胃嵐しが後輩に資料を投げつけた。バサバサと紙が舞い、床に散らばる。50億の相談なんだぞ。失敗したらお前、責任取れるのか。
後輩は涙を浮かべながら必死に反論した。無理やり押し付けられた挙げ句、当日まで確認もせず、こちらの訴えも無視していたのは胃嵐しの方だ。そもそも資料作成は彼の仕事で、それを押し付けた時点で大問題だった。
俺はその光景を目の当たりにし、胸が締め付けられた。理不尽に責められる後輩を見ていると、自分まで責められている気分になる。
「おい、山口。お前、ちょっと来い」
胃嵐しが突然、俺の名を呼んだ。言われるがまま近づくと、「お前、正談に同席しろ」と言い放つ。なぜ急に。しかも部長の許可は取ったのか。
「うるせえな。お前に拒否権なんてねえんだよ」
強引な態度に押し切られ、俺は仕方なく同席することになった。胃嵐しは部長に「山口がどうしても同席したいと駄々をこねた」と説明したらしく、「胃嵐し君に迷惑だけはかけるな」と謎の釘を刺された。言いたいことは山ほどあったが、大事な相談前に厄介ごとは起こしたくなかった。
15分後、相談相手が会議室に現れた。胃嵐しは満面の笑みで英語の挨拶を交わし、席につく。そして鞄から資料を取り出すと、突然こう言い放った。
「では、早速今回ご用意した資料の説明を、こちらの山口がさせていただきます」
何が何だか分からない。俺は困惑したが、胃嵐しはお構いなしに続ける。
「彼は元々この商談の担当ではなかったのですが、自分なら素晴らしいプレゼンができると豪語しておりまして。なので彼の熱意に負けて、プレゼンを任せることにしたんです」
英語で嘘を並べ立てる胃嵐しを、俺は思わず二度見した。待ってくれ、俺はそんなこと一言も言っていないぞ。小声で抗議しても、彼は鼻で笑うだけだった。
「なんだ、中卒のくせに今の英語が分かったのか。義務教育程度の英語でも雰囲気で理解できるとは驚きだ」
笑いながら話を続ける胃嵐し。資料の内容すら目を通していないのに、いきなりプレゼンなんてできるわけがない。しかし抗議も虚しく、「それじゃ、中卒の英語力でしっかり頼むわ」と背中を叩かれた。
俺はその時、はめられたのだと察した。不備のある資料ではうまくいかないと考えた彼は、プレゼンを押し付けることで商談の失敗を俺の英語力のせいにするつもりなのだ。睨みつけると、胃嵐しは勝ち誇った様子で言った。
「なんだよ、怒ってんのか? 人を睨む暇があるなら、さっさと始めろよ」
正談相手も不審そうにこちらを見始めた。こんなことをしていいと思っているのか。卑怯だぞ。そう伝えると、胃嵐しは得意げに言い放つ。
「そんなに俺が嫌いなら、このプレゼンを成功させてみろ。それができたら、この会社をやめてやってもいいぜ」
「オッケー。分かったよ。その言葉、よく覚えておけよ」
俺は資料を手に取り、ざっと目を通した。一呼吸置いて、ゆっくりと口を開く。
「それでは始めます」
通訳されていない部分を即座に英語に訳しながら、俺は説明を始めた。相談相手も引き込まれ、英語での質疑応答が次々と交わされる。相手の反応は徐々に前向きになり、契約の可能性が見えてきた。
胃嵐しはと言えば、予想外の展開に目を見開いたまま固まっていた。俺が流暢な英語でプレゼンを進める様子に、ただ驚愕しているだけだ。
話がどんどん進むと、胃嵐しは慌てて口を挟もうとした。
「プ、プズウイアン……」
どうやら英語で「ちょっと待ってくれ」と言いたかったらしい。しかし発音がめちゃくちゃで、俺と相談相手は一瞬沈黙した。
「胃嵐しさん、それだと『少々お待ちください』という意味に聞こえてしまう可能性があります。『ちょっと待ってください』と言いたいのなら……」
そう訂正すると、胃嵐しは顔を真っ赤にして黙り込んだ。その後も彼は英語の会話についていけず、俺と相談相手の間で話はどんどん進んでいった。
商談が始まって1時間ほどが経った頃、先方が笑顔で頷いた。
「山口さんの説明はとても分かりやすく、こちらにとっても大きなメリットのある契約だと確信できました。50億の契約ですが、是非前向きに検討させてください」
ほっと胸を撫で下ろした。商談が終わり、先方と握手を交わす。
「今後、もちろん山口さんが担当してくれるんですよね。その方が弊社としても安心できるのですが」
正式な担当者は胃嵐しなので、一度上に確認してからになるが、全力で希望に応えられるよう対応します。そう答えると、先方は安心した様子で微笑んだ。
玄関先まで見送り、無事終了したと思っていた。しかし胃嵐しは違ったようだ。先方が乗るタクシーが見えなくなった瞬間、すぐさま俺の胸ぐらを掴んできた。
「俺の商談だったのに、何考えてんだ。余計なことまでしやがって。ただで済むと思うなよ」
「なぜだよ。そもそもプレゼンをしろと言ってきたのはそっちだろう。怒られる筋合いはない」
反論するが、胃嵐しは震えながら激昂している。
「こんなところで何をしているんだね」
突然、背後から声が聞こえた。振り向くと、そこには社長の姿があった。
「何やら騒がしくしていたようだが、何か問題でもあったのか?」
「いや、その、ちょっとだけ遊んでいたと言いますか……」
明らかに動揺しながら、胃嵐しは胸ぐらを掴んでいた手を下ろした。
「あ、君は霊の商談を担当している胃嵐し君じゃないか。確か今日は商談の日だったね。50億の契約はどうだったかい?」
「そ、そりゃもうばっちりでした。先方もとてもいい反応で、私のことを完全に信用してくださっている様子でした」
まるで自分の手柄のように報告する胃嵐し。社長は俺の方に目を向けた。
「もしかして君も同席したのか?」
「はい。彼から同席するように言われたものですから」
「なら、君がしっかり胃嵐し君をサポートしてくれたから、うまくいったんだろうね。本当にありがとう」
社長は笑顔で俺の肩を軽く叩いた。
「あ、そうだ。来週、海外からVIPの取引先が来る予定なんだ。また通訳をお願いすると思うから、そのつもりで頼むよ」
そう言い残し、社長は足早に去っていった。
「中卒のお前が通訳? しかも海外のVIPに? 一体どういうことなんだ」
胃嵐しは目を白黒させながら問い詰める。
「そもそも、中卒のくせにあんな流暢に英語が喋れるなんておかしいだろ。どういうことだ?」
「今まで隠していたんだけど、俺の父親は外資系の商社で働いていたんだ。で、中学を卒業したタイミングでアメリカに転勤することになって、俺も一緒に渡米したんだよ」
胃嵐しは大声を上げて驚愕した。
「高校に進学しなかったのは、学校という閉鎖的な空間よりも広い世界でいろんなことを学びたかったからだ。それで15歳から18歳までの間、アメリカを回って様々な文化に触れたんだ」
「嘘だろ?」
「本当だよ。資料を訳せたのも、父親の会社でインターンとして働いていたおかげで、ある程度ビジネス英語を知っていたからなんだ」
「じゃあ、お前……中卒じゃなかったのかよ」
「ちなみに、近々最終学歴が中卒から大卒になるんだけどね」
「はあ? どういう意味だ?」
「実は最近になって大学に通ってみたいって気持ちが湧いてきてね。高卒認定試験を受けて、東大を受験したんだ。それで今は東大生として、土曜日と平日の夜に学校に通っているんだよ」
東大という言葉を聞き、胃嵐しは露骨に驚き、後ずさった。
「そのことを社長は知ってるのか?」
「父と社長が大学の同級生なんだ。それで日本に帰国する際にスカウトされて、この会社に入社したから。英語ができるってことももちろん知ってる。それでよく通訳をお願いされるんだ」
「なんでそういうことを言わなかったんだ? 俺なら周りに自慢するのに」
胃嵐しは声を荒げた。
「そんなことをして特別な目で見られるのが嫌いでね。東大に通っていることも周囲に言って気を使わせたら悪いと思って、あえて言わなかったんだ」
俺は説明を終えると、胃嵐しに近づいた。
「胃嵐し、もうやめないか。確かにお前は有名な大学を出て、英語も人よりできる。それは素晴らしいことだとは思うが、それをひけらかして周囲に迷惑をかけるのは違う。もうこんなこと、やめようぜ」
そう諭すように話しかけた。しかし胃嵐しからすると、それが見下されたと感じてしまったらしい。きっと俺を睨みつけた。
「黙れ。俺のことを騙して中卒を演じ、そして心の中で俺を馬鹿にしていたなんて。お前、最低だな。このクズ野郎」
「騙していたつもりはなかったし、そもそも学歴で人を判断することが間違っていると言っているんだ。とにかく落ち着け」
そう言って腕を掴むと、胃嵐しはそれを振り払い、すぐさま俺の胸ぐらを掴んだ。そのまま体重をかけて押し倒そうとしてきたので、俺は足にぐっと力を込め、体勢を崩さないように踏ん張った。
「何をしてるんですか!」
その時、騒ぎ声を聞きつけたのか社員たちが集まってきて、部長も駆けつけた。
「胃嵐し君、暴力はやめなさい」
部長が胃嵐しを押さえ、同僚たちと一緒に彼を会社の中へ引きずり込んでいった。
その後、俺は部長に今回の一件を包み隠さず報告した。部長はすぐに社長へ報告し、胃嵐しの調査が行われることになる。社員への聞き取り調査も実施され、胃嵐しが後輩たちに仕事を押し付けたり、学歴を馬鹿にして見下していたことが明らかになった。
会社はこれを重大な問題と判断し、彼に解雇処分を言い渡した。
それから半年が過ぎ、胃嵐しがいなくなった営業部はとても平和で働きやすい部署へ生まれ変わった。噂で聞いた話だが、胃嵐しは解雇された直後、すぐに就活を始めたものの、あの高飛車な性格が災いし、面接はことごとく失敗。その結果、今はコンビニバイトをして失素に暮らしているらしい。さらに、一緒に働くアメリカ人留学生に「あなたの英語は発音がおかしくて聞き取りにくい」と言われて激沈していたなんて噂も聞いたが、真実は定かではない。
ちなみに俺はあの一件をきっかけに、海外企業との取引に関する仕事を一手に担うことになった。商談も次々と決まり、最近では昇進の話も出てきている。毎日充実した日々を送りながらも、現状に満足し胃嵐しのように傲るのではなく、常に謙虚な気持ちを忘れずに、これからも仕事に励んでいきたいと思っている。



