空港のチェックインカウンターで、スタッフの方が困ったような表情を浮かべました。
「森山様のご予約ですが、搭乗券は3名分しか発券できません」
「え? 4人分のはずですが」
私は思わず聞き返しました。久しぶりの家族旅行を、夫の安弘と二人、心から楽しみにしていたのです。その時です。息子の啓介が義母を連れて現れました。
「母さん、実は今回はお母さんと3人で行くことになったんだ。悪いけど、遠慮してもらえないか?」
周りの視線が私に集まります。空港のざわめきの中で、私だけが取り残されたような感覚に襲われました。
思い返せば、私は40年間郵便局で働き、夫と共に息子を育ててきました。啓介の教育費は大学まで合わせて1200万円。マイホームの購入時には頭金として800万円を援助しました。息子が結婚した時は心から祝福しました。嫁の千沙も最初は優しい子だと思っていました。
しかし、義母が頻繁に息子夫婦の家に通うようになってから、少しずつ様子が変わっていきました。私は月に15万円の仕送りを続け、孫の世話にも通い、誕生日プレゼントも入学祝いも一度も忘れたことはありません。それなのに、私は月に一度だけの訪問に制限されるようになりました。義母は毎週末、息子の家に招かれているというのに。
最初は小さな違和感でした。家族の食事会では、義母が上座に案内され、私はいつも末席。千沙は義母の皿に真っ先に料理を取り分け、私には何も言いません。孫の話題も、いつも義母が中心でした。義母の誕生日には家族全員で高級レストランへ。私の誕生日は「あ、今日だったっけ? ごめん、忘れてた」と言われ、コンビニで買ったようなケーキだけが差し出されました。
ある日、千沙が友人と話しているのを偶然耳にしました。
「実の姑って、なんか気を使わなくていいから楽なんですよね。うちの夫の実母は、ちょっと古臭い考え方で、正直あまり関わりたくないんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の手が震えました。
そして決定的な出来事が起きました。孫の運動会の日です。会場に着くと、義母は特等席に案内されていました。私は遠くの立ち見席で、必死に背伸びをしながら孫の姿を追いました。
「おばあちゃん、見て見て!」
孫が手を振っています。しかし、その視線は義母の方を向いていました。競技が終わり、孫のところへ行こうとすると、千沙が遮るように立ちました。
「あの、お母さん、今日は本当のおばあちゃんだけでいいかなと思って」
本当のおばあちゃん。その言葉が私の胸に深く突き刺さりました。私は本当のおばあちゃんではないのでしょうか。
そしてあの日、空港での出来事です。予約は4人分のはずでした。しかし、啓介が言いました。
「母さん、実は最初から3人分しか予約してなかったんだ」
最初から、計画的に。千沙も申し訳なさそうな顔を作りますが、その目には本当の謝罪の色は見えませんでした。
「お母さん、今回は遠慮してもらえますか? 母と行きたかったんです」
夫の安弘が怒りを抑えた声で言いました。
「啓介、これはひどすぎないか?」
しかし、啓介は困ったような顔をするだけです。
「母さんなら分かってくれると思ったんだ。いつも優しいし、文句も言わないから」
優しさを都合よく利用されている。我慢強さをいいことに使われている。そんな気持ちが胸の奥から湧き上がってきました。周りの乗客の視線が私に集まっています。
「あの人、置いて行かれるんだ。かわいそうに」
小さな声がいくつも耳に届きます。義母は少し勝ち誇ったような表情で私を見ていました。
「それじゃ、行ってくるね」
啓介が手を振ります。まるで何でもないことのように。私は深く息を吸い込み、笑顔を作りました。ここで泣いたり怒ったりするのは、彼らの思うつぼだからです。
「楽しんできてね。お母さんを大切にしてあげて」
声が震えないように、精一杯の努力をしました。3人が見えなくなった瞬間、私の表情が変わりました。笑顔が消え、冷たい静かな表情に変わっていくのを自分でも感じます。
「せつ子、大丈夫か?」
安弘が心配そうに私の顔を覗き込みます。
「大丈夫よ。むしろ今、とても冷静な気分なの」
私たちは空港のカフェへ向かいました。席に座り、私はスマホを取り出しました。そして、ある事実を思い出します。この旅行の予約をしたのは、誰なのか。
「安弘、私たちにやるべきことがあるわ」
スマホの画面には、3週間前に啓介から送られてきたメールが表示されていました。
「母さん、家族旅行の予約お願いできる? ポイントが溜まってるから母さんのカードで払ってもらえると助かるんだ」
私は言われた通りに、航空券もホテルもレンタカーも、現地でのアクティビティも全て予約したのです。予約者名義は全て「森山せつ子」。支払いも私のクレジットカードです。
総額、約80万円。全て私の名義で決済されていました。
「啓介は、そのことを忘れていたのか?」
「忘れていたというより、最初から気にしていなかったのでしょうね。私が黙って言うことを聞くと思っていたのよ」
私はコーヒーを一口飲みました。苦さが口の中に広がります。
「予約者である私には、キャンセルする権利があります」
私は航空会社のカスタマーサポートに電話をかけました。
「予約のキャンセルをお願いしたいのですが」
全ての手続きは、何の問題もなく進んでいきます。次にホテル、レンタカー会社、マリンスポーツ、レストラン、観光ツアー。全て私が予約したものです。全て私の権利でキャンセルできるものです。安弘は静かに見守っていました。止めようとはしません。
最後の予約をキャンセルし終えた時、私は深く息を吐きました。
「終わったわ」
「そうか。よくやったな」
スマホには次々とキャンセル完了のメールが届いています。罪悪感はありません。むしろ、やるべきことをやったという清々しい気持ちさえありました。
「まずは家に帰りましょう。そして、私たちだけで旅行に行きましょうか。本当の家族旅行を」
安弘の顔に温かい笑みが浮かびます。
その頃、啓介たちは機内でくつろいでいました。3人はこれから始まる楽しい旅行のことを話していたでしょう。しかし、彼らはまだ知りません。これから起こることを。
数時間後、飛行機が目的地に到着しました。啓介たちは軽やかな足取りでレンタカーのカウンターへ向かいます。
「森山啓介で予約しています」
しかし、スタッフが困惑した表情を浮かべました。
「お客様のご予約が見当たりませんが」
「本日、キャンセルされております。予約者様ご本人からのお申し出でございます」
予約者。啓介はスマホの画面を見て気づきます。予約者名義は「森山せつ子」。自分の母です。
仕方なく3人はタクシーでホテルへ向かいました。ホテルのフロントでも同じことが起こります。
「森山のご予約は、キャンセルされております」
「お母さん、なんてことを!」
啓介の声が震えています。義母が不満に言いました。
「ちょっとどういうこと? これじゃあ旅行にならないじゃない!」
パニックになった3人は、近くのホテルを必死に探しますが、どこも満室か、あったとしても高額です。1泊5万円。予算を大幅にオーバーしていました。仕方なくそのホテルを予約します。
そして、啓介は帰りの航空券を確認しようとして、絶望的な事実に気づきました。
「嘘だろ? 帰りの便もキャンセルされてる」
次に空いているのは3日後。予定外に3日間も滞在しなければなりません。追加出費は15万円以上。義母は怒りを爆発させます。
「なんとかしなさいよ! こんな旅行最悪だわ!」
啓介は何度も母に電話をかけましたが、一度も繋がりません。LINEも既読がつきません。完全に無視されているのです。2人はようやく気づき始めました。母がどれほど傷ついていたのか、自分たちがどれほどひどいことをしたのか、そしてもう二度と元の関係には戻れないのかもしれないと。
その頃、私は安弘と自宅でお茶を飲んでいました。スマホには啓介からの着信履歴が50件以上、千沙からのLINEも次々と届いています。私はスマホを裏返してテーブルに置きました。
「これでいいのか?」
安弘が少し心配そうに聞きます。
「ええ、これが因果応報というものです。外の人は、外の人として扱われるべきですから」
数日後、私たち夫婦は旅行雑誌を広げていました。
「せっかくだから、私たち2人で行こうか」
「そうね。本当の家族旅行をしましょう」
私たちは北海道の高級リゾートホテルを予約しました。今度は完全に2人だけの時間です。予約を終えた翌日、啓介から電話がかかってきました。
「出てみたら?」
安弘が静かに言います。私は深呼吸をして電話に出ました。
「母さん、なんでキャンセルしたんだ?」
啓介の声は怒りと困惑が混じっていました。私は落ち着いた声で答えます。
「あら、外の人に予約をお願いするのはおかしいと思って」
「母さん、謝るから! お願いだから!」
「楽しんできてねと言ったでしょう。楽しんでいますか? それでは、お母さんを大切にしてくださいね」
そう言って、私は通話を終了しました。安弘が私を優しく抱きます。
「よく言えたな」
「ええ、もう優しいだけの母親ではいられないから」
数日後、私たちは北海道へと旅立ちました。飛行機の窓から見える青い空がとても綺麗です。ホテルは海沿いの静かなリゾートでした。スイートルームは広々としていて、全てが上質です。夕食はホテルのレストランで地元の新鮮な海鮮料理が次々と運ばれてきます。食後は温泉へ。露天風呂に浸かりながら満点の星空を眺めました。
「せつ子、40年間、本当によく頑張ってきたね」
安弘が静かに言います。
「あなたもよ。ずっと支えてくれてありがとう」
翌日、私たちは美しい自然の中をドライブしました。ラベンダー畑、青い池。2人で写真を撮り、笑い合い、ただ時間を共有します。夜、ホテルの展望台から見える夕日は、息を飲むほどの美しさでした。海が黄金色に輝き、空はオレンジからピンク、紫へとグラデーションを描いています。
安弘が私の手を握ります。その温かさに涙が溢れそうになりました。
「もう二度と理不尽には屈しないわ。これからは本当に大切な人とだけ過ごしていきましょう」
旅行から帰った後、息子夫婦からは何度も謝罪の連絡がありましたが、私は二度と同じ関係には戻りませんでした。必要最低限の連絡は取りますが、もう昔のように尽くすことはしません。月15万円の仕送りも停止しました。「自分たちで頑張ってね」と伝えると、啓介は何も言えませんでした。
今、私は安弘と2人、本当に自由で幸せな日々を送っています。趣味を楽しみ、友人と出かけ、2人だけの時間を大切にしています。理不尽に屈することなく、自分の尊厳を守り抜いた。その選択は決して間違っていなかったと心から思います。



