今朝、一番小さなイチゴを一粒だけ摘んで、母の遺影の前に置きました。5年前に亡くなった母が最後まで書き続けた栽培日誌が、今も私の鞄の底にあります。昨日、ベルフルール本社の会議室で、新しいバイヤー本部長が言いました。「素の農家の娘に契約の話が分かるんですか?」と。その場にいた大人たちは誰も止めませんでした。でも、私はその時決めました。この日誌に詰まった母の30年を、この一粒にかける祖父の人生を、…

今朝、一番小さなイチゴを一粒だけ摘んで、母の遺影の前に置きました。5年前に亡くなった母が最後まで書き続けた栽培日誌が、今も私の鞄の底にあります。昨日、ベルフルール本社の会議室で、新しいバイヤー本部長が言いました。「素の農家の娘に契約の話が分かるんですか?」と。その場にいた大人たちは誰も止めませんでした。でも、私はその時決めました。この日誌に詰まった母の30年を、この一粒にかける祖父の人生を、...

「素の農家の娘に契約の話が分かるんですか?」

新人バイヤーの長が会議室に冷たく響いた。稲わらの匂いが染みついた作業服で私はそこに立っていた。周りの大人たちは誰一人として彼を止めなかった。いや、止めるどころか、何人かは軽く笑いを漏らしていた。

私は言い返さなかった。こういう場面を私はもう何度も見てきたからだ。このイチゴを誰が育て、なぜ他の誰にも作れないのか。その意味を、目の前の彼はもう知る機会を失っている。全国の店を支えるあの一粒がどこから来るのかも、彼は今この瞬間に理解することを放棄した。

鞄の底には、亡き母が残した一冊の栽培日誌がある。明日の朝、この巨大な会社は思い知ることになる。25歳の私と、79歳の頑固な祖父が、この会議室を静かに凍りつかせた日の記録だ。

朝の4時、まだ辺りが暗いうちに私は起きる。綾瀬イチゴ農園の一日はいつも誰よりも早く始まった。ビニールハウスの扉を開けると、甘い香りがふわりと立ち込める。祖父が二十年近い歳月をかけて育て上げた品種。あの一粒を口に含むと、蜜のような甘さの奥から夕焼けを思わせる香りが広がった。

「実り、今日の色はどうだ?」

軍手をはめた祖父が腰を曲げて畝の間を歩いてくる。79歳とは思えない穏やかで、それでいて鋭い目だった。

「この列には食べ頃だと思います」

「よく見てる。お前は本当にみさに似てきたなあ」

みさきというのは、5年前に病で亡くなった私の母だ。祖父と母は三十年近い歳月をかけてこのイチゴを作り上げた。甘さと香りを両立させるために、何百回も交配を繰り返したのだという。そうして生まれた「赤のしずく」は国に品種登録され、栽培する権利を持つのは綾瀬農園ただ一件だけになった。母が名付けたこの名前は、夕暮れの畑を真っ赤に染める光の色から取られている。

今ではこのイチゴは、全国に店を構えるスイーツ専門店「ベルフルール」の看板メニュー「赤のしずくのイチゴパフェ」に使われていた。どこの店でも一番人気の品だと聞いている。

「うちのイチゴは数では大手の農家に叶わん」

祖父はいつもそう言って静かに笑った。

「だが味と香りだけは世界のどこにも負けん。それでいいんだ」

派手さはない。それでもこの畑に流れる空気が、私は何より好きだった。だが、その穏やかな日々が一本の電話をきっかけに崩れ始めることを、この時の私はまだ知らなかった。

電話は収穫を終えた昼下がりにかかってきた。

「綾瀬さんのご家族の方ですか?」

慌ただしい声に、私の胸がざわついた。父が畑の隅で倒れ、そのまま救急車で運ばれたのだという。病院に駆けつけると、父はストレッチャーの上で青白い顔をしていた。過労と極度の疲れが重なった急性の異変だった。

「命に別状はありませんが、しばらくは絶対安静です」

医師の言葉に、私はその場に座り込みそうになった。父は一人で栽培から出荷、取引先との交渉まで背負い込んでいた。母が亡くなってからの5年間、その背中はいつも張り詰めていたのだ。

「実り、すまん」

点滴に繋がれた父がかれた声で言った。

「実は明日、ベルフルールとの契約更新の面談があるんだ。相手は多忙で、一度はこちらの都合で日程を変えてもらっている。これ以上伸ばすわけにはいかない」

私が代理で行く。気づけばそう口にしていた。

「前年度と同じ条件での更新でしょ。私にもできるはずよ」

父は迷う表情を見せたが、やがて小さく頷いた。

「担当の小暮さんは義理堅くていい人だ。きっと大丈夫だ」

その夜、私は仏壇の前に座り、母の遺影に手を合わせた。そして引き出しから母が残した一冊の栽培日誌を取り出した。表紙は擦り切れ、ページの端は折れている。母が最後まで書き続けた、このイチゴへの想いが詰まった日誌だった。

翌朝、私はスーツではなく、いつもの作業服でベルフルール本社へ向かった。あえてそうした。このイチゴを育てているのは、スーツではないのだから。

会議室に通されると、そこには見慣れない男がいた。若い。30歳そこそこに見える。名刺には「バイヤー本部長 西條」とある。小暮さんは席にいなかった。

「担当が変わりました」

西條は軽く頭を下げたが、その目は笑っていなかった。

「前任の小暮は別部署に異動になりまして。今はこのエリアの農家全部、僕が見てるんです」

彼はどっかりと椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。

「で、そちらは綾瀬農園の方ですね? ええと……娘さんでしたっけ」

「はい。実りの父の代理で参りました。父が入院しまして」

ああ、と西條は興味なさそうに相槌を打った。

「それで、契約更新の件なんですけど」

彼は資料を一枚、机の上に滑らせた。そこには前年度より大幅に下がった買取価格が記されていた。

「今、ウチも経営がシビアでしてね。仕入れ価格、もう少し下げてもらえません?」

「この価格では、うちのイチゴを作り続けることはできません」

私はできるだけ冷静に言った。

「人件費も資材費も上がっています。この価格じゃ赤字です」

西條はため息をついた。

「いや、それはお互い様でしょ。俺たちも安い仕入れで何とかやってるんですから」

「うちのイチゴは、ベルフルールの看板メニューです」

「知ってますよ。でも、それはもう過去の話になりつつあるんですよね」

西條はスマートフォンを弄りながら言った。

「実は、新しい農業法人と提携の話が進んでて。そっちの方が安くて大量に安定供給できるって話なんで」

私の手が震えた。

「赤のしずくは、うちにしか作れません」

「まあ、そう言うけどね」

西條は笑った。

「イチゴなんて、どこで作っても大して変わんないでしょ。ブランド名だけいただきますよ。パフェの名前はそのままで、中身を変えるだけなんで」

その瞬間、頭の中が真っ白になった。

「素の農家の娘に契約の話が分かるんですか?」

西條が言った。嘲笑が混じった声で。

「今日は書類にサインもらえればそれで良かったんですけどね。無理そうなんで、また改めて」

彼は立ち上がり、背を向けた。そのまま会議室を出て行こうとした。

「待ってください」

私は鞄から一冊の日誌を取り出した。母が遺した、擦り切れた表紙の日誌。

「これを見てください」

「何ですか、それ」

「うちのイチゴがどうやって作られているか、分かってないんでしょう?」

私はページを開いた。母の字でびっしりと埋められた、土壌の記録。気温のグラフ。受粉のタイミング。一粒のイチゴを育てるために積み重ねられた、何千もの記録と工夫。

西條は一瞬、面食らった顔をした。しかしすぐに口元を歪めて言った。

「そんなもの、見たって何の意味もないですよ。大事なのは数字ですから」

その言葉で、すべてが決まった。

「分かりました」

私は日誌をしまい、立ち上がった。

「では、契約更新は見送らせていただきます。綾瀬農園の赤のしずくは、ベルフルールにはもう卸しません」

西條の表情が初めて固まった。

「は? どういうことですか」

「今までありがとうございました」

私は一礼すると、そのまま会議室を出た。背中に西條の「待ってください!」という声が聞こえたが、振り返らなかった。

翌日、祖父に経緯を話すと、彼は長い間黙っていた。そして、静かに言った。

「よくやった。母さんも喜んでるだろう」

だが、次の日の朝、事態は大きく動いていた。ベルフルールの全店舗のSNSに、怒りに満ちた投稿が殺到していたのだ。

「赤のしずくのパフェが、今年から味が変わった?」
「公式に問い合わせたら、新しい契約農家に変わったって言われた」
「綾瀬農園のイチゴじゃなくなったなら、ベルフルールで買う意味ない」

私は何が起こったのか理解できなかった。確かに、私は契約を打ち切った。しかしそれは、ベルフルール側が新しい農家に切り替えると言い出したからだ。なのに客たちは、綾瀬農園を応援する声を上げ始めていた。

投稿の一つには、こう書かれていた。

「綾瀬農園の娘さんが、本社に乗り込んで契約を守ったって聞いた。あのイチゴを守るために、一人で戦ったんだって」

私はその投稿を見て、何も言えなかった。誰が広めたのかは分からない。ただ、イチゴを食べた人たちが、味の変化に気づいてしまったのだ。本物を知っている舌は、偽物を拒絶していた。

数日後、ベルフルールの本社から一本の電話があった。次期社長を名乗る人物からだった。

「西條のやったことは、全て把握しました。綾瀬農園さんには、心からお詫び申し上げます。つきましては、新しい条件で契約を結び直していただけないでしょうか。こちらが提示する金額をご確認ください」

届いた契約書には、前年度より三割高い買取価格が記されていた。そして、一言添えられていた。「赤のしずくは、綾瀬農園のものであり続けます」

私はその書類を前に、しばらく席を立つことができなかった。母がここまで育てたものを、私は守れたのだろうか。祖父は、何も言わずにただ頷いていた。

あの日から、ベルフルールのパフェは元の味に戻った。客たちの不満の声も、自然と消えていった。西條は間もなく退職したらしい。私は時々、母の日誌を開く。そこには、イチゴの育て方だけでなく、こう書かれていた。

「信じたものを守りなさい。値段じゃなく、手間をかけたものこそが、本当の価値よ」

今でも私は、朝4時に起きる。ビニールハウスの扉を開けると、あの甘い香りが待っている。差し伸べた一粒の重みは、決して値札には載らない。でも、それを味わう誰かの笑顔だけが、私たちのチラシなのだ。

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