電話のベルが朝の静けさを引き裂いた。弟の悠也からだった。
「兄さん、今日休みだよね」
「うん。まだ寝てた」
寝ぼけた声のまま洗面台に向かうと、悠也は唐突に言った。
「俺、結婚しようと思ってる相手がいるんだ。今度紹介したい」
一瞬で目が覚めた。あの小さかった弟が、結婚する。嬉しさが胸に広がった。
俺たちは二人で助け合って生きてきた。母は幼い頃に家を出て、戻ってこなかった。父の顔さえ思い出せない。
小学生だった俺は、保育園に通う悠也の世話をした。
「お兄ちゃん、ごめんね。また仕事に行くから。夕飯はこれをチンして、悠也と二人で食べてね」
「わかった。お布団だけ出しといて」
そう言い置いて、母は二度と帰らなかった。
悠也は夜になると泣いた。
「お母さんは今日帰ってくる?」
その質問に答えられなくなるまで、そう時間はかからなかった。
祖父母は怒りを飲み込みながらも、俺たちを愛して育ててくれた。温かいご飯が毎日あるだけで、俺は幸せだった。
弟を守るのは俺しかいない。そう覚悟した。
悠也がいじめられた時、俺は祖母のほうきを振り回して追い返した。
「こいつの兄ちゃん、やべえ。逃げろ」
空手を習いたいと思ったが、田舎に教室はなかった。その代わりに祖父が釣りに連れて行ってくれた。
海の前で釣り糸を垂らすと、心が静かになった。祖父の釣り仲間の日野さんも、俺に優しかった。
「父さんがいたら、こんな年齢なのかもしれない」
そう思うと、自然と彼に懐いていた。
俺は悠也に言った。
「お前は勉強していい学校に行け。大学にも行け。将来仕事に困らないように。そのためなら何でも働く」
悠也はその言葉に応え、名門高校から大学へ進み、一流企業で働くようになった。
そして今、結婚したい相手がいると言う。
兄として、これほど嬉しいことはなかった。
「今度の休みに、俺の社宅に連れて行ってもいいかな?」
「ああ。楽しみにしてる」
そうして迎えた紹介の日。
彼女は銀行員の令嬢だった。美しく、育ちが良さそうな女性。
だが、初対面の挨拶もそこそこに、彼女は俺を一瞥し、こう言い放った。
「お兄様は、結婚式に絶対に来ないでください」
俺は中卒で建築現場で働いている。彼女はそれが許せないらしい。
「来てくださったら、結婚は取りやめますので」
俺にとって悠也は、唯一の家族だ。その幸せを壊すくらいなら、俺が消えればいい。
「わかった。行かない」
そう答えるしかなかった。
そして結婚式当日。
どれほど辛くても、俺は欠席した。
だが、そこで問題が起きた。
「新郎のお兄さんはどこだ?」
俺がいないことで、式はなぜか大変な事態に陥った。
なぜ彼女が俺をそこまで嫌ったのか、なぜ俺の欠席が問題になったのか。
俺は何も知らされていないまま、電話の向こうで慌てる悠也の声を聞くことになった。
「兄さん、今どこにいる?」
その声の震えに、俺は初めて「もしかして」と思う。
だが、もう遅い。
式は止まらない。
俺は受話器を握りしめたまま、答えを待った。
【次の瞬間、式場で何が起きたのか――】



