お父さんが新しい車を買ったのよ。今からじゃローン組めないから、あなたが支払うことになったの。
電話越しに義母が放ったその言葉で、頭の中が真っ白になった。毎日の節約で未来のためだけに貯めていたお金が、たった一本の電話で消えた。絶望という言葉では足りない。
力が抜けて床にへたり込むと、息子のはるきが近づいてきて、僕の頭をポンポンと撫でた。
「これ、使っていいよ」
手渡された漆黒のカード。中央に小さく金色のロゴが刻まれている。ずっしりと重く、金属製だとすぐに分かった。
私はもうあの家に縛られたくない。言葉にした瞬間、胸の奥で何かが軽くなった。
私の名前はり子。在宅でデザイナーをしている34歳だ。朝8時にパソコンの電源を入れ、雑誌や書籍のレイアウトを担当している。出版社で働いていた頃から、私的な事情で在宅勤務に切り替えて3年が経つ。
午前中に1本目のデータを送り、午後は新案件のラフを起こす。集中していると肩に重いしびれが走った。時計は午後1時を過ぎている。背伸びをしてデスクから立ち上がり、奥の和室のふすまを開けた。
低い鳴き声が一斉に重なる。茶色い調毛の猫が真っ先に駆け寄り、その後ろから白黒のミケ、黒、生地柄が次々と足元にすり寄ってくる。最後に窓辺で眠っていた灰色の老猫が立ち上がった。合わせて六匹。全員、私が引き取って育てている子たちだ。
「ちょっと待ってね。今、ご飯にするから」
和室の隅に積んであるフードの袋を開け、六つの皿にそれぞれの分量を測り分ける。年齢も体格も違うから、餌の種類と量は一匹ずつ変えている。皿を並べると、六匹はそれぞれの定位置についた。順番も縄張りも、彼らの中ではきちんと決まっている。
食べる後ろ姿を眺めながら、私は床に腰を下ろした。この子たちは実は、本当の私の猫ではない。全員、実家で飼われていた猫だ。実家で飼えなくなった子が定期的に我が家へ流れてくる。送り付けられると言った方が近いかもしれない。私が在宅勤務に切り替えたのも、増え続ける猫たちを世話するためだった。
私には本当の両親がいない。生まれてすぐに施設に置き去りにされた。一歳になる前に、小谷家の養子として迎えられた。
義父母は若くして結婚した同級生同士。お互い24歳で結婚し、すぐに子供を望んだが、なかなか恵まれなかった。義母は病弱で、義父も大病を患った経験がある。30代に入って不妊治療にも臨んだが結果は出ず、35歳までに子供ができなければ養子を迎えようと決めていた。
そのタイミングと、施設にいた私の存在がちょうど重なった。こうして私は小谷家の娘になった。
しかし、それから6年後。義母が待望の実子を授かったのだ。
その日、病院の待合室で義母は私に言った。その言葉は、6歳の私の頭に今も鮮明に残っている。
「本当の子供が生まれたんだから、り子はどうするんだい? 施設に返すのかい?」
義父が慌てて「なんてこと言うんだ!」と止めたが、義母は涼しい顔のままだ。私はただ、膝の上で握りしめた手を見つめることしかできなかった。
それから私は、名前だけは小谷家の者として育てられた。しかし「本物の子供」ではない。その認識は、あの日からずっと変わらない。
実家を離れて一人暮らしを始めてから、猫が届くようになった。義母が飼えなくなった猫を、私の家に押し付ける。最初は一匹。次は二匹。気づけば六匹になっていた。断るたびに、義母は決まって言う。
「あなた、暇でしょ。施設から来た子は、そういう役目も引き受けるものよ」
私は何も言い返せなかった。言い返すたびに、「あの日、施設に返さず育ててやった」と言われるのが分かっていたから。
在宅で仕事を始めたのも、猫の世話をするためだと言えば聞こえはいいが、本当は外に出るのが怖かった。人と会うたびに、「あの家の養女」というレッテルを貼られている気がした。
はるきが生まれたのは、私が29歳の時。夫と出会って結婚し、一人息子をもうけた。夫は私の過去を知った上で受け入れてくれた。はるきが生まれてから、私はようやく「誰かの本当の家族」になれた気がした。
しかし、その夫も3年前に事故で亡くなった。以来、私とはるきの二人暮らしだ。
義母からの電話は、いつも予告もなく来る。今日の電話もそうだった。
「お父さんが新しい車を買ったのよ。今からじゃローン組めないから、あなたが支払うことになったの。ああ、書類は後で送るから」
義母は用件だけ伝えて、一方的に電話を切った。私が何か言う前に。貯金を切り崩して必死に蓄えたお金が、何の相談もなく、ただ奪われた。
はるきがリビングの扉から顔を出したのは、私が床に座り込んだまま動けずにいた時だ。黙って近づいてきて、私の頭を撫でた。そして、自分の大切なカードを差し出した。
「これ、使っていいよ」
小学生の息子が、何も聞かずにそう言ってくれた。私はそのカードを受け取りながら、涙が止まらなかった。
「ねえ、はるき。おばあちゃんから届いた書類、捨ててもいいかな」
はるきは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに小さく頷いた。
「うん。り子ちゃんが決めたなら、それでいいよ」
その言葉が、私の背中を押した。私は初めて、あの家に向き合う決心をした。
実の両親に捨てられた子供。養女として迎えられても「本物の子供」になれなかった娘。そんな私が、初めて自分自身のために動こうとしている。
電話をかけ直す前に、私は書類を手に取り、ゆっくりと細かく破った。破れた紙片が床に散らばるのを見下ろしながら、私は静かに言った。
「もう、何も渡さない」
その翌朝。私はスマホを手に取り、弁護士事務所の電話番号を検索していた。一覧に並ぶ事務所の名前を見つめながら、私は深く息を吸った。
この一歩が、私の人生を変えることになるとは、この時はまだ知らなかった。



