「私、高橋さんと結婚するわ」…

「私、高橋さんと結婚するわ」...

「田中さん、すみません。今日はもう店じまいなんです」
そう言った瞬間、俺の声は震えていた。祖父から受け継いだこの和菓子屋「佐藤屋」は、代々続いてきた歴史がある。なのに今、目の前には閉店の文字がチラついている。

事の発端は数日前に遡る。突然、原材料の仕入れ先が全て取引を止めたのだ。理由は不明。問い合わせても「もうお売りできません」の一点張り。何か裏があると直感した。そして追い打ちをかけるように、桜デパートからの納品依頼が届いていた。だが、材料がなければ作れない。

「このままだと佐藤屋は終わってしまう…」

俺の呟きに、いつも店を手伝ってくれている幼馴染のゆみ子が、今にも泣きそうな顔で言った。
「私、高橋さんと結婚するわ」
「は? 何言ってるんだ?」
「高橋さんは、彼の父親の副社長は、父が座っている椅子が欲しいの。私たちの結婚を利用してスイートリームを乗っ取るつもり。父もその野望に利用されていただけだったの」
なんだって――。予想だにしなかった真実に、俺は言葉を失った。

ゆみ子は突然、俺の頬に小さなキスを落とした。
「さよなら正斗。今まで楽しかったわ」
微笑む彼女の目から、一筋の涙が流れる。そして背を向けると、彼女は店の出口に向かって歩き始めた。
「待て、ゆみ子!」
俺がとっさに手を伸ばした、その時だった。

ガラスドアがコンと叩かれた。そこに立っていたのは、いつものように和菓子を買いに来た田中さん。小柄でいつもニコニコしている、この店の常連客だ。
「ドアを押しても開かなくて。もしかして今日はもう終わってしまったの?」
すみません、今日は事情がありまして…。
「何かあったの? 正斗君」
田中さんはいつもと同じ穏やかな目で、けれどいつもより鋭く俺を見上げた。
「これでも人を見る目はあるつもりよ。伊達に40年近く生きてないわ」

実は、田中さんは数年前まで全国的に有名な大手物流会社「田中運送」の社長を務めていた。今は体を悪くして息子さんに経営を譲っているが、かつては仕事の鬼として社員たちに恐れられる敏腕社長だった。その彼女に、俺は全てを打ち明けた。大企業からの嫌がらせで店が潰れかかっていることを。

「よかった。そんな事情なら私も力になれるはずよ。体を壊して足も不自由になった時は、生きる希望をなくしかけてしまったけれど。こんな体でも生きていてよかったわ。こうして恩返しできる時が来たんだから」

恩返し? 田中さんの言葉に、俺は困惑した。すると彼女は、40年も前の思い出を語り始めた。田中運送がまだ小さな運送会社だった頃、社長だった夫が突然の病で倒れてしまった。残された田中さんは、莫大な借金と社員たちの生活を背負うことになり、倒産寸前まで追い込まれた。

「そんな時、正斗君のおじいさんが手を差し伸べてくれたの。“ただの和菓子屋にできることはこのくらいで申し訳ないけど”って」
祖父と田中さんは昔からの幼馴染だった。祖父は田中さんを助けるため、特別な和菓子を考案した。里親に代々伝わる餡を特別な牛皮で包み、最後に「静の和菓子」という大福を。その売上を全て田中家に寄付し続けたのだ。

「おじいさんのおかげで、子供たちにお腹いっぱいご飯を食べさせることができたわ。その笑顔に励まされて、私はもう一度頑張ってみようと思えた。そして会社を立て直すことができたの」
田中さんは誇らしげに胸を張った。祖父の助けをきっかけに復活した彼女は、やがて田中運送を誰もが知る巨大物流会社へと成長させたのだった。

「大した力になれなかったからと、おじいさんは決してありがとうを受け取ってくれなかったわ。だからせめて感謝の気持ちを伝えたくて、彼と約束をしたの。これからは毎月必ず和菓子を買いに来る。甘いものが大好きだった夫と私の分を2つずつって」

そう言われて、ようやく合点がいった。どうして毎月、不自由な足で田中さんが和菓子を買いに来てくれていたのか。その理由を知った瞬間、俺の目からは涙が止まらなかった。
「じゃあ今までずっといつも2つだけでごめんなさいね。この年で甘いものはたくさん食べられないし、本当に美味しいお菓子だから、買い占めることなんかせずに色々な人に食べてもらいたくて」

俺は首を振って、自分の思いも田中さんに伝えた。経営に困っている時も、田中さんは毎月必ず足を運んでくれた。俺が佐藤屋を継いだばかりで腕が未熟だった頃も、必ず「本当においしいわ」と微笑んでくれた。その言葉がどれだけ励みになったか。

「田中さんのおかげで、俺は佐藤屋を続けて来れたんです。来月田中さんに会うために頑張ろうって、来てくれるたびに思ってましたから。恩返しなら、もうとっくに――祖父もきっと」
最後は涙のせいで言葉にならなかった。そんな俺に、ゆみ子がそっと寄り添ってくれる。田中さんは目頭を抑えながら、優しい微笑みを浮かべた。

「それなら、これはおばあさんの御礼も兼ねて。大好きな和菓子屋さんを守るために――」
田中さんが言いかけた、その時だった。
「迎えに来たよ、ゆみ子」

ガラスドアが開いて、店内に現れたのは高橋。ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべている。
「さあ、帰って社長に結婚の報告をしよう。きっと喜んでいただけるはずだよ。そして2人でスイートリームをさらに大きな会社にしていくんだ」
高橋は俺たちなど目に入っていないようで、まっすぐゆみ子の元へ向かって歩いてくる。
「ゆみ子は渡さない。絶対に」
俺は2人の間に滑り込んだ。すると高橋は表情を変え、高圧的な態度で怒鳴った。
「引っ込んでろよ、低学歴。調べはついてるんだぞ。お前は大学中退の高卒だって。その上、こんなしょぼい和菓子屋の店主なんて。自分がゆみ子にふさわしいと本気で思ってるのか?」
「ふさわしくはないかもしれない。だけど俺はゆみ子が好きだ。社長になるためだけにゆみ子を利用しようとしている奴より、こんな俺の方がよっぽどマシだ」
負けじと俺が言い返すと、高橋は鼻で笑った。そして陳列台から和菓子を一つ掴み、掲げてみせる。
「俺はゆみ子と同じ、東京の名門大学で経営を学んだ。そんな俺よりマシだって? 例えば、年に100億の売上を出しているスイートリームの商品を超える和菓子を作れたりするのか?」
「これも食べてみれば分かるよ」
「誰が食べるかよ、こんなもの。作った奴にそっくりの中途半端な和菓子なんて。そのうちお前もこうしてやるからな」
そう言うと、高橋は腕を振り上げ、和菓子を床に叩きつけようとした。
「やめろ!」

俺の背後からゆみ子が飛び出した、その時だった。
「いっ!」
短い悲鳴と同時に、高橋の手から和菓子がポロリと落ちる。それをキャッチしたのは、杖を振り上げた田中さん。彼女が杖で高橋の手を打ち据えたのだ。
「何するんだよ、この婆あ!」
「お黙り!」

迫力満点の一喝に、高橋はビクっと背筋を伸ばした。
「お菓子を粗末に扱うなんて、人として最低もいいところよ。しかもお菓子を作る会社の社員が? 恥ずかしいとは思わないの」
「あ、あんたには関係ないだろうが!」
「スイートリームといえば、田中運送を使って全国に商品を発送しているはずだけれど。それでも関係ないと言えるのかしら?」
「え…」
ようやく目の前の女性が重要取引先・田中運送の人間だと気づいて、高橋の勢いが弱まる。田中さんはそっと和菓子を撫でた。
「中途半端なものですか? だってこんなお菓子は他にないもの。誰も真似できない職人よ。いつ来ても必ず同じ味。おじいさんと同じ味の和菓子を作っているんだから。ほんの短い間だけ和菓子作りを学んで、あとは自分の力でおじいさんと同じ腕を身につけたの。そんなことは滅多にできるものじゃないわ」
田中さんは全て分かってくれていた。俺が祖父の元で和菓子作りを学べたのはたった2年だけ。その後は佐藤屋を守りながら、苦労して祖父の背中を追いかけたこと。
「これを食べると、まだおじいさんが生きているような気持ちになるわ。夫を思い出して悲しくなった時も、必ず笑顔にしてくれる。そんな素晴らしい和菓子職人なのよ、正斗君は」
「私も、そんな正斗が大好き。他の人と絶対に結婚しないわ」

微笑んでくれる田中さんの顔も、そばに寄り添ってくれるゆみ子の顔も、涙で滲んでぼんやりとしか見えない。結局、祖父から一人前の和菓子職人として認めてもらうことはできなかったけれど、こうして代わりに認めてくれる人が2人もいる。そのことが嬉しくて、俺は涙が止まらなかった。

「ありがとうございます」
俺たちの雰囲気に押されたのか、高橋はいつの間にか店から退散していた。そして翌日のこと。全国の物流センターから、一日中大量の荷物が次々と届き続けた。田中さんが自分のネットワークを使って、高橋の息がかかっていない業者に声をかけ、和菓子の原材料をかき集めてくれたのだ。しかも代金や配送料は全て彼女自身が負担する形で。

「よし、手伝ってくれ、ゆみ子」
「もちろん!」
田中さんの思いに答えるため、俺はゆみ子の手も借りて深夜までかかって和菓子を作り続けた。そして翌日、無事に桜デパートへ納品することができたのだった。

ところが、話はこれだけでは終わらなかった。桜デパートのイベント会場で、俺とゆみ子は緊張しながらも自信を持って店頭に立っていた。
「佐藤屋自慢の静の和菓子です! ぜひ味見をしていってください」
「とっても美味しいですよ」
最初はまだ疎らだった客足も、徐々に増えていった。
「不思議な名前のお菓子ね。どんな由来があるの?」
「はい。実は――」
試食に来てくれた女性客に、俺は田中さんと祖父の絆、そして孫の俺が40年の時を経て受けた恩返しの話をした。
「これ、すごく美味しいわ! それになんてドラマチックな由来なの!」
女性は感動で目を潤ませながら和菓子を絶賛してくれた。すると他の買い物客たちも俺たちの会話に耳を傾けていたようで、噂はどんどん広がっていった。佐藤屋のブース前にはあっという間に行列ができ、イベントは大盛況のうちに無事終了。

片付けをしていると、バイヤーが興奮した様子で駆け寄ってきた。
「佐藤屋さん、大変なことになりましたよ!」
「え?」
「次々と問い合わせの電話が舞い込んでいるんです!“静の和菓子はどこで買えるのか”“名前の由来になった話は本当なのか”って。あの和菓子が持つ感動的なストーリーを、もっと多くの人に知ってもらいましょう! うちで全面的にPRさせてください!」

その言葉通り、桜デパートは俺たちの物語を全面に押し出したPRを展開。テレビや新聞でも取り上げられ、佐藤屋には評判を聞いた人々が詰めかけ、祖父の頃にもなかったほどの大盛況となった。静の和菓子はもちろん、他の和菓子も連日飛ぶように売れた。

そしてある日、俺はテレビ局のインタビューを受けることになった。初めてのカメラの前で少し緊張するが、カメラマンの横ではゆみ子が見守ってくれている。励ましの視線を感じながら、俺はゆっくりと口を開いた。

「お菓子は人を笑顔にするものだからです。辛い時や悲しい時でも、食べるだけで笑顔になる。そんな祖父が目指していた和菓子を作ることができた。理由は色々あるけど、それが一番だと思います」
「なるほど。では今後、佐藤屋の大復活をきっかけに和菓子ブームが再度到来するとの声もありますが、現在人気で押され気味の和菓子が洋菓子に勝つ未来は来ると思いますか?」
リポーターの言葉に、俺は首を振った。
「和菓子も洋菓子も、どちらが勝っているとか負けているとか、優れているとか劣っているとかではなくて。大切なのは、どちらも食べる人の笑顔を思い浮かべて作ることだと思います」
そして俺は続けた。
「人と人との繋がり。その大切さを、祖父から受け継いだ人に教えてもらいました。40年を経た恩返しが、今の俺たちを救った。そんな素晴らしい縁を、そしてお客様一人一人との縁を、これからも大切にしていきたいです」
そう答えた途端、周りで聞いていた人々から大きな拍手が起こった。カメラマンの横で、ゆみ子が涙ぐみながら微笑んでいる。田中さんもその隣で、微笑みながら頷いてくれた。

その後、佐藤屋は大繁盛を続け、桜デパートにも佐藤屋桜デパート店の出店が決定。さらに全国のデパートやスーパーからも取り扱いの問い合わせが相次いだ。スタッフは大勢増えたものの、俺たちは大忙しの日々を送っている。

そんなある日のこと。営業を終えて掃除をしていた時、出入り口のガラスドアが開いた。
「すみません。今日はもう――」
顔を上げたゆみ子は、ピタッと動きを止めた。
「お父さん!」
驚いたように呟くゆみ子。俺たちの前に現れたのは、彼女の父親でスイートリーム社長の西條社長だった。
「ゆみ子、それから佐藤君。随分遅くなったが、話をさせてもらえないか」
西條社長は俺たちに向かって頭を下げた。
「あのインタビュー映像を見た。佐藤君の言葉を聞いて、私は初心を思い出した。ここ何十年と会社を大きくすることばかり考えていたが、若い頃、私はパティシエになりたかったんだ」
「知らなかった…そうなの? お父さん」
「ああ。ゆみ子のおじいさんに反対されて結局は叶わなかったが。佐藤君の言った通りだ。私もパティシエとして、人を笑顔にする和菓子が作りたかったんだ。思い出させてくれてありがとう。そして、迷惑をかけてすまなかった」
西條社長はまっすぐにゆみ子の顔を見た。
「ゆみ子、うちに帰ってきてくれないか?」
「で、でも…」
「もうお前に私の思いを押し付けたりはしない。和菓子が好きなことも、佐藤君との仲も、お前の好きにすればいい。思いを押し付けられる辛さは知っていたはずなのに、すまなかったな」
「お父さん…」
「これからは、ゆみ子の思いを尊重する」
そんな社長の言葉で、ゆみ子の目に涙が光った。
「高橋の件も心配しなくていい。あの男はもう会社にはいない」
「え?」
俺とゆみ子は驚いた表情を交わし合った。
「高橋は社長の座を奪おうと暗躍していた。そのために手柄を立てるべく強引な買収を私に無断で進めたり、ライバル企業への嫌がらせも行っていた事実が発覚してね。共犯の副社長と共に、スイートリームを解雇した」
「私自ら2人の徹底的な調査を指示した。今後我々は、食べる人を笑顔にする洋菓子メーカーにならなくてはいけない。そのために、会社に残しておくことはできなかったからな」
後悔や反省の思いをにじませながら、西條社長は小さく微笑んだ。そして、そこで驚くべき提案をしてきた。
「スイートリームでも、今後は和菓子を取り扱いたいと思う。より多くの人々を笑顔にするために」
「え?」
「そしてゆみ子。スイートリームに戻って、新しい社長になってくれないか?」
ゆみ子は驚きのあまり言葉を失った。
「私は引退する。ゆみ子、お前は新社長として、和菓子と洋菓子の世界をつなぐ掛け橋になってほしい。昔ながらの和菓子やスイートリームが得意とする洋菓子はもちろん、新しい和洋折衷のお菓子も開発していって欲しいと思うから。佐藤君とも協力して、引き受けてくれないか?」
「そんないきなり…」
まだ驚いているゆみ子の手を、俺はそっと握った。
「まさ…」
ゆみ子は笑顔を作って頷いた。それだけで、ゆみ子は俺の思いに気づいてくれた。
「ええ、素晴らしいアイデアだと思うわ。ぜひチャレンジさせて、お父さん」
「そうか。ありがとう、ゆみ子」
「お父さん!」
駆け寄ったゆみ子を抱きしめて、西條社長は静かに涙を流した。こうして2人は和解し、ゆみ子は社長と共に俺の元を去っていった。

それから半年後、佐藤屋とスイートリームの共同開発による和洋折衷の新商品が発売された。餡や伝統の技と、スイートリームが生み出したスポンジケーキ――。その評判は予想をはるかに超え、またたく間に全国的なヒットとなった。
新商品の発表記者会見で、新社長に就任したゆみ子が笑顔で語った。
「この新しいお菓子には、伝統と革新、そして人々をつなぐ力が込められています。和菓子の心と洋菓子の技術が融合することで、新たな笑顔を生み出していけると信じています」
俺は彼女の隣で、その言葉に大きく頷いた。

祖父と田中さんの間にあった絆。俺が祖父から受け継いだ伝統。俺とゆみ子との再会。そして、多くの人々との絆。全てが今この瞬間につながって、これから数えきれないほどの人を笑顔にしていく。
「これからも一緒にね」
にっこりと笑って囁くゆみ子。その左手には、新品の指輪が光っている。俺たちの未来も、この先どこまでも続いているから。
「これからもずっと一緒だ」
俺は頷きながら、最愛の女性に微笑み返したのだった。

――目標を叶えるために欠かせないことは何だろう? それは、強い思いと決して諦めないことだと思う。祖父から受け継いだ和菓子屋を守りたい。その思いで努力した結果、俺は手に入れることができた。昔の姿を取り戻した佐藤屋。大切な人と過ごす日々。多くの人々との繋がり。願っていたよりもはるかにたくさんの、掛け替えのないものに恵まれた。
かつての自分や、今崖っぷちに立たされている人に伝えたい。
あと少しだけ、諦めないで頑張ろう。もしかしたら明日、希望の光になる出来事が起きるかもしれないから。

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