男たちが浴場に押し入ってきたのは、新年最初の仕事始めの日だった。五人の男が、四十七年間続いてきた「たちばな湯」の暖簾をくぐり、勝手口からずかずかと上がり込んできた時、玄関先で帳場に座っていた私は、指先で入浴券の端を握りしめることしかできなかった。
「お前が女将か。一週間以内に土地の売買契約書にサインしろ。今日から毎月十八万円のみかじめ料を払え。拒めば、この店を潰して埋めてやる」
白いコートの襟を立てた男、桜井組の若頭・春日という名前だった。私は膝が震えていたけれど、声だけは震わせまいと唇を噛んだ。この浴場は祖父の代から守ってきた場所だ。売るわけにはいかない。金もない。そう言い返すと、春日は「ガキが、口答えするな」と怒鳴った。常連客たちは慌てて脱衣所から逃げ出していった。木の引き戸のベルが、からんからんと寂しく鳴った。
その時だった。浴場の隅で、一人の老人が静かに髭を剃っていた。「騒がしいな」と、その老人はつぶやいた。七十八歳の常連客、岩松忠蔵さんだった。湯気で湿った布っ切れのようなタオルを腰に巻き、彼は春日の方をちらりと見て、また無言で髭を剃り続けた。春日が「クソジジイ、お前も出て行け!」と怒鳴っても、岩松さんは手を動かすのをやめなかった。男の一人が岩松さんを蹴飛ばそうとした瞬間、岩松さんはゆっくりと振り返り、その男を睥睨した。男は足を止めた。春日も、岩松さんの肩に置いていた手を引き下ろした。
その時点では、まだ誰も気づいていなかった。この物静かな老人が、かつて関東の裏社会で名を轟かせた人物だということに。
私は三年前、亡き祖父・田代源一郎からこの浴場を継いだ。学費も遊ぶ時間も全部捨てて、この場所を守ってきた。「じいちゃん、私、ちゃんとこの浴場を守れるかな」と聞くと、祖父はいつも、焚き火の前でデジタルとアナログの温度計を見比べながら、こう言った。「湯の温度が一度違うだけで、客は離れていくんだ。油断するなよ。夜は火を落として、温度を記録しろ」
小学校の卒業アルバムの修学旅行の欄は空欄だった。その代わりに、卒業アルバムの空白に「店の手伝い」と書いた。両親を早くに亡くしたわたしを引き取ってくれた祖父は、父の遺影の前に無料入浴券を置いて、「母さん、父さん、頑張るからな」と笑った。その目の端には、涙が滲んでいた。
月に十八万円の売り上げすら危うい日々で、私は袖を継ぎ接ぎし、古びた鉛筆箱を使い続けた。商店街の人たちは「田代のところは、いつ見ても貧乏そうだな」と影で言っていた。言い返せず、俯くだけの日々だった。
そんな私と店を、幹部連中は狙った。春日たちは何度も脅迫の電話をかけ、店の前で「出て行け」と書いた張り紙を貼った。ある日には、店先のタイルに墨で「火をつけるぞ」と落書きまでしていった。私はその度に、警察に相談しようとする商店街の人達を止めた。「余計なことをすると、もっと酷いことをされる」と、私は震える声で言った。
そして、堪忍袋の緒が切れたのは、あの日だった。私が夜の湯船を洗っていると、後ろから突然、男の手が首に触れた。「一人か?」と、春日が酒臭い息を吐きかけてきた。振り返ると、春日の他に、二人の組員が脱衣所の入口を塞いでいた。「金がなかったら、体で払え」と、春日は私の首に回した手をぎゅっと締めた。私は恐怖で悲鳴すら出せなかった。その時、脱衣所の引き戸が静かに開く音がした。
「その手を離せ」
言葉を発したのは、いつものように湯から上がってきたばかりの岩松忠蔵だった。腰に布切れを巻いただけの姿で、彼は男たちの前に立った。春日は「ジジイ、関係ねえことはするな!」と叫んだが、岩松さんは動かなかった。「俺の顔を覚えているか、春日」と、低い声で言った。春日は一瞬、困惑した表情を浮かべた。岩松さんは続けた。「お前の組が、十五年前に攻め込んだ相手は、お前の組の菩提寺で、その寺の住職は、俺の兄弟分だったはずだ」
春日の顔から血の気が引いていくのが分かった。彼は後ずさり、脱衣所にいた組員たちも、岩松さんを睨むことすらできなかった。「もし店に手を出すなら、お前の組がどうなるか、分かっているな」と、岩松さんは静かに言い放った。春日たちは、何も言い返せなかった。岩松さんは、湯気の立つ浴場の方を振り返ると、静かにこう言った。「おい、湯が冷めるぞ。上がれ」
翌朝、私が出入口の扉を開けると、昨夜の部下たちが朝露に濡れた制服で一列に並び、地面に頭を下げていた。「申し訳ございませんでした」と、彼らは声を揃えて言った。先頭に立っていた男は、重々しい口調で私に言った。「昨日の礼を、組を挙げてお詫びします。組長が、今日正午に参ります。この場を、一つお借りします」
さらに、一枚の紙を差し出した。それは「大掃除奉仕」と書かれた回覧板だった。私と岩松さんは、ただその紙を受け取り、黙って頷いた。
正午、指定された通り、浴場の前の砂利道に、組長以下、総勢百五十人が隊列を組んで現れた。組長の背広と羽織姿で、先頭に立つ組長の表情は、どこか年老いた仁のように見えた。隣に立つ若頭の春日は、金のネクタイをグイッと直して、居心地悪そうに背筋を伸ばした。部下たちは皆、顔を伏せて道に並び、路地の角から郵便局の角まで、黒いスーツの列が続いていた。通りかかった近所の人々が足を止め、乾物屋の主人が二階から顔を出し、角の呉服店主は腕を組んでその様子を見守った。
組長が、春日の背中を蹴って、先頭に押し出した。「頭を下げろ、全員」と、組長はマイクも使わずに号令をかけた。百五十人が一斉に膝を折り、息を潜める音が路地に満ちた。春日は地面に額を擦りつけながら、声を絞り出した。
「女将さん……すみませんでした。近所の皆さん……俺のせいです。組をここに連れてきたのは、俺です」
組長は、春日の言葉を遮るように、後列の一人を呼び出した。五十歳ほどの組員が一歩前に出て、同じように地面に手をついた。「私も、見張りを立て、止める指示を出したのが遅れました」と、彼は言った。組長は淡々と、その男に業務停止と帳簿の提出を命じた。男は「わかりました。明日、宅配の者は本社に届けます」と、小さな声で答えた。
組長は、春日から差し出された書類を手元に引き寄せ、読み上げた。「本日をもって、桜井組、春日を除籍する。覚えろ。この書類は、お前の将来に、ずっと影を落とすだろう」
春日は唇を噛み、俯いたまま、地面に手を付いていた。そして、ようやく絞り出すような声で言った。「……わかりました。全部、俺の責任です」
組長は、静かに頷いた。列の中から、一部始終をスマートフォンで撮影していた男がいたが、組長が一瞥すると、男は慌ててスマートフォンをしまった。商店のシャッターが少し開き、店主が子供の肩を抱きながら、その様子を覗いていた。
「あの……組長さん」と、私が恐る恐る声を掛けると、組長は振り返った。「この店の修繕費として、少しでもお納めください」と、私は、手に震えがあるのを押し殺しながら、差し出した。それは、昨夜、ばらばらになった「たちばな湯」の建物の修繕に充てるため、駆け回って集めた貯金とは別に、私が長年こつこつと蓄えてきたものだった。組長は、それを受け取り、一礼した。「女将さん、この御恩は、必ず返します」と、彼は言った。
「返していただくなら、この通りに、皆さんで、この店で、お風呂に入ってください」と、私は言った。組長は、少しだけ口元を緩め、「ありがたく、そうさせてもらいます」と、答えた。
その場は、そこで解散となった。浴場の中から、湯気が路地へと立ち込め、私は深く息を吐いた。隣に立っていた岩松さんが、声もなく頷いた。私は、脱衣所の奥にある戸棚の引き出しに、あの日の出来事を書き留めた確かな記録をしまい、鍵をかけた。
その日、夕方、浴場には、いつものように湯気が立ち込めていた。私は温度計の針が四十二度を指していることを確認し、帳場に座って、新しい日付をカレンダーに記した。隣の脱衣所からは、湯を桶でかぶる音が聞こえてくる。いつもの日常が、また始まる。



