「今何とおっしゃいましたか?もう一度言いましょう。私は不能者です。それでも私があなたの借金を片付ける代わりに、この結婚を受け入れますか?」
その言葉を聞いた瞬間、私は自分の耳を疑った。心臓が止まるかと思った。宝くじの一等当選番号を確認した時だけが感じられる、あのしびれるような興奮が全身を駆け抜けた。世の中にこんな美味い話があるなんて。
東京の下町、商店街の一角。生魚の生臭い匂いと、香ばしい油の匂いが混ざり合う場所で、私の人生は大きく動き始めた。
商店街の総務という肩書きは立派だったが、実態はただの雑用係。44歳の生き遅れ。それが私、聖だった。その日までは。
あの日、私はいつものように店先でおでんをつついていた。すると、商店街の入り口から聞き覚えのある声が響いてきた。闇金の連中だ。
私は食べかけのおでんの皿を放り出し、魚屋の陳列台の下に身を隠した。心臓が破裂しそうなくらい鼓動していた。
元彼の坂田太地。あの男が私の名義で闇金から金を引き出し、逃げてからちょうど1年。借金は雪だるま式に膨れ上がり、もはや元金がいくらだったのかさえ思い出せなかった。
「おい、姉さん。そこに隠れても無駄だってわかってるだろう?」
下品な笑い声と共に、魚の箱が蹴飛ばされた。私は悲鳴も上げられず、髪を掴まれて引きずり出された。
「話せ、話しなさいよ。金を返せって言ってんだ。体で払いたくねえならな」
男の荒々しい手が私の頬を掴んだ。その瞬間、私の体は風に吹かれる木のように痙攣した。単に怖いからじゃない。30代後半、坂田に殴られた記憶。その暴力のトラウマが骨の髄まで刻み込まれていたからだ。
「助けてください。お金は必ず返しますから」
私は商店街の地面に膝をついて懇願した。見物していた店の連中も目を逸らすだけで、誰も助けに入る者はいなかった。
その時だった。
ブーン。一台の黒い高級車が商店街の狭い道をかき分けるようにして入ってきて止まった。泥水が跳ね、人々がどよめいた。闇金の連中が一瞬、動きを止めた。
その隙に、私は本能的に動いていた。生きなければ。あの車に乗らなければ。私はありったけの力で後部座席のドアを開け、転がり込んだ。
「助けてください。どこへでも行きます。何でもしますから」
車の中は外の世界とは全く違う空気が流れていた。ひんやりとしたエアコンの風。かすかに香る高級な匂い。そして、後部座席に座っていた一人の男。神崎県。神崎だった。
県は、突然転がり込んできた泥だらけの女を見ても、驚いた様子はなかった。いや、正確に言えば、面倒くさそうに目を細めただけだった。
「降りろ。降りないのか」
外では闇金の連中が車のドアを叩きながら大声で叫んでいた。剣は窓をほんの少しだけ開け、運転席の鈴木に低く言った。
「出せ。しかし、一応あの者たちが私の目には吠える犬にしか見えんが」
その声はあまりに冷静で、逆にぞっとするほどだった。
私は必死で言った。「お願いです。このまま出て行かれたら、私は殺されます」
県は何も答えず、鈴木に軽く目配せをした。車が静かに発進する。闇金の連中の叫び声が遠ざかっていく。
数時間後。私は気がつくと、見知らぬ豪華な部屋にいた。高級なソファ、きらめくシャンデリア、窓から見える美しい庭園。ここは一体どこなのか。
そこに現れたのは、さっきの男、神崎だった。彼は私を一瞥すると、冷たい声で言った。
「状況は理解した。お前の借金、俺が肩代わりしてやる。ただし、条件がある」
私は唾を飲み込んだ。「条件…ですか?」
「俺と結婚しろ。俺は不能だ。子供を作ることも、普通の夫婦生活を送ることもできない。だが、俺の妻になってくれるなら、お前の借金はすべて帳消しにしてやる」
一瞬、時が止まった気がした。不能者との結婚。普通の幸せは望めない。しかし、このままでは闇金に殺される。私は震える声で答えた。
「…わかりました。結婚します」
こうして私は神崎県の妻になった。周囲の人々は私を見る目が変わった。商店街の雑用係だった女が、大富豪の妻になったのだから。
しかし、この結婚は幸せなものではなかった。県は私に一切触れなかった。それは約束通りだった。しかし、彼の視線にはいつも冷たさがあった。私は彼にとって、ただの道具なのだろうか。
それでも私は必死に妻としての役割を果たそうとした。料理を作り、彼の帰りを待ち、完璧な妻を演じた。しかし、県はいつも無表情で、私に心を開こうとしなかった。
そんなある日、私たちはパーティーに出席した。華やかな雰囲気の中、私は県の腕に手を添えて歩いた。すると、向こうから見覚えのある男が歩いてきた。
坂田太地。私の人生を台無しにした元彼が、そこに立っていたのだ。
「おや、聖じゃないか。元気そうだな。って、まさか神崎の奥様だったとはな。すごい成り上がりだな」
坂田は下品な笑みを浮かべた。私は全身の血が逆流するのを感じた。この男のせいで、私はどれだけ苦しめられたのか。
「やめてください…」
「なんだよ、照れてるのか?俺と昔、いい関係だったのに忘れちゃったのか?」
坂田が私の手を掴もうとした瞬間、県が静かに前に出た。
「私の妻に触れるな」
その声は低く、しかし確かな威圧感を放っていた。坂田は一瞬たじろいだが、すぐに笑みを浮かべた。
「へっ、旦那さんが代わりに払ってるのか?俺も金の無心が上手ければよかったな」
私は震えていた。悔しさと怒りで、体が燃えそうだった。
パーティーが終わり、家に帰ってからも、私は涙が止まらなかった。県はそんな私を見て、何も言わなかった。
「バカにするな。私はもうあいつに負けない。見返してやる」
私は心の中で誓った。次のパーティーで、健康な姿を見せつけて、坂田を見返してやる。今日の夕食はもっとすごいものを準備する。すっぽん鍋はどうかしら?それとも薬膳鍋?
私は台所に立ち、包丁を握った。その時、私はまだ知らなかった。この選択が、私の人生を思わぬ方向に導くことを。
そして、あの黒い高級車の後部座席で見た、県の冷たい微笑みの本当の意味を。



