「お前、今なんて言った?」
牧田部長が声を張り上げ、新入社員たちがびくっと縮こまる。その光景はいつものことだった。彼は権力を盾に、気に入らない人間を徹底的に追い詰める。そして今日も、新入社員の一人が標的になっていた。
「いいか?お前らみたいな奴らは、俺が一言言えばクビにできるんだぞ。分かったら黙って従え」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが音を立てて切れた。気づけば、俺は静かに手を挙げていた。
「なんだ?」
「部長、私、辞めさせていただきます」
沈黙が部屋を支配した。新入社員たちが息を呑む。牧田部長は一瞬固まったが、すぐに顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ふざけるな!お前みたいな中卒が、どこに行くっていうんだ!」
「では、お言葉に甘えて。短い間でしたが、お世話になりました」
俺はにっこり笑ってそう言うと、荷物をまとめてその場を後にした。怒鳴り声が背後で響いていたが、もう何も聞こえなかった。
一時間後、俺はスーツ姿のまま、かつての職場である小さな工場を訪れていた。昼休憩で外に出てきた先輩たちが、目を丸くして俺を見る。
「え、誠?今日は入社式じゃなかったのか?」
「それが…」
俺が苦笑いを浮かべると、先輩たちの後ろから馴染みのある顔が覗いた。親方だ。相変わらずの厳つい顔で俺を睨む。
「…何があった」
俺はすべてを話した。すると先輩たちは、俺以上に怒り出した。
「はぁ?今時学歴差別かよ!俺がその部長ってやつを締めてやる!」
「まあまあ、落ち着いてください」
先輩たちを必死になだめながらも、俺の目頭は熱くなっていた。やっぱりこの場所がいい。この人たちと、また働きたい。
「親方…俺、よそになんて行きたくない。ここでみんなと働きたいんです」
小さく震える声でそう訴えると、親方はしばらく無言で俺を見つめていた。だが、やがてゆっくりと近づき、そのまま俺を強く抱きしめた。
「戻ってこい。いや、戻ってきてくれ。お前をあんな風に追い出しておいて、こんなことを言える義理はないって分かってる。でも、俺はお前をそういう目に合わせたくて手放したわけじゃないんだ」
その不器用な言葉に、俺はとうとう涙をこぼした。親方に抱きついて泣く俺を、先輩たちもそっと抱きしめてくれる。
「また一緒に頑張ろうな」
「はい…!俺、今まで以上に頑張ります。この工場で、みんなで日本一の金型を作りたいんです」
次の日、復帰早々張り切って働いていると、工場に見覚えのあるスーツ姿の男たちが現れた。あの会社の社長と、牧田部長だ。俺は急いで親方を呼びに行き、事務所で話し合うことになった。
「竹部さん、この度は弊社の社員が本当に失礼な態度を取りまして、申し訳ありませんでした」
道神社長が頭を下げる。隣では牧田部長も気まずそうに頭を下げていた。
「申し訳ありませんでした…あなたがまさか3Dプリンターを用いた金型製作の第一人者だとは存じ上げず…」
そう、俺は10代の頃からCADを独学で学び、その知識を3Dプリンターでの金型製作に応用してきた。業界ではそれなりに名が知られているが、現場を知らない人間には顔が分からないこともある。
「なあ、道神社長」
それまで黙っていた親方が口を開いた。
「あんたがどうしても誠が欲しいって言うから、俺は誠を手放す決心をしたんだ。こいつの腕と知識があれば、あんたのところみたいな大手でも通用すると思ったからだ。それなのに…」
「岡野社長のおっしゃる通りです。竹部さんには中途採用試験まで受けていただいたのに、その努力を台無しにしてしまったこと、本当に申し訳なく思っています」
実は、親方が突然俺を首にしたのには理由があった。俺にもっと恵まれた環境で活躍してほしいという思いから、わざと自分が悪者になって俺を送り出そうとしたのだ。そのことを知ったのは、先輩たちが後からこっそり教えてくれたからだ。
「わ、私としましては…竹部さんがただの中卒の中途採用だと思っていたもので…」
牧田部長が言い訳を始めるが、その言葉は途中で悲鳴に変わった。親方の睨みと、事務所のガラスの外から先輩たちが放つ視線。この工場の連中に睨まれれば、大抵の人間は蛇に睨まれたカエルのようになる。
「おい、お前ら呼んでないだろう」
親方が窘めるが、先輩たちはスマートフォンを掲げて引かなかった。
「この部長のやったこと、SNSでめちゃくちゃ騒がれてますよ。しかも、昨日聞いた話より何倍もひどいこと言われてたそうじゃないですか」
あの場にいた他の新入社員たちが、自分たちが言われたことや名札の画像をSNSに投稿したらしい。内容があまりに酷いと、あっという間に拡散されて炎上していた。
「おい、お前らが首を突っ込むな」
「でも、こいつがうちの誠にひどいことをしたのは事実じゃないですか」
道神社長は先輩たちの言葉を静かに受け止めると、深く頭を下げた。
「この件は弊社でも把握しており、牧田を含め、あの場に参加していた新入社員の皆さんの元へも謝罪に回っております。謝罪したからと言って許されることではないことは承知していますが…」
そして、俺をまっすぐ見つめて言った。
「その上で、厚かましいお願いだと承知しております。竹部さん、退職届を取り下げていただけませんか?あの会社にはあなたの知識と腕が必要です」
確かに、大手であれば今よりも大きなことに挑戦できるかもしれない。だが、俺ははっきりと首を振った。
「すみませんが、退職届は撤回しません。そもそも俺がCADを勉強できたのも、親方がパソコンを買ってくれたからです。この工場で学ぶことは、まだまだたくさんあります」
あれは工場で働き始めて数ヶ月した頃。親方が突然、新品のパソコンを買ってきた。「経理に使うから」と言っていたが、親方がパソコンを使っている姿は一度も見たことがなかった。それが誰のための買い物だったか、鈍い俺でもすぐに分かった。
「本当にいいのか?道神さんのところでなら、今よりも多くのことができるようになる。俺はお前の可能性を潰したくないんだ」
「でも、そこには親方も先輩たちもいません」
俺は静かに返した。
「親方、俺はこれからも親方たちのそばにいたいんです。俺にとって働くってことは、何をするかじゃなくて、誰と過ごすかなんですよ。だから、ここがいい。ここでみんなと働きたい」
「…昨日も言ってただろ。俺はここで日本一の金型を作るって」
道神社長は、俺の答えを聞いてふっと笑った。
「竹部さんの意思は硬いようですね。残念ですが、仕方ありません。今後のご活躍を期待しております」
そう言って、道神社長は腰が抜けたままの牧田部長を連れて帰っていった。
その後、牧田部長は役職を解かれて平社員に降格。さらに地方の子会社の倉庫係に左遷されたらしい。道神社長はあれからも何度か工場を訪れ、新規の金型製作を依頼してくれるようになった。それをきっかけに、工場には他のメーカーからも注文が舞い込むようになる。業績は右肩上がりで、人手を増やすために新しい社員も雇うことになった。
こうして、以前よりも賑やかになった工場で、俺は今日も金型作りに励んでいる。この場所で、家族のような彼らと共に日本一の金型を作る。新たな夢を実現するために、俺はこれからも精一杯仕事へ向き合っていく。



