「この人痴漢です!」――通勤電車で突然、見知らぬ女性に二の腕を掴まれた。61歳の弁護士である私は、静かに彼女に尋ねた。「それは右手でしたか?左手でしたか?」その質問に、彼女の手に力が入ったのを感じた。私は痴漢などした覚えはない。だが、この場で騒げば誰も私の言葉を信じないだろう。私は弁護士として数々のトラブルを解決してきた。しかし、この電車の中という場所では、私の立場など無力だった。女性の次の…

「この人痴漢です!」――通勤電車で突然、見知らぬ女性に二の腕を掴まれた。61歳の弁護士である私は、静かに彼女に尋ねた。「それは右手でしたか?左手でしたか?」その質問に、彼女の手に力が入ったのを感じた。私は痴漢などした覚えはない。だが、この場で騒げば誰も私の言葉を信じないだろう。私は弁護士として数々のトラブルを解決してきた。しかし、この電車の中という場所では、私の立場など無力だった。女性の次の...

久しぶりに通勤ラッシュの電車に乗った。もう学校は始まっている時間帯だから、若い乗客はいない。代わりに会社員たちでぎっしりだ。

「いや、やめてください!」

耳元で女性の声がした。同時に、二の腕をガシッと掴まれる。

「この人痴漢です!私、お尻を撫でられました!」

「思い出させるかもしれませんが、それは右手でしたか?それとも左手でしたか?」

俺は静かな声で尋ねた。俺の腕を掴んだまま、女性の手に力が入る。

俺の名は飯田孝志。61歳。複数の会社と契約を結び、相談を受ける仕事をしている。

「飯田さんはいいですよね。うちの会社、63歳過ぎたら契約社員扱いですよ。給料も下がるし、資格があっても年齢が先で仕事させてもらえない。今では現場を離れて施工管理の仕事に回されました」

俺が出入りしている会社の一つ、守る建設は高年齢者の雇用が多い会社だ。だが蓋を開けてみると、63歳はまだ働き盛りなのに「定年への準備期間」と位置づけられているらしい。

1年契約で最長2年間働けるが、65歳になったら定年退職。退職金もそれなりにもらえるから、退職後は工事会社や警備会社で働くという流れだそうだ。

長年専門的な仕事をしてきた人は資格取得のための研修を受けることもあるが、そういう人材は稀だという。

「四角い仕事は一生食いっぱぐれがないですよ。でも体力勝負の建設業界はね…」

こちらが俺の仕事を羨んでも、俺の仕事も楽なもんではない。学び続けなければいけないし、フットワークが重要だ。日々アップデートを繰り返し、学ぶことをやめてしまえばついていけなくなる。

「いや、そんなことないですよ。こちらもお客さんを一瞬で失う可能性ありますからね」

俺と同じ資格を持つ人たちの中には、ものすごい表部隊で活躍する人もいれば、俺のように個人で細々とした仕事を選ぶ人もいる。年収はこの会社の不動産部で働くやり手営業社員の方が上だし、俺よりも稼ぐ同業者も多い。

俺は一瞬にして顧客や仕事を失うことはしたくない。手堅く仕事をしたいだけだ。安全策を取って、企業に出入りして相談を受けたり手続きを専門にすることを選んだ。

ある日、守る建設の人事担当から呼び出しの電話が来た。いつもなら財務や労務担当からの呼び出しが主だが、人事担当からの呼び出しとくれば、要件は穏やかな内容ではないだろう。

俺は目の前の仕事を片付けて、アシスタントに託してから守る建設へ足を運んだ。

人事部の部長は、人目を気にしながら俺を会議室へ招く。

「どうしたんですか?」

人事部長の隣には、小さくなっている一人の男性がいる。不動産部の井上正だ。

「実は訴えられそうなんです。こんなこと誰にも相談できなくて」

「でも人事部長さんにはお話できたから、私に伝えてもらえたんだよね」

「辞職願を出してきたんですよ。それで話を聞いたら…」

「訴えられそうだから辞職というのは短絡的だと思うね。話を聞かせてください。井上君の助けになれると思うよ」

ここで俺の職業を明かすと、弁護士という仕事をしている。様々な都合があって、複数の会社の顧問弁護士を務めているのだ。

井上の話によると、不動産取引の際にある書類の処理を誤ったことで、相手方から訴えられそうになっているらしい。井上本人は悪意があったわけではないと言うが、相手は許す気配がないという。

「なんで相手に自分の身分を明かしたの?」

井上はうつむいたまま、小さな声で答えた。

「正直に話せば分かってもらえると思ったんです…」

俺はため息をついた。そういう甘さが、かえって状況を悪化させることもあるのだ。

「まずは相手方がどのような対応を求めているのか確認しましょう。その上で、こちらとしての対応を決めていきます」

井上の顔が少しだけ明るくなった。

「ありがとうございます…」

その日のうちに、俺は井上から詳しい話を聞き、関係書類を確認した。確かに処理の誤りはあるが、井上に悪意はない。しかし相手方は感情的になっているようだ。

後日、俺は相手方の代理人と面談することになった。相手方の代理人は、こちらが弁護士だと知ると、態度が変わった。

「なるほど、顧問弁護士が介入してきたというわけですね」

「ええ。何とか示談で解決できる道はないでしょうか」

「こちらとしては、会社の責任を明確にしてもらわないと納得できません」

交渉は長引きそうだ。しかし、井上を守るためには、この交渉を妥協なく進めるしかない。

数週間後、ようやく示談の方向で合意できそうになった。相手方も、井上が無資格で不動産取引に関わっていたわけではないこと、単純な書類ミスであることを理解してくれたのだ。

「これで何とか解決できそうです」

俺がそう伝えると、井上は深く頭を下げた。

「本当にありがとうございました」

「仕事上のミスは誰にでもあります。大事なのは、そこからどう立ち直るかです」

井上はそのまま会社を辞めることなく、今ではより慎重に仕事をこなしているという。

俺の仕事は、こういう人の窮地を救うことだ。時には電車の中で痴漢扱いされることもあるが、それでも、人々の信頼に応えるために、俺は今日も企業を回る。複数の会社と契約を結び、相談を受け、手続きを専門にしながら。61歳の弁護士として、できることを続けていく。

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