「ちょっと待てって言っただろ。何度もしつこく電話してんじゃねえよ。下請けのくせに。」
スマホ越しに聞こえてくるのは、取引先である酒井商事の部長・木村の傲慢な声だった。約束の時間を大幅に過ぎても現れない木村に、俺と先輩の斎藤は嫌な予感を抱えながら会議室で待っていたのだ。
俺は木村との通話履歴を呼び出し、タップして電話を酒井社長に預けた。すると、酒井社長は木村の暴言をきっぱりと断ち切った。
「木村君、君は久本興産の社員に何てことを言うんだね。遅刻を詫びるどころか脅すなど、言語道断だ。」
「そ、その声は酒井社長…。いや、違う。社長がなぜ下請けとの打ち合わせの場にいるんだ。お前、織田だろ?生意気にも俺の社長の真似をしやがって。いい加減にしねえと切れるぞ。」
顔の見えない通話というのは、こういう点が怖いのだなと俺はまざまざと思い知った。木村は本物の社長の声を、俺の仕掛けた偽物だと信じて疑わない。
「君の方こそいい加減にしないか。とにかく一刻も早く会議室へ来るように。これは社長命令だ。」
酒井社長は疲れたようにスマホを俺に返した。木村のような人間を部長にしておくのは自分の判断ミスだと言い、俺と斎藤に詫びる。俺たちはさすがに他社の人事に口出しはできず、ただ黙ってうなずくことしかできなかった。
俺と斎藤が世間話で時間を繋いでいると、ついに会議室のドアが開かれた。だが、そこに立っていたのは木村ではなく、なんと俺たちの会社・久本興産の社長である久本だった。
「社長、どうしてここに?」
久本は俺と斎藤を見ると、にやりと笑った。「お前ら二人がいつまで経っても報告しないんで、心配になってな。それに俺は酒井とは大学の先輩後輩なんだ。」
久本の話によると、酒井は三つ年下で、大学時代の後輩だという。久本が酒井と向き合い、木村という社員が部長でありながら最長2時間も取引先を待たせたことがあると聞き及んでいる、と話を切り出した。
「これは由々しき問題だと認識しております。早急に木村への処罰を下さなければ。」
「その方がいいぜ。いくらお前が元請けの社長でも、あんまり下請けを舐めると信用問題に関わるからな。」
その時、ドタドタという足音が近づき、会議室のドアが勢いよく開けられた。木村が慌てた様子で入ってくる。シャツに泥の痕、といういかにもゴルフをやっていましたという服装で、打ち合わせの場に現れたことに久本も酒井も不快感を露わにした。
「社長…。では、さっきの電話は本物の社長だったのか。くそ、織田め。お前、社会人1年目にして俺を嵌めようとしているな。末恐ろしい新人だ。」
「木村君、君は言葉が過ぎるぞ。織田君に対する暴言の数々、今すぐここで謝罪しなさい。」
「謝罪?元請けの俺が、下請けのひよっこ営業マンに詫びるってことですか?」
「そうだ。」
木村は納得いかない様子だったが、謝罪しなければこの場が収まらないと分かっているようで、俺に向かって深々と頭を下げた。「大変申し訳ありませんでした。」
頭を下げているのが嘘っぽいのは丸分かりだった。だが、それでも謝罪は謝罪だ。俺が木村の言葉を受け止めようとしたその時、なんと声を張り上げたのは木村との接点など全くない久本だった。
「心がこもっていない。そんな謝罪があるか。」
「えっと…誰だ、こいつ?」
俺が「弊社の社長である久本です」と説明すると、木村はまたもや虚を突かれた。だが久本は木村の疑問に答えず、代わりにこう質問を投げつけた。
「木村君と言ったか?君は取引先の社長とゴルフ接待だと言って遅れたそうだが、その取引先の社長とは一体どこの誰かね?」
木村は「なぜ下請けの社長に凄まれなければならないのか」といった表情を浮かべたが、相手が社長であれば反射的に従ってしまうのがサラリーマンの性というものだ。
「えっと…飯田さんです。ほら、飯田物産の社長ですよ。」
「ほぉ、飯田か。では、電話で確かめてみようじゃないか。あいつとは元同級生でな。」
久本はスマホを操作して飯田社長に電話をかける。「ああ、飯田か。俺だよ。久本だ。」
「え、あれ?ちょ、ちょっと待ってくださいよ。久本社長。そんなの反則です!」
木村が飛びかかろうとした瞬間、木村を背後から羽交い締めにしたのは、なんと酒井だった。「私は柔道の有段者でね。寝技なんかが得意なんだ。木村君、受けてみるかね?」
「いえ、結構です!」
木村がわめく中、久本は飯田との電話を切り、動きの取れない木村にこう言った。「飯田は君とのゴルフ接待など知らないと言っている。そもそも飯田物産は、社内規則でゴルフ接待を絶対に禁じているとのことだった。」
木村は言葉を失った。俺は思わず口を挟んでしまう。「でも木村部長は確かにゴルフ場にいましたよ。バンカーがどうのって言ってましたし。」
「織田、お前少し黙ってろ。俺のボケを潰すようなことばかり言いやがって。」
ところが、今度は酒井が話題を変えた。「木村君、君は飯田社長とのゴルフ接待の経費精算書をしょっちゅう上げているよね。以前から経理から頻度が異常だとクレームを受けていたんだ。だが、飯田社長のゴルフ好きは有名だからね。私は黙認していたんだよ。」
「君は本当は誰の接待をしていたんだ?飯田物産がゴルフ接待禁止なら、どこの取引先と、いつ飲んでいたんだ?…まさか、一人だったんじゃないか?俺が電話をかけた時、周囲からは誰の声もしなかったぞ。」
「織田、本当にお前ってやつは…とんだ野郎だな!」
木村が叫んだ瞬間、酒井は木村を解放し、そのまま背中を押して床に倒れ込ませた。床に倒れた木村を、俺と斎藤、酒井、そして久本が取り囲んで見下ろす。
元請けの部長という立場にありながら、架空のゴルフ接待をでっち上げて会社に経費精算書を突きつけるなんて真似がよくできたものだ。俺は関心せずにはいられなかった。
「斎藤課長。権力が人を狂わせるって、本当にある話だったんですね。俺は小説の中の話だと思ってました。」
「まあ、『事実は小説より奇なり』って言葉があるくらいだ。現実なんてこんなもんだろう。とはいえ、織田、お前はこうなるなよ。」
「はい。木村部長を反面教師として生きていきたいと思います。」
すると、突っ伏していた木村が顔を上げて俺を睨みつけた。「だまれ。俺が反面教師だって?失礼なこと抜かしてんじゃねえよ。下請けごときが偉そうに。」
すると久本が木村の目線までかがんで、彼の目を覗き込んだ。「うちの織田は、将来有望でピュアな社員なんだ。世俗にまみれて物事の善悪も分からなくなった君に、失われる覚えはないと思うがね。」
「久本社長の言う通りだ。いつも言っているが、我々は下請けなしでは成り立たない。そのことを忘れ、『下請けのくせに』などと言うのは会社にとって恥だ。君は酒井商事の恥部なんだよ、木村君。」
さすが社長ともなると言葉の重みが段違いだ。同じセリフを俺が言ったところで、木村はきっと「うるせえ」と言って取り合わなかっただろう。
「さて、大変お待たせしてしまったね、久本興産の皆さん。もはや木村に業務遂行能力が認められないので、私が代わりに君たちの要件を伺おう。」
「それはありがたいです。実は、現在進行中のプロジェクトについて、契約更新の時期なのでお伺いした次第です。」
俺はビジネスバッグから契約書を2部取り出し、酒井に署名を頼んだ。酒井は「承知した。署名はホームに任せるとしよう。終わったら即日で送り返すということで構わないかな」と応じ、契約は滞りなく交わされた。実質的な打ち合わせの時間はわずか5分。その5分のために、なんと1時間も待たされてしまったのだから、笑うに笑えない。
俺と斎藤、そして久本は契約書を酒井商事に預けると、ようやくオフィスに戻ることができた。
「まさか社長が酒井社長の先輩だったなんて、知りませんでしたよ。」
「俺だって、お前らがもっと早く報告していたら酒井商事に乗り込むことはなかったんだ。とにかく、工場長たちがお待ちかねだぞ。さっさとミーティングしてこい。」
そう言われて、俺と斎藤は慌てて自席へ戻った。工場へ走り、ミーティングの開催が遅れたことを詫びると、工場長は「物事がスケジュール通りに運ばないことなんて、たくさんありますよ」と言って笑った。
それから数日後、俺と斎藤は久本に呼ばれ、社長室の応接セットで久本と向き合った。
「先日の酒井商事の木村部長の件だがね。」
久本が重々しく口を開く。曰く、木村の架空のゴルフ費は、なんと約1000万円にも上り、酒井商事は彼を懲戒解雇とした上で、損害賠償を求める訴えを起こす構えだという。
「俺、犯罪に手を染めた人を初めて見ました。ああいう人にならないよう、気をつけようと思います。」
「そうだな。お前はピュアなままでいてくれ。うちはこれからも変わらず酒井商事と手を組んで商売をやっていこうと思う。そして、新たに飯田物産とも協力関係を築きたい。」
久本は今回の件を受け、酒井商事だけと付き合っていくのはリスクが高いと判断したのだという。より大口の元請けである飯田物産とも取引をしていく方針を打ち出していた。
「織田、飯田物産の件はお前が主導でやってみろ。いい経験になるはずだ。」
社会人になって初めて任される大型案件に、俺の行動は早かった。「頑張れよ、織田。俺は広報支援に回ることにするからな」という上司からの頼もしいエールに、俺は力強く頷いた。
それから数ヶ月が経過した頃、俺はまだ半人前ながらも、一人で飯田物産に出入りできる身となり、新規契約について詰める日々を送っていた。元請けの要望を聞いた上で、久本興産がどう貢献できるかを提案していく。話し合いがトントン拍子に進むこともあれば、全く進まず膠着状態に陥ることもある。その度に俺は斎藤に相談し、常に最悪の事態に陥らないよう慎重に回避しながら飯田物産と接する日々を送っていた。
ある日のことだった。飯田物産から戻る途中、俺は工事現場の前を通りかかった。すると、視界に見覚えのある人物が映り込んだ。少し太めの体格の持ち主で、上半身に着用しているポロシャツを泥まみれにしながら、工具で地面を掘り返している。
「くっそ。なんでこの地面はこんなに硬いんだよ。全く削れねえだろうが。」
その声を聞いた瞬間、俺は声の主が木村であることを確信した。「やっぱり、木村さんだ。おい、木村さん!」
俺が木村目がけて走っていくと、木村は俺を見るなり目を血走らせた。「お、俺を落とし入れた張本人が、尻尾を振って俺の方へ近づいてくるな。」
「いえいえ、そんなこと言わないでくださいよ。俺、木村さんのようにはならないって決めてるんです。俺の反面教師になってくれて、ありがとうございました。」
木村は架空のゴルフ費の総額を分割で返済するよう求められ、なおかつ仕事が見つからないので、工事現場で汗水垂らして働いているらしい。そんな噂は聞いていたが、まさかこんな場所で会えるとは思ってもみなかった。
木村の恨めしそうな目を気にすることなく、俺は久本興産への道を戻るのだった。



