増田は俺の顔を見るなり、受話器を手に取り、工場の打ち合わせを始めた。要件があって呼んだはずの相手を待たせるためだけに、わざと目の前で通話を続けているのが見え見えだった。俺は一つだけ言った。「本社のホームから契約書を出させてください。それを読んだ上で、この取り消しをこのまま進めるかどうか決めてもらえませんか?」増田は判を押す手を止めた。だが、その答えは「必要ない。副業は禁止だから」だった。翌朝…

増田は俺の顔を見るなり、受話器を手に取り、工場の打ち合わせを始めた。要件があって呼んだはずの相手を待たせるためだけに、わざと目の前で通話を続けているのが見え見えだった。俺は一つだけ言った。「本社のホームから契約書を出させてください。それを読んだ上で、この取り消しをこのまま進めるかどうか決めてもらえませんか?」増田は判を押す手を止めた。だが、その答えは「必要ない。副業は禁止だから」だった。翌朝...

増田は俺の顔を見るなり、受話器を手に取り、工場の打ち合わせを始めた。要件があって呼んだはずの相手を待たせるためだけに、わざと目の前で通話を続けているのが見え見えだった。
俺は立ったまま十分近く待たされた。通話が終わると、今度は書類に判を押し始め、顔すら上げようとしない。
俺は一つだけ言った。
「本社のホームから契約書を出させてください。それを読んだ上で、この取り消しをこのまま進めるかどうか決めてもらえませんか?」
俺が見せた写しなら、突き返して終わりにできる。だが本社のホームを通した文書となれば話が違う。一度取り寄せれば、それを読んだという記録が残り、握りつぶすことも、見なかったことにもできなくなる。増田はそこに気づいたのだろう。判を押す手が止まった。
増田は机の何もないところをしばらく見て、それから椅子を後ろへ引いた。
「必要ない。副業は禁止だから。このまま仕事を続けたいなら、副業はやめろ」
「分かりました」
俺はそれだけ言って頭を下げた。増田は俺の返事を素直な服従だと受け取ったようだ。軽く頷き、次の書類に手を伸ばす。俺は静かに退出した。

翌朝、俺は部長室へ入った。十五年の半分を過ごした工場だ。その席を今、自分の手で返す。惜しくないと言えば嘘になる。
「昨日のご返事です」
そう断ってから続けた。
「では、副業やめますね」
月末付けの退職届を増田の机に置いた。増田は一瞬、軽蔑した顔をした。
「待て。副業をやめろと言ったんだ。これはうちをやめるという届けだろ」
「はい。私の本業は、特許を貸して使い方を教えて回ることです。週三日こちらの工場に出ることの方が、私にとっては副業なんです」
増田は言葉に詰まり、俺と退職届を交互に見比べた。何かがおかしいと感じている様子だったが、それが何かまでは突き止めていないようだ。
少しの沈黙の後、増田は小さく息を吐いた。
「よくわからないが、君はどうせ週三日しか出てこない嘱託社員だ。やめると言うなら、それならそれで構わない」
増田は退職届の日付の辺りに目を落とすと、判を押し、自分の名を書き入れた。
「手続きは私から回しておく。もう行っていいぞ」
そう言って決済の箱に入れ、次の書類に手を伸ばした。

俺はその日の午後、自分の会社に戻り、通知一通を認めた。宛先は工場ではない。契約を交わした相手はメーカーであり、その紙を持っているのが本社のホーム部だ。差出人欄には嘱託としての肩書きではなく、会社の名と代表者としての俺の名を書いた。装置を相場の十分の一で貸す代わりの二つの条件。その両方が月末で消える。だから、この額で貸す約束も月末で終わる。そう書いて内容証明でメーカー本社へ送った。
月末までまだ時間がある。その間に契約書を読む者が一人でも出れば、メーカー本社側から何らかの連絡は来るだろう。

月末までの数日で、本社のホームから電話が一度だけあった。内容証明の条項通りに使用料が執行されるなら、現場では今何がどう変わっているのかと聞いてくる。俺は装置の取り付けを担う者がいなくなること。席を置く嘱託もいなくなること。その二つの事実を伝えた。
「嘱託長の判断で決まった話でしたら、まず工場の方へ事実を確かめます」
それきり本社からは何も言ってこない。おそらくホームは増田に確認を入れたのだろう。そして増田は、担当を変えるだけのよくある人員調整だとでも答えたに違いない。所属長がそう言うなら、ホームが首を突っ込む話ではない。そう判断されて、それきりになったのだと思う。

月末が来て、社外業務の許可取り消しと俺の退職の双方の効力が同じ日に生じた。最後の日、荷物と言っても工具袋一つだったが、それを担いで工場の門を出た。十五年通った道だ。現場の何人かが見送ろうかと声をかけてくれたが、俺は手を振ってそれを断った。大げさにされるのが好きではないからだ。
これで来月から週の三日が空いた。俺はある仕事を受けることにした。装置を収めた工場にはよそのメーカーのプレス機も並んでいるのだが、点検で回るたび、並んでいる他社製のプレス機にも同じものをつけられないかと聞かれ、余裕がなくその度に断ってきたのだ。断ってきた先へ順に電話を入れると、二日で来年の春までの日程が埋まった。
装置は機械に外から足す部品ではない。軸の太さも、掴む場所の周りの空きも一台ずつ違うから、現物を測り、その機械に合う部品を作らせ、取り付けて調整するまでに一か月はかかる。
最初の取り付け先は、隣の県にある農業機械の部品工場だった。クメノが腕を失ったのも、同じ農業機械の下受けだった。巡り合わせかと思いながら、俺は工具袋を担いだ。

機械の内側に体を入れ、軸の太さと掴む場所の周りの空きを測っている間、電話は上着ごと休憩所に置いてある。夕方に見ると、着信が十一件並んでいた。どれも辞めた工場の製造部の番号だ。留守番電話には増田の声が残っていた。
「社外業務の許可はこちらで出し直せる。月曜から工場へ来てもらいたい」
増田はまだ、俺が副業を禁じられたことに腹を立ててやめたとしか考えていないようだった。許可さえ元に戻せば、何事もなかったように出社してくると思っているのだろう。
現場の何人かは、装置の取り付けが俺個人の特許によるもので、若手に簡単に覚えさせられる仕事ではないと以前から気づいていたはずだ。だが、契約書を示した俺自身が一瞥もされなかったのだ。進言したところで無駄だったに違いない。俺は無視を決め込んだ。

すると三日目に残っていた増田の声は調子が変わっていた。
「話が違うだろう。特許のことをなぜ話さなかった?」
ホームや周りから話を聞いたのだろう。声に焦りがあった。しかし、自分の思い込みで押し切ったことを棚に上げるつもりなのか。増田はそう言うが、俺は何度も説明しようとした話だ。

退職から十日を過ぎて、会社の電話が鳴った。工場長の早坂だった。
「手塚さん、やめられていたんですか?」
第一声からして早坂の声には戸惑いがあった。本社の監査対応で十日ほど工場を開けており、戻ったのが昨日だったのだという。機械の組み立てが半月始めから止まっていると、早坂は続けた。
「取り付けの担当を変えるので調整中だと、出張前に製造部長から聞いていました。変だとは思いましたが、当時は口を挟める立場になく、納得するしかありませんでした。ですが、まさか手塚さんご自身がやめていたとは、今の今まで思いもしませんでしたよ」
先週あたりから納入先の担当者が早坂に直接、工期の遅れを問い合わせてくるようになったのだという。工場に戻った早坂は、工期の遅れの原因が特許部品の取り付けができないことに起因していると知り、俺を呼び出そうとしたところ、退職を知ったそうだ。
「それで今朝、書類の綴りを確認して初めて事情が分かったんです。ですが、社外業務の許可を取り消した通知も手塚さんの退職届も、私は一枚も見ていません。本来なら工場長である私を通すべき書類なのに」
つまり、全ては増田の独断専行ということになる。
「契約書は読みました。装置の取り付けは手塚さんがやるとはっきり書いてあります。とはいえ、これ以上は止めておけません。手塚さんが戻れないなら、誰かが取り付けるしかない」
「そこが違います」
俺は言った。
「いえ、特許部品なので、私しか取り付けることができません」
しばらく間があって、早坂が聞いた。
「では、よそのメーカーの出来合いの品に変えることはできませんか?」
「できません」
と答えた。安全装置を別のものに変えれば、形式そのものが変わり、その機械は国の検査の上で別の機械になる。構造変更届から出し直すことになり、かかるのは年の単位だ。外付け品ならいくらでもあるが、機械本体に収まる出来合いの品はない。
「では、手塚さんに戻ってきていただくわけには」
早坂はそう切り出した。
それができれば話は早いだろう。だが俺はもう社員ではなく、戻るという選択肢自体がもうない。そう答えると、早坂はしばらく黙り込んだ。今度は工場に残っている機械の話ではなく、すでに全国へ渡った機械の方を口にした。
「点検や修理は、これまで通り手塚さんの会社にお願いすることになると思います。ただ、こんな形でうちを離れることになった手塚さんが、これまでと変わらず応じ続けてくださるものかどうか。そこだけが気がかりです」
俺は納めた機械の面倒を放り出すつもりはないと答えた。その上で、今すぐ困っているところがあるかと尋ねた。すると、交換の部品を求める問い合わせが昨日から三件入っているのだという。俺はすぐに連絡を取ると伝えた。
「では、私は今の話を本社へ上げます。私の名前で」
早坂はそう言って電話を切った。

俺がホームに伝えた話は、契約書の解釈を巡る、いわば手続き上の問い合わせに過ぎなかった。所属長の判断に委ねられる話だと言われば、それ以上は誰も動かせない。だが早坂が上げるのはそれとは違う。機械が組み立てられないまま止まっている。納入先からの問い合わせも来ている。これは製造の現場を預かる工場長が自分の名前で報告する、生産上の障害だ。解釈の余地がある契約の話とは重みが違う。本社としてもこれを黙って見過ごすわけにはいかないはずだ。

翌月に入ったばかりの午後、俺の会社に早坂と増田、それに加えて初めて見る男が訪れる。男は名刺を差し出しながら名乗った。
「本社で取り締まり役を務めております、神谷と申します」
奥の応接に三人を通した。神谷はまず深く頭を下げた。
「このたびはこちらの不手際でご迷惑をおかけしています」
早坂も一緒に頭を下げるが、増田だけはしぶしぶといった様子だ。
神谷は頭を上げると要件を切り出した。
「どうか以前と同じ条件で契約を結び直せないでしょうか?」
「いえ、それは無理です。あの額は相場の十分の一で、取り付けを私自身がやることと引き換えでした。席を置くこともその条件でした。その二つを消したのはそちらです。ですから、同じ額では貸すことはできません」
増田は焦りを隠さずに言った。
「取り消しは撤回します。今日にでも手続きを進めます。以前と同じ形態で働けるようにしますから」
俺はすぐさま反論する。
「撤回するにも、私の雇用はすでに月末で終わっています。席のないものに席を戻す手続きはできません」
「特許のことは誰からも聞いていなかったんだ」
増田は話をすり替えたが、俺はそれにも答えた。
「契約書の写しをお見せしようとしましたし、説明もしようとしました。あの装置の脇には特許の番号と権利者の名が刻んであります。製造部長としてあの機械の前を幾度も通られたはずです。知ろうと思えばいつでも知ることができました。私は何も隠していません」
増田は何か言おうと顔を上げたが、喉の奥から掠れた音が漏れただけだった。
神谷が静かに口を開いた。
「では、以前と同じ条件でなくとも構いません。なんとかまた戻ってきていただくわけには」
その言葉に俺は首を横に振った。手はもう空いていないと続けた。全国からの取り付け依頼で来年の春まで日程は埋まり、週の半分をこの工場に割く余裕はない。ただし、すでに出荷された機械の面倒はこちらで見ると言った。使うのは会社ではなく、現場に立つ人間だからだ。部品を外したまま使わせるつもりはなく、修理の依頼にはこれまで通り応じる。
神谷は椅子から立ち、礼を述べた。早坂も一礼して続く。増田は何かを言おうとして口を開きかけ、結局何も言わず部屋を後にする。
三人が乗ってきた車が走り去るのを、俺は事務所の前で見送った。

早坂から電話があったのは、それから一か月ほどのことだった。増田は製造部長の任を解かれ、本社の管理部門へ移動になったという。すでに出荷した機械については、正式に俺の会社が定期的に点検する契約を結んだ。加えて、全国からの修理や点検の依頼で翌年まで日程は埋まっている。
帰り道、クメノの店に寄った。クメノはいつものように片手でコーヒーを入れてくれる。多くを語り合うわけではない。月に一度この店に顔を出すことは変わらない。ただ、何のためにこの仕事を始めたのか、クメノの顔を見るたびに俺は思い出すのだった。

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