夫に先立たれて3年。静岡の古い団地で、千子は毎日同じように、スーパーのレジ袋を三角形に畳んで過ごしていた。ある梅雨の夜、ドアの隙間に落ちていた紙切れ——それは今日の日付の葬儀社の領収書で、そこには自分の名前が印刷されていた。「山杉千子」。千子は三日後に、自分自身の葬儀が予約されていることを知った。誰が、そんなことを。この団地に、自分の死を知っている人間がいる。それは、一体誰なのか。…

夫に先立たれて3年。静岡の古い団地で、千子は毎日同じように、スーパーのレジ袋を三角形に畳んで過ごしていた。ある梅雨の夜、ドアの隙間に落ちていた紙切れ——それは今日の日付の葬儀社の領収書で、そこには自分の名前が印刷されていた。「山杉千子」。千子は三日後に、自分自身の葬儀が予約されていることを知った。誰が、そんなことを。この団地に、自分の死を知っている人間がいる。それは、一体誰なのか。...

6月の雨は、音もなく降り続いていた。その雨が、なぜか心の隙間にまで染み込んでくるような、そんな日だった。

静岡県の海沿いにある古い団地の一室。山杉千子の部屋は、午後4時を過ぎても薄暗いままだ。テレビはついておらず、冷蔵庫だけが台所の隅で低く唸っている。6畳の和室には、折りたたんだままの洗濯物が2日分積まれていた。それを片付けようと思ったのは、昨日だったか、一昨日だったか。もう思い出せなかった。千子は65歳だった。

夫の山杉吉が死んだのは、3年前の冬のことだ。急性心不全だった。発見したのは、千子自身だった。朝、台所で水を飲もうと起き上がったら、トイレの前に夫が倒れていた。救急車を呼んだが、すでに手遅れだった。

葬儀が終わり、49日が過ぎ、一周忌も三回忌も終わった。それでも、部屋の空気だけは、あの冬の朝からずっと止まったままのように感じられた。

夕方になると、千子はいつも同じことをした。まず台所に行って、棚の引き出しを開ける。そこにはスーパーのレジ袋が、三角形に折りたたまれてきっちりと並んでいた。買い物から帰るたびに、丁寧に畳んでしまうのが彼女の癖だった。

夫が生きていた頃は、吉が笑いながら言ったものだ。

「そんなに貯めて、どうするんだ」

夫が死んでから、引き出しの袋はさらに増えた。捨てる機会がなくなったからだ。

次に冷蔵庫を開ける。豆腐が半分。昨日の夕食の残りだ。卵が2個。醤油はそろそろ底をつきそうだった。そして、奥に隠れるように、缶ビールが1本あった。それは吉が死ぬ前に買ったものだ。なぜか、ずっと捨てられずにいる。

千子は冷蔵庫を閉め、電気ケトルのスイッチを入れ、緑茶のティーバッグを湯呑みに入れた。お湯が湧くまでの間、窓の外の雨を眺めた。ベランダに出しっぱなしの鉢植えのアサガオが、雨に打たれてぐったりとしていた。水をやるのを忘れていたわけではない。梅雨の時期は、むしろ水が多すぎて根が腐ることがある。それが分かっていても、鉢を室内に入れる気力が出なかった。

緑茶を飲み終えると、やることがなくなった。午後5時。午後6時。時計の針だけが動いていた。

千子は押入れから古いアルバムを引っ張り出して、パラパラとめくってみた。吉の写真。娘のリナが幼かった頃の写真。家族3人で行った旅行の写真。吉はどの写真でも笑っていた。千子はどの写真でも、少し照れくさそうな顔をしていた。今の自分とは、まるで別人みたいだと思った。

アルバムを閉じ、テーブルに置きっぱなしのスマートフォンを手に取った。画面を起こす。通知は何もなかった。娘のリナから最後に連絡があったのは、5月の連休前だった。「お母さん、元気? 仕事が忙しくて、なかなか連絡できなくて」という短いメッセージ。千子が「元気だよ」と返信してから、それきりだ。

娘は静岡市で、不動産会社に勤めている。忙しいのは本当だろう。しかし、それでも——千子はスマートフォンをテーブルに戻した。

夜が更けても、千子はなかなか寝付けなかった。横になっても、目は冴えたまま。天井のシミを数えているうちに、時計は深夜0時を回った。

ふと、玄関の方で、何かが擦れるような音がした、気がした。千子は体を起こし、耳を澄ませた。しかし、聞こえるのは雨音だけだった。無意識のうちに、落ち着かなくて、そっと玄関に向かった。ドアチェーンを確認し、鍵がかかっていることを確かめる。何も異常はない。ただの物音だったのだろう。そう思って、自分の部屋に戻ろうとした、その時。

玄関のドアの下の隙間に、何かが落ちているのに気がついた。白い紙切れだった。千子はしゃがみ込んで、それを拾い上げた。雨に濡れて、くしゃくしゃになった、レシートのような紙。ライターで火を点けて、確かめた。

そこに印刷されていたのは、今日の日付と、とある葬儀社の名前。そして、一つの名前。

——山杉 千子。

自分の名前が、そこにあった。

Thumbnail