主人が言うのよ。お前の体は未開発だって。
未開発?練習だとか未開発だとか、一体何の話をしているのか思考が追いつかない。
高校の時に付き合い始めたから、私、主人しか知らないの。
はあ。
俺の名前は竹下浩司。フリーランスでグラフィックデザインの仕事をしている。
在宅でできる仕事は俺にとって本当にありがたい。
というのも、俺は小さい頃から人の中にいると、なぜかひどく息苦しさを感じるタイプなのだ。
遊園地やお祭りのような賑やかな場所では、胸の奥がキュッと締めつけられるような感覚があって、ただ黙って立っているだけで全身が疲れきってしまう。
どうやら俺は普通の人よりも周囲の空気に敏感らしい。
学生時代は気合の入った友達もできて、それなりに楽しくやっていたが、どちらかといえば聞き役に回ることが多かった。
仲間たちの話を聞くのは嫌いじゃないけれど、会話の中で自分が話すべきタイミングや言葉選びが分からず、気づけばいつも端っこに追いやられている感じだった。
コミュ力が足りないと自分でも分かっているけど、それを無理に埋めようとも思わなかった。
それが俺の性格。つまりマイペースな生き方なんだと、無理やり納得しようとしていたんだと思う。
社会人になってもその行きづらさは変わらなかった。
当時はまだ在宅で仕事をするなんて選択肢はなく、当たり前のようにあるIT企業に就職した俺だったが、人が集まる会議室、飲み会、そして毎朝の通勤ラッシュ。全てが俺にとってまるで戦場のようで苦痛でしかなかった。
このままじゃどうにかなっちまうと焦った俺は、思い切って会社をやめ、今の仕事に就いた。
勇気は必要だったが、自分を守るためにはこの道しかなかったのだ。
経済的な不安もあったが、半年ほどで仕事は軌道に乗り、なんとか食べていけるようになったのはラッキーだったと思う。
最近は生活に余裕も出てきて、ちょっと贅沢な外食や気晴らしの旅行なんかもできるようになった。
で、今。これ結構矛盾してるとは思うんだけど、異性との出会いがないことがここ最近の悩みだったりする。
人付き合いが苦手とはいえ、異性との触れ合いは恋しいわけで、30代も半ばを過ぎ、このまま1人寂しく年を取っていくのだろうかと漠然とした不安に襲われることもある。
そんな時、突如として俺の前に現れた女性。それが山室さんだった。
ある日曜日のことだった。5月とは思えないような暑さで、朝から空は青一色。眩しい日差しが地面から跳ね返り、視界が白く覆われる。
昼食を買いにコンビニでも行こうと外に出た俺は思わず目を細めた。
冷房の効いたコンビニで、うだるような暑さの中をフラフラと歩き回り、色々と迷った挙句、結局いつものお茶とおにぎり、激辛のカップラーメンを買って家に着いた。
額に滲む汗を拭いながらマンションの2階の部屋まで歩いていると、ふと見るとうちの前に見覚えのないダンボール箱が置かれている。
あれ?何か頼んでたっけ?
ネットショッピングの履歴を脳内でなぞってみるが、思い当たるものはない。
友人や家族が送ってくる時には事前に何か連絡があるはずだし。
そういえばちょっと前に頼んでた洋服が入荷待ちだったな。在庫が復活したら自動的に注文されるとか。
え、そんなことある?まあいっか。開ければ分かるわ。
軽く混乱しながらダンボール箱を抱え、家に入り、早速開封。
その中身を見て俺はさらに混乱した。
え、何これ?
俺は必死で記憶をたぐり寄せた。酔った勢いで無意識のうちにポチってしまったのか?いや、記憶が飛ぶほど飲んだ覚えはない。
誰かのいたずら?いや、まさかそんなわけないだろ。
汗が背中を伝い、俺は改めて箱に貼ってある配送伝票を確認した。
そこに記載されていたのは――やべえ、これ、隣の人の荷物じゃん。
宛名の欄にはっきりと、隣人である山室さんの名前が書いてある。
うわあ。なんで確認しなかったんだ?開けちゃったじゃん。
頭を抱えながら自分の行動を悔むも後の祭り。目の前には無残にもビリビリと開けられたガムテープの残骸と、乱雑に剥がされたダンボールの蓋が広がっている。
さらに問題は、見てしまったそのダンボールの中身である。
これっていわゆる大人のおもちゃってやつだよな。
明らかにいかがわしいパッケージに記載された説明文を読んで、思わず顔が赤くなってしまった。
心臓がドクドクと音を立てながら激しく鼓動を打つ。心なしか手が震えている。
自分の手に戸惑いつつ、とりあえず開いたままの蓋をそっと閉める俺。
落ち着け。とりあえずこのまま持ってるわけにはいかないよな。間違えて開けてしまったことを謝って、この荷物を返さなきゃならない。
お隣の山室さんは、引っ越しの挨拶にご夫婦で来てくれて以来、廊下で顔を合わせれば軽く世間話をする程度の関係だ。
俺は山室さんの奥さんの顔を思い浮かべ、また難渋した。
あんな清楚で上品そうな奥さんがこれを……といつも穏やかに微笑んでいて、極度の人見知りで挙動不審の俺にも優しく話しかけてくれる素敵な女性だった。
このおかげで俺の緊張も緩み、話しやすい人だったんだけど。
このまま綺麗に箱を閉じ直して、何事もなかったかのようにそっと隣室の玄関に置いておくことも考えたが、遺憾ながら乱雑に開けてしまったダンボールはどう上がいても元通りになんてできない。
俺は途方に暮れたまま、しばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。
よし。しばらくして俺は覚悟を決めて、開いたままのダンボールを抱えた。
やっぱり正直に言って謝るしかない。覚悟を決めた俺は隣室のインターホンを鳴らす。
「はい」
山室さんの明るい声が聞こえ、心臓がさらに大きな音を立てた。
「あら、竹下さん、どうしたの?」
山室さんはいつものように穏やかな表情で首をかしげた。
「あの、これ、すみません。うちの前に置いてあったんで、てっきり自分のとこに届いた荷物だと思って開けちゃって。中身を見てしまっていや、そんなじっくりは見てないんですよ。何かなと思ってちらっと見ただけですぐにうちの荷物じゃないって気づいたので、中身が何かはよくわからないんですけど。とりあえず山室さんのお荷物だってことで持ってきました。すみません」
昔から焦ると早口で喋りすぎる癖がある俺だが、ここばかりはその悪癖を発揮してしまう。
山室さんは最初は驚いたように目を見開いていたが、半開きだったダンボールの中身を覗いた途端、かーっと顔を赤くした。
「し、して……あ」
吐息のように小さく声を上げた後、奪い取るようにして俺の手にあったダンボールを手に取った。
「あ、ありがとう。とりあえず中、入って」
「はい」
今考えればなぜ中に入ってなのか謎でしかないが、山室さんも俺も完全にテンパってたのだと思う。
俺はそのまま山室さんの部屋に入り、促されるままにリビングのソファーに座った。
山室さんはキッチンでコーヒーを入れながら、「ごめんなさいね。びっくりしたわよね」と俺の方をちらっと見た。
「いええ。こちらこそ、確認もせず開けちゃって。しかも中身があんなもので」
山室さんはさらに顔を赤くしながらコーヒーを差し出してくれた。
「あ、あ、あんなものっていうか、それはよく見てないんですって。何なのか分かってないので、恥ずかしがらなくて大丈夫です」
自分でもよくわかってる。こんなこと言っても何のフォローにもなってないし、逆に分かってるってことを自白してるようなものだってこと。
山室さんは大きくため息をついた後、何もかも諦めたような顔で話し始めた。
「練習しなきゃって思って買ったの」
「練習?」
山室さんは思い詰めた表情で話し続ける。
「主人が言うのよ。お前の体は未開発だって。未開発?練習だとか未開発だとか、一体何の話をしてるのか思考が追いつかない。高校の時に付き合い始めたから、私、主人しか知らないの」
「はあ」
俺は痛む頭を必死に働かせる。つまり山室さんはご主人としか経験がないってことを言いたいのか。
いや、そんなこと、単なる隣人である俺に明かすものか。
だけど山室さんは深刻な顔で話し続けていた。
ご主人は山室さんの反応に不満があるようで、ぐちぐちと文句を言い、しまいには堂々と浮気までし始めたという。
「私が主人を満足させられないから当然よね。反応が鈍いって怒られるのよ。どうしてもいけなくって、どうしていいかわからないの。他の男の人で練習するわけにもいかないし。じゃあ、こういうグッズで自分を開発してみようと思って」
「な、なるほど」
山室さんが思い切って打ち明けてくれてるのに、こんな返答しかできない俺が非常に情けないが、一体なんて返すのが正解なのかわからない。
ただ荷物を返しに来ただけなのに、こんな展開になるのも想定外だ。
「でも、こんなもので練習になるのかな?買ったのはいいけど、どうやって使うのかわかんないや」
山室さんはぼんやりとダンボールを開けて、取り出したおもちゃを疑わしそうな目で眺めながら呟いた。
その横顔がどうにも色っぽくて、俺は思わず目を背けた。
清楚で上品な人妻の山室さんが、俺の目の前でおもちゃを持っている。
その事実が俺の一部を熱くしていた。
「今さ、女性専用のそういうところあるわよね。行ってみようかな」
ぼんやりと遠い目をした、ため混じりに行ったそのセリフに、俺はつい口を滑らせてしまった。
「そんなことする必要ないですよ。こんなところに行って、どこの誰だか分からない相手とするなら、俺と」
「え」
山室さんが驚いた表情で俺を見つめる。
「いや、じ、冗談です。すみません」
勢いでなんてことを言ってしまったのか。猛烈に自分が恥ずかしくなってしまった。
「いいの?」
山室さんは潤んだ目で俺を見つめてくる。
「い、いいの?って、それってどういう」
慌てふためく俺に、山室さんの顔がどんどん近づいてくる。
「ちょ、ちょっとま、」
静止する俺の手をかわし、山室さんはそっと俺にキスをした。
「山室さん」
こんな状況で自分を抑えられる男がいるのなら、会ってみたいものだ。
気がつけば俺は山室さんを強く抱きしめていた。
「俺に任せてください」
自分でもよくわからないが、何が何でも山室さんをどうにかしてあげたい。そう思っていた。
別にテクニックに自信があるとか、経験が豊富とか、そんなことは全くなくて、むしろ逆なのだが、謎の使命感がふつふつと湧いてきて、俺は無我夢中で山室さんに尽くした。
「すごい……」
山室さんはうっとりと頬を上気させた。
そしてしばらく抱き合っていると、山室さんの汗ばんだ体からすっと力が抜けた。
「こんなの初めて」
山室さんは肩で息をしながら俺の首に手を回し、のけぞったまま呟いた。
「こんな山室さんが、反応が鈍いって言われるんですか?意味が分かりませんよ」
目を細め、余韻に浸るように静かに横たわる山室さんに声をかけると、
「竹下さん、すごい。主人と全然違うんだもん。びっくりしちゃった」
そう言って恥ずかしそうに、また俺の首に手を回してきた。
ぎゅっとしがみつく山室さんが愛しくてたまらなくて、俺はもう一度強く抱きしめた。
「ごめん。もうすぐ主人が帰ってくる時間だから」
山室さんが名残惜しそうにそう言ったのは、その後2度も3度も果てた後だった。
脱ぎ散らかした洋服を拾い集めて袖を通す。本当は一緒に抱き合っていたかったが、そうもいかない。
俺は後ろ髪を引かれる思いで自分の部屋に戻った。
関係を持ってしまった以上、これから俺たちは一体どこに向かっていくのか。
超えてはいけない線を超えてしまった俺は、不安と同時にどこか光明を見出していた。
だって、体の相性が抜群すぎて、そう簡単には離れられない予感がしたからだ。
だけど、その後、山室さんは俺を避けるようになっていた。
マンションの廊下であっても、目も合わさず逃げるように通りすぎていく。
たまらず声をかけても、ぺこりと会釈するだけで何も答えてくれない。
ご主人と一緒に歩いてきた時は、さすがに罪悪感でいっぱいになり、俺の方が目を背けてしまった。
ご主人との関係に悩んでいたとはいえ、俺たちは結ばれちゃいけない関係であるのは確かだ。
あの日のことは忘れるしかないのか。ただ一度の過ちとして、なかったことにするしかないのか。
そう思っていたのだけど――3ヶ月が過ぎた頃、山室さんがうちのインターホンを鳴らした。
「え、山室さん」
驚いた俺は慌てて玄関に向かう。
山室さんは背筋を伸ばし、俺をまっすぐに見つめて言ったのだ。
「離婚したの」
「え?り、離婚?」
俺は山室さんを家に上げ、前に山室さんがしてくれたようにコーヒーを入れた。
聞けば、あの後山室さんは何度かご主人に求められ、体を重ねたそうだが、相変わらずご主人とは楽しむこともできず、文句を言われっぱなしだったそうだ。
「でも分かったの。主人に責められるのは私のせいだって思ってたけど、違うって。だって竹下君とだったら、自分を見失うほど夢中になれたのに」
「山室さん」
「そう思うと、浮気してる旦那が許せなくなって、離婚を考え始めたんだけど。ちょうどその時、旦那の浮気相手が妊娠したって聞かされて」
山室さんはそれで離婚を決意し、旦那さんも承諾したという。
俺たちはやはり、もう離れられない関係になっていた。
触れ合うことができなかったこの3ヶ月間が、逆に俺たちの気持ちをより一層強くした気がする。
俺は山室さんを恋しく思う気持ちを深く実感したし、それは山室さんも同じだったようだ。
「旦那との関係に悩みながらも、どこかでずっと考えてたの。また竹下君とこうしたいって」
そう言って山室さんは俺の胸に顔を埋めた。
そして俺たちはまた体を重ねる。山室さんは初めて触れ合ったあの時と同じように、我を忘れて髪を振り乱していた。
次の日も、そして次の日も。山室さんと俺は毎日のように愛し合い、いろんな話をして距離を縮めていった。
運命の相手って、本当にいるんだな。
俺たちは体の相性はもちろん、趣味や食べ物の好みなどが驚くほど一致していた。
話していても疲れないし、気を使って喋りすぎることもなく、ありのままの自分でいられる。
沈黙さえも心地よく、隣にいるとほっとした。
「私は分かってたわ。初めて会った時から、どこかで会ったことのあるような、懐かしいような、不思議な気持ちがしたの」
山室さんはその時から俺のことをなんとなく気にしていたという。
「でも、あの時荷物が間違って配達されてなかったら、私たち今もまだただの隣人同士だったかもね」
「そうだね」
「俺がすぐに宛名に気づいて、箱を開けることなく持っていってたら、こんなことにはなってないだろうね」
そう。あの時、俺が箱を開け、中身を見てしまったのが始まりだったのだ。
「遠回りしちゃったけど、こうやってあなたと出会えて本当に良かった」
山室さんは女神のような微笑みで俺を見つめた。
こうして気持ちを通じ合わせた俺たちは、半年後には将来を誓い合い、結婚を決めた。
あまりの急展開に俺の親はびっくりしていたし、山室さんに離婚歴があると知った時は渋い顔をして反対していたが、俺たちはもう誰の声も耳に入らなかった。
2人でいたら、どんな困難だって乗り越えていけると信じていたから。
小さな、2人きりであげた結婚式から7年が経つが、俺たちは未だに恋人気分のまま、仲良く過ごしている。
出会えた運命の相手を、俺はこれからも全身全霊で愛し続けるだろう。



