「何するの?変態。」
平手打ちされたと分かったのは、彼女のその声を聞いた時だった。眉を釣り上げて怒る顔も綺麗だなと見惚れていたせいで、反応が遅れた。
「最低最低最低。これだから男は。警察、警察を呼ぶ!」
「ま、待て待ってくれ。俺の話を聞け。」
「触らないで!」
ソファーに置いてある鞄を取ろうとする彼女の腕を、思わず掴んでしまった。すると彼女は金切り声をあげて、開いている方の手で俺の手を叩いた。
どうしてこうなったんだ?俺はただ、酔っ払った彼女を介抱しただけなのに。
だが、この後に彼女が突きつけてきた言葉に、俺はさらに我が身に起きていることを疑うはめになる。
「私の……になってほしいの。」
真っ赤な顔をして、潤んだ瞳で俺を見る彼女。車内は愚か社外でも美人で有名な彼女のその提案に、俺は――。
俺の一万分の一の才能もないくせに、よくそんな顔ができるな。
その日の朝、俺は会社の受付に立つ肘方スメの姿を、いつものように遠くから眺めていた。彼女は毎日、栗色の豊かな髪をお団子にまとめ、派手すぎない程度の化粧を施し、完璧な勤務態度で受付の仕事をこなす。見た目も勤務態度も完璧な彼女に憧れる男性は多い。俺もその一人だ。
「坂本先輩、今日のスズメちゃん見ました?化粧品変えたんですかね?肌の色味がちょっと違ってました。いつもより透き通ってるような。」
勤務時間中、後輩の高尾が俺の隣でパソコン作業をしていた坂本に向かって、そんなことを言い出した。俺は居心地の悪い笑みを浮かべる高尾を睨みつける。
「高尾。軽口を叩く暇があるならさっさと仕事をしろ。」
注意すると、彼は俺を軽蔑するような目で睨み返す。
「先輩、相変わらず堅いですね。そんなんじゃ仕事も私生活もうまくいきませんよ。」
「残念だったな。どっちも順調だ。」
「好きな女性に話しかけることすらできないくせに。」
高尾のその一言に、俺は言葉をつまらせた。高尾は顔立ちが非常にいい。有名な超難関大学出身のエリートで、できる男の風情から女性に非常によく持てる。昔からそんな感じらしく、女性の扱いにも長けていた。
「はいはい、喧嘩しないの?」
何も言えずに高尾を睨む俺と、そんな俺を馬鹿にしたような表情で見下すマ。マとは幼馴染みで、昔からこいつに窘められれば俺も落ち着いてしまう。今回もそうだった。
不満に口を尖らせていた高尾が、不意に立ち上がる。
「よし、決めた。俺、スズメちゃんに告白してきます。」
「え、いきなり何?」
呆気にとられる俺の代わりに、マが高尾に尋ねてくれた。高尾は俺を見て意地の悪い笑みを浮かべる。
「そろそろ行けるかなって思ってるんですよ。あの男嫌いで噂の彼女と、会話を続けられるようになりましたし。」
そう言うなり、高尾は早足でオフィスを出て行ってしまった。まずい。顔も良くて頭もいい高尾に告白されてしまえば、さすがの肘方もOKするかもしれない。さっきの高尾の言葉を信じるなら、仲も進展しているようだし。慌てて後を追うと、他の男性社員も焦った様子でついてくる。
エントランスに出た高尾は、接客用の笑顔を浮かべている肘方のところへまっすぐに向かっていく。張り付けた笑顔で対応しているのだが、その時は対面する男に怯えているように見えた。その姿に俺は胸を締め付けられると同時に、強く掴まれてしまった。
男の横顔には覚えがあった。俺の部長が商談を進めている、駒田だ。
「駒田さん、商談ですよね。私がご案内いたします。」
声をかければ、駒田は俺を睨みつける。その目は、明らかに敵意を宿していた。駒田は肘方に何を話していたのか。俺は彼女を守らなければならないという使命感に駆られながら、彼女の前に立った。
「肘方さん、大丈夫ですか?」
「は、はい。大丈夫です……」
彼女は俯いたまま、小さく答えた。その声音には、明らかな動揺が混じっていた。駒田の視線が俺を射抜く。次の瞬間、誰かが駒田の背中を押した。倒れた駒田は起き上がろうとし、肘方がそれを止めようとした。乱闘騒ぎの中、肘方の服が乱れ、彼女の体が露わになった。俺は咄嗟に自分のジャケットを脱いで、彼女の肩に掛けた。
「大丈夫ですか?肘方さん。」
「……ありがとうございます。」
彼女は震える声で礼を言った。その目には涙が浮かんでいた。周りの男たちが騒ぐ中、俺と肘方は無言で見つめ合った。そして、彼女は突然こう言ったのだ。
「私の……になってほしいの。」
俺は耳を疑った。何を言っているんだ、この状況で。だが、彼女の目は本気だった。酔っ払って意識が朦朧としているのは分かっていたが、その提案はあまりにも現実離れしていた。
「肘方さん、正気ですか?今の状況を考えて……。」
「頼む……。私を、助けてほしいの。」
彼女の声は震えていた。その瞳には、恐怖と切実さが混ざっていた。俺は混乱しながらも、彼女の言葉を聞かざるを得なかった。そして、その直後、彼女の顔に何かが当たったのを感じた。肘方の手が、俺の頬に触れていた。
「本当に……私たち、何もないよね……?」
彼女は呟くように言った。その言葉に、俺の心は凍りついた。何もないはずの関係が、今、妙な形で繋がれてしまった。俺は彼女の言葉の意味を考えながら、再び彼女の目を見つめた。そこには、俺が知らない何かが潜んでいた。



