「わかってるわよ。あなたは都合のいい男だったの。中卒で何も知らない、扱いやすいおバカさんだったから」
尊敬する上司で、最愛の恋人だった女性が、そう言って笑った。楽しそうに、本当に楽しそうに。
俺を学歴で見下していたこと。ずっと利用していたこと。全部、自分の口で告白したくせに、最後にとどめの一言を放った。
「私ね、婚約したの。山本部長と。あんたはお払い箱ってわけ」
その瞬間、オフィスのドアが開いて、部長が入ってきた。
「お前は首だ。こもり。彼女に突きまとった罪でな」
え、待って。仕事も恋人も、一瞬で全部失った。その日、俺は人生のどん底を知った。
でも、だからこそ幸せは巡ってきたんだ。俺が運命の出会いを果たすのは、ここから遠くない未来のこと。そして、彼女は破滅への道を歩み始めるのだった。
俺の名前は小森サト。今年で24歳、この会社で働き始めて7年になる中堅社員だ。つまり17歳から働いているわけだが、その理由は単純で、俺が中卒だからだ。
「小森君を見ていると、人って学歴じゃないんだなって思わされるわ。うちで誰よりも仕事ができるんだもの」
直属の上司で先輩社員の有浦瞳さんにそう言われると、正直ちょっと気恥ずかしい。彼女をはじめ、俺の周りには高学歴の人間が多い。中卒で採用されたこと自体が異例中の異例らしいが、俺は学歴なんて関係ないと思えるほど努力を重ねてきたつもりだ。
おかげで今や、中卒だからと言って馬鹿にしてくる奴は社内に一人もいない。仕事でも頼られるようになり、「小森君じゃないとダメだ」とまで言ってくれる取引先もいる。
「ねえ、今日の夜はいつものお店で待ち合わせね」
こっそりと瞳さんが俺の耳元でささやく。名門大学出身で頭脳明晰、将来の重役候補と期待されるエリート美女。6歳年上の彼女と、俺は密かに仲を深めていた。
「了解。瞳さん」
もう会社の中なのに、二人だけの秘密みたいに彼女を下の名前で呼ぶ。すると、くすぐったそうに笑う。大人の女性なのに、すごく可愛らしい。
彼女の方からアプローチしてきたのは、俺が20歳になったばかりの頃だった。
「瞳さんに告白された時、一番頑張ってよかったって思えたよ」
行きつけのバーでグラスを傾けながら、昔を懐かしむ。仕事もお酒の飲み方も、全部瞳さんに教わった。それくらい、彼女は俺の人生で重要な人物だった。
「もう何回も同じ話ばっかり。まだ若いのに年寄り臭いぞ、サトシ君」
カウンターで隣に座り、瞳さんが怒ったような顔をする。照れている時の定番の仕草だ。
「だって本当に嬉しかったから。瞳さんが教育係だった頃からずっと憧れだったんだ。綺麗で優しくて、気づいたら目で追ってた」
「もう、サトシ君はお世辞が上手いんだから」
そう言って笑う瞳さん。この時間が、俺にとって一番の幸せだった。
でも、その幸せは長く続かなかった。
有浦課長。いつになったら覚えるんだか。あんまりイライラさせないで欲しいわ。
まず、俺への当たりが強くなった。以前は笑って許してくれたことも、大げさなくらいのため息と一緒に苛立ちをぶつけられるようになった。きっと課長になってストレスが溜まっているんだろう。そう思うことにした。
「本郷さんの愛車、特別仕様っすからね。貧乏人に払えるのかな?」
課長になった瞳さんは、どんどん変わっていった。エリート社員たちとばかり過ごすようになり、俺との距離も徐々に開いていった。
それでも俺は信じていた。瞳さんは昔と変わらないはずだって。俺が頑張れば、またあの頃の関係に戻れるはずだって。
でも、現実は違った。
「小森君、ちょっといいかしら」
ある日、課長室に呼ばれた。そこで待っていたのは、冷たい表情の瞳さんだった。
「君を解雇することにしたわ」
「は? どうしてですか」
「上からの指示よ。理由なんて聞かないで」
嘘だ。瞳さんの目は、ちゃんと理由を知っている目だった。それなのに、俺に何も教えようとしない。
「納得できません。納得できる説明をしてください」
「説明? あなたに説明する義務なんてないわ。中卒のくせに、偉そうにしないで」
その言葉に、俺の心は完全に凍りついた。口元が震える。今まで一緒に過ごしてきた日々は、何だったんだ。
「……瞳さん。本気で言ってるんですか」
「本気も何も、私はあなたの上司よ。有浦瞳よ。あなたと個人的な関係があったことなんて、なかったことにしてください」
なかったことに。7年間の思い出を、たったそれだけで。
「わかりました。有浦課長」
俺はそう言って、課長室を出た。これで全部終わったのだと思った。でも、それは始まりに過ぎなかった。
後日、オフィスで開かれた朝礼。突然、山本部長が立ち上がり、俺を見下ろした。
「小森。お前は今日をもってクビだ。こもり。有浦課長にストーカー行為をした罪でな」
ざわ、と周りがどよめく。何を言っているんだ。
「ストーカー? そんな事実はありません。ただ、仕事の話をしていただけです」
「言い訳はいい。お前が有浦課長に一方的に恋慕していたことは、課内で周知の事実だ。彼女が婚約したことに腹を立て、つきまとった。警察に行く前に自主退職しなさい」
顔を上げると、瞳さんが部長の後ろに立っていた。一瞬目が合ったけど、彼女は何も言わなかった。何も。
「小森君のこと、可哀想だね」
「やっぱり中卒はダメだよね」
「ストーカーとか、気持ち悪い」
周りの声が、耳に届かないふりをした。でも、確かに聞こえた。誰も俺を助けてくれなかった。唯一、信じていた人だけが、俺を売った。
俺は何も言い返せず、その場を後にした。仕事も恋も、全部失った。人生のどん底。生きる気力さえなくなった。
でも、だからこそ縁は巡ってくる。
無職になった俺は、生活のためにコンビニで働き始めた。安いアパートで、節約しながら日々をやり繰りする。そんなある日、店に一人の女性が来た。
「すみません、これって税込ですか?」
「あ、ちょうど今日から値段変わってますよ。申し訳ないです」
「助かりました。ありがとうございます」
何気ない会話だった。ただそれだけのこと。なのに、なぜか気になってしまった。彼女も毎日のように店に来るようになった。話すうちに、彼女が最近転職したばかりで、仕事に悩んでいることを知った。
「私、新しい職場に慣れなくて。ここに来る時間が唯一の癒やしなんです」
「俺も仕事のことで色々あったから、気持ちわかりますよ」
「え、小森さんもですか? 何の仕事してたんですか?」
「……まあ、色々あって。今はここでこうやって働いてます」
「そうなんですね。私も頑張ります」
その笑顔に、俺は何度救われたかわからない。少しずつ、少しずつ、心が動いていくのを感じた。
数ヶ月後、彼女から突然言われた。
「ずっと聞きたかったことがあるんですけど」
「なんですか?」
「小森さんって、前の会社でなんで辞めたんですか?」
それは、俺が一番話したくないことだった。でも、なぜか彼女には話せる気がした。
「……ストーカー扱いされて、クビになりました」
「え?」
「本当は全然そんなことなかったんですけどね。俺が中卒だったから、あっさり信じてもらえました」
彼女はしばらく黙っていた。そして、意外なことを言った。
「私、その会社知ってます。前に派遣で働いてたことがあるんです」
「……は?」
「有浦さん、知ってますよ。あの人、噂になってました。部長と結婚した後に、若い男の子と遊んでるって」
耳を疑った。瞳さんが、部長と結婚した後に他の男と遊んでいただと?
「それに、小森さんのこと会社で聞きました。『中卒だから大人しく首を切られた』って。でも私、そんなの絶対おかしいと思いますよ。小森さんはすごく頑張ってるのに」
その言葉に、俺の中で何かが凍っていたものが溶けていった。
「……ありがとうございます」
「いえ。それで、小森さん。もしよかったらですけど、私と一緒に新しい会社で働きませんか?」
「新しい会社?」
「ええ。実は私、会社を立ち上げるんです。小さな事務所から始めるんですが、一緒にやってくれる人を探してて。学歴なんて関係ないですよ。大事なのは人間性ですから」
その瞬間、俺の人生がまた動き始めた気がした。愛する人を失い、仕事を失い、どん底に落ちた俺に、新しい道が開かれようとしていた。
一方その頃。有浦瞳は、想像もしなかった現実に直面していた。
「お前、俺の金を使って何をしているんだ」
夫である山本部長の怒号が、家に響き渡る。
「ち、違うの。これは会社の経費で……」
「経費? この不倫旅行の代金を経費で落とそうとしたのか? 笑わせるな」
瞳は机に書類を叩きつけられた。それを拾い上げようとした手が震え、書類を掴む指も微かに震えていた。
「私、悪くないわ。あんたがいつも忙しくて、私のことかまってくれないから……」
「言い訳をするな。自分の立場がわかってるのか? 俺はお前を課長に推薦した。そのおかげでお前は今の地位にいるんだぞ。それを裏切って、若い男と遊んでいるとは」
「やめて。あの男はただの相手よ。何でもないの」
「何でもない? なら、何でお前は俺に隠れて会っているんだ。しかも、ホテルに二人で入ったことを写真に撮られていることも知らずにな」
瞳の顔色が変わる。まさか。誰が。
「調査会社に頼んだ。お前が何をしているか、全部わかっている」
「そんな……どうして」
「お前は俺の妻だ。そして、俺の部下だ。俺の許可なく行動できると思ったら大間違いだぞ。この不倫のことも、会社の金を横領したことも、警察に知られたら終わりだ。それでもいいのか?」
瞳は言葉を失った。これが、自分の選んだ道の代償なのか。
昔、小森サトという男を踏み台にして、手に入れた地位。学歴も才能もないくせに、いつも一生懸命で、純粋で、都合のいい男。あの男を捨てたのは正しい選択だったはず。自分はもっと上にいくために、必要なことだった。
そう思っていたのに。
「もうお前には用はない。離婚だ。そして、会社も辞めてもらう」
「やめて……私は何もしてないわ」
「何もしてない? 笑わせるな。お前は俺の名誉を汚したんだぞ。それとも、お前が何をしたか忘れたのか? 小森サトをストーカー扱いしてクビにしたこと、忘れてないだろうな」
その名前を聞いて、瞳は全てを思い出した。あの日、小森が課長室を出ていく時の目。悲しみと、失望と、そして最後の信頼が砕けていく音。あの目を忘れようなんて思っても、忘れられるはずがなかった。
「私は……私だって、苦しかったのよ」
「もう黙れ。弁護士を通して話だ。二度と顔を見せないでくれ」
そう言って、部長は出ていった。一人残された瞳は、床にしゃがみ込んで泣いた。泣いたところで、失ったものは返ってこない。
あの男を捨てたから、今の私がある。そう思っていたのに。実は、あの男がいたから、私は私でいられたのだと、今頃気づいても遅かった。
数年後。俺は彼女――一緒に会社を立ち上げた美咲と、ついに結婚した。小さな事務所は軌道に乗り、社員も十人ほどになって、社名もそこそこ知られるようになった。
「サト、今日は定時に上がれる?」
「うん、大丈夫だ。久しぶりに二人で飯でも行くか」
「いいね。あの時、小森さんに声をかけてよかった。今の私があるのは、あなたのおかげだよ」
「こっちのセリフだよ。美咲がいなければ、俺はまだコンビニの店員のままだった」
そう言うと、美咲が笑った。その笑顔を見るたびに思う。人生で何が起きても、決してあきらめないことが一番大事なんだと。いまだって、誰かに「中卒のくせに」と言われれば、胸の奥にチクッと痛むものがある。それでも、俺は自分の道を歩いている。
かつて俺を踏み台にして、部長の妻になった瞳さんは、その後、離婚して会社も辞めたと聞いた。噂では、どこかでまた誰かに頼って生きているらしい。でも、もはや俺には関係のない話だ。
「なあ、美咲」
「何?」
「これからも、ずっと一緒にいてくれよ」
「当たり前でしょ。ずっと、どこまでもね」
あの時、どん底で泣いていた俺に、新しい朝は確かにあった。そして、その朝は、今日も晴れている。



