新型タブレットに採用された自社部品の最終打ち合わせ当日、俺は朝から準備を整えて待っていた。だが約束の時間を過ぎても、ユニテックの担当・ゴンダは現れない。何度電話しても切られ、ようやく繋がった先からはパチンコ店の騒音が響いていた。
「本日の打ち合わせですが、今忙しいんだよ。待てないなら契約解除するぞ」
頭に血が登ったが、怒鳴り返す代わりに静かに「わかりました」とだけ返し、電話を切った。その瞬間、俺の中で次の手が動き出していた。
俺は倉本達也。精密部品メーカー・倉本正の社長だ。設計から加工、検査まで一貫対応できる技術力が評価され、国内外のメーカーから信頼を得てきた。製品に自社の名前が出ることはないが、「倉本の部品なら安心」と言われるようになった。だが規模が小さく、大口契約は同時に受けられない。だからこそ契約先は慎重に選んできた。
ユニテックは数少ない大手の取引先だった。だが担当が転職してきたゴンダに代わってから、関係は変わり始めた。命令口調の物言い、こちらの都合を無視したスケジュール変更。見下されていると感じるやり取りは一度や二度ではなかった。
それでも今回の案件、ユニテック新型タブレットに採用されたのは、うちが長年研究してきた超微細耐久パーツだった。正式発表も済み、量産開始を目前に控えた重要な打ち合わせだった。だがその日、俺たちの想像を超える出来事が起きた。
約束の時刻を30分過ぎ、1時間を超えてもゴンダは来ない。社員たちが不安そうに俺を見る。俺はスマホを取り出し、ゴンダの番号に発信した。ワンコールで切られる。何度かけても同じだ。最後の電話がようやく繋がった瞬間、耳に飛び込んできたのはパチンコ店の騒音だった。
「今日だったの?明日かと思ってたわ。こっちも忙しいの。何回もかけてくんなよ」
「待てないなら契約解除で。下請けのくせに主張しすぎなんだよ」
逆切れの連続だった。俺は冷静に「わかりました」とだけ返し、通話を終えた。会議室は静まり返り、誰も何も言わなかった。
俺はゆっくり立ち上がり、全員を見渡した。
「ユニテックとの取引は、こちらから打ち切る」
驚きの沈黙が流れたが、すぐに各部門の責任者が動き出した。製造部は「現場もあの会社の担当には辟易していました」と言い、品質管理は調達済み部材の転用を提案した。経理はキャッシュフローへの影響を試算し「むしろプラス」と答えた。俺は営業に指示を出した。
「空いた枠で、以前断った企業の中に動くところはあるはずだ。条件は誠実さと長期的視野。一時の売上ではなく、共に価値を育てられる相手と契約する」
各部門が一斉に動き出し、別案件への切り替えが進んだ。そして俺はユニテック現社長・無藤宛てに正式な契約解除通知を作成した。冒頭にはこう記した。
「通話内容を録音しており、遊戯施設での環境音、日程の不履行、複数回の着信拒否、担当者の暴言、契約解除の発言、これまでの高圧的対応を踏まえ、重大な信頼関係の毀損に該当すると判断し、契約を終了する」
感情ではなく証拠と論理。封筒を閉じ、静かにデスクに置いた瞬間、長年背負っていた重しが一つ外れた気がした。
翌朝、ユニテックの無藤社長はメールで異変に気づいた。件名は「業務提携契約解除のご報告」。内容を開いた瞬間、血の気が引いた。録音の文字起こし、パチンコ店の環境音、過去の無断納期変更、高圧的言動の記録。最後には契約終了の一文。
「これは終わったぞ」
新型タブレットの中核部品が手に入らない。製品設計は完了し、メディア発表も済んでいる。設計変更は不可能に近い。「倉本の部品が搭載される」ことが売りだったのに。無藤はゴンダを役員室に呼びつけた。
「なんてことをしてくれたんだ。お前が勝手に電話一本で解除したのか?」
「ちょっと行き違いがあって…下請けですし、そこまで大事になるとは」
「下請けだと思ってた?倉本の部品があるから俺たちは選ばれていたんだ。もうリリース済みだ。設計変更は不可能。メディア発表と食い違えばブランド失墜。お前がやったのは業務妨害だ」
ゴンダは蒼白になった。「今すぐ倉本に行って謝罪しろ。契約を戻せ。できなければお前は首だ」
数分後、ゴンダは倉本正に乱入してきた。顔面蒼白、肩で息をしながら頭を下げる。
「お願いします。昨日の件、なかったことにできませんか?部品供給を再開してください」
俺は立ち上がりもせず静かに応じた。
「昨日のご発言は記録にも残っています。なかったことにはできません」
ゴンダは必死に言い訳を重ねる。「気が立っていただけ」「本当に悪気はなくて」「上から強く言われて」。だが、その言葉の全てが自分の保身ばかりだと、俺は見抜いていた。
「ゴンダさん、あなたは自分の保身のことばかり話している。私たちに対する謝罪の言葉は一度も出ていませんよね」
その瞬間、ゴンダの表情が凍りついた。ようやく謝罪の言葉を絞り出すが、遅すぎた。
「人に言われてから慌てて謝るようでは、本気で悪いと思っていない証拠です。私たちは誠実さと信頼を積み重ねてきた会社です。それを侮辱したあなたの言動は、取り返しがつきません」
「もう一度言います。今後どれだけ条件を変えても、私たちがあなたの会社に部品を供給することはありません」
ゴンダが叫びながら詰め寄ろうとしたが、警備員が素早く腕を掴み、引き離した。「頼む、頼むよ」と泣く声がドアの向こうに遠ざかっていった。
俺は静かに深く息をついた。ようやく全てが終わったのだと、そう思えた。
数日後、ゴンダは正式に社内調査の対象となった。契約妨害の経緯、報告の虚偽、プロジェクトへの影響まで徹底的に精査され、役員会で懲戒解雇処分が下された。倉本正を裏切った男というレッテルは業界内で広まり、再就職先は見つからなかった。家庭も壊れ、家族は離れていった。
無藤社長も影響を避けられなかった。製品ラインの一部を急遽見直すことになり、各部署が対応に追われた。
一方、倉本正はすでに新たな取引先との体制を整え、業務は滞りなく回っていた。社員たちは言ってくれた。
「社長の判断がなければ、会社が傷ついていました」
その言葉に、胸の奥がすっと軽くなった。
会議の終わり、俺はいつものように全員を見渡した。
「人の重さは平時には見えない。だが必ず試される日が来る。そして、守れるものだけが次に進める」
俺は目の前の一人一人を見据えながら、ゆっくりと背筋を伸ばした。次に来る試練にも、屈しないように。


