祖父の目には、涙を溜めた孫の姿が涙でぼやけて映った。 「中卒にはこれで十分だって、弁当も渡してもらえなかったんです……」 春彦の言葉を聞いた瞬間、76歳の俺の血が逆流する思いだった。 「東野部長って言うんだな。明日、じいちゃんが乗り込んでやる」 だが翌日、会社に乗り込んだ俺を待っていたのは、部下に弁当を渡さないだけでは済まない、ある大きな不正の存在だった。…

祖父の目には、涙を溜めた孫の姿が涙でぼやけて映った。 「中卒にはこれで十分だって、弁当も渡してもらえなかったんです……」 春彦の言葉を聞いた瞬間、76歳の俺の血が逆流する思いだった。 「東野部長って言うんだな。明日、じいちゃんが乗り込んでやる」 だが翌日、会社に乗り込んだ俺を待っていたのは、部下に弁当を渡さないだけでは済まない、ある大きな不正の存在だった。...

リビングに戻ると、春彦がソファに沈み込むようにして座っていた。肩を落とし、天井を見つめたまま動かない。
「おかえり。今日も仕事は楽しかったか?」
俺がそう声をかけると、春彦は目にいっぱい涙を溜めて、唇を震わせた。
「……総一郎じいちゃん、俺……」
春彦は途切れ途切れに話し始めた。今日の昼、営業部のオフィスで開かれた食事会で、春彦の弁当だけが用意されていなかったという。
「今日から部長になった東野さんが……『中卒にはこれで十分だろ』って言って、俺の分だけ渡してくれなかったんです」
春彦は中卒だ。高校に行かず、独学で植物の勉強をして、この春、ようやく花の卸売会社サウスフラワーに入社した。
「それで十分だ」——その言葉を聞いた瞬間、俺の心の中に怒りが渦巻いた。
俺は北口総一郎、今年で76歳になる普通のじいさんだ。子供の頃から貧しくて、食うにも困るような日々を送ってきた。それでもどんな苦労も無駄だと思ったことは一度もない。
だからこそ分かる。学歴なんかより、人間の価値は中身だと。
「春彦、ちゃんと聞け」
俺はそっと春彦の肩に手を置いた。
「お前が中卒だろうが何だろうが、お前はお前だ。誰に何を言われようと、そんなことではお前の価値は決まらない。じいちゃんはお前のことを一番よく知ってる」
春彦は涙を拭うこともせず、俺の顔を見つめた。
「でも……じいちゃん、俺、悔しくて」
「悔しい思いをしたなら、それをバネにすればいい。お前は強い子だ。誰に何を言われても、お前はお前の道を歩いてきたじゃないか」
春彦は幼い頃から植物が大好きだった。不登校になった時も、ずっと庭の花の世話をしていた。16歳からはアルバイトをしながら独学で植物の勉強を続け、今年、夢だったサウスフラワーに入社した。
そんな孫の姿を、俺は誇りに思っている。
「明日、じいちゃんが会社に行って話をつけてくる」
俺がそう言うと、春彦は驚いた顔をした。
「え? じいちゃん、そんな……無理だよ。相手は部長だし」
「部長だろうが何だろうが、間違ったことをしたら謝るのが当然だ。俺はお前のじいちゃんだ。お前に辛い思いをさせるやつは、許さん」
春彦は黙って下を向いた。それから、小さな声で「……ありがとう、じいちゃん」と呟いた。
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
思い出すのは、春彦が初出社の日にガチガチに緊張して、腹が痛いと言っていた姿だ。俺が渾身の親父ギャグで笑わせてやったら、ようやく「ぷっ」と吹き出してくれた。あの時の春彦の照れくさそうな笑顔を、俺は忘れたことがない。
翌朝、俺は春彦より先に家を出た。
サウスフラワーの本社は、うちから近い。歩いて15分ほどだ。
エントランスに入ると、受付の女性が声をかけてきた。
「ご用件は何でしょうか?」
「営業部の東野部長に用がある。北口総一郎と申します」
受付の女性は少し戸惑いながらも、内線で連絡を取ってくれた。
数分後、一人の男性が応接室に現れた。スーツを着こなした、50代半ばほどの男だ。
「お忙しいところすみません。私が東野です。どのようなご用件でしょうか?」
「春彦の祖父です。昨日、弁当の件で話を聞きました」
俺がそう言うと、東野は一瞬、軽蔑したような笑みを浮かべた。
「ああ、中卒君の……おじいさんでしたか。たいしたことじゃないですよ。あれは単に事務手続きのミスでして」
「ミスだと?」
「ええ。それに、中卒社員にいちいち気を遣うのもどうかと思いましてね」
俺は腹の底で怒りが煮えたぎるのを感じた。
「春彦は中卒かもしれないが、お前さんよりもずっと立派な人間だ」
「はっ、おじいさんの目にはそう映るでしょうね。でも、現実は甘くないんですよ」
東野はそう言って、腕時計をチラリと見た。
「すみませんが、もうすぐ会議があるので。どうしてもというなら、また改めて予約を取ってください」
そう言い残して、東野は応接室を出て行こうとした。
「待ちなさい」
俺は立ち上がり、東野の背中に向かって言った。
「春彦のことは、これで終わりにはしませんぞ」
東野は足を止め、振り返ることなく「ご自由にどうぞ」とだけ言い残して去っていった。
その日の夕方、俺は春彦に全てを話した。
春彦は黙って聞いていたが、最後にぽつりと「やっぱり、だめか……」と呟いた。
「何がだめだ。まだ終わったわけじゃない」
「でも、部長が相手じゃ……」
「春彦、聞け。世の中にはな、お前が思っているよりもずっと多くの悪人がいる。しかし同時に、正義の味方もいるんだ」
俺は立ち上がり、押し入れから古い段ボール箱を取り出した。
そこには、俺が若い頃に集めた書類や写真が入っている。
「俺が昔、花卉市場で働いていた時に知り合った人でな。今はサウスフラワーの役員をやってるやつがいるんだ」
「えっ……じいちゃん、そんな人と知り合いだったの?」
「ああ。まあ、いくつか借りがあるんでな。一度、話をつけてみる」
春彦の目が驚きに見開かれた。
「じいちゃん……ありがとう」
「礼を言うのは早い。結果が出てからにしろ」
俺はそう言って、電話帳を取り出した。
その時、俺の頭の中にはある計画が浮かんでいた。
ただ役員に話をつけるだけでは足りない。
東野という男は、これまでにも同じようなことを繰り返してきたに違いない。
ならば、その証拠を掴む必要がある。
俺は春彦に言った。
「明日、じいちゃんと一緒に会社へ行くぞ」
「え? でも……」
「春彦、お前は何も悪いことをしていない。堂々としていればいいんだ」
翌朝、俺と春彦は一緒にサウスフラワーの本社へ向かった。
エントランスで受付の女性に名乗ると、昨日とは違う態度で応接室へ通された。
「少々お待ちください。役員の方が参ります」
数分後、スーツを着た初老の男性が現れた。
「久しぶりだな、総一郎さん」
「ああ、元気にしてたか、田中さん」
田中さんは、俺が花卉市場で働いていた時に知り合った役員だ。
「今日は、どういうご用件で?」
「うちの孫のことだ」
俺は昨日から今日までの出来事を、全て話した。
田中さんは黙って聞いていたが、話が終わると、深くため息をついた。
「東野部長ね……実は、彼のことで社内でも何件か報告が上がっているんだ。だが、営業成績がいいもので、上も見て見ぬふりをしている状態でね」
「ならば、今日からその状況を変えるんだな」
俺はそう言って、春彦を隣に座らせた。
「この子は中卒だが、植物の知識なら誰にも負けない。独学で勉強して、この春に入社したばかりだ。そんな社員を、学歴だけで侮辱するような人間が部長をやっていいのか?」
田中さんは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「……分かった。私から社長に話を持っていこう。ただし、総一郎さん、あなたに一つだけ協力してもらいたいことがある」
「何だ?」
「東野部長がこれまでにやらかした不正の証拠を掴んでほしい。彼は経費を私的に使っているという噂があるんだ」
俺はニヤリと笑った。
「いいだろう。ちょうど、俺もそういうことなら少々自信があってな」
春彦は隣で、不安そうに俺を見つめていた。
「じいちゃん、大丈夫かな……」
「安心しろ。このじいちゃんを誰だと思っている」
俺は春彦の頭をポンポンと叩いた。
「さて、これからが本番だぞ」

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