夫の雪夫が若い女と肩を並べてホテルから出てくる現場を、私は正面から抑えた。数分前のことだ。目の前の男は「同僚の相談に乗ってただけ。何もしてないって」と、さも当然のようにヘラヘラ笑い飛ばした。
「で、悩み相談とやらは密室でしかできないのね」
私の皮肉なんて、今の雪夫には届かない。隣に立つ同僚の蒼井は、私を哀れむような薄笑いを浮かべ、勝ち誇ったように雪夫の腕に絡みついている。
「密室じゃないと話せない難しい仕事の話だ。お前には分からないだろうけどな」
雪夫は平然と嘘を並べ立てた。証拠の写真や動画を突きつけても、彼は「どうせ誰も信じない」と鼻で笑う。挙げ句の果てには、蒼井の腰を引き寄せながら言い放った。
「それより早く帰って飯の準備しろよ。今日は贅沢な気分なんだから」
二人の背中に、私への罪悪感は微塵も感じられない。夜風に吹かれながら、私は怒りで震える拳を強く握りしめた。この屈辱、決してこのままでは終わらせない。
私の名前は長井雅美。専業主婦として平穏な日々を送るはずだった女性だ。かつて都内の商社で熱心に働いていた私が出会ったのが、3歳年上の雪夫だった。順調に愛を育んだある夜、彼は高級なイタリアンレストランでスマートフォンの画面を見せてきた。
「雅美、見てくれ。株で1000万円も稼いだんだ」
画面に並ぶ桁違いの数字に、私は言葉を失った。
「この資金があれば将来は安泰だ。だから俺と結婚してほしい」
彼は輝く指輪を差し出し、情熱的な瞳で私を見つめた。一生贅沢させてやる、もう働かなくていいんだ。私はその言葉を信じ、幸せな未来を夢見てプロポーズを受け入れた。
しかし結婚の報告に訪れた際、義母から厳しい条件を突きつけられた。義母は現役のマナー講師で、非常にプライドの高い女性だ。
「長井の嫁が外で働くなど恥さらしです。専業主婦として家を守りなさい」
「母さんの言う通りだ。雅美が家庭に入って俺を支えてくれればいい」
二人の強い要望に押され、私は長年務めた会社を退職することを決意した。キャリアを捨てる不安はあったが、雪夫との生活のために覚悟を決めた。こうして私は専業主婦としての人生を歩み出した。これが地獄への入り口になるとは、その時の私は知る由もなかった。
幸せな結婚生活は驚くほど短い期間で終わりを迎えた。新婚生活が始まってわずか3ヶ月後のことだ。ある夜、雪夫が真っ青な顔をしてリビングのソファに崩れ落ちた。
「雪夫、一体どうしたの? 顔色が悪いわよ」
彼は震える手でスマートフォンを握りしめ、力なく呟いた。
「雅美、ごめん。株の元手が全部溶けちゃったんだ」
「全部って…あの時見せてくれた1000万円のこと? 」
「そうだ。一気に勝負を仕掛けたら裏目に出ちまった」
一瞬にして、私たちの将来設計は音を立てて崩れ去った。しかし雪夫はそれでも懲りずに投資を続けた。毎日仕事から帰るとパソコンの前に張り付いている。
「また投資をしているの? 今は現実に貯金するべきじゃない?

」
私がそう言うと、彼は不機嫌そうな顔で怒鳴り返す。
「うるさいな。俺の稼いだ金だろ。どう使おうが俺の勝手だ」
それからというもの、私たちの会話は減っていった。彼は帰宅が遅くなり、休日も出かけることが増えた。スマートフォンを隠すように操作する姿に、嫌な予感はしていた。まさか、それだけではなかったとは。
雪夫の浮気を疑い始めたのは、洗濯物から煙草の匂いがした時だった。彼は昔から煙草を吸わない。しかし、それはまだ序章に過ぎなかった。ある日、彼のスマートフォンがリビングのテーブルに置き忘れられていた。画面には見知らぬ女からのメッセージが並んでいた。
「雪夫くん、今日もありがとう。次はどこで会う? 」
ヘルプマークというには軽いその文面に、私の血は一気に冷えていった。そして今、私は彼の浮気現場を直接目撃した。ホテルのロビーから、蒼井と二人で出てくる瞬間を。
家に戻った後、私は彼の言い分を冷静に聞こうとした。だが、雪夫は逆上するばかりだ。
「証拠もないのに決めつけるなよ」
「証拠ならあるわ。動画も写真も撮ったわよ。それでも言い逃れるつもり? 」
「ふん、誰が見てもただの同僚に見えるさ。お前の思い込みだろ」
彼はそう言って、また笑った。私はその瞬間、確信した。この男に何を言っても無駄だと。この男は自分が正しく、私はただの金銭的利益を求める女だと思っている。いや、違う。私はこの男のためにキャリアを捨てたというのに。
私は黙ってリビングを出て、婚姻届と共に、以前見つけた探偵事務所の名刺を取り出した。携帯の電話帳を開き、実家の番号を押そうとして指を止める。両親に相談しても、あのプライドの高い義母が黙って許すはずがない。縁談だった私たちの結婚は、両家の顔を立てるためのものだった。
雪夫は今でも私を軽蔑した目で見る。それでも私は、この屈辱を抱えたまま泣き寝入りするつもりはない。この男に泣き顔を見せるのは悔しい。何も知らないふりをして、静かに彼の足元を崩す準備を始めよう。
週が明け、私は弁護士事務所を訪れた。担当の弁護士は、私が持ち込んだ写真や動画を見て、深く息を吐いた。
「これは…かなり分が悪いですね。ただし、揺さぶる材料には十分なります」
彼はそう言って、1枚の用紙を差し出した。それは別居に向けた準備についての書類だった。私はサインを求められ、ペンを握った。この一枚が、私の新しい一歩になる。何も怖くない。既に失うものは、あの男にかけた信頼だけなのだから。
数日後、私は雪夫の前で静かに言い放った。
「私、実家に帰るわ」
「は? 何言ってんだ、いきなり」
「あなたのそばにいると、私まで不幸になる気がするの。少し距離を置きましょう」
雪夫は一瞬呆けた顔をしたが、すぐに鼻で笑った。
「どうせ実家に帰って甘えるんだろ。好きにすればいいさ」
彼は私の退職金と貯蓄の通帳を引き出しにしまっているのを知っていた。私はそれを取り返す気はない。ただし、全てを記録したノートは既に弁護士に預けてある。決着は法廷の場で着けるつもりだ。
私は荷物をまとめ、一人で実家へ戻った。妹が驚いた顔で出迎える。
「姉さん、どうしたの?
まさか喧嘩したの? 」
「ううん、ちゃんと話をするために、一度離れただけ」
私はそう言って、預けていた資料一式を開いた。そこには、雪夫と蒼井が書き込んだホテルの領収書、証拠写真、彼の虚偽の説明の記録が並んでいる。私は一つずつ深呼吸をしながら、それらの書類を並べ替えた。
夫婦間の話し合いの場は、来週に設定された。私はそこに行く。あの日、ホテルの前で笑っていた男の顔を、もう一度だけ見つめるために。ただし、今度は怯えた表情を浮かべる男として。この物語は、私が主導権を握る形で、次なる章を迎える。


