会長室の空気が凍りつく中、俺は決算資料を置いて結論を述べた。ウチの会社が進めようとしている買収案件には重大な問題がある。数字の裏に隠れた不正な取引、そして関連会社の社長が個人的な感情で動かしている証拠。部長はうつむき、社長は重い沈黙を保った。
しかし、次の瞬間、部長が突然土下座した。娘が難病で、手術費用が6億円必要だという。焦って会社の金に手を出しかけた。買収案件の不正も、その焦りから見逃したものだった。社長は怒りをあらわにしたが、その場は会長が静かに口を挟んだ。会社の社会貢献基金を使う提案だ。会長個人の財団からも半額を寄付すると言う。
社長の顔が歪んだ。「母さんが社会貢献?本気で言ってるのか?自分の息子の恋人だった女性は見捨てたくせに」
長年の確執が一気に爆発した。社長の恋人だったみな子という女性。会長が身分の違いを理由に結婚を反対し、彼女を追い詰めた。社長は今もその傷を引きずっていた。会長は目を伏せ、「みな子さんのことは本当にすまなかった」と震える声で謝ったが、社長の怒りは収まらない。
しかし、そこで千さんが前に出た。「お父様、おばあ様を責めないでください。おばあ様はみな子さんのことを誰よりも救おうとしていたんです」千さんは語り始めた。会長がみな子さんに結婚を反対し、家に圧力をかけていた頃。みな子さんは自分の病気を告白していた。余命わずかだと。彼には言わないでほしい、彼の将来のために関係を絶つ覚悟だと。そして両親への圧力を止めてほしいと懇願した。
会長はその純粋さに胸を打たれ、治療費を全額負担すると約束した。「生きていてほしいの。あなたには必ず生きていてほしい」しかし病は悪化し、みな子さんは最期の日を迎えた。会長は最後に社長に会わせようとしたが、みな子さんは首を振った。「私の姿を見たら、あの人は一生立ち直れなくなります。私から身を引いたと思っていてくれた方がいい」そう言って息を引き取った。
千さんは続けた。会長はその日から毎朝、みな子さんの遺影に手を合わせている。病の研究をしている大学に匿名で寄付を続け、個人財団で患者の支援も密かに行ってきた。だが、6億円の手術費用は個人の財団だけでは賄えない。だから会社の基金が必要だった。しかし社長に頼む勇気が出ず、今日までずっと悩んでいた。
社長は呆然と会長を見つめた。「母さん…その話は本当か?」会長は静かにうなずいた。「みな子さんの命も、あなたから奪った時間も取り戻せない。でも、二度と同じ過ちを繰り返したくない。大切な人を失う悲しみを、もう誰にも味わわせたくない」その言葉に社長は崩れ落ちた。長年の誤解が溶けていくように、子供のように泣きながら謝った。
後日、部長は退職願を差し出したが、社長はそれを押し返した。「やめるのは簡単な道だ。娘を思う気持ちが暴走した結果だ。私にも分かる。人を思う気持ちが強すぎて、正しい判断ができなくなることが」部長は再び土下座し、恩に報いる誓いを立てた。研究開発部に異動し、病院向けの栄養補助食品の開発に携わることになった。
ニーナの手術は無事に成功した。新しい治療法の治験に参加して半年後、退院できるかもしれないと聞いた。抜け落ちていた髪が生え揃い、健康的な血色が戻った。俺は思わずニーナを抱きしめた。
ある日、本社ビルのエレベーターで会長に会った。「ニーナさんの件でお礼が言いたかった。み子基金のおかげで妹に新しい人生が開けました」会長は微笑んだ。「あなたに託して本当に良かった。戦も最近、生き生きしているわ。私の大事な孫のことも、あなたに託せば大丈夫でしょう」その背後から社長が現れた。「田辺君を星見に送り込んだのは母さんの計らいだ。これからもその力を存分に発揮してほしい」
オフィスに戻ると、千さんが昼休憩で一人残っていた。「よかったら、一緒に裏の公園でお弁当を食べませんか?桜が綺麗ですよ」二人で公園へ向かい、桜の木の下のベンチに座った。千さんがぽつりと「ニーナさん、退院決まったそうですね」と言い、俺が感謝を伝えると、千さんはまっすぐ俺を見つめた。「私、あなたの誠実さにずっと心を打たれていました。道端で倒れたおばあさんを助けたあなたの姿を見て、私も変われました。だから…これからもそばにいさせてください」
俺は胸を高鳴らせながら答えた。「俺こそ戦さんに救われました。このままあなたのそばで一緒に歩いていきたい。千さん、俺と結婚を前提に付き合ってください」千さんが飛び込むように抱きついた。「はい、もちろんです」その声は涙で震えていた。「じゃあ、ニーナに報告しに行きましょう」俺と千さんは手を取り合い、会社へと歩き出した。桜吹雪が待っているように舞い落ちる中で。
人を助けたことで左遷された。今思えば、その選択は間違っていなかった。誰かが倒れていれば手を差し伸べ、不正を見つければ正そうとする。そんな当たり前の誠実さが、時には面倒くさがられることもある。でも決して無駄にはならない。目の前の人の痛みに寄り添おうとすれば、必ず理解し合える道は開ける。それを俺は確信している。



