蒼井は何も言わなかった。三ヶ月かけて磨き上げた茶碗が八十個分、茶室の棚に並んでいるのを思い浮かべた。
「訴えますか?うちは第一都銀行ですよ。格が違います。やってみたらどうですか?」
「勇次の件は?」
「ああ、そっちもごちゃごちゃ言うなら、八百万今すぐ返してもらいますよ。返せますか?貧乏人ならさっさと廃業して、素直に返してくださいよ。」
蒼井は黙って電話を切った。手が少し震えていた。瑠璃が静かに蒼井の隣に座った。
「悔しいね、お姉ちゃん。」
「うん。」
二人はしばらく何も言わなかった。蒼井がゆっくりと立ち上がり、茶室に入った。棚に八十個の茶碗が並んでいた。三ヶ月かけて、二人で一つ一つ丁寧に磨き上げてきたものだった。蒼井が一番手前の茶碗、祖父が若い頃から使い続けてきた一番古いものをそっと手に取った。
「ごめんね、おじいちゃん。」
茶碗を両手で包みながら、蒼井はゆっくりと息を吐いた。今日あの男は、この茶屋の何一つ、本当には見ていなかった。
瑠璃が茶屋の引き戸をそっと開けた。三ヶ月分の準備が、無駄になった。瑠璃が蒼井の隣に腰を下ろした。二人で並んだ茶碗を静かに眺めた。
「この茶碗たちには、何も関係ない。次のお客様のために、また磨くだけだよ。」
瑠璃が蒼井の手をそっと握った。二人はしばらくそのままでいた。
「お姉ちゃん、おじいちゃんに話してみよう。」
「うん。そうする」
同じ頃、工事支店のスペースで、浜田は部下たちに笑い話をしていた。
「いやあ、昨日のボロ屋な。百円の団子屋だぞ。銀座で。あそこで八十名の接待茶会とか、ありえないだろう。双子の小娘が必死に引き止めてたけど、笑えるよな」
部下の何人かが愛想笑いをした。堀内だけが、一言も笑わなかった。
「堀内、何か言いたそうな顔してるな。あそこの勇次の担当だっけ?」
「いえ、まあ…」
「勇次も今月中に回収方向で動いといて。あんな小口、さっさと整理した方が支店のためだ」
堀内が静かに「わかりました」と言って立ち上がった。廊下を歩きながら、堀内はスマートフォンを取り出した。白川案の番号を呼び出して、かけようとしてやめた。今の自分に何ができるか、堀内にはまだ分からなかった。ただ、このままでいいはずがない。それだけは分かっていた。その背中を、浜田は得意げに見ていた。
その日の夕方、松田幻現造が白川案にやってきた。松田は八十歳。五十年の常連だった。
「おいちゃん、なんか変な銀行員が来たって聞いたよ。大丈夫かい?」
「大丈夫ですよ。ありがとうございます、松田さん」
「ここの百円の団子はな、わしが五十年通ってる、一番うまいもんだよ。こんな店が悪いはずがないじゃないか」
松田が団子を一口かじって、目を細めた。
「蒼井ちゃんは、なんでわしがここに五十年も来てるか分かるか?」
「美味しいからですか?」
「それもそうじゃが、ここはな、誰に対しても同じ一杯を出してくれるじゃろう。偉い人でも、わしみたいな年寄りでも、全く同じお茶と同じ団子。そういう店はなかなかないぞ。それが一番うまい理由じゃよ」
蒼井はその言葉を静かに胸に受け取った。五十年変わらないこの縁側が、蒼井には何より誇らしかった。その笑顔の裏で、何かが決まりかけていた。
夕方遅く、堀内が白川案に一人でやってきた。
「白川様、本当に申し訳ありません。支店長を止める力が私には…」
「堀内さん、あなたのせいじゃありません。でも、あなたはずっと私たちのことを誠実に考えてくれていた。そのことを忘れていません」
堀内が頭を下げて帰っていった。蒼井は堀内の背中が見えなくなるまで見送った。
その夜、白川案の奥座敷で、ろうそくが一本静かに燃えていた。蒼井が正司の前に座っていた。お茶が二つ、白い湯気を立てていた。
「おじいちゃん、今日ね、浜田支店長という人から電話が来て」
蒼井がゆっくりと話した。昨日の下見から、今日の電話まで、全部を。正司は何も言わずに聞いていた。お茶を一口飲んだ。また一口飲んだ。部屋の中で、ろうそくの炎だけが揺れていた。
「第一都銀行の支店長が、そう言ったのか」
「おじいちゃん、怒らないでね。私たちは大丈夫だから」
「怒ってないよ」
正司が静かに笑った。
「ただ、少し話をしてみようと思ってね」
正司がゆっくりと立ち上がり、部屋の隅の電話に向かった。
「田村か。起きてるか?」
「はい、正司様。何なりと」
「都銀行の口座整理を始めてくれ。全口座だ」
「全口座ですか?個人・法人含めますと、九千億になりますが」
「そうだ。明日の朝一番で手続きしてくれ。移し先は、瑞穂銀行でいい」
「わかりました」
「それと田村、第一都の持ち株も整理しよう。全部手放す」
「持ち株もですか?正司様。それは銀行の経営に直接影響が出ます」
「いい。だが、孫に恥をかかせた人間を、私は放っておけない」
「承知しました。明朝、全ての手続きを進めます」
正司が電話を置いた。部屋がまた静かになった。蒼井は正司の後ろ姿を見ていた。八十三歳のこの人が、孫のために九千億を動かそうとしている。
「じいちゃん、そんなことしなくていいよ。私たちは大丈夫だから」
「蒼井、じいちゃんはなあ、お前が悔しい思いをしているのが一番辛い」
正司が振り返り、蒼井をまっすぐに見た。
「金は使えばなくなる。でも、お前の涙はじいちゃんには取り消せない。だから動く。それだけだよ」
蒼井は何も言えなかった。ただ、深く頭を下げた。
同じ夜、浜田は本店に「工事支店の小口不良案件を一括整理します。白川案、勇次、回収予定」と報告して、満足して帰宅した。
正司が蒼井のそばに戻ってきた。蒼井の頭に、ゆっくり手を置いた。
「学園の団子を食べに来てくれるじいさんたちが、この茶屋を守ってくれてるんだ。格なんてものは、そういうところにある。金持ちと貧乏人を分けるところにあるんじゃない」
蒼井の目に涙が浮かんだ。
「心配しなくていい。明日の朝には全部わかる」
蒼井が自分の部屋に戻ると、正司は一人、縁側に出た。風も音もない、深夜の静けさだった。路地の奥に、暗い夜空が広がっていた。
「おい、すまんな」
誰にも聞こえない声で、正司は小さく言った。孫が悔しい思いをしていたのに、もっと早く気づいてやれなかった。それだけが正司の胸に残っていた。
その夜、蒼井はなかなか寝つけなかった。瑠璃がそっと隣に来て、「おじいちゃんが言ったんだから、大丈夫だよ」と支えた。
「うん。そうだね」
蒼井は天井を見上げた。この部屋で二人はずっと眠ってきた。父も母もいない。けれど、じいちゃんが隣の部屋にいた。五歳の時に泣いた夜も、小学校で意地悪をされた時も、大学の試験に落ちた夜も、いつもここに帰ってきた。じいちゃんの一言で、全部大丈夫になった。「何も心配しなくていい」。その言葉は、今夜も変わらず蒼井の胸の中で温かかった。
二人が眠りに着いた頃、田村は深夜まで書類を整えていた。九千億円の解約手続き書類、持ち株全売却の委託書類。田村は三十年以上的确正司のそばで仕えてきた。正司がこれほど静かに、しかしこれほど迷いなく動いたのは、記憶にない。
「正司様は、自分のためなら動かない方だ。でも、孫娘のためなら、九千億も持ち株も、何も惜しまない」
田村は書類を丁寧に封筒に入れ、朝一番の手続きが滞りなく進むよう、全ての準備を整えた。
翌朝八時十分、第一都銀行工事支店の店内システム端末に、アラートが鳴り響いた。
「支店長、大変です!白川正司様、白川財閥関連法人の全口座から、九千億円の一括解約申請が受理されました」
「九千億?九千億だと?今すぐ本店を…」
工事支店長の顔から血の気が引いた。強張る指で本店の番号を押した。別の行員が叫んだ。
「白川正司。白川財閥の…」
「白川財閥って、うちの設立時の筆頭株主じゃないか」
工事支店長が叫んだ。
「誰か、浜田支店長に連絡してくれ!あの方に何かしたのか、確認しろ!」
同じ時刻、東京証券取引所で、第一都銀行の株価が急落し始めていた。「白川財閥が第一都銀行の持ち株を全て売却」という情報が市場に流れ、売りが売りを呼んでいた。本店、頭取室に、慌てた行員が飛び込んでくる。
「頭取!白川正司様の九千億が、全額一括解約申請です!どういうことですか?」
「白川様はなぜ?」
「白川財閥の持ち株も、全売却のようです。株価が止まりません」
「このままでは…何かあったはずだ。すぐ調べろ。白川様に何が起きたんだ」
秘書が「工事支店の浜田支店長が、昨日、白川案にて…」と報告を始めた。頭取は一言も口を挟まずに聞いた。報告が終わった。頭取室に、長い沈黙が落ちた。
「株価がさらに下がっています。このまま続けば…」
頭取はゆっくりと立ち上がった。その目には、経営者の怒りではなく、人として当然の怒りが滲んでいた。
「浜田を呼べ」
浜田が本店に呼び出された。頭取室のドアを開けた瞬間、浜田は頭取の顔を見て、初めて何かを察した。
「浜田さん、昨日、白川で何をしたか説明してもらえますか?」
「はあ。接待の下見で、少々場所が合わないと判断し、キャンセルを…」
「『貧乏人と一緒の場所で茶はできない』と言ったそうですね」
「え、まあ、そういう表現を使ったかもしれませんが…」
「『ボロ屋が』とも言ったそうです。会場費も払わず帰り、電話では『廃業して返済しろ』とまで言った」
「それは…その言葉が過ぎたかもしれませんが、確式を考えると…」
「白川案のオーナー、白川正司様をご存知ですか?」
「白川正司?あの茶屋の主人が?」
「白川財閥の創業者です。当行設立当初からの筆頭株主。個人・法人合計九千億円の最大の預金者。金融庁審議会委員を長年務め、財務省と深い人脈をお持ちの方です」
浜田の顔から、全ての色が消えた。
「あの…百円の団子のボロ屋の主人が、その方のお孫さんたちを。あなたは昨日、公然と『貧乏人』と呼び、会場費を踏み倒し、有資回収を脅しに使った」
「ちょ、ちょっと待ってください。それは知らなかったんです」
「書類に『知らなかった』で済む話ですか」
浜田の足が小刻みに震えていた。
「…知らなかったんです。誰も教えてくれなかった」
「堀内君が何度も注意しようとしたそうですね。その度に、あなたが遮断した」
浜田は黙った。反論できる言葉が、一つも出てこなかった。続いて、工事支店長の中村が本店に呼び出された。
「中村支店長。支店長が顧客を公然と侮辱する言動を、あなたは把握していましたか?」
「把握はしておりませんでした。しかし、支店長の顧客について確認が不十分だったことは…」
「…すみません。あなたにも監督責任があります」
その日、浜田の即日解雇と、中村工事支店長の降格処分が決定した。工事支店の全員に、この決定は通達された。堀内が静かにその通達文を読んだ。何も言わなかった。ただ、深く息を吐いた。
解雇通告を受けた後、浜田は廊下の椅子に一人で座っていた。荷物をまとめるために渡されたダンボール箱が、膝の上に置いてあった。机の引き出しを開けると、真っ先に目についたのは、二ヶ月前に異動した日に届いた顧客ファイルだった。白川案の文字が見えた。浜田は一度もそれを開かなかったことを、今更思い出していた。
頭取が、副頭取と共に黒塗りの車に乗り込んだ。白川案に向かって。白川案の路地に、黒い車が静かに止まった。頭取が車を降り、石畳の上で深く頭を下げた。
「白川正司様。浜田の行為は、行として誠に、誠に申し訳ございませんでした」
側に正司が現れた。白い皿に、手に一杯のお茶。ゆっくりと椅子に座った。
「頭取さんがわざわざおいでくださるとは」
「九千億の解約を、どうかお考え直しいただけませんでしょうか」
頭取の膝が地面についた。縁側に座った常連の老人たちが、誰も声をあげずにその光景を見ていた。松田が百円の串団子を手に持ったまま、静かに目を細めた。
「浜田は即刻解雇いたします。白川様への一切の損害は、当行が賠償いたします。どうか、どうかお願いでございます」
頭取の目に涙が光っていた。
「どうか。どうか解約をお考え直しください」
「頭取さん。孫たちに謝っておくれ」
蒼井と瑠璃が縁側に並んで立っていた。頭取が膝をついたまま、二人の前に頭を下げた。
「蒼井様、瑠璃様。誠に、誠に申し訳ありませんでした」
深い沈黙が流れた。路地に秋風が通り抜けた。蒼井の手が、かすかに震えていた。三ヶ月分の準備。八十個の茶碗。キャンセルの電話。「廃業しろ」という声。じいちゃんの「金は使えばなくなる。でも、お前の涙は取り消せない」という言葉。全部がこの瞬間に重なって、押し寄せてきた。だが蒼井は泣かなかった。五歳の時からずっと、じいちゃんに心配をかけたくない。それは今も変わらない、蒼井の習慣だった。蒼井は一度だけ深く息を吸った。
「顔を上げてください」
蒼井の声は静かだった。
「私たちは、ただこの茶を守りたかっただけです。おじいちゃんが大切にしてきた場所。それだけを。頭取さん、今日の判断は変えません」
頭取が息を飲んだ。
「ただ、来年また考えても良い。あなたの銀行が変われるかどうか、見せてもらいましょう」
頭取が深く頭を下げて、車に戻った。車が路地を出ていくのを、蒼井と瑠璃は並んで見送った。車が見えなくなると、瑠璃がつぶやいた。
「おじいちゃん、すごいね」
「うん」
「じいちゃんは何もしてないよ。ただ、孫が大事なだけだ」
三人は縁側に腰を下ろした。正司がお茶を一杯淹れた。秋の光が、静かに白川案の縁側に降り注いだ。
その日の午後、浜田理太郎は即日逮捕された。第一都銀行は株価の暴落と九千億の資金流出危機に陥り、翌月、大手金融グループへの救済合併が正式に発表された。設立から五十年、地域に根ざしてきたその銀行の名前は、歴史の中に消えた。
数日後、堀内が白川案を尋ねた。
「九千億の解約通知が届いた時、私は勇次担当として、本当に顔から火が出る思いでした。何もお役に立てずに」
「堀内さんは何も悪くありません。あなたの誠実さが、私たちを最後まで支えてくれていた。本当にありがとうございました」
堀内が深く頭を下げた。その後、堀内誠は工事支店の有資担当主任に昇進した。「顧客への誠実な対応を一貫して貫いた行員として」という推薦状が、支店長の署名で添えられていた。
堀内が再び白川案を尋ねた日、正司が縁側で手を上げた。
「堀内君、一杯どうかね」
「ありがとうございます」
堀内は縁側に腰を下ろし、正司が立てるお茶を両手で受け取った。その一杯は、今まで飲んだどんなお茶よりも温かかった。縁側で、松田が百円の串団子をかじりながら、何も言わずにそれを見ていた。しばらくして、松田がつぶやいた。
「誠実な人間には、ちゃんと分かる人間がおるもんじゃな」
蒼井が松田に微笑んだ。瑠璃が新しいお茶を松田の前に置いた。白川案の暖簾が、秋風にゆっくりと揺れた。
それから三ヶ月後、白川案に八十名のお客様が訪れた。依頼主は、ある大手企業の会長だった。「白川案で、是非」という指名だった。蒼井と瑠璃が丁寧にお茶を立てた。八十名の客が、一人一人、両手でその一杯を受け取った。会場のどこかで、誰かが小さく笑い声をあげた。蒼井がふと目を上げた。三ヶ月前に磨き上げた八十個の茶碗が、今、一つ残らず、誰かの手の中にあった。
「よかった」
瑠璃が蒼井の隣で小さく頷いた。茶会が終わった後、お客の一人が蒼井に近づいてきた。七十代の男性だった。白髪で、穏やかな目をしていた。
「大変美しいお手前でした。また是非、ここでお茶をいただきたい」
「ありがとうございます。いつでもお越しください」
この男性が縁側の方へ歩いていくと、松田が団子を一本差し出した。
「百円の団子も食べていきなさい。うまいぞ」
男性が笑顔で受け取り、一口かじった。
「本当においしい」
と男性はつぶやいた。蒼井と瑠璃は、その光景を並んで見ていた。
浜田理太郎は、解雇の翌日から都内の金融機関への再就職活動を始めた。しかし、第一都銀行の経営危機の一員となった人物、という情報は業界に広まっており、面接の場すら設けてもらえなかった。半年後、浜田は故郷の地方都市に戻り、父親が残した小さな金融相談事務所を一人で継いだ。都心の一流オフィスとはほど遠い、商店街の角の小さな事務所だった。
ある昼下がり、近所を歩いていた浜田は、一軒の古い茶屋の前で足を止めた。縁側に、老人が一人、百円の串団子を頬張りながら静かにお茶を飲んでいた。以前の浜田なら、一瞥もせずに通り過ぎていた光景だった。だが浜田はしばらく、その老人の横顔を見ていた。老人が気持ち良さそうに目を細めた。浜田は何かを言おうとして、やめた。そのまま、ゆっくりと歩き出した。ただ、その日の帰り道、浜田は街の和菓子屋で串団子を一本だけ買った。値段は百円だった。浜田は帰り道、串団子を一口かじった。甘かった。バカにしていた甘さだった。それでも、食べ終わるまで、浜田は立ち止まっていた。
翌日、浜田は事務所の引き出しから一枚の名刺を取り出した。『白川案 白川蒼井』と書いてあった。下見の日に受け取ったまま、一度も見ていなかった名刺だった。浜田は長い間、それを見ていた。謝りたい。その気持ちが初めてはっきりと浮かんだ。だが、電話をかける勇気はまだなかった。名刺を引き出しに戻し、浜田はその日の仕事を始めた。
第一都銀行は、大手グループへの救済合併が完了し、頭取は辞任した。蒼井と瑠璃が縁側で、祖父の隣に座った。正司が串団子を一口かじった。路地に秋風が吹いていた。白川案の板看板が、午後の光を受けていた。創業から百数十年、立ち続けてきた看板だった。どんな時代も、どんな人が来ても、この茶屋は変わらずここにあった。蒼井が縁側から路地を眺めた。
「おじいちゃん、守れたよ。ここ、まだちゃんと続いてる」
正司が目を細めて、また串団子を一口かじった。
「うまいな」
「おじいちゃん」
蒼井の目に、かすかに涙が光った。五歳の時に、「じいちゃんがいる。何も心配しなくていい」と言ってくれた、あの声が今もこの縁側にある。何も変わっていなかった。人の価値は、格でも、預金額でも、どこの銀行に口座があるかでもない。誰を大切にするか、誰のために場所を守るか。その一点にある。この縁側にある。正司が蒼井の頭に、ゆっくりと手を置いた。秋風が、白川案の暖簾を優しく揺らした。



