「迷惑だからもう来ないで」
玄関先で放たれたその言葉に、私は一瞬耳を疑いました。目の前に立っているのは、27年間必死に育ててきた息子のけ太郎。その隣では、嫁のみさが腕を組んで私を見下ろしています。
「母さん、アポなしで来られても困るんだよ。僕たちにも生活があるんだから」
「お母さん、正直に言いますけど、あなたの価値観って古すぎて、うちの子供たちに悪影響なんです。教育方針も全然違うし」
そうなの?私はゆっくりと二人の顔を見つめました。27年前、夫を亡くしてから独りで必死に育ててきた息子。その瞳にはもう、母への情などかけらも見当たりません。
「分かったわ。もう来ないようにするわね」
不思議なことに、口元には自然と微笑みが浮かんでいました。け太郎とみさはその笑顔に一瞬戸惑ったような表情を見せましたが、すぐに安堵の色を浮かべました。
「理解してもらえてよかったです。お母さんももっと自分の人生を楽しんだらどうですか?私たちに執着しないで」
みさの勝ち誇ったような声を背に、私は静かに踵を返しました。心の中で、ある決意が固まっていくのを感じながら。27年前のあの日から、私はこの時をずっと待っていたのです。
あの日の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。
「まち子、俺はもう長くない。け太郎を頼む」
病室のベッドで、夫は弱々しい声でそう言いました。それが最期の言葉でした。当時18歳だったけ太郎は父の死にショックを受け、部屋に閉じこもってしまいました。
「母さん、僕どうしたらいいの?」
泣きじゃくる息子を抱きしめながら、私は覚悟を決めました。この子を立派に育て上げる。それが亡き夫への最後の約束だと。
朝5時に起きて弁当を作り、昼は小学校で教師として働き、夜は塾講師、週末は家庭教師。3つの仕事を掛け持ちして、け太郎の大学費用600万円を貯めました。
「母さん、僕絶対に恩返しするから」
大学合格の日、け太郎はそう言って私を抱きしめてくれました。あの日の温もりを、私は今でも忘れません。
そして7年前、け太郎がみさと結婚する時。
「母さん、マイホームの頭金が足りなくて…」
「大丈夫よ。これを使いなさい」
私は退職金から500万円を渡しました。
「母さん本当にありがとう。一生大切にするよ」
あの時のけ太郎の笑顔と感謝の言葉。それが嘘だったとは、当時の私には想像もできませんでした。
結婚後、最初は幸せな日々が続きました。
「お母さん、孫の面倒を見ていただけませんか?私、仕事復帰したくて」
みさの頼みで、私は喜んで孫の世話を引き受けました。朝にけ太郎の家へ行き、夕方6時まで。3年間、無償で孫たちの世話をしました。公園で遊ばせ、お昼寝の時間を管理し、離乳食も手作りで用意しました。
「お母さんのおかげで本当に助かりました」
当時のみさは、何度もそう感謝の言葉を口にしていました。しかし、みさが専業主婦になってから、風向きが変わり始めたのです。
「お母さん、勝手に子供たちにお菓子をあげないでください。うちは食育に厳しいんです」
「でも、手作りのクッキーよ。添加物も入っていないし、素材も厳選して…」
「素人の手作りなんて衛生面が心配です。市販のオーガニックの方がまだマシです。それに砂糖の量も分からないし」
みさの言葉に傷つきましたが、孫のためと思い我慢しました。けれど、次第に私の訪問自体が問題視されるようになりました。
「母さん、せめて事前に連絡してから来てくれない?」
「月に1回くらいなら、連絡しなくても…」
「月1回でも多いよ。2ヶ月に1回で十分だろ」
みさも同じ意見のようでした。そして、とうとうあの日。
「迷惑だからもう来ないで」
その言葉を聞いた時、私の中で何かが静かに目覚めました。悲しみではありません。怒りでもありません。長い間眠っていた、ある計画が。
私は家に帰ると、夫の遺影に向かって静かに語りかけました。
「あなた、私やっと分かったわ。あの日の約束、もう十分果たしたでしょ?」
夫は生前、ある弁護士に遺言書を預けていました。そこにはこう書かれていたのです。
「妻まち子はけ太郎を立派に育て上げた場合、私の遺産全額と生命保険金を受け取る権利がある。ただし、その条件が満たされない場合、または妻が息子夫婦から虐待や冷遇を受けた場合は、全財産を妻の妹の子供たちに遺贈する」
私はずっと知っていました。け太郎の育て方に間違いはなかったと信じていましたが、夫は最期まで私のことを案じていたのです。そして、私は今までその遺言に書かれた条件を使う時を、ずっと待っていました。
翌日、私は弁護士に連絡を取りました。
「先生、遺言書の条件を発動させたいと思います」
その電話の向こうで、弁護士は静かに「承知しました」と答えました。
数週間後、け太郎とみさの元に一通の書類が届きました。それは、私が彼らに500万円を渡した際の贈与契約書と、夫の遺言書の写しでした。
「母さん、これはどういうことだ?」
け太郎が慌てて電話をかけてきました。
「どういうことって、そのまんまだよ。あなたたちの言う通り、私はもうあなたたちの生活に干渉しない。だから、私があなたたちに与えたものも、きちんと清算するだけ」
「まさか、贈与税を払えって言うのか?」
「違うわ。あの500万円は、正式な贈与として処理されていない。つまり、法的には私からあなたたちへの貸付金として扱われる可能性があるの。それに、あなたのお父さんの遺言書には、私が冷遇された場合、全財産を別の人に遺贈すると書いてある」
電話の向こうで、みさの金切り声が聞こえました。
「お義母さん、私たちが悪かったわ!お願い、話し合いましょう!」
「ごめんね、もう手遅れなの」
私は静かに電話を切りました。
これから始まるのは、私の人生の第二幕。息子夫婦に捨てられた私は、今度は法律という武器を手にして、自分の人生を取り戻すのです。
私に私を「荷物」と呼んだ人たちへの、恩返しを始めましょう。



