「社長、大丈夫ですか?一体何があったんですか?」
お手洗いから戻ってきた営業の山根が、慌てて駆け寄ってくる。俺はハンカチを取り出し、額から滴る水を拭き取った。
「社長、あんたが…いや、あなたが…」
俺に水をかけた男、差し向かいの部長と名乗った佐藤が、ぽかんとした表情で俺を見つめている。俺がふっと口元を緩めると、佐藤はやっと状況を理解できたようで、顔面蒼白になった。
俺の名前は安村。59歳、建設会社の社長をしている。父から社長職を継ぐ前までは、一般社員として現場仕事からデスクワークまで幅広く修行する毎日だった。大変だったが、厳しく教育してくれた当時の先輩や父のおかげで今の俺がある。そうしみじみ感じていたところだ。
社長として多忙な日々を送る中、今日はある会社を訪れていた。我が社がビル建設をするにあたり、商談が持ち上がっている会社だ。先方の担当営業社員の話では、社長の神部さんは急な客先トラブルに対応しているらしく、少々遅れるらしい。
「当社の社長は急いでこちらへ向かっておりますので、到着次第またご案内させていただきます。本当に申し訳ございません」
そう言って担当営業社員は俺たちに頭を下げ、一度この場を離れていった。
案内された場所はウォーターサーバーや自販機があり、食事や作業ができそうな机が設置されている。俺は同行していた自社の営業社員の山根に話しかけた。
「急な現場仕事が入ったせいで作業着姿のままになってしまったが、やはり着替えに戻った方が良かったかな」
「私があらかじめ連絡しておきましたから大丈夫ですよ」
社長の俺がそわそわしていて、なんだかおかしかったのだろう。山根は苦笑している。
「連絡してくれてありがとう山根君。いや、何?先方の社長にお会いするのが楽しみでね。だから本当はスーツをバシッと決めてきたかったんだが」
営業担当者同士の話の中で、俺と神部社長が互いの会社に興味があるとわかり、どうせなら社長同士を交えた商談にしようという話になったのだ。案件は大きなものになると分かっていたので、信頼関係を深めるため互いに同席するのはいいアイデアだと思った。
そして今日がやってきたわけだが、現場仕事に突然のアクシデントはつきものだ。ある現場の監督者が急な体調不良で倒れた。そこで俺が時間ギリギリまで現場を指揮することにしたのだ。社長自ら現場なんてと周りには言われたが、場所はちょうど目的地の途中にあり、他の建築士たちもそれぞれ仕事がある。俺は一級建築士の資格を有しているため、総合的に見て俺が責任だろうと考えたのだ。ただ一つの失敗は、うっかり着替えのスーツを持ってくるのを忘れたこと。
「やはり情けないな」
俺が思い出しながら苦笑的に言うと、
「先方はこちらこそ遅刻になり申し訳ないと電話で謝られていましたよ。ここだけの話。お互い様ってことでいいのではないでしょうか」
俺を励ますためだろう。少しちゃめっ気のある言い方をする山根に、俺は思わず笑ってしまう。
「あ、社長、申し訳ないのですが、その…少しお手洗いに行ってもよろしいでしょうか?」
話の流れで山根が言い、俺は心よく頷いた。
「いいとも。場所は分かるかい?」
「ええ、受付に戻って場所を確認しますので大丈夫です」
もしかしたら我慢していたのだろうか。だとしたら余計な話を聞かせて申し訳なかったなと思う。山根は「では」と軽く頭を下げ、その場を離れていった。
事件は山根の離席の直後に起きた。
「おいおい、ちょっと部外者がそこで何してる?」
まるで絡むような声が聞こえ、俺は反射的に顔を上げる。視線の先で男性が俺を睨みつけていた。社員証をぶら下げているからこの会社の社員だろう。彼自身は名乗りもしなかったが、社員証から彼が佐藤という名で営業部の部長であるというのが分かった。あまりの剣幕に驚いたが、俺は事情説明と同時に挨拶をしようと胸元から名刺入れを取り出そうとする。
「いやいや、どこの誰の紹介なんていらないから。あんた何してんの?作業員風情がなんでここにいるんだ。理由があるにせよ用事が終わったらさっさと消えろ。休憩所が汚れるだろうが」
「どこの誰」から始まり聞くに耐えない言葉に、俺は唖然とする。土木作業員が悪いというわけではないはずだが、装いで何か勘違いしているのだろうか。俺の顔が黒いのもかもしれないが、だからと言って決めつけで一方的に怒鳴るなど失礼な話だ。こんな失礼な男が営業部長か。俺は内心困惑しながらも誤解を解かねばと口を開く。
「私は土木作業員ではなく建設会社の…」
「ああ、建設会社に所属してるどなたさんね。ふん、どうせ下請けの作業員だろうが」
話を聞く気がないのだろう。俺の説明を遮る佐藤の目は、まるで虫を見るかのようだ。あまりの態度に俺は開いた口が塞がらなかった。佐藤は俺の横をすり抜け、そばに設置されたウォーターサーバーでカップに水を注ぎ始める。俺はもう説明を諦め、椅子に腰かけた。ああ、早く山根に戻ってきてほしい。俺がそう思っていると、いきなり頭上から水が降ってきて、俺は硬直すると同時に声を上げた。
「うわあっ!」
思わず椅子から飛び退き振り向くと、不気味な顔の佐藤が俺のすぐ後ろに立っていた。空のカップを逆さにしている姿から、何をしたのかすぐに想像がつく。俺はあまりの出来事に口をパクパクさせるしかできない。
「あれ、顔が黒いからてっきり泥汚れだと思ったんだけどな」
笑う佐藤の様子に、俺は怒りより先に恐怖を感じてしまう。な、何なんだこいつ。俺は心の中で叫ぶ。長い社会人経験で、今まで不愉快な奴に会った経験もあるが、初対面でここまでされたのは生まれて初めてだ。
「君、仮にも営業部長だろう。社員として恥ずかしくないのか」
ようやく怒りの感情を発せられたところで、俺は二発目の水を食らった。どうやら注いだ水は一杯だけではなかったらしい。
「なんか言ったかよ。もう一発食らいたいか?泥臭い爺は水で清めてやるぜ。ああ、床がびしょびしょだ。お前掃除して帰るよな」
自分でやっておいてよくも言う。俺がそう思っていたところへ、山根の悲鳴のような声が聞こえてきた。
「社長、大丈夫ですか?一体何があったんです?」
慌てて俺に駆け寄る山根に、俺は困ったように首を振る。山根の大声を聞きつけて、人の気配がなかったこの場所に「なんだ」と近づいてくる社員が数名見えた。
「私に向かって『泥臭い爺は清めてやる』とか何とか言って、水をかけてきたんだ。ありえないよ」
俺は悲しげに言う。
「なんてことだ…」
俺の訴えを聞き、山根はきっと佐藤を睨みつける。俺はハンカチを取り出し、額から垂れ続ける滴を拭き取った。佐藤は山根と俺のやり取りを見てぽかんとしている。
「社長、あんた?いや、あなたが…え、まさか今日の大口取引の建設会社って…」
俺は覚めた目で佐藤を見やり、ふっと口元を緩めた。その瞬間、佐藤はやっと自分が誰を相手にしているか理解できたようで、見る見るうちに青ざめていく。
「今更分かったところでもう遅い。俺は佐藤に告げる。今日の大口取引は中止って社長に言っとけ」
俺はどんなに不快な相手でも敬語で話す主義だったが、この時ばかりは少々乱暴な物言いになった。佐藤は「えっ」と間の抜けた声をあげる。
「山根君、帰ろう。どのみちこんなに濡れされては商談にならん」
山根は佐藤を睨みながら「はい、社長」と頷いた。
「これは一体どういう状況ですか?」
そこへこの会社の営業担当の社員が騒ぎを聞きつけて俺たちの元へやってくる。自分の上司にあたる佐藤と、ずぶ濡れの俺の様子を見て、ただならぬ空気を察し、その表情は青ざめている。
「担当さん、申し訳ないがね。私たちは帰るから。事情は後で佐藤部長にゆっくり聞いてください。では、これにて失礼します」
俺と山根が丁寧に頭を下げると、担当者は「どういうことですか」と上司の佐藤に詰め寄った。佐藤は「ぶつぶつ…社長どなたじゃないと…」とつぶやき、担当者の疑問に答えようとしない。俺たちはその間に立ち去った。
その日のうちに、佐藤は取引先の神部社長に引きずられるようにして謝罪にやってくる。先方の営業担当者も同席従がっていたようだが、「あまり大勢で来てもご迷惑ですから私が待機を命じました」と神部社長が説明した。そして挨拶もそこそこに、「この度は佐藤が大変な失礼をして申し訳ございません」と社長が深く頭を下げて俺に謝罪する。お会いするのを楽しみにしていた分、できるならこんな形で初対面を果たしたくなかった。きっと神部社長も同じ気持ちだろう。佐藤も社長に続き頭を下げるが、どこか不満な表情に加え、謝罪の言葉を発しようとはしない。
「そんな不遜な態度で謝るつもりが本当にあるのですか?」
俺と同席していた山根が、怒りを帯びた表情で佐藤に問う。佐藤は叱られた子供のようにこちらと目を合わせようとしない。
「…申し訳ございませんでした」
しかし、隣の神部社長が鬼のような形相をしているのに気がつくと、佐藤はようやく謝罪の言葉を口にした。
「お話にならないとはまさにこのことだ。佐藤君、しっかり謝罪するんだ」
神部社長の言葉を、俺は遮った。
「反省の気持ちがないのに言葉だけ言っても仕方がありません」
俺が言うと、神部社長はさっと顔色を青くする。
「で、では商談は…」
この人も佐藤同様に自分の心配をしているのだろう。俺はこの言葉を聞いた瞬間そう思った。
「私はいきなり佐藤部長に『どこの誰』と言われ、水までかけられました。仮に本当に私が土木作業員だったとしても、人としてありえない行動です。そんな社員が働いているとなると信用にかけるとは思いませんか?こう言っては言葉が過ぎますが、佐藤部長のような社員が他にもいるのではと心配になります」
俺の言葉を聞き、山根も神部社長も神妙に頷いている。
「でもあなたも紛らわしい格好をしてたじゃないですか。大きな会社の社長ならもっと高級スーツとか着てると普通思うでしょ」
佐藤の主張に、俺は眉を潜めた。態度と言い、発言と言い、佐藤は開き直っているらしい。
「黙れ。安村社長には事情があったんだ。佐藤部長、君は一切反省の気持ちがないようだな」
すかさず神部社長が叱りつけるが、佐藤は納得がいかない様子だ。
「そもそもなんでうちの安村社長に水をかけたんですか?あなただっていい年の大人ですから、それがどれほどの行為か理解できないわけじゃありませんよね」
山根の問いに、佐藤は罰が悪そうに頭をかく。
「…そもそもおじさんが悪いんだろ」
唐突に「叔父」という言葉が飛び出して、その場の全員が面食らう。
「バカ者。仕事の場に血縁など関係ない。様子を見るだけで、叔父とは言わずとも社長だろうとすぐに分かる」
俺と山根が呆気にとられた表情をしているのに気がついて、神部社長は首を竦めた。
「…恥ずかしながら、佐藤部長は私の姉の息子でして」
なるほど、なんとなく合点がいった。佐藤は部長という役職にも関わらず人間性が足りていない。おかしいと思ったら、社長の親戚でコネ採用だったのか。俺は呆れてため息をつく。神部社長が言うには、今日遅刻するはめになったそもそもの原因はこの佐藤のせいだという。彼が取引先を激怒させ、大急ぎで取引先に謝罪をしに行く事態になり、俺たちとの約束に間に合わなくなってしまったのだとか。ちなみに佐藤が一緒に同行しなかったのは、「顔も見たくない」と先方が相当お怒りだったからだという。俺は自分がされた仕打ちを思い出し納得する。さぞ大変な失礼をしたのだろう。
「あれは向こうが悪いんだよ。こっちが無茶だとか文句つけやがるから、無理なら社員に残業させてでもやれってアドバイスしてやっただけで」
それはアドバイスとは言わない。その場の誰もがそう思っただろう。ともかく、神部社長が取引先に謝罪に行く直前、佐藤はかなり神部社長に怒られたそうだ。なんで自分がこんな目に、とむしゃくしゃしていた佐藤は、作業服を着た俺が休憩所にいるのを見て憂さ晴らししてやろうと思ったんだとか。発想がもう幼稚としか言いようがない。
「子供じゃないんだから」
俺が思わずつぶやくと、佐藤は眉を釣り上げる。
「さっきも言ったけど、あんたが社長だって言うんなら、もっときちっとした格好をしてりゃよかったんだ。どうせどのみち作業員程度なら、上にちくられても白を切ればいいと思ったのに」
言いたいことが終わったのか、佐藤はふんと鼻を鳴らし腕を組む。絶望的なまでの態度の悪さに、神部社長のみがひたすら頭を下げ、謝罪を続けている。きっと身内だからと甘やかしてきたんだな。この時点で俺はもう商談をするつもりは微塵もなくなっていた。謝罪次第ではと思っていた自分が間違っていたようだ。
「安村社長」
神部社長がいきなり立ち上がり、床に手をついて頭を下げる。神部社長以外の全員がぎょっとして言葉を失う。
「お願いです。佐藤を解雇し、御社に有利な条件をお約束するので、どうか取引だけはなんとか考え直していただけませんか?」
神部社長の発言に、佐藤は声を荒げる。
「おじいさん何を言ってるんだよ。ま、ママに言いつけてやるからな」
俺の隣で山根が吹き出しそうになっていた。気持ちは大いにわかる。佐藤が母親を「ママ」と呼んでいる事実に驚いたのだろう。
「黙れ。姉さんの頼みで仕方なくずっと面倒を見てきたが、お前は教えても教えても常識がないままだ。これ以上は面倒見きれない」
神部社長は佐藤に一括すると、再び俺に顔を向ける。俺に取引をやめると言われた上、話が確かなら佐藤のせいでもう一社取引相手をなくしそうになっているのだ。神部社長も必死なのだろう。
「私や佐藤部長がどれほど落ちぶれても仕方がありません。私が彼を身内だからと甘やかした結果です。ですがお願いです。社員たちの生活を守るため、どうか、どうか…」
さっきまで俺は神部社長も佐藤同様、自分のことしか考えていないのだと思っていた。社員の生活を守るため、か。俺はやれやれと首を振る。
「分かりました。御社の社員はともかく、御社の資材はうちにとって魅力的な品には変わりません。佐藤部長の解雇、そして条件次第で考え直してもいいでしょう」
俺の発言に、佐藤は声を震わせて大声を出す。
「そ、そんな嘘だ。首嫌だ!」
神部社長が立ち上がり、無理やり佐藤の頭を下げさせる。
「そもそも別件での失敗の時に私は警告したはずだ。次に何か問題を起こしたら容赦なく解雇するとな」
まさか神部社長も、また佐藤が新しい問題を起こすとは夢にも思わなかっただろう。
「神部社長が甘やかしたのもあるかもしれませんが、あなたもあなたで成長しようと努力しなかった。その結果が今こうして帰ってきたのでしょう」
「そ、そんな…申し訳ございません。知らなかったなら仕方ないじゃないですか。許してくださいよ」
佐藤は自分の首が危うくなると、手のひらを返して謝罪の言葉を並べ立てる。俺も山根も呆れたように顔を見合わせ、神部社長から大きなため息が漏れた。
後日、神部社長は約束通り佐藤を会社から追い出した。俺との取引や直前にトラブルになった取引先で出た損害を佐藤に請求したそうだ。余談だが、佐藤の母親が会社に乗り込んできて騒ぎになり、警察を呼ぶ事態になったらしい。親子揃ってとんでもない人物だ。佐藤が首となり、そして我が社に相当有利な条件をけじめとして神部社長が提案してきたことで、俺は取引の判子を押した。本来なら継続して取引を続けたいところだったが、やはり身内への甘さからトラブルが続いた。神部社長とは長い付き合いはできそうにない。自分の気持ちを話すと、神部社長は「当然のご決断です」と納得していた。山根は自分が離席していなければ、と後悔していたが、「君は何も悪くない」と励まして、最近やっと元気を取り戻しつつある。俺も、もしまた親類縁者を入社させて欲しいと頼まれるかもしれないが、しっかり能力や人間性を見定め、そして安易に受け入れないよう、今から気持ちを引き締めておこう。



