診断してもらうのは心配だし、他の病院スタッフもかなり心配していたみたいよ。それで、直接会ってバイトの話やクレームの話をしたら、あの人、喜んでバイトをやめるって言ったわ」
「喜んで…?」
「ええ、もう限界だったみたい。院長が話すと、涙を流しながら謝ってきたもの。その様子を見て、精神的にも参っているのが分かったから、院長も休暇を取らせたのよ」
「だから、あの人、今日も休んでいるのね…。自分の部屋に鍵をかけて、一歩も出てこないし。どうしてくれんのよ!もう仕事に行きたくないって言うし!あんたが余計なことしなきゃ、こんなことにはならなかったのに!」
「何言ってるの?旦那のことをちゃんと見ずに、無理させてたのは自分でしょ。それを人のせいにしないで」
「こ、これから一体、どうしたらいいのよ…!」
「そんなの、自分で何とかしなさい」
私はそう一括して、電話を切った。それからも何度か電話がかかってきたが、着信拒否にした。
それから数ヶ月後の音楽発表会。今日は長女がクラスの発表で伴奏をする日だ。長女は毎日練習して、ピアノ教室でも先生に頼んで練習させてもらっていた。その頑張りを見届けるために、私は仕事を休んでやってきた。
とうとう、長女のクラスの番だ。私まで手に汗をかいてきた。いよいよ発表がスタート。1度演奏を始めると、長女は緊張した面持ちをしながらも、指揮をしっかりと見て、伴奏を無事に終えた。私は力いっぱい拍手を送った。長女は、さっと辺りを見回して私に気づいたようで、ニコッと微笑んだ。
そして下校の時間。子供たちを迎えに行って、玄関から帰ろうとしていた時、またもやあいつと再会した。
「ねえ、姉さん」
声をかけられ振り向くと、そこには、事務らしい服装をした妹の姿があった。数ヶ月前とは違い、髪も艶がなく、以前はバッチリメイクだったのに、今はファンデーションだけとりあえず塗ったような感じだった。
「久々ね。あなた、その格好…。今、家の近くの工場で事務をしてるの?せっかく看護師免許があるんだから、病院で働けばいいのに」
「だ、だって、近場の病院には行けないんだもの!最初は近くのクリニックで働こうとしたのに、噂になっていたんだもの!」
「噂?」
「あんたが私のせいで、鬼嫁に無理やり働かされて、医者なのにメンタルが壊れたって…。だから、私、もう近場の医療現場で働けないの!変な目で見られるんだもの!仕方なく、事務の仕事をしているのよ!」
「あら、そう。でも、いい仕事があって良かったじゃない?」
「良くないわよ!給料だって少ないし、制服だって地味だし!まだ看護師の方がマシだったわ!それにね、うちの娘も大変なんだから!」
「あら、何でもかんでも自慢するあなたが、娘さんのことで泣き言なんてね」
「小学校でね、お友達の文房具とか、すぐに持ってきちゃうんだから!もう何度謝ったことやら…。ピアノの上手な響きが、羨ましいわ…」
「はあ。人のものは取っちゃダメって、ちゃんと教えるしかないわね。教えられれば、だけど」
妹は涙を浮かべ始めたが、そんなの私の知ったこっちゃない。
「それじゃあ、失礼するわね。子供にはちゃんと愛情を注ぎなさい。行きましょう、響き、鈴花」
「はい」「じゃあね、ナナちゃん。バイバイ」
そう言って、私たちは校舎を後にした。
それから数年後、私の会社は順調に成長中。今では全国から依頼が来るほどになった。おかげで忙しいが、それでも家族でのイベントは大切にしている。
「ママ、早く早く!」
「鈴花、ちょっと待って。そんなに急いだら転ぶわよ。時間まで余裕あるから、落ち着いて」
「だって、今日はお姉ちゃんの大事なコンクールでしょ!」
「そうよ。ここで優勝したら、今度は全国のコンクールだからね。私の方が緊張してきたわ」
「きっと響きも緊張してるよ。だから、先に会場に行って落ち着こうとしてるんでしょ」
「そうね。ああ、どうしよう、鈴花。応援に行ったら迷惑かしら?」
「うん。多分、響きも鈴花からの応援の言葉を待ってると思うよ。だから、まずは落ち着いて向かおうね。こっちが緊張してたら、それが響きに移っちゃうわ」
「そうだね」
こうして私と次女は、ピアノ発表会の会場に向かった。今日はコンクールの日で、長女が参加することになっているのだ。会場の控室に到着すると、緊張した面持ちの長女が、ピアノ教室の先生と一緒にいた。
「お姉ちゃん!」
「あ、ママ。鈴花」
「お姉ちゃん、頑張ってね!」
「ありがとう。頑張るね」
「響き、いつも通り楽しく引いておいで」
「そうだね。楽しく引くのが一番だよね」
「そうよ。せっかくこんな素敵なステージに上がれるんだから、その場を楽しまなきゃ」
「わかった。2人とも、ちゃんと聞いててね」
「うん!」
こうして長女はステージに向かっていった。最初は緊張していたものの、演奏が始まると、長女はリラックスした様子で、あっという間に一曲を引き終えた。結果は見事、優勝。全国への切符を手に入れた。
「おめでとう!お姉ちゃん、すごい!」
「2人が応援してくれたからだよ。ありがとう。でも、まだまだこれからだから、さらに頑張るね」
「うん。応援しているよ」
娘は夢に向かって頑張っている。だから私も、娘たちに自信を持って誇れるように、これからも仕事を頑張っていこう。



