妊娠中だから行けない。
その言葉を放った瞬間、電話の向こうが水を打ったように静まり返った。ついさっきまで余裕の笑みを浮かべていた元夫・大使の動揺が、受話器越しに伝わってくるようだった。
「ちょ、ちょっと待てよ。妊娠って一体どういうことだ?」
私は淡々と答えた。「妊娠中だから式には行けないって言ったの。」
彼は私を試すように再婚の招待状を送ってきた。離婚からわずか1ヶ月での再婚。元妻に結婚式の招待状を送るなんて、どれだけ私が戸惑う姿を見たいのか。きっと彼は私と別れる前からこの再婚を決めていたのだろう。この電話だって、単なる報告じゃない。私が動揺する様子を楽しみたいだけなのだ。
でも、彼の企みは外れた。私の方こそ、彼に衝撃の真実を伝える番だった。
私の名前はゆさひ。32歳。地元の公立中学で体育を教えている。実家には両親と2つ上の兄がいる。
子供の頃の私はとにかく動き回る子だった。小学生になると近所のスポーツクラブに次々と入会し、水泳や陸上、バスケットボールにも手を出した。けれど、最も心を奪われたのはバレーボールだった。白いボールを目で追い、夢中でコートを走り回る時間が何よりも好きだった。ボールに触れている間は、余計なことを何も考えずにいられた。
中学・高校でも部活中心の生活。バレーボールをしていない自分なんて、想像もできなかった。
そんな私に転機が訪れたのは18歳の冬。大学入学直前の春休みのことだった。プレー中の衝突事故でけがをし、プレイヤーとしての人生はそこで終わってしまった。
それでもバレーボールを嫌いにはなれず、大学で教員免許を取得。縁があって、かつて自分が汗を流した母校の中学で体育教師として働くことになった。あの頃自分が走り回っていた体育館で、今度は私が生徒たちを指導する。少し照れくさいけれど、誇らしい気持ちがあった。
8歳年上の元夫・大使と出会ったのは、教員として働き始めた翌年のこと。
仕事帰りに母の日の花を買おうと立ち寄った小さな花屋で、接客してくれたのが大使だった。
その日をきっかけに交際が始まり、27歳の時に結婚した。当時の私は自分の選んだ道を少しも疑っていなかった。
けれど今振り返ると、私はいくつもの違和感を見落としていたのだと思う。
初めて大使の家族について聞いたのは、プロポーズを受けた翌週末のことだった。
すっかり通い慣れた彼の部屋で、私は何気なく話題を振った。
「結婚の話、ご家族にはもう話したの?」
「してない。というか、しなくていいと思ってる。」
「え?」
あまりにも意外な返答に、私は思わず大使の顔を見つめた。私自身は結婚が決まった当日中に両親と兄に報告し、温かい祝福を受けていた。だから、家族に伝えないという発想がなかったのだ。
「でも、挨拶に行かないと。それに式のこともあるし。」
「式には呼ばないよ。」
大使は何でもないような顔で淡々と言い放った。その口ぶりから、これは一時の感情ではなく、長年胸のうちに抱え込んできた末の結論なのだと分かった。
「どうしてか、聞いてもいい?」
「……反対されたからな。」
「反対?」
「男が花屋なんて、何を考えてるんだって。長男なんだから家を継げとか、もっとまともな道を選べとか、色々言われたけど。聞く気になれなかったよ。」
過去を思い出したのか、大使の説明はわずかに棘を含んでいた。
何か言わなければと思ったけれど、うまい言葉が見つからない。
「で、20歳の時に家から追い出された。ほとんど勘当だよ。それから連絡は一切取ってない。まあ、いなくてもお互い困らないしね。」
軽く肩をすくめる大使。
「でも結婚は大事な節目だよ。一応報告はした方がいいんじゃない?」
「は? なんでそんなことする必要があるの?」
「……しかも、まだ招待状も送ってないし。」
「細かいな。店の経営が安定するまでの間だから。」
そう言って大使は財布から通帳を取り出した。思わず私は通帳を閉じて顔を上げた。大使は悪びれる様子もなく、ほんの些細なお願いをしているかのような顔をしている。
「それって、具体的にいつまで?」
「さあ。経営が安定したら、かな。」
その曖昧な返答に、私は胸の奥で何かが冷えていくのを感じた。
それからも大使の言動には、引っかかる点がいくつもあった。
私の給料をあてにしているような節があるのに、自分の収入の詳細は決して話さない。
私の両親や兄と会うのをいつも避けたがるくせに、私が友人と会うことにも文句を言う。
そして何より、私が妊娠したと伝えた時のあの反応。
「え? 今、何て?」
「妊娠したの。あなたの子供。」
「……本当か? そんなはず。」
「そんなはずって、どういう意味?」
大使の顔色が一瞬で変わった。喜びでも驚きでもない。明らかな『困惑』と『焦り』だった。
その日から、私たちの関係は少しずつ崩れ始めた。
大使は私のお腹を触ろうとしなかった。検診に付き添うこともなく、出産準備の話になると決まって「後でいいだろ」と言った。
そして、私が妊娠7ヶ月の時。
「ちょっと待って。それってどういうこと?」
「だから、離婚したいんだ。」
「は? 今、何て?」
「聞こえなかった? 離婚だよ。俺、もう無理。」
私は自分の耳を信じられなかった。お腹にはもうすぐ生まれる子供がいる。それなのに、この人は何を言っているんだろう。
「……理由を教えて。」
「別に。好きな人ができた。それだけ。」
「好きな人が? いつから?」
「……まあ、いろいろあってさ。」
私の問いかけに、大使は目を合わせようとしなかった。
後で分かったことだが、彼が新しい関係を始めたのは、私が妊娠を伝える前からのことだった。つまり、彼はずっと前から私との生活を終わらせるつもりでいたのだ。
離婚はあっけなく成立した。
私は新しい命を抱えながら、実家に戻ることになった。
両親は何も言わずに私を受け入れてくれた。兄も「無理するなよ」とだけ言って、それ以上は何も尋ねなかった。
それから1年。
私は復職し、再び教壇に立っていた。
娘の陽菜も1歳になり、毎日が慌ただしくも充実していた。
元夫のことは、もう思い出したくもなかった。
なのに。
「ゆさひさん、宛名見てみた?」
職員室で同僚が差し出した封筒。
差出人の名前を見て、私は固まった。
「大使」。
中を開けると、そこには結婚式の招待状。
差出人は大使と、見知らぬ女性の連名。
離婚からわずか1ヶ月での再婚。
「……ふうん。」
私はしばらくその招待状を眺めていたが、やがて静かに笑みを浮かべた。
そして、電話をかけた。
「もしもし。私。招待状、上送っといたから。」
受話器の向こうで、大使が軽い調子で話し始める。
「ああ、久しぶり。元気? 式には来られる?」
その声には、私がどんな顔をするのか見たいという下心が透けて見えた。
私はゆっくりと、一言ずつはっきりと告げた。
「妊娠中だから、行けない。」
「は?」
「だから、妊娠中なの。あなたの子供を妊娠してる。」
「ちょ、ちょっと待てよ。妊娠って、どういうことだ?」
「どういうことも何も。あなたの子供だよ。離婚する前に、最後に会った時の。あの時、あなたは『記念に』って言ってたでしょ。」
「そんなはずない! 避妊しただろ!」
「したけど、外れたみたい。私も最近気づいたの。ちょうどあなたの再婚が決まったくらいの時期にね。」
「おい、それって……」
「私からは以上。式、楽しんでね。」
私は通話を切った。
受話器の向こうで、大使が何か叫んでいたけれど、もう聞こえなかった。
それから数日後。
私は弁護士のところへ行き、手続きを始めた。
再婚した元夫に対する、養育費の請求と認知の訴え。
「あなたの子供なんだから、責任を取ってくださいね。」
私は書類を整理しながら、静かにつぶやいた。
これから始まる長い戦いを思い浮かべて、少しだけ笑みがこぼれた。
ホールケーキの上でろうそくの火を吹き消す陽菜の顔を見ながら、私は思った。
幸せになる方法は、一つじゃない。
そして、黙って泣き寝入りする必要も、もうないのだと。



